子どものころの生活から消えていったモノたち。

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 あれは、3~4歳ぐらいのときだったと思う。母方の祖父の家に遊びにいって泊ったのだが、そのときに蚊帳(かや)を吊って寝た記憶がある。幼い記憶なので不確かだが、ふだん家とは異なる緑色の蚊帳だったので印象に残ったのだろう。わが家の蚊帳は白だった。
 海辺に近かった当時のわたしの家は、網戸が早めに入ったので、江戸期からつづく蚊帳はほどなく不要になったが、祖父の家では少しあとまで蚊帳が使われていたと思う。祖父の家の蚊帳で就寝したときは、ちょうど見知らぬ場所にテントを張って寝るような感覚だったものか、なんとなくウキウキした気分だったように思うが、確かな記憶ではない。蚊の襲撃は防げたのだろうが、やはり網状になっていて風を通すとはいえ、蒲団の周囲をなにかで覆ってしまうのはクーラーのない当時、暑苦しい気分に感じたのではないだろうか。
 考えてみれば、夏になると毎日蒲団を敷いて寝るとき、あの蚊帳をいちいち部屋の四隅にあるフックにかけて吊るのは、けっこう面倒な作業だったにちがいない。また、蚊帳を吊るとき注意してないと、蚊帳の内側に蚊が侵入してしまうので、それを蚊帳から追い出すか、あるいは蚊取り線香で弱るのを待って退治するとなると、なかなか寝られなくなりそうだ。
 もうひとつ、蚊帳に似たもので幌蚊帳(ほろがや)というのも見たことがある。わが家では使っていなかったが、友だちの家へ遊びにいくと、テーブルや卓袱台の上に置かれたオヤツの上にこれがかかっていた。こちらは、もちろん蚊よけではなく、食べものの上に蠅がたからないようにする小さな“蚊帳”だった。傘のように開いたり閉じたりすることができ、四角い製品が多かったように思うが、幌蚊帳は現在でもテラスのある飲食店などで見かけることがある。もっとも、いまでは幌蚊帳などとは呼ばずに、フードカバーというのだそうだ。
 幌蚊帳で思いだしたが、蠅捕り紙というのがあった。当時は家庭よりも、魚屋や乾物屋の店先でよく見かけたように思う。蠅が寄ってきそうな食べ物を扱う商売では、店先に何本も蠅捕り紙を吊るしていた。両面に強い粘着性のノリがついた幅が10cm以上、長さが1mほどもある両面テープ状のもので、それを吊るしておくと蠅がたかって身動きがとれなくなる。ちょうど、「ゴキブリほいほい」の蠅バージョンといえばわかりやすいだろうか。魚屋の店先などには10本以上も吊るされていて、そこに蠅がたかり真っ黒になっていたのを思いだす。家庭では、すでにスプレー式の殺虫剤が普及していて見かけなかったが、食べ物屋では殺虫剤が毒なので使えず、ショウケースのようなガラス張りの冷蔵庫が普及するまで現役で使われていたのだろう。
 祖父の家にいくと、めずらしい木製の箱火鉢(ひばち)や陶器製の丸い火鉢があった。両親が結婚したとき、祖父は新品の上等な箱火鉢をプレゼントしてくれたようだが、うちは洋間にガスストーブだったので出番がなかった。わたしも現物を見ているが、サクラの木でできたかなり高級な箱火鉢だった。結婚記念の箱火鉢はその後、母親が布にくるんでたいせつに保存していたが、親父が死んで家財道具を整理する際に処分してしまったようだ。
 祖父の家にあった火鉢も、わが家では使っていないのでめずらしかった。江戸時代は、暖房器具といえばこれと貧弱な行火(あんか)だけだったので、襖や障子しかない冬の家はとてつもなく寒かったのではないかと思う。いや、明治以降でもガスストーブがない家庭では、息が真っ白になるような環境で生活していたのだろう。電熱器(電気ストーブ)では、なかなか部屋が暖まらない。
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 台所でカンカンにおこした炭を十能(じゅうのう)に載せ、内側が銅板びきの箱火鉢の灰に埋めて、その上に炭箱から新しい炭を足す。その上に五徳(ごとく)をかぶせ、水を入れた鉄瓶などをかけておく。考えてみれば、火鉢の上で常に湯が沸いているのでいつでも煎茶が飲めるし、銚子に入れた酒に燗をつけられるし、またたえず湯気が立ち昇っているので、部屋の乾燥防止にも役立っていたのだろう。いつも火の気があるので、タバコを吸うときには便利だった。ライターなど不要で、火箸(金箸)で炭をつまんで火を点ければいいだけだ。
 箱火鉢の下部には抽斗(ひきだし)が設えられており、その中にはタバコや海苔などが入っていた。これもそれらを湿気から守る、江戸期からつづく生活の知恵だったのだろう。祖父は、紙巻タバコ(ピース)を吸っていたが、ときどき思いだしたように抽斗から煙管(きせる)と刻みタバコを取りだしては、火鉢の炭で火を点けていた。紙巻きたばこよりも、煙管に刻み(銘柄は不明)を詰めて吸うその姿が、まるで時代劇を見ているようでカッコよかった。
 いま、ふいに思いだしたが、その抽斗の中には刀剣の手入れ用打ち粉も入っていた。わたしが小学3~4年生のころ、初めて拵(こしら)えの付属する脇指を抜いて祖父が持たせてくれたとき、ついでに手入れをしようと思いたったのか、箱火鉢の抽斗から打ち粉が入った小さな桐箱を取りだしていた。やはり、湿気を寄せつけずよく乾燥する火鉢の抽斗に保存していたものだろう。その脇指は、いまから思えば地肌が詰み小糠肌をした肥前刀だったかもしれない。
 日暮里っ子の吉村昭が、戦前には一般的だった長火鉢の生活について書き残している。1993年(平成5)に文藝春秋から出版された、『昭和歳時記』より少し引用してみよう。
  
 戦前は、家の居間には必ずといって良いほどそれ(長火鉢)が置かれていた。消えたのは、終戦前の空襲によるもので、都市の長火鉢は消滅し、終戦後は復活することはなかった。/江戸時代に使われていた長火鉢が昭和の時代に入っても重宝がられていたのは、家具としての形態もいいし、それになによりも便利であったからだ。/銭形平次の映画やテレビドラマで、居間にいる平次は、必ず長火鉢の前に坐っている。(中略) 火鉢の横には、簀の子状の猫板が置かれている。暖かいので猫がその上によくのるので、その名称がある。/五徳にのせて熱した鉄瓶などを、猫板の上にのせる。また、猫板の上にふきんを置き、燗がついた銚子の底の濡れを切るのにも用いる。/猫板の下には、二段か三段の引出しがある。その引出しには、煙管以外に海苔や刻み煙草、巻煙草などが入れてある。火鉢の温度で湿気をよばないからである。(カッコ内引用者註)
  
 ここに書かれている長火鉢は、戦後の箱火鉢を横に長くしたようなもので、身のまわりの用事はこれだけで済むという便利な家具だった。おそらく、祖父も戦災前は長火鉢を使っていたのだろうが、戦後は手に入らず、コンパクトな箱火鉢にしていたのではないか。
 祖父は、火鉢の炭を薪炭(しんたん)屋から購入していたのだろうが、その薪炭屋自体がいまではほとんど見かけなくなった。わたしの学生時代、下落合やその周辺域には薪炭屋があちこちにあったけれど、現在はほとんどが閉店している。もっとも、この地域の薪炭ニーズといえば火鉢などではなく、暖炉用のナラやクヌギの薪か、茶室用の黒炭のほうが多かったのではなかろうか。
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 いまでは見なくなった生活用具に、湯たんぽというのもあった。これも江戸期から使われていた道具だと思うが、冬の寒い日など蒲団の中に入れて足もとを温める暖房器具だ。わが家では、幼稚園のころまで使っていた記憶があるが、小学校から中学時代は電気アンカ、高校時代からは電気毛布に変わっていった。湯たんぽは、ブリキかアルミなどの金属でできた、小判型の平べったい容器に熱めの湯を入れ、専用の布袋に入れて使っていたように思う。熱湯を入れると火傷をする怖れがあるので、湯の温度加減がむずかしかったのではなかろうか。電気アンカや電気毛布の急速な普及で、湯たんぽはもの心つくころには消滅したような気がする。
 もうひとつ、子どものころはそこらじゅうにあったのに、いまではまず見かけなくなったモノに算盤(そろばん)がある。親の世代は五珠が2個に一珠が5個、わたしの世代は五珠が1個で一珠が4個と共用できなかったのを憶えている。小学生のころ、暗算が速くなり算数が得意になるというので、親からソロバン塾に通わせられたことがあるが、およそ1年ともたなかったのではないか。辞めた理由は、とことん「つまらなかった」からで、あんな珠を上下させて単純な計算するののどこが面白いのか、まったく理解できなかったからだ。そもそも、算数という授業自体をおもしろく感じなかったわたしに、ソロバンの計算がおもしろいわけがなかった。
 確か、学校の算数の授業でもソロバンの課題があり、先生が巨大なソロバンを教壇の上に乗せて、パチパチやっていたのを憶えている。生徒たちもおのおのソロバンを買わされて、算数の授業があるときは、ソフトケースに入ったそれをランドセルの横に刺して登校していた。わたしは、ソロバン塾へ通わされていたにもかかわらず、こんなつまらないモノはないと思っていたので、もちろん学校の廊下で今日のスケボーのように、ソロバンの上に片足乗せて楽しく滑って遊んでいたら、珠を留める軸の1本が折れて珠がパラパラはずれ、誰がいいつけたのか担任に叱られ、下校してからは親に叱られたので、よけいにソロバンが嫌いになった。
 「電子計算機」が家庭に入れば、こんなつまらないモノは不要になると、『鉄腕アトム』などを観て育っていたわたしは、ふてくされながら思っていた。それよりも、「ざんす」言葉のトニー谷やイヤミをマネて、「こ~んなもんは、いらないざんしょ?」「さ~いざんす、さいざんす、シェーッ」と、友だちとソロバンをちゃかちゃか鳴らしながら踊っていたほうが楽しかったのだ。その未来予測はおよそ正しかったようで、コンピュータとまでは呼べないがカシオが電卓を開発して以来、ソロバンは急速に絶滅危惧種となった。そして、わたしが大学を卒業するころには、日本語を搭載した16ビットパソコンが、ちょっと無理をすれば家庭でも買えるような時代になっていった。
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 そういえば、七輪(ひちりん)というのも、焼き肉屋へ出かけでもしないかぎり見かけない。昔は、換気扇などあまり普及していなかったので、匂いが家庭内にこもらないよう台所のガスコンロではなく、勝手口の外へ網を載せた七輪をもちだして魚などを焼いていた。いまも七輪は生産しており、練炭とともにネットでも手に入るが、炭火で焼いた肉や魚はガスよりも美味だ。でも、昔とちがい機密性がはるかに高い現代住宅では、焼き肉の最中にクラクラと気持ちよくなり、「び~みざんす、美味ざんす、シェーッ」と、あの世へいってしまいかねないので逡巡している。

◆写真上:神田明神下で十手(じって)持ちの銭形平次(大川橋蔵)は、事件のないときは女房のお静か手下(てか)の八五郎相手に、必ず長火鉢の前でくつろいでいた。
◆写真中上は、宝暦年間(1751~1759年)制作の春信『蚊帳の母と子』。は、昔ながらの蚊帳。は、子どものころは幌蚊帳と呼ばれたフードカバー。
◆写真中下は、1845年(弘化2)ごろに制作された国芳『つじうらをきく』。食事のあとだろうか、ネコといっしょに長火鉢の前で歯をせせっている。は、いまでも職人がいるのか販売している長火鉢。は、戦後になって多くつくられるようになった箱火鉢。
◆写真下は、1820年代(文政年間)に制作された初代・国貞『稚六芸の内/書数』。寺子屋で幼児に教える、読み・書き・算盤を描いたもの。は、五珠が2個で一珠が5個ある古いソロバン。は、多くの俳優や芸人たちから徹底して嫌われつづけ孤立していった銀座っ子のトニー谷。
おまけ
 吉村昭『昭和歳時記』(1993年/文藝春秋)の挿画で、洋画家・永田力による「長火鉢」。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年07月22日 22:13
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    今年は、土用の丑の日が7月末にもう一度あるそうで、ウナギ好き
    にはたまらない年ですね。w
    2025年07月22日 22:24
  • 石井治方

    楽しく拝見しました 蚊帳の記憶あります蝿帳もソロリソロリと開けて
    出て また入る 今でも思い出すのは群馬の親戚に行き夜中バリバリ音がし怖くて眠れず朝聞くと 蚕が桑の葉を食べる音だと 大人に成り絹の道が有ったと知り横浜のシルク会館に行った事も有ります。
    2025年07月23日 05:16
  • 落合道人

    石井治方さん、コメントをありがとうございます。
    もの心つくころ、海辺の近くに住んでいたのですが、真夜中の海岸から
    ラッパの音(トランペットではなく)が聞こえてきたことがありました。
    当時は、誰もいない海でラッパの練習をしているのかと思っていましたが、
    ほどなく、「新兵さんはか~わいそ~だね~、また寝て泣くのかね~」と、
    旧陸軍の消灯ラッパだったのに気づきました。いつの間にか聞こえなく
    なっていたのですが、復員したラッパ手が南の海へ向かい、死んだ戦友
    たちを消灯ラッパで追悼していたのではないかと思います。いまだ戦争
    を身近に感じるそんな時代でした。
    https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-11-21.html?1753243850
    2025年07月23日 13:26

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