土俗面からの考察がおもしろい風俗史家の視線。

下落合氷川社.JPG
 ふだんより、歴史的あるいは事蹟的な「定説」や、すでに定着した「一般論」の側面から史蹟や遺物などを眺めていると、思わぬ角度からの視点や観察に足もとをすくわれることがある。1970年(昭和45)に八重岳書房から出版された、原浩三『性神探訪―東京に残る土俗信仰跡―』もそのひとつだろうか。東京に残るさまざまな史蹟や建立物について、改めて土俗的な「性神」の視点から洗い直してみた成果が同書ということになるのだろう。
 “性(セックス)”が、ことさらタブー視されるようになったのはおもに明治以降のことであり、民間では古くから“性神”とも呼ぶべき多彩な神々が奉られ、その地域や土地ならではの風俗あるいは慣習(=土俗)と結びついた行事や祭りが行われてきている。それら古くから奉られる“性神”は、農業の五穀豊穣あるいは子孫繁栄と結びつけられることが多く、特に農村部では現代でも行事や祭りとして連綿とつづいているところが少なくない。だが、都市部ではその意義がとうの昔に失われ、本来の行事や祭りの目的(初源の姿)が忘れ去られて、単に形式化して継承されるか、当りさわりのないかたちに変質・変容して受け継がれていることが多い。
 時代の流れや周囲の環境によって、それらの行事が変質・変容するのは当然だといえばそれまでだが、初源的なそれら本来のかたちや行事の姿を知ることによって、「なるほど、そういうことだったのか」と、ストンと腑に落ちることも少なくない。同書は、東京都内にみられる土俗的な“性神”信仰の残滓を、通りいっぺんの伝承や解説に依拠することなく、地域別に歩いてめぐる地道な探求の成果といえるだろう。著者の原浩三は、もともと西洋美術史や日本の近代美術史が専門のようだが、それと同時に各時代の風俗史にも造詣が深いようだ。
 東京市を散歩しながら、初源的な“性神”の匂いを嗅ぎとっていたのは、別に著者が初めてではない。同書でも真っ先に触れられているように、『日和下駄』『断腸亭日乗』で有名な永井荷風がいる。原浩三『性神探訪―東京に残る土俗信仰跡―』の、「はしがき」より引用してみよう。
  
 もう東京の街のどこにも、江戸から東京への古い面影はわずかしかないだろうが、それでも、かつて永井荷風氏が「日和下駄」で探った淫祠と呼ばれるような、土俗的信仰の遺物や遺跡が根こそぎになったわけでもなさそうだと思っていた。(中略) しかし、それはひとくちにいっても、いろいろ種別があり、すべてを網羅することは到底できない。そこで最も興味のある原始的な性崇拝を中心に限定して、その所在をノートしてひとつひとつ足で歩き回ることにした。
  
 同書は一気に書き下ろされたものではなく、1959年(昭和34)6月~1963年(昭和38)1月の約3年半にわたり、雑誌「日本及日本人」に28回に分けて連載されたものだ。したがって、ここに登場する遺跡群は、昭和30年代の姿ということになる。また、著者の追記によれば、同書は全28回すべてを網羅しているわけでなく、“性神”のテーマに限定しているようだ。
 同書では、下落合の史蹟が3ヶ所も登場しているのに興味を惹かれた。下落合氷川明神中井御霊社、そして鼠山感応寺跡の3ヶ所だ。もっとも、感応寺跡は江戸期の巣鴨村代地雑司ヶ谷(現・目白3~4丁目)を中心に長崎村と池袋村、そして下落合村に接する史蹟なので、著者が同書の中で分類しているように「新宿区下落合」の史蹟とはいい難い。鼠山の敷地は、徳川将軍の鷹狩り場の一部であり、厳密にいえば幕府鷹狩り場の鷹場役場も鷹場組合も「戸田筋」に属し、御留山のある下落合の「中野筋」とは異なるエリアだ。したがって、拙記事では取りあげられている下落合氷川明神と中井御霊社の、2ヶ所について見てみよう。
下落合氷川明神社1932.jpg
下落合氷川社1950頃.jpg
高田氷川社.jpg
 まず、下落合村の総鎮守だった氷川明神だが、同社は少なくとも明治初期まで出雲神のクシナダヒメ1柱を奉る社(やしろ)だった。ところが、薩長政府の宗教政策(大宣教令=戦後用語の「国家神道」化)により、主柱に同じ出雲神のスサノオにオオナムチ(オオクニヌシ)が加えられた。江戸期の主柱クシナダヒメの時代から、同社は「女体の宮」という艶っぽい名称で呼ばれており、同じ旧・神田上水沿いに山手線をはさんで東側にある高田氷川明神とは、“夫婦神”とされていたことは、現代の資料類でも確認することができる。同書の「下落合女体宮の氷川社」より、引用してみよう。
  
 この二社は夫婦(めおと)の宮といわれ、そのためかこの両社の祭神を在原業平と二条后だと誤伝した時代もあったようだ。(中略) 昔は男女夫婦をあらわす祭事があったのかもしれない。氷川社に夫婦宮があることについては、武蔵国一の宮たる大宮氷川神社に近い三室村宮本郷の簸川神社は、大宮本社と同じ三座を祀りながら女体宮といわれ、大宮本社も中央に大己貴命、右は男体の宮で素戔嗚命、左を女体の宮で櫛稲田姫命としているなど古い例を示している。現在の下落合と高田南町の氷川神社はごく普通の氷川神社になっているようだ。(カッコ内引用者註)
  
 著者は、「夫婦をあらわす祭事があったのかも」と書いているが、そのような記録は江戸期の資料を含め、かつて見たことがない。また、両氷川社は下落合村と下高田村で場ちがいであり、今日のように両村が協同でイベント開催というような発想は低かったと思われる。
 また、旧・神田上水をはじめ補助水だった妙正寺川沿い、さらには江戸東京の河川沿いは氷川社(簸川社)だらけであり、たとえば下落合の近接社を見ると上高田村の氷川社はスサノオ、長崎村の氷川社(現・長崎神社)はクシナダヒメ、沼袋村の氷川社はスサノオ、中野村にある氷川社の元神はスサノオ1柱というように、“夫婦宮”になりそうな近接社があちこちにあるけれど、「夫婦をあらわす祭事」があった謂れは聞いたことがない。もっとも、今日では明治以降の出雲神をまとめる合祀政策から、クシナダヒメ・スサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ)、ときにタケミナカタがセットで奉られている事例が多いので、そのような祭事が急速に稀薄化した可能性も否定はできないが。
中井御霊社1980年代.jpg
中井御霊神社(現在).JPG
おびしゃ(中井御霊社)1980年代.jpg
 つづいて、同書では「中井御霊社のおびしゃ」を取りあげている。もちろん、同社は西落合にある葛ヶ谷御霊社と対になる存在であり、「おびしゃ」祭りはいまでも双方で開催されている。ただし、両社とも明治期になるまでの祭神は「諾再二柱」、すなわち国産み神であるイザナギとイザナミの第七天神2柱であり、先述した薩長政府の大宣教令により、現在では中井御霊社が「仲哀天皇・応仁天皇・仁徳天皇・鹿島大明神」、葛ヶ谷御霊社が「仲哀天皇・神功皇后・応仁天皇・武内宿禰」と、本来の主柱とはまったく関係のない、場ちがい筋ちがいな「神々」が奉られている。明治政府の圧力が非常に激しかったものか、祭神の“全とっかえ”ケースだ。
 落合地域にあるふたつの御霊社が、その創建時からイザナギとイザナミの夫婦神だったことを前提にすると、「おびしゃ」祭りの別の側面が姿を現す。戦前から戦後にかけ、郷土史料写真社の永江維章が中井御霊社を取材した資料をベースに解説しており、少し長いが引用してみよう。
  
 この社<中井御霊社>では古くから正月の立春行事におびしゃが行なわれ、悪魔退散、家内安全が祈られた。/永江維章氏はこの行事を次のように説明している。「大正の中頃まで二月十一日に女おびしゃ、二月十三日に男おびしゃが行われたが、現在は一月十三日に男おびしゃだけ行われる。女おびしゃは新嫁が年番の当家に集り、甘酒を飲み、配膳の時おかめとひょっとこに仮装した男が、大根で作った男根をもちだし、各々嫁の前に置き、妙な腰付きで踊り回ったという。男おびしゃは組の講中が神社拝殿に集り、祈願の後、甘酒を飲み、社前にでてえごの木の弓、女竹の破魔矢を上座の年番より順次鳥<ママ:烏>を描いた的に向かって放ち、最後に神主が納めの矢を放つ。終わって一同着席、当渡の儀を行う」/昭和三一年には「当年七十四才の宇田川安次郎翁の手によって作られた大根の男根三本が紙に包まれ、水引きを掛け、三宝に載せ、式膳には、おひらに小形の大根の男根が入れられる」とあった。また当夜の儀では「一同配膳了れば三つの三宝供物(左に大根男根三本、中央に松竹梅と鯛、右に永禄在銘の分岐)を上席より順次押戴いて次々に渡し終って手打をしてめでたく行事を終る」とあり、男根を一種の魔術的な悪魔払い<ママ:祓い)、招福の縁起としたものであろう。(< >内引用者註)
  
 明らかに五穀豊穣よりも先に、奉られたイザナギとイザナミの夫婦神に即した、子孫繁栄=懐妊・安産を祈念する行事だったことがわかる。ただ、イザナギとイザナミ2柱時代の影響がいまだ残っているのか、出産が近い妊婦の安産祈願はいまもつづいている。
 上掲の文章でもわかるとおり、おびしゃにはその年に結婚した新婚夫婦が参加し、それぞれ男女に分かれて子孫繁栄の行事を行っていたのが歴然としている。明治初期まで奉られていた、国産みのイザナギ・イザナミの夫婦神は、明らかに“性神”としての役割りを付与されて、若い夫婦の祈念対象にされていたのだ。しかも、1956年(昭和31)当時でさえ、すなわち薩長政府による主柱の“全とっかえ”(1870年の大宣教令)から86年ののちまで、故事を知る「当年七十四才の宇田川安次郎翁」が、落合ダイコンを男根のかたちに工作して奉納していた様子がうかがえる。
中井御霊社おびしゃ1956.jpg
男根(落合ダイコン)奉納.jpg
性神探訪1970.jpg 永江維章.jpg
 永江維章の記録には、おかめとひょっとこ(火男)に扮装したふたりが、ダイコンの男根を新婚の女性の前にすえて、「妙な腰付きで踊」った様子が描かれている。おかめは福招きの象徴だが、ひょっとこ(火男)は無から有を産みだす、すなわち土くれ(砂鉄)から貴重な目白(鋼)を産みだす生産神の使者としての役割りだろう。落合地域にも、ひょっとこ(火男)の痕跡がたどれる貴重な記録だ。

◆写真上:江戸期より下落合村の総鎮守として、本村(もとむら)にある下落合氷川明神社。
◆写真中上は、1932年(昭和7)に撮影された下落合氷川明神社の拝殿。は、1950年(昭和25)ごろに撮影された同社。は、下落合氷川明神社が「女体の宮」と呼ばれたのに対し、「男体の宮」と呼ばれた下高田村総鎮守の高田氷川明神社の拝殿。
◆写真中下は、1980年代に撮影された茅葺きの中井御霊社。は、スレート葺きになった現在の同社。は、1980年代に撮影された「おびしゃ(備射)」祭り。
◆写真下は、1956年(昭和31)に撮影された中井御霊社の「おびしゃ」祭り。は、同年撮影の男根に加工され奉納された落合ダイコン。下左は、1970年(昭和45)に出版された原浩三『性神探訪―東京に残る土俗信仰跡―』(八重岳書房)。下右は、郷土史料写真社の永江維章。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年09月08日 22:32
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    そろそろ、夕焼けがきれいな季節になってきましたね。
    2025年09月08日 22:57

この記事へのトラックバック