
明治に入ると、徐々に忘れられていった江戸東京方言がある。地理・地勢的な用語で、表通りと表通りの間を抜ける裏通り(内側の道)のことを、「新道(じんみち)」と呼んでいたことは何度か取りあげたが、同じ地理的な用語として崖地や急斜面のことを「バッケ」と呼称したことも、落合地域やその周辺域のケースを例に挙げてご紹介してきた。同時に、地名として残った下戸塚(現・西早稲田)の「(字)バッケ下」についても、現場を歩きながら記事にしている。
また、江戸東京の市街地では「バッケ」だが、東京郊外にあたる西部または西南部では「ハケ」と呼ばれていることも、いくつかの事例や大岡昇平の作品などをまじえながら記事に書いた。そして、「バッケ」や「ハケ」という意味が通じにくくなったある時期から、「バッケ」や「ハケ」とついた崖地に通う坂道が、たとえば「オバケ坂」や「化坂」へと転化(ある意味では転訛)しているのではないかということも書いた。下落合(現・中落合/中井含む)西部には、崖地に通う急坂のことを正式に「バッケ坂(バッケの坂)」と呼んでいる坂道が現存している。
もうひとつ、「バッケ」の転化にオバケ→幽霊への発想から、落合地域の周辺に残る「幽霊坂」もいくつかご紹介していた。そこで、今回は新宿区内に残る「幽霊坂」について、そのいくつかを探訪してみたい。ご想像のとおり、「幽霊坂」が残る地域の多くは急斜面で崖地が多く、新宿区内で宅地化が進む以前、すなわち宅地造成で急斜面がひな壇状に整地され、そこに通う坂道の急傾斜をできるだけ修正し、切通し状に緩傾斜化した場所がほとんどだ。地図を見ていると、特に丘陵と谷間とが入り組んだ市ヶ谷地域周辺に、集中して多いことに気づかされる。昔日の姿を想像すると、およそ人通りもまばらな樹林が繁るさびしい場所だったのだろう。
バッケ(崖地)は、もともと開発がしにくく、江戸期から宅地や農地にしにくい急斜面だったので濃い緑地帯が残り、そこへ寺院や墓地が創設あるいは移転され、よりさびしい場所となって「幽霊坂」と呼ばれるようになった……という解釈も可能だ。だが、寺院や墓地の有無に関わりなく「幽霊坂」と呼ばれている場所の地形を見ると、一般名としての「バッケ坂」と呼ばれていたのが先であり、「幽霊坂」は後追いの“結果論”(付会)ではないか……という感触のほうが強い。
文京区の小日向崖線沿いには、いくつかの「幽霊坂」と呼ばれた急坂が過去に存在していたようだが、それは江戸期に寺院がまとめて建立・移設されたからではなく、古くから周辺の住民たちにバッケ坂と呼ばれていたせいではないか。そして、バッケの意味が通じにくい時代を迎えると、その風情や雰囲気から「幽霊坂」と呼ばれるようになったのではないだろうか。
新宿区内の「幽霊坂」に話をもどそう。まず、市ヶ谷地域の東端外れ、千代田城の外濠に面した「ゆうれい坂」(庾嶺坂・幽霊坂・祐源坂)から見ていこう。読者の中で、市ヶ谷八幡宮に参詣したことのある方なら、急峻な階段に息を切らせた記憶がおありではないか。あの傾斜角が、本来の崖地(バッケ)の傾斜にほぼ近い角度だと思うのだが、外濠沿いの丘上の住宅地へ通う坂道は、いずれも傾斜角をできるだけ修正し、なだらかにしようとしている様子がうかがえる。神楽町(現・神楽坂1丁目)に通う「ゆうれい坂」も、下落合の七曲坂のように崖地を切通し状に削って、傾斜角をできるだけ抑えるよう敷設されている。それ以前の、江戸期に作成された尾張屋清七版の切絵図では、あまりに急傾斜のためか階段が設置されていた様子が見てとれる。
丘上に到達するまではそこそこ距離があるため、よほど運動慣れしている方でない限りは、一気に上ると息を切らせるだろう。1887年(明治20)の1/5,000地形図を見ると、牛込御門も近い江戸期からの市街地だったせいか、市ヶ谷八幡までつづく崖線沿いにはかなり多くの家々が建てられている様子がわかる。だが、「ゆうれい坂」の東側は地図では空白つまり樹林だったようで、西側には大きな屋敷が建っており、坂沿いの庭園には樹林の繁っていたらしい様子が見てとれる。外濠沿いの崖線に通う坂の中でも、丘上は江戸期から大きな旗本屋敷が多かったため、「ゆうれい坂」は人通りもまばらな、ことのほか寂しい(薄気味悪い)バッケ坂だったのではないだろうか。
また、江戸東京の市街地では「バッケ」だが、東京郊外にあたる西部または西南部では「ハケ」と呼ばれていることも、いくつかの事例や大岡昇平の作品などをまじえながら記事に書いた。そして、「バッケ」や「ハケ」という意味が通じにくくなったある時期から、「バッケ」や「ハケ」とついた崖地に通う坂道が、たとえば「オバケ坂」や「化坂」へと転化(ある意味では転訛)しているのではないかということも書いた。下落合(現・中落合/中井含む)西部には、崖地に通う急坂のことを正式に「バッケ坂(バッケの坂)」と呼んでいる坂道が現存している。
もうひとつ、「バッケ」の転化にオバケ→幽霊への発想から、落合地域の周辺に残る「幽霊坂」もいくつかご紹介していた。そこで、今回は新宿区内に残る「幽霊坂」について、そのいくつかを探訪してみたい。ご想像のとおり、「幽霊坂」が残る地域の多くは急斜面で崖地が多く、新宿区内で宅地化が進む以前、すなわち宅地造成で急斜面がひな壇状に整地され、そこに通う坂道の急傾斜をできるだけ修正し、切通し状に緩傾斜化した場所がほとんどだ。地図を見ていると、特に丘陵と谷間とが入り組んだ市ヶ谷地域周辺に、集中して多いことに気づかされる。昔日の姿を想像すると、およそ人通りもまばらな樹林が繁るさびしい場所だったのだろう。
バッケ(崖地)は、もともと開発がしにくく、江戸期から宅地や農地にしにくい急斜面だったので濃い緑地帯が残り、そこへ寺院や墓地が創設あるいは移転され、よりさびしい場所となって「幽霊坂」と呼ばれるようになった……という解釈も可能だ。だが、寺院や墓地の有無に関わりなく「幽霊坂」と呼ばれている場所の地形を見ると、一般名としての「バッケ坂」と呼ばれていたのが先であり、「幽霊坂」は後追いの“結果論”(付会)ではないか……という感触のほうが強い。
文京区の小日向崖線沿いには、いくつかの「幽霊坂」と呼ばれた急坂が過去に存在していたようだが、それは江戸期に寺院がまとめて建立・移設されたからではなく、古くから周辺の住民たちにバッケ坂と呼ばれていたせいではないか。そして、バッケの意味が通じにくい時代を迎えると、その風情や雰囲気から「幽霊坂」と呼ばれるようになったのではないだろうか。
新宿区内の「幽霊坂」に話をもどそう。まず、市ヶ谷地域の東端外れ、千代田城の外濠に面した「ゆうれい坂」(庾嶺坂・幽霊坂・祐源坂)から見ていこう。読者の中で、市ヶ谷八幡宮に参詣したことのある方なら、急峻な階段に息を切らせた記憶がおありではないか。あの傾斜角が、本来の崖地(バッケ)の傾斜にほぼ近い角度だと思うのだが、外濠沿いの丘上の住宅地へ通う坂道は、いずれも傾斜角をできるだけ修正し、なだらかにしようとしている様子がうかがえる。神楽町(現・神楽坂1丁目)に通う「ゆうれい坂」も、下落合の七曲坂のように崖地を切通し状に削って、傾斜角をできるだけ抑えるよう敷設されている。それ以前の、江戸期に作成された尾張屋清七版の切絵図では、あまりに急傾斜のためか階段が設置されていた様子が見てとれる。
丘上に到達するまではそこそこ距離があるため、よほど運動慣れしている方でない限りは、一気に上ると息を切らせるだろう。1887年(明治20)の1/5,000地形図を見ると、牛込御門も近い江戸期からの市街地だったせいか、市ヶ谷八幡までつづく崖線沿いにはかなり多くの家々が建てられている様子がわかる。だが、「ゆうれい坂」の東側は地図では空白つまり樹林だったようで、西側には大きな屋敷が建っており、坂沿いの庭園には樹林の繁っていたらしい様子が見てとれる。外濠沿いの崖線に通う坂の中でも、丘上は江戸期から大きな旗本屋敷が多かったため、「ゆうれい坂」は人通りもまばらな、ことのほか寂しい(薄気味悪い)バッケ坂だったのではないだろうか。




1/5,000地形図がつくられる少し前、1879年(明治12)の「東京実測図」では、牛込揚場町から市ヶ谷八幡、そして旧・尾張徳川家上屋敷のあった陸軍士官学校まで、険しい崖地の記号が連続して描かれている。そして、この崖線の東端は牛込築土町(現・津久戸町)あたりで半島のように西へ折り返し、赤城下町界隈を経由して牛込弁天町へと抜け、さらに南へほぼ直角に向きを変え谷間を形成して牛込柳町までつづいている。この谷間には、戸山ヶ原から鶴巻町をへて旧・神田上水へと注ぐ、カニ川(金川)が流れていた。すなわち、新宿区内の市ヶ谷地域で「幽霊坂」が多数記録されているのは、この崖線沿いに集中してもっとも多いことがわかる。
たとえば、市谷山伏町のケースを見てみよう。ここには古くから「幽霊坂」と名づけられた急坂があったが、のちに宝竜寺坂と改名している。ここは一目瞭然だが、坂の傾斜角があまりに急なため、坂下から坂上まで階段が設置されている。文字どおり、崖地に通うバッケ階段の典型例だ。これとよく似た階段状のバッケ坂は、戸塚町(字)バッケ下(現・西早稲田3丁目)、あるいは雑司ヶ谷町21番地(現・目白台3丁目)の腰掛稲荷社のある崖地のバッケ階段でも見ることができる。ちなみに、腰掛稲荷から日本女子大学へとつづく神田久保の谷間には450mほど西南西に1本、さらに430mほど南に1本、計2本の「幽霊坂」が現存している。
宝竜寺坂には、解説として昔このあたりは寺町であり宝竜寺(寶龍寺)という寺院があったので、それにちなみ坂道もそう呼ばれるようになったとされているが、江戸期に広くつかわれていたとみられる一般名称だったバッケ坂と、宝竜寺坂が地元で同時につかわれていた可能性があり、幽霊坂と呼ばれるようになったのは、バッケの意味あいが通じにくくなった明治以降のことではないだろうか。解説では、幽霊坂は明治以降に呼ばれだしたことにも触れている。
そう考えるのは、宝竜寺坂(幽霊坂)の周辺の町々には、同じく「幽霊坂」と呼ばれていた坂道がいくつか存在していたらしいことだ。つまり、バッケ坂とは異なり「幽霊坂」というと一般名称ではなく固有名称に近づくが、当時は「ここのバッケ坂」「向かいのバッケ坂」「隣り町のバッケ坂」「街道筋のバッケ坂」などと区別されて呼ばれ、広くつかわれていた一般名称としてのバッケ=崖地が、明治以降になって意味が通じにくくなり、それぞれ「幽霊坂」に転化してしまったのではないかということだ。裏返せば、市谷山伏町の周辺は崖地だらけであり、随所にバッケ坂と称する急坂が存在していた可能性が高いように思う。
たとえば、1987年(昭和62)出版の『地図で見る新宿区の移り変わり/索引編』(新宿区)では、市谷山伏町の北東側にある南榎町、北側にある弁天町、大久保通りをはさんで南側にある市谷柳町にも、同様に「幽霊坂」が収録されている。今日まで、幽霊坂の伝承が残された宝竜寺坂を除き、他の町内にあったとみられる、本来はバッケ坂と呼ばれていたかもしれない幽霊坂が、どの坂道のことを指すのかは不明だ。同書の索引は、実際に地図に名称記載のあるケースとないケースがあり、地域の町名や屋敷名、人名、寺社などの施設名、道・坂名などを可能な限り収集し、それを収録した地図にあわせて索引としている可能性がありそうだ。したがって、この地域にはかつて4本の「幽霊坂」と呼ばれる坂道が存在していたが、実際の地図には掲載されないままの呼称であり、またまぎらわしいので後世に正式名称としても採用されなかったということだろうか。
たとえば、市谷山伏町のケースを見てみよう。ここには古くから「幽霊坂」と名づけられた急坂があったが、のちに宝竜寺坂と改名している。ここは一目瞭然だが、坂の傾斜角があまりに急なため、坂下から坂上まで階段が設置されている。文字どおり、崖地に通うバッケ階段の典型例だ。これとよく似た階段状のバッケ坂は、戸塚町(字)バッケ下(現・西早稲田3丁目)、あるいは雑司ヶ谷町21番地(現・目白台3丁目)の腰掛稲荷社のある崖地のバッケ階段でも見ることができる。ちなみに、腰掛稲荷から日本女子大学へとつづく神田久保の谷間には450mほど西南西に1本、さらに430mほど南に1本、計2本の「幽霊坂」が現存している。
宝竜寺坂には、解説として昔このあたりは寺町であり宝竜寺(寶龍寺)という寺院があったので、それにちなみ坂道もそう呼ばれるようになったとされているが、江戸期に広くつかわれていたとみられる一般名称だったバッケ坂と、宝竜寺坂が地元で同時につかわれていた可能性があり、幽霊坂と呼ばれるようになったのは、バッケの意味あいが通じにくくなった明治以降のことではないだろうか。解説では、幽霊坂は明治以降に呼ばれだしたことにも触れている。
そう考えるのは、宝竜寺坂(幽霊坂)の周辺の町々には、同じく「幽霊坂」と呼ばれていた坂道がいくつか存在していたらしいことだ。つまり、バッケ坂とは異なり「幽霊坂」というと一般名称ではなく固有名称に近づくが、当時は「ここのバッケ坂」「向かいのバッケ坂」「隣り町のバッケ坂」「街道筋のバッケ坂」などと区別されて呼ばれ、広くつかわれていた一般名称としてのバッケ=崖地が、明治以降になって意味が通じにくくなり、それぞれ「幽霊坂」に転化してしまったのではないかということだ。裏返せば、市谷山伏町の周辺は崖地だらけであり、随所にバッケ坂と称する急坂が存在していた可能性が高いように思う。
たとえば、1987年(昭和62)出版の『地図で見る新宿区の移り変わり/索引編』(新宿区)では、市谷山伏町の北東側にある南榎町、北側にある弁天町、大久保通りをはさんで南側にある市谷柳町にも、同様に「幽霊坂」が収録されている。今日まで、幽霊坂の伝承が残された宝竜寺坂を除き、他の町内にあったとみられる、本来はバッケ坂と呼ばれていたかもしれない幽霊坂が、どの坂道のことを指すのかは不明だ。同書の索引は、実際に地図に名称記載のあるケースとないケースがあり、地域の町名や屋敷名、人名、寺社などの施設名、道・坂名などを可能な限り収集し、それを収録した地図にあわせて索引としている可能性がありそうだ。したがって、この地域にはかつて4本の「幽霊坂」と呼ばれる坂道が存在していたが、実際の地図には掲載されないままの呼称であり、またまぎらわしいので後世に正式名称としても採用されなかったということだろうか。




それは、目白台地域では「幽霊坂」が今日まで複数現存し、戸塚地域では本来の用語で「幽霊」には転化しなかった、「バッケ」の地名が1932年(昭和7)まで残り、また落合地域では「バッケ坂」や「オバケ坂」の名称がそのまま今日までつかわれつづけているのと同様、市谷山伏町とその周辺域ではバッケ坂→幽霊坂と呼ばれた坂道が何本かあったが、宝竜寺坂と改名された「幽霊坂」のみが、今日までなんとか伝承されているということなのではないか。
市谷山伏町の坂下、カニ川(金川)が流れる原町に建立された緑雲寺には、幽霊ではなく江戸期からつづく妖怪「アズキばばあ」の伝説が継承されている。1973年(昭和48)に三交社から出版された、芳賀善次郎『新宿の散歩道―その歴史を訪ねて―』に収録の、こんな怪談だ。
▼
この寺の前の通りは、明治末期まで川であって、それは河田窪から薬王寺町、柳町、弁天町、榎町、鶴巻町へと流れていた加ニ川(ママ:カニ川)である。この寺の入口には、その流れにかかる橋があった。(参照ページ註略) その橋の下で毎晩老婆がアズキをシャンシャンととぐので、町方の者は「アズキばばあが出る」とおそれて近寄らなかった。/この伝説は、タヌキの小便の音をきいた者がいいふらした話だろうという。タヌキの用便をする所はきまっていて、音もアズキを洗う音ににているからだという。
▲
ここで留意したいのは、出現しているのが幽霊ではなく狐狸妖怪=オバケの類だということだ。ひょっとすると、江戸期にバッケ坂と呼ばれていた宝竜寺坂は、この伝承が語られたころにはオバケ坂に転化していたのかもしれない。あるいは逆で、伝承が生まれたあと原町から山伏町方面へと抜けられるバッケ坂が、オバケ坂になった可能性もある。いずれにしても、いまだバッケ(崖地)という地形の一般名が残り、その意味を知る人たち(古老?)がいた時代のことだろう。だが、明治期に入るとバッケの意味が忘れられ、オバケ坂や幽霊坂へと変移していったのではないだろうか。
市谷山伏町の坂下、カニ川(金川)が流れる原町に建立された緑雲寺には、幽霊ではなく江戸期からつづく妖怪「アズキばばあ」の伝説が継承されている。1973年(昭和48)に三交社から出版された、芳賀善次郎『新宿の散歩道―その歴史を訪ねて―』に収録の、こんな怪談だ。
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この寺の前の通りは、明治末期まで川であって、それは河田窪から薬王寺町、柳町、弁天町、榎町、鶴巻町へと流れていた加ニ川(ママ:カニ川)である。この寺の入口には、その流れにかかる橋があった。(参照ページ註略) その橋の下で毎晩老婆がアズキをシャンシャンととぐので、町方の者は「アズキばばあが出る」とおそれて近寄らなかった。/この伝説は、タヌキの小便の音をきいた者がいいふらした話だろうという。タヌキの用便をする所はきまっていて、音もアズキを洗う音ににているからだという。
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ここで留意したいのは、出現しているのが幽霊ではなく狐狸妖怪=オバケの類だということだ。ひょっとすると、江戸期にバッケ坂と呼ばれていた宝竜寺坂は、この伝承が語られたころにはオバケ坂に転化していたのかもしれない。あるいは逆で、伝承が生まれたあと原町から山伏町方面へと抜けられるバッケ坂が、オバケ坂になった可能性もある。いずれにしても、いまだバッケ(崖地)という地形の一般名が残り、その意味を知る人たち(古老?)がいた時代のことだろう。だが、明治期に入るとバッケの意味が忘れられ、オバケ坂や幽霊坂へと変移していったのではないだろうか。




本記事では、落合地域と同じ区内に残る「幽霊坂」や「オバケ坂」についてご紹介したが、「ハケ」や「バッケ」という音にからめたとみられ、崖地や急斜面の地勢が多く見られる地域で江戸期からつづく「八景」という風景についても、すでに記事にしていた。確かに、崖地や急斜面の丘上から眺める景色は見晴らしもよく、風光明媚なポイントとして選ばれる傾向にあったのだろう。
◆写真上:現在は高い擁壁が造られ、西に向いた崖地があちこちに残る市谷山伏町界隈。
◆写真中上:上は、1879年(明治12)作成の「東京実測図」で、急峻な崖地(バッケ)が半島のように突きだしている様子がわかる。中上は、1851年(嘉永4)印刷の尾張屋清七版「市ヶ谷牛込絵図」にみる神楽町の庾嶺坂(幽霊坂)。中下は、1981年(昭和56)作成の「新宿区史跡地図」にみる神楽坂1丁目の「ゆうれい坂」。下は、庾嶺坂(幽霊坂)の現状。
◆写真中下:上は、1851年(嘉永4)に作成された尾張屋清七版「市ヶ谷牛込絵図」にみる市谷山伏町の幽霊坂。中上は、1887年(明治20)に作成された1/5,000地形図にみる幽霊坂(宝竜寺坂)とその周辺。中下は、、1981年(昭和56)に作成された「新宿区史跡地図」にみる市谷山吹町の「幽霊坂」。下は、市谷山吹町3番地にある宝竜寺坂(幽霊坂)の現状。
◆写真下:上は、現在は外苑東通りで分断されているが宝竜寺坂(幽霊坂)の坂下にあった緑雲寺。中・下は、宅地造成で傾斜角が修正されているが南榎町、柳町、山伏町の坂道いろいろ。
★おまけ
崖地に設置された階段状の坂道で、上から下へ目白台3丁目、西早稲田3丁目、根津のバッケ階段。中でも、根津の弥生2丁目にある崖地には「オバケ階段」の名称が残っている。
◆写真中上:上は、1879年(明治12)作成の「東京実測図」で、急峻な崖地(バッケ)が半島のように突きだしている様子がわかる。中上は、1851年(嘉永4)印刷の尾張屋清七版「市ヶ谷牛込絵図」にみる神楽町の庾嶺坂(幽霊坂)。中下は、1981年(昭和56)作成の「新宿区史跡地図」にみる神楽坂1丁目の「ゆうれい坂」。下は、庾嶺坂(幽霊坂)の現状。
◆写真中下:上は、1851年(嘉永4)に作成された尾張屋清七版「市ヶ谷牛込絵図」にみる市谷山伏町の幽霊坂。中上は、1887年(明治20)に作成された1/5,000地形図にみる幽霊坂(宝竜寺坂)とその周辺。中下は、、1981年(昭和56)に作成された「新宿区史跡地図」にみる市谷山吹町の「幽霊坂」。下は、市谷山吹町3番地にある宝竜寺坂(幽霊坂)の現状。
◆写真下:上は、現在は外苑東通りで分断されているが宝竜寺坂(幽霊坂)の坂下にあった緑雲寺。中・下は、宅地造成で傾斜角が修正されているが南榎町、柳町、山伏町の坂道いろいろ。
★おまけ
崖地に設置された階段状の坂道で、上から下へ目白台3丁目、西早稲田3丁目、根津のバッケ階段。中でも、根津の弥生2丁目にある崖地には「オバケ階段」の名称が残っている。


この記事へのコメント
てんてん
落合道人
震度4は少し大きいですね。震度5弱はこちらで経験したことがありますが、
揺れは大きいものの何とかモノが落ちない状況でした。