名刀がそろっていた西落合の松平賴庸邸。

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 江戸東京は武家の街らしく、以前から落合地域目白地域に集っていた名刀と呼ばれる刀剣類を随時ご紹介してきた。また、同地域の街中に保存されていた「名刀」(迷刀?)についても記事にしている。今回は、太平洋戦争がはじまって間もなく、1942年(昭和17)ごろに麻布区広尾14番地から西落合1丁目295番地(現・西落合4丁目)に屋敷を建てて転居してきた、伊予西条藩の藩主筋で子爵・松平賴庸(よりつね)の所蔵品について書いてみたい。
 西落合の松平賴庸邸が建っていた敷地は、鬼頭鍋三郎アトリエ柳瀬正夢アトリエ(旧・松下春雄アトリエ)の、三間道路を隔てた斜向かいにあたる。昭和初期に耕地整理が終わり、落合町葛ヶ谷から淀橋区西落合へと地域名が変更され、農地牧場とともに住宅敷地が散在するような風情のエリアだった。1938年(昭和13)作成の「火保図」では、当該の敷地は広い空き地のままだが、1942年(昭和17)の『華族名簿』(華族会館)には西落合の住所になっているので、前年に大きな屋敷を建てて転居してきているのだろう。同エリアは、戦災をほとんど受けていないため、戦後も引きつづき松平邸はそのまま存続している。
 戦後、1950年代の中ごろに松平邸は近くに転居し、一時的に工藤という方の屋敷になっていた時期があるようだが、1958年(昭和33)前後には本田宗一郎が自邸を建設して、下落合2丁目595番地の屋敷(現・下落合公園)から転居してくる。古くから西落合1丁目(現・西落合4丁目)に住んでいた方、たとえば戦前からアトリエのあった鬼頭鍋三郎のご子息・鬼頭伊佐郎様が描かれた記憶地図には、鬼頭鍋三郎アトリエの斜向かいに本田宗一郎邸が描かれているが、註釈として本田邸が建設される以前の工藤邸にも触れられている。なお、松平賴庸はその後も西落合に住みつづけており、転居先は現在の西落合3丁目だった。
 松平賴庸が所持していたのは、刀剣が趣味だった目白の細川護立と同様に、粒ぞろいの名刀ばかりだったようだ。中でも、現在は東京国立博物館に収蔵されている、国宝の粟田口久國(藤林藤次郎)の2尺6寸を超える長大な太刀と、林原美術館に収蔵されている同じく国宝の、五郎入道正宗による短刀「九鬼正宗」の2振りが、他の所蔵作品を圧して目立っている。粟田口久國は鎌倉初期の山城(京)鍛冶だが、五郎入道正宗は鎌倉後期から末期にかけての相模(鎌倉)鍛冶で、その鍛刀の伝法(刀剣の鍛造法)のコンセプトは正反対だ。
 久國は、おもに公家などが腰に佩く、山城伝と呼ばれる細身で優美な刀身が多いが、正宗は実戦でも優れた威力を発揮する、武士(いま風にいえばサムライ)が所持する豪壮かつ華麗な相州伝と呼ばれる鍛刀法で、「折れず・曲らず・よく斬れる」という日本刀の頂点に立つ刀匠だ。松平賴庸は、期せずして対照的な刀匠の2振りを手もとに蔵していたことになる。ちなみに、細川護立邸にも久國の太刀と、短刀「包丁正宗」が伝わっていたのが目録に見える。
 まず、粟田口派の久國から観ていこう。長さ(刀剣の“長さ”は全長ではなく刃長のこと)は2尺6寸5分3厘(約80.4cm)と長大で、反りが9分9厘(3.0cm)、元幅すなわち手もとに近い鎺(はばき)裏の刃幅が9分2厘(2.8cm)で、鋩(きっさき)に近い先端部分の刃幅が5分6厘(1.7cm)と、いかにも貴族が好みそうな先細りの優美な姿をしている。同作の解説を、1968年(昭和43)に日本美術刀剣保存協会が開催した、「国宝日本刀特別展」の図録から引用してみよう。
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 久国は山城国粟田口派の初期の刀工で技量が最も優れた名工である。国友・国安・有国・国綱と六人兄弟であり、久国は国友・国安と共に後鳥羽院番鍛冶に召されたと伝えられる。生ぶ茎の太刀で優美な体配であり、小板目のごく詰んだ鍛に地沸が細かによく付いて、匂が深く沸の強い小乱れの刃文に荒目の沸が付いて、粟田口派の作風を最もよくあらわしている。久国銘の下にある花押は多分後世の所有者のものと思われる。伊予西条の松平家に伝来したものである。
  
 茎(なかご)や体配(刀姿)、沸(にえ)や匂(におい)、地肌の小板目など刀剣用語が頻出するが、ここで細かく解説すると記事が終わってしまうので、他の拙記事かネットの刀剣用語辞典を参照されたい。ちなみに、文中の「沸」は拙サイトでは「錵」と表現しているものと同一であり、刃文とその周辺に表れる銀砂を散らしたような粒子状の輝きのことだ。
 久國の作品は、「沸の強い」といっても「小沸」で、相州伝に見られるようなダイナミックな沸(錵)ではない。この太刀は、鎬(しのぎ)造りで庵棟(いおりむね)、中鋩(ちゅうきっさき)で「踏ん張り」(腰反り)の強い、いかにも貴族趣味あるいは儀礼的な体配だ。目釘穴2つの茎は栗尻で、勝手下がりの鑢目をしており、銘の下にあとから彫られた花押は誰のものだろうか?
 江戸東京には、太田道灌江戸城を築城する際に、城隍鎮守の要(かなめ)として城郭の近く千代田村(字)紅葉のバッケ(崖地)にあった、稲荷社(おそらく当時は製鉄を生業としたタタラ集団が建立した鋳成社)へ、1465年(寛正6)に長さ約3尺(約91cm)の久國の太刀を奉納している。のちに倉稲魂(ウカノミタマ)が奉られ、農業神の稲荷社に転化していると思われるが、この千代田村(字)紅葉とは現在の道灌濠か、日枝権現社のある溜池あたりの古地名だろうか。
 同稲荷社は、江戸期の1741年(寛保元)に谷町・箪笥町(現・六本木2丁目)へと遷座し、現在は奉納品にちなんで久國神社と呼ばれている。遷座先の同社も偶然(?)なのか、けわしいバッケ(崖地)に建立されており、丘上には米国大使館の官舎が建ち並んでいる急斜面だ。ちなみに、同社に奉納された久國の太刀は、絶対秘物といわれ未公開だが、戦災時に損傷しているのかもしれない。
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 さて、松平賴庸が所有していた、もうひとつの国宝である「九鬼正宗」だが、「九鬼」とはかつて九鬼長門守が所有していたので、他の正宗短刀と区別するためにつけられた名称だ。長さ(刃長)は8寸2分(24.85cm)と短く、平(ひら)造りで三つ棟(むね)、内反りの体配となっている。同作の様子を、1976年(昭和51)に毎日新聞社から出版された、『国宝/原色版』第9巻から引用してみよう。ちなみに当時まで、「九鬼正宗」は松平賴庸の手もとに所蔵されていたことがわかる。
  
 姿形は日向正宗(図番略)によく似ているが、この方が先でのうつむき加減が強く、また重ねが少し厚い。/地は小板目がつみ、厚く地沸えて地班がある。刃文は沸えこまかに厚くつき、下半は中直刃調に小乱れ刃がまじり、上半は焼幅が広く互の目乱れとなる。全体に刃中は繁くほつれ砂流しがかかる。切先の刃は激しく掃掛け火炎風となって立上る。棟には帰りに続いて湯走が点々とならぶ。指裏に太い腰樋があり、区下で掻流している。指表には彫物がない。茎は生ぶ、先が次第に細くなっていくらか舟形風となる。目釘孔は二個、鑢は横下、先は剣形尻である。
  
 「重ね」は刀身の厚み、「中直(なかすぐ)」は直線状で幅が中ぐらいの刃文、「互の目(ぐのめ)」は乱刃にみられる形状の一種、「湯走(ゆばしり)」は刃文から地肌にわたる文様の一形態、「生ぶ」は制作時のままで加工されていない状態、「舟形」や「剣形尻」は茎(なかご)のかたちや先の形状など、刀剣用語は独特でむずかしいけれど、昨今の刀女子は上掲文の読解など容易で、すぐにも刀姿がイメージでき、これらの用語を縦横につかいこなしているだろう。
 正宗は、新藤五國光の子として鎌倉に生まれたと伝えられ、従来の鎌倉鍛冶からさらに相州伝を進化させた、日本刀の代名詞と呼ばれるような刀匠だ。これまで、落合・目白地域に伝わった正宗作品をご紹介してきたが、正宗の評価についてはあまり具体的に触れてはこなかった。そこで、今回は1955年(昭和30)に美術俱楽部より初版が刊行された、本阿弥光遜『日本刀の掟と特徴』(1999年版)より、江戸期における評価と作品について少し引用してみよう。
  
 正宗と言えば名刀の代名詞の如くに呼れ、刀剣に何等の趣味を持たぬ人士を初め、婦女子の間にも喧伝されて親み深い名になつた。昔日は大名間に於ても、桁外れの大金を抛つて購ひ、家宝とした例は多々あるが、中にも著者の旧主松平家では正徳年間に、式部とと称する名物の正宗を、金二千三百七十五両の莫大な価で譲り受けたことが、刀剣台帳に記録されていた。(中略) 郷義弘、粟田口吉光と共に古来名物とされているものが多く、太刀、短刀取交ぜて四十振以上にも及んでゐるが、中にも優れたものは、太刀では、若狭、会津、太郎作、本庄、籠手切、観世、石田(切込)、中務(桑名)、短刀では日向(堅田)、九鬼、包丁(スカシ)、倶利伽羅、豊後、などで悉く観る者をして感歎措くあたわざるものである。
  
 太刀や短刀の名称は、たとえば「会津(正宗)」「包丁(正宗)」というように、作品を区別する際の名称だ。カッコ内は別名で、短刀の中には名物「九鬼(正宗)」の名称も見えている。
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 ほかにも、備前の一文字(刀)や長光(刀)、豊後高田庄住藤原友行(太刀)、備前の金象嵌元重(本阿弥花押/刀)、山城の来國光(短刀)など、重文や重要美術品に相当する作品群が、松平賴庸のもとには集っていたようなのだが、現在は各所の博物館や資料館などに散逸してしまったようだ。細川家の永青文庫のように、コレクションをそのまま1ヶ所で保存できなかったものだろうか。

◆写真上:太田道灌が建立した久國社だが、江戸期から六本木のバッケ(崖地)に遷座している。
◆写真中上:腰反りが強めで「踏ん張り」がきいた、松平賴庸所蔵した粟田口久國の太刀。
◆写真中下は、茎(なかご)に彫られた久國の銘。は、西落合にあった松平賴庸邸跡。は、江戸期の1741年(寛保元)に現在地へ遷座した久國社の拝殿。
◆写真下は、松平賴庸が所蔵した「九鬼正宗」。下左は、1968年(昭和43)開催の「国宝日本刀特別展」図録(日刀保)。下右は、本阿弥光遜『日本刀の掟と特徴』(美術倶楽部/1999年版)。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年09月02日 22:08
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
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    2025年09月03日 09:48

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