♪おまえが大きくなる頃は日本も大きくなっている。

妙正寺川危険水位.jpg
 先月の7月10日、東京上空に線状降水帯がかかり集中豪雨になった夜、何年かぶりに妙正寺川や神田川の方角から、「洪水警報」のサイレンが家のほうまで聞こえてきた。大雨の音を裂いて、防災スピーカーから断続的に「ウ~~~ッ」という短いサイレン音が、繰り返し流されていた。親の世代が聞いたら、空襲警報にそっくりだと顔をしかめただろう。
 防災のサイレン音とともに、親たちが打ちあげ花火の音も嫌がった記事も、いつだったか書いたことがある。近くであがる花火の炸裂音ではなく、少し距離をおいて腹に響くような250キロ爆弾のドーンドーンという低周波の爆音だ。防空壕の中にいて、そのような音がいつの間にか遠のいていくと、雑音ばかりのラジオから「東部軍管区情報。午前1時XX分、帝都ニ侵入シタ敵ノB29編隊100機アマリハ、我軍ノ反撃ヲ受ケ房総半島沖ニ遁走シマシタ」……とかいうアナウンサーの声が聞こえ、やがて空襲警報解除のサイレンが街中に響いてきたのだろう。
 まるで見てきたように書いているけれど、わたしが子どものころから耳にタコができるぐらい親たち、ときには祖父からしつこく聞かされた、1945年(昭和20)の街々の情景だ。おそらく、沖縄や広島・長崎などでも内容こそ異なるが、同様に祖父母や親たちの世代が語り継いできた、同じ年に体験した戦争の情景ではないだろうか。これが、米軍の上陸戦で修羅場となった沖縄や広島・長崎の原爆とは異なる、東京で「戦争を語り継ぐ」ということなのだろう。
 いつか、母親が女学生だった1945年(昭和20)の敗戦間近、実家の生け垣に植えていたマサキ(柾・正木)の若芽を摘みにきた、近所の女性のことを書いたことがある。当時、のんきに生垣の剪定などするような状況ではないので、若芽が伸び放題になっていたのは3~4月あたりだろうか。マサキの若芽は、大量に摂取しなければ無害だが、それでもマサキの若芽の葉を調理して食べるというのは、当時の母親でさえ衝撃的なことだった。配給に漏れたか、遅配・欠配つづきで食べものが足りない子どもを育てていたのか、それとも配給を受けられない事情でもあったのだろうか、女性は何度も礼をいいながら摘んでいったという。
 また、煎茶を淹れたあとの茶殻(煎茶の棄て殻)をもらいにきた老人の姿も、母親は鮮明に記憶していた。遅配・欠配ばかりの食糧事情で、老人は棄てる茶殻まで食べなければとても生きていけない、日本じゅうが飢えていた時代だった。さすがに、マサキの若芽や茶殻までは食べなかった母親の実家だが、日常の食事はといえば怖ろしくマズイふかしたサツマイモに、メリケン粉(小麦粉)を水で溶いて丸めた薄い“すいとん汁”ばかりで、13歳の娘はあまりの空腹感に気が遠くなりそうだったという。「かわいそうだったよ」と、母親は戦争が話題になるたびにマサキと茶殻を何度か回想していたが、マサキの若芽を摘みにきた女性(と子どもたち)や、茶殻をもらいにきた老人は、その後、餓死をまぬがれて戦後まで生きのびることができただろうか。戦後の1950年(昭和25)の時点でさえ、はじめたばかりの政府統計によれば1万人近い餓死者が報告されているので、敗戦前後にはいったい何十万人の餓死者が全国で出ていたのか不明だ。
 マサキや茶殻まで食べるようでは、「戦争は長くない」と少女の母親でさえ感じていたそうだが、学校で「軍国少女」として育てられていた彼女は、決して口にだしてはいえなかったらしい。だが、大人の顔色にもどこかあきらめに似た暗い表情が見えていたので、そして日々その暗い表情が増えていったせいで、「この戦争は敗けだ」というのはなんとなくわかっていたという。確かに、ガリガリに痩せた自分の身体を見れば、そして配給の行列に何時間も並ぶ、周囲の飢えた人々の疲弊しきった有様を見ていれば、いやでも体感できた「敗戦」なのだろう。スタジオジブリの作品『火垂るの墓』のような情景が、都市部のあちこちで見られていた時代だった。
 のちに、津村節子の連れ合いとなる吉村昭は、東京から疎開した先の福島県で、上落合670番地に住んでいた古川ロッパ(緑波)の映画ロケに遭遇している。1993年(平成5)に文藝春秋から出版された、吉村昭『昭和歳時記』から引用してみよう。ちなみに、このときの福島ロケは『古川ロッパ昭和日記』(晶文社/1987年)によれば、1945年(昭和20)5月22日の午前7時に上落合の自宅を出て、同日の午後3時30分に須賀川駅に着いた映画ロケがらみの巡業だったようだ。
  
 戦争も末期の頃、福島県須賀川町(現須賀川市)の川にかかった橋の上で撮影がおこなわれているのを眼にしたことがあった。少人数の撮影班で、丸い黒ぶちの眼鏡をかけたロッパが、退屈そうに橋の袂で椅子に坐っていた。食糧不足の時代なのに頬がふっくらとしていて、ひどく色が白いのが奇異に感じられた。/映画館でロッパ主演の映画を観ていたらその橋のシーンが出てきた。そのような橋ならどこにもあり、わざわざ福島県下にまで行って撮影しなくてもよいのに、と思った。地方にはまだ食糧があったので、地方でのロケが多かったのかも知れない。
  
山田広次「両国花火大会」1960頃.jpg
吉村昭「昭和歳時記」文芸春秋.jpg 吉村昭.jpg
落四小学童疎開1944_1.jpg
 吉村昭の想像は当たっており、古川ロッパは空襲警報による睡眠不足とふつうの食べ物に飢えていた日々だった。肥り気味の顔もやつれて痩せていたはずで、「ひどく色が白い」のは撮影時の薄化粧のせいもあるだろうが、栄養失調がはじまって血色が悪くなっていたのだろう。古川ロッパは、福島でようやくまともな食事にありついて、ひと息入れているような状態だった。その5月にはじまった各地巡回のロケから7月3日にようやく東京へもどると、上落合の自宅が同年5月25日夜半の第2次山手空襲で全焼しているのに愕然としている。
 須賀川町には、東京から学童集団疎開でやってきている国民学校(小学校)の生徒たちがいたが、その中のひとりが古川ロッパに手紙を書いて、福島へ「慰問」にきてくれるよう頼んでいたようだ。そこで、映画の撮影ロケのついでに、彼は疎開児童たちがいる旅館の部屋を訪ねている。『古川ロッパ昭和日記/戦中篇(昭和16年~20年)』より、5月22日(火)の日記から引用してみよう。
  
 虎屋旅館。出て来る女中もなじみ。通された部屋も馴染。風呂が沸いているので、入る。あゝ此の風呂もなじみの風呂だ。何だか、妙に此の地が、すべてなつかしい。今宵は、山田歯科から誘はれたから、七時すぎから出る。支度していると、虎屋の二階にゐる疎開児童の歌がきこえたので、一寸行くと、手紙をよこした子供も中にゐて、皆ワッと喜び、先生も何卒と言ふので、「元気な小父さん」を、先生のオルガンで弾いて貰って、歌ふ。子供たちも合唱した。
  
 このとき古川ロッパが耳にした、旅館の2階で疎開児童が唄っていた歌とは、どのような曲だったのだろう。たとえば、1942年(昭和17)に学校の音楽の時間でもっとも唄われた歌に、『子を頌(たた)う』(作詞・城左門/作曲・深井史朗)というのがある。もちろん、戦意高揚の児童唱歌なのだが、当時の国民学校の生徒(小学生)に限らず、幅広い世代に歌われて流行っていたようだ。
 1.太郎よおまえはよい子供/丈夫で大きく強くなれ
  おまえが大きくなる頃は/日本も大きくなっている
  おまえは私をこえて行け
 2.花子よおまえはよい子供/丈夫で綺麗に淑やかに
  おまえがお嫁にゆく頃は/日本も大きくなっている
  おまえは私をこえて行け
 ほんとうは3番まであるのだが、似たような歌詞なので省略する。ところが、それからわずか2年もたたないうちに、同じような唱歌『父母のこえ』(作詞・与田準一/作曲・草川信)というのが子どもたちの間で唄われるようになる。1944年(昭和19)につくられた同曲は、以下のような歌詞だ。
 1.太郎は父の故郷へ/花子は母の故郷へ
  里で聞いたは何の声/山の頂雲に鳥
  希望大きく育てよと/遠く離れた父の声
 2.太郎は父の故郷へ/花子は母の故郷へ
  里で聞いたは何の声/浦の松風波の音
  生命清しく生い立てと/遠く離れた母の声
渋谷東・代官山.jpg
古川ロッパ昭和日記2007晶文社.jpg 古川ロッパ.jpg
本郷.jpg
 学童疎開で、「一家離散」してしまった子どもたちを唄う、2年前につくられた『子を頌う』にみられる戦意高揚の歌詞とは、似ても似つかない内容となっている。もちろん、こんな内容だけでは当局の検閲を通らないので、3番には「雲の筋ひく荒鷲の/夢も大きく羽ばたけと」と、日本の戦闘機が尾を引く飛行機雲に、夢を託すフレーズも挿入されている。
 短期間しか唄われなかったにもかかわらず、これらの歌を憶えていた戦中の子どもたちがいる。1995年(平成7)に講談社から出版された、久世光彦『夢あたたかき』から引用してみよう。
  
 昭和十七年か八年、いずれにしても戦時中の歌で、懐メロの本にもほとんど出ていなくて、二人で歌詞を思い出すのに苦労した。例によって、昔話をしているうちに、戦争のころ戦意高揚の歌の中にもすてきな歌があったという話になり、向田さんと私の選んだベスト・ワンがその歌だった。≪太郎よお前は良い子供、丈夫で大きく強くなれ、お前が大人になるころは、日本も大きくなっている、太郎よ私を越えて行け≫。これが一番の歌詞である。いまでもうろ覚えで、どこか間違っているかもしれないが、さすが記憶魔の向田さんは、十分もしないうちに二番までしっかり思い出した。≪花子よお前は良い子供……≫とはじまるのだが、覚えていない。題名も判らない。
  
 「向田さん」とは、もちろんTVドラマでコンビを組んだ向田邦子のことだ。当時は国民学校の生徒だけでなく、女学生(現在の中学生)たちにまで広く唄われていたようだ。
 けれども、『子を頌う』からわずか2年で『父母のこえ』への変容には、子どもたちもとまどったのではないだろうか。『父母のこえ』で歌われている子どもたちは、それでもまだ幸福なほうだった。父母たちには帰るべき故郷があり、別の地方から都市へ働きにきていた人々なので、肉親がいる地方を疎開先として選ぶことができたのだ。しかし、代々東京生まれの東京育ちの子どもたちは、まったくよるべのない地方へ学校単位で送られ、悲惨なめに遭っているケースが多い。いや、地域のイジメや暴力ならまだマシで、栄養失調や病気で衰弱死した子どもたちもいた。また、ようやく慣れない疎開先から帰ってみれば、空襲で家族全員が死んでいた子どもたちも少なくない。
新宿駅淀橋浄水場空襲19450525.jpg
久世光彦「夢あたたかき」1998講談社版.jpg 久世光彦.jpg
早稲田上空1945.jpg
 「♪おまえが大きくなる頃は/日本も大きくなっている」と歌われ、次に家族が遠く離ればなれになり「♪希望大きく育てよと/遠く離れた父の声」とさびしく歌ったあとにきたものは、1945年(昭和20)8月15日の敗戦と大日本帝国の滅亡という、日本史上でも前代未聞の「亡国」状況だった。

◆写真上:集中豪雨で危険水位を超え、いまにもあふれそうな昨夏の妙正寺川。
◆写真中上は、1960年(昭和35)ごろ防火の観点から中止直前に撮影された1732年(享保17)からつづく両国花火大会は、1993年(平成5)に出版された吉村昭『昭和歳時記』(文藝春秋/)と著者()。は、1944年(昭和19)に撮影された落合第四国民学校(小学校)の学童集団疎開の出発式で、背後に見えているのは御留山。(提供:酒井正義様)
◆写真中下は、1945年(昭和40)5月24日夜半の空襲を受ける渋谷東・代官山地域。は、1987年(昭和62)出版の『古川ロッパ昭和日記/戦中篇(昭和16年~20年)』(晶文社/)と著者()。は、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲を受ける本郷地域。
◆写真下は、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲を受ける新宿駅と東口の商店街。は、1995年(平成7)に出版された久世光彦『夢あたたかき』(講談社文庫版/)と著者()。は、牛込区(現・新宿区の一部)の早稲田小学校や夏目坂、早稲田大学の上空を低空飛行するB29の編隊。
おまけ1
 戦後80年めの下落合に響くセミしぐれは、飛行機の音を背景にミンミンゼミとアブラゼミ、また朝夕のヒグラシ、そしてそろそろ晩夏のツクツクボウシが鳴きはじめるころだが、加速的に進む温暖化の影響からか、今年はあまり聞きなれないクマゼミの声を何度か耳にした。
下落合セミ時雨202508.ogg
おまけ2
 東京大空襲から9日後、1945年(昭和20)3月19日に米軍の偵察機F13から撮影された呉軍港で、右上が呉海軍工廠(呉鎮守府)の一部。軍港内が丸見えで、停泊中の海軍艦艇までが規定できる。
呉軍港19450319.jpg

この記事へのコメント

  • 石井治方

    吉村昭氏の【闇を裂く道】丹那トンネルを掘削した 菅原恒見 鹿島誠一を扱った本を読んだ事が有ります 二度の地震と多数の犠牲者を出しての完成でした それと 今昔マップ で1945-1950と有る 画像に戦艦武蔵の船影が 情報が筒抜け状態 これでは勝てませんね 現在も全く同じなのでは。
    2025年08月15日 10:21
  • 落合道人

    石井治方さん、コメントをありがとうございます。
    国府津から、箱根連山を避けて御殿場線を迂回していた東海道線が、
    丹那トンネルの開通で三島まで出られるようになったのは、青函トンネル
    と同じぐらい革新的なことだったのでしょうね。専門が建築土木だった
    親父から、東海道線で西へ向かうたびに聞かされた記憶があります。
    ついでに、箱根の芦ノ湖にある深良水門(箱根用水)の話も、同じころ
    聞かされました。
    吉村昭の著作には、書かれている戦艦武蔵の建造や零戦の開発など、
    技術者を扱った著作が数多くありますね。
    2025年08月15日 11:10

この記事へのトラックバック