佐伯祐三『洗濯物のある風景』と落合遺跡。

洗濯物1955(拡大).jpg
 1955年(昭和30)の3月、下落合4丁目(現・中落合4丁目/中井2丁目)の丘上にある目白学園とその周辺域で、かねてより発掘調査が行われていた「落合遺跡」のレポートが、新宿区より『落合/新宿区落合遺跡調査報告』として刊行された。
 落合遺跡は、旧石器時代から現代までとつづく重層遺跡で、特に群馬県の岩宿遺跡の発見からわずか5年後に、落合遺跡の関東ロームからも旧石器が次々と発掘され、旧石器人が東京の新宿にもいたと、当時のマスコミで大々的に報道されたことでも有名だった。落合遺跡は、自治体や早稲田大学による正式な発掘調査は戦後だが、戦前から同遺跡およびその周辺域から石器や土器片などさまざまな遺物が発見されていた。
 特に注目を集めたのは、1935年(昭和10)前後を通じて行われた妙正寺川の改修、すなわち蛇行する川筋を直線状に整流化し、洪水を防止する護岸工事が実施されたころからで、目白崖線の斜面にかかる工事現場から貝殻や土器片が多数発見されていた。したがって、下落合4丁目の斜面および丘上に遺跡が眠っていることは、地元の住民や淀橋区(現・新宿区の一部)では周知の事実だったのだ。戦後、初めて行われた発掘調査について、同報告書の序より引用してみよう。
  
 かつて、下落合を流れる妙正寺川の改修を行なつたときに、その川底から、数千年前のものと思われる貝殻や土器の破片が発見されたことがあつた。/それ以来、この附近が考古学的に一般人の関心をよんでいた。/たまたま、一昨年春からはじめた新宿区史の編集にあたつて、古代のわが区の文化態様を尋ねるとともに、区史の記述を実証ずける(ママ:づける)ため、昨夏この地すなわち下落合4丁目御霊神社ならびに、目白学園附近の高台に、トレンチの鍬を入れた。
  
 落合遺跡の発見が、『新宿区史』(1955年版)の編纂と連動して進められたことがわかる。また、戦前から「考古学的に一般人の関心」を集めていた様子も記録されている。
 これらの下落合における考古学ブーム(当時は旧石器・縄文時代を「原始時代」と呼んでいた)を踏まえ、大正末から昭和初期にかけて武蔵野文化協会のメンバーだった大里雄吉は、下落合の丘上で石器や土器の発掘調査をしていたのであり、また月見岡八幡社守谷源次郎は考古学者・鳥居龍蔵らを招聘し、発掘調査チームとともに旧石器や縄文・弥生とは時代が異なるが、おもに落合地域の南部で37基の古墳を確認・発掘調査しているのだろう。
 さらに、大正末より急速な宅地化が進んだ下落合では、遺物が出土する周辺の住民がそれらを“趣味”で発掘したり、自宅の建設や改修中に遺物を発見したりするケースが急増したものと思われる。わたしの手もとにある、古くからの住民よりお譲りいただいた旧・新石器や出雲の碧玉勾玉、いまだ湾曲した日本刀になる以前の古墳刀(直刀)などは、いずれも戦前の考古学ブームあるいは戦時中の改正道路(山手通り=環六)工事の際に発見された中井遺跡、さらには戦後の落合遺跡の発見とも連動して起きた考古学ブームの「成果」なのだろう。
 同報告書には、たいへん興味深い図版も収録されている。戦時の山手通り工事で発見されたが、非常時なので満足な調査や記録もなされなかったとみられる「中井遺跡」が、空中写真をベースに特定され赤丸囲みで規定されている。中井遺跡は、目白崖線につづく大規模なタタラ製鉄遺跡だったとみられ、大量の金糞・鐵液(かなぐそ:スラグ)が出土したと伝えられるが、太平洋戦争が間近な社会状況だったせいか、満足な調査もなされないまま山手通りの工事で消滅してしまった。
下落合の一角1955.jpg
妙正寺川1955.jpg
中井遺跡と落合遺跡1955.jpg
新宿区落合遺跡報告「落合」1955.jpg 制作メモ1926.jpg
 中井遺跡は、矢田坂と一ノ坂にはさまれた目白崖線の斜面、下落合(4丁目)1982番地の旧・矢田津世子邸を含む南側一帯ということになる。つまり、山手通り工事にひっかかる矢田津世子邸は、1940年(昭和)6月に仮住まいの下落合2015番地の借家へ転居し、翌1941年(昭和16)3月に敷地を西へ移動した下落合1985番地(のち番地変更で1982番地)の新邸へともどっているが、いまでは山手通りの崖上となってしまった矢田邸の南東の斜面一帯に、大鍛冶のタタラ跡とみられる中井遺跡があったことになる。矢田津世子は、この遺跡発見の経緯を目撃していると思われるが、その様子を書いたエッセイにはいまだ出あえていない。
 また、下落合1296番地のちに下落合(3丁目)1321番地の第一文化村に住んだ会津八一も、あちこちの畑や崖地で石器や土器片を目にしていたことが伝えられている。同報告書に掲載の、落合地域に住んでいた早稲田大学文学部考古学研究室の滝口宏の文章を引用してみよう。
  
 恩師会津八一先生が、目白から落合に移られ、武蔵野の風趣をのこす林間に秋草堂を定められたころ、落合の台にはまだ点々と畑があり、折にふれて石器や土器が行く人の眼にうつり遠い昔を偲ばせたものであつた。先生のお話によると、そのころ勝俣詮吉郎先生(早大名誉教授)が、遺跡の発掘調査を先生にすすめられたとのこと、いま私たちがこうして調査をする機会を得たことは、30年も経つ両先生のお話しにつながる心持して力強くはげみになつている。/落合に住む私として、この台上のあちこちにある遺跡にはたえず心ひかれるものがあつたが、たまたま新宿区で区史を編纂する運びになり、(中略) たまたま鎮守御霊神社の磯部芳直氏が1個の壺を持来されたことに強い刺戟を受け、研究室の全力を挙げて調査に従つたのである。
  
 中井御霊社の周辺では、すでに土器類や石器類が発見されていたことが、上記の文章からうかがえる。“考古学ブーム”は戦前、それもずいぶん以前から下落合でつづいていたのだろう。
落合遺跡遠景1955新宿区落合遺跡調査報告.jpg
中井遺跡と落合遺跡1955(右半分).jpg
洗濯物のある風景(カラー).jpg
洗濯物のある風景19260921.jpg
 さて、『落合/新宿区落合遺跡調査報告』にはもうひとつ、おもしろい写真が掲載されている。中野区の上高田に拡がるバッケが原から東を向き、中井御霊社や目白学園を含めた目白崖線の全体を撮影したパノラマ写真だ。おそらく、バッケが原を移動しながら3回(以上)に分割して撮影した写真を、のちに貼りあわせてパノラマのような連続写真に仕上げているのだろう。写真の右手には中井御霊社の杜が、中央から左手にかけては「目・白・学・園」の白い大きな看板を含め、同学園のキャンパスが拡がる丘陵の全体がとらえられている。
 興味深いのは、このパノラマ写真の右端に写っている住宅風景だ。佐伯祐三が、1926年(大正15)9月21日に描いたとみられる、「下落合風景」シリーズの1作『洗濯物のある風景』の29年後の情景が偶然とらえられている。もちろん、大正期の作業着を干す農家などは残っておらず、多くの住宅は建て替えられているとみられるが、住宅の切妻の向き、すなわち南側を住宅の表にして北側が裏とし、切妻を東西に向ける建築の仕様は変わっていない。
 しかも、『洗濯物のある風景』に描かれた農家の跡に建っているのは、北側に大きな窓を設けたアトリエ建築のようだ。同年の空中写真で確認しても、北側に屋根ごと目立ってせり出した、大きな採光窓を備えたアトリエ付き住宅のように見える。わたしは1950年代のころ、この位置(下落合4丁目2157番地)に住んだ洋画家を知らないが、なんらかの美術関係者ないしは美術愛好家(絵画趣味)の人物が住んでいた可能性が高いように思う。ちなみに、このアトリエ住宅の裏側(東南側)、下落合4丁目2162番地には日本画家の臼井剛夫がアトリエをかまえていた。
 AIエンジンでカラー化を試みたが、遠景でピンボケのため、はっきりとした色彩はわからない。だが、下見板張りらしい焦げ茶色の外壁に、赤い屋根瓦を載せたアトリエ付き住宅だったのではないだろうか。佐伯が『洗濯物のある風景』に描いた農家よりもはるかに建坪が大きく、敷地を南側へ延ばした、屋根裏部屋のある2階建ての西洋館のように見える。
 そして、同住宅の前には小型の変圧器を載せた電柱が見てとれる。下落合西端にあたるこの一帯は、空襲の被害をほとんど受けていないので、佐伯の『洗濯物のある風景』と同一の電柱の可能性さえあるが、30年近くが経過しているので建て替えられたかもしれない。だが、その形状は佐伯が描いた電柱とほぼ同一だ。電柱の設置位置が、戦前戦後を通じてほとんど変わらないのは、今日でもしばしば確認できる。公道であれ私道であれ、東京電燈(戦後は東京電力)が借地して設置した電柱は、地主へのわずかな借地料の支払いとともに動くことが少ない。
 『洗濯物のある風景』の時代は、いまだ農地あるいは区画整理を終えたばかりの草原が多かったとみられる周辺だが、1950年代になると中井御霊社の南側の斜面や平地には、住宅がぎっしりと建てこんでいる。佐伯の画面背後に描かれた、どこか戦後によく見られた平屋の区営住宅のような姿の家々は、戦災を受けていないせいか戦後の空中写真でも何軒か残っているように見える。大きく姿を変えたのは、妙正寺川の流路と川幅、そして埋め立てられた田畑用の灌漑用水の流れだろう。1956年(昭和31)の空中写真を見ると、妙正寺川の旧流路の跡をいまだ見つけることができる。
北原橋1955.jpg
洗濯物1956.jpg
洗濯物1956(拡大).jpg
 『落合/新宿区落合遺跡調査報告』には、もちろん落合遺跡の各発掘現場のトレンチや、そこから出土した石器や土器類、あるいは住居跡の写真も数多く掲載されているが、1955年(昭和30)当時の下落合風景もとらえられているのが貴重だ。同報告書には、中井遺跡の位置が明確に規定されているが、その当時までなんらかの調査資料が戦災で焼失することなく、存在していた可能性が高いように思う。新宿区あるいは早稲田大学の資料なのか、今後とも探しつづけてみたい。

◆写真上:1955年(昭和30)の写真にとらえられた、佐伯祐三『洗濯物のある風景』の写生位置。
◆写真中上は、1955年(昭和30)の撮影とみられる下落合の街角。中上は、同年に北原橋の下流から撮影された妙正寺川。左手高台の上高田422番地には、耳野卯三郎アトリエが建っていた。中下は、調査報告書に収録の空中写真へ記載された落合遺跡と中井遺跡の位置関係。下左は、1955年(昭和30)に出版された『落合/新宿区落合遺跡調査報告』(新宿区)。下右は、佐伯祐三が1926年(大正15)9月~10月に残した「下落合風景」の「制作メモ」
◆写真中下は、上高田のバッケが原から東を眺めて撮影された目白崖線の西端。中央左寄りには、「目・白・学・園」の大きな看板が見える。中上は、AIでカラー化した上掲写真の右半分(南側)の拡大。中下は、上掲写真の右端をさらに拡大した画面。は、「制作メモ」によれば1926年(大正15)9月21日に描かれたとみられる佐伯祐三『洗濯物のある風景』。
◆写真下は、1955年(昭和30)の空中写真にみる妙正寺川と北原橋の周辺。は、1956年(昭和31)の空中写真にみる『洗濯物のある風景』の区画と中井御霊社や落合遺跡などとの位置関係。『洗濯物のある風景』のエリアには、妙正寺川の流れを修正した旧流路の跡がいまだハッキリと残っている。は、同年の空中写真にみる佐伯祐三がモチーフに選んだ農家のあった区画の拡大。
おまけ1
 『落合/新宿区落合遺跡調査報告』に収録された、落合遺跡の空中写真と出土した旧石器類。旧石器は、空中写真のピンク色の部分から出土した。旧石器時代は、「打製石器時代」「先土器時代」などと呼ばれてきたが、21世紀に入りそれらの史的定義を覆す発見が相次いでいる。
落合遺跡発掘現場1955.jpg
落合遺跡旧石器1955.jpg
おまけ2
 今年は、多摩川に推定132万尾ものアユが遡上したというが、上掲の妙正寺川にははたしてアユは遡上しているだろうか? 写真は、神田川に棲息するアユとモツゴ。
神田川アユ・モツゴ.jpg
コメント関連画像
葛橋から御霊坂.jpg
洗濯物のある風景跡.jpg
電柱の現状.jpg
中井御霊社神輿.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年09月26日 21:46
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    パインパンは食べたいですね。リンゴパンと同様に、酸味のある甘味でしょうか。
    今年は、オニヤンマは見かけませんでした。
    2025年09月27日 11:17
  • ものたがひ

    落合道人さま、こんばんは。
    冒頭で拡大された写真、面白いですね! 手前にあるいくつかの小屋は、臨時の(土地開発や発掘調査のための?)作業小屋かなにかでしょうか。
    さて佐伯祐三の『洗濯物のある風景』(ママ。爆!)ですが、そこに描かれていた農家が既に無い、というご指摘は重要だと思いました。さらに、確かに全く違う形の家がありますが、その家は、位置もあの「農家」の北に変わっていると考えました。かれこれ20年前のChinchikoPapaさんの、『当時も妙正寺川は溢れていたのか。』の描画ポイントのご考察に、私は驚きを感じつつ納得していたのですが、この写真を見ていて、今まで「農家」の位置を、詳しく検討していなかったことに気づきました。1926年の事情明細図では、「農家」にあたる ○才二郎さんの敷地から東方向に佐久間次郎さん、臼井鋼夫さんと、三つの敷地が東西道沿いに続いていますが、道から家までの距離が「農家」の方が長かったならば、家々は佐伯の画面のようには見えません。「農家」が、一番道寄りないし、せめて同じ距離にないと、あのようにはならないはずなのです。
    この三軒のうち、日本画家の臼井鋼夫さん宅は、画家の住所が変わらないこと、空中写真に写る様子が同じように見えることから、基本的に変わっていない、基準となるものと考えます。とすると、冒頭の拡大写真の北窓があるであろう洋館は、1926年に佐伯が描いた「農家」のちょうど北側に建てられたとみると適切ではないかと思えます。
    そのため、佐伯の描いた電柱があったのは、この洋館近くの電柱とされたところより10mほど南になるのではないでしょうか。洋館に引っ張られて、『当時も妙正寺川は溢れていたのか。』より、今回、少し北に描画ポイントがずれていると思います。妙正寺川の整流化、脇の流れの暗渠化、それに沿っていた道の付替と拡幅など、ややこしい問題がたくさんありますが、なにはともあれ描画ポイントは、ホントの佐伯の電柱のそばにあると思います。
    2025年09月27日 22:15
  • 落合道人

    ものたがひさん、コメントをありがとうございます。
    わたしも当初、写真に写るアトリエ建築よりも、佐伯が描く農家はもう少し南側かなとも考えましたが、背後の家々の見え方でほぼ同じ場所ではないかと考えるようになりました。
    ひとつは、佐伯の描く農家の左横に、屋根の主軸を南北に向けた家の屋根がかなりの割合で見えていること。この屋根が、のちの林明善アトリエ(さらにのちには仲嶺康輝アトリエ)の屋根だとすると、寺尾光彦邸の敷地に建てられた西端の借家ととらえることができます。その東隣りの小さな借家が、ピアノと歌声が聞こえていた渡辺光子(月村光子)邸で、寺尾邸の大きめな母家はさらにその東隣りになります。戦後のバッケが原から撮影された写真を見ますと、やはり屋根の主軸を南北に向けた、建て替えられたらしい屋根(寺尾邸かどうかは不明です)が白く光って見えています。同一の敷地に、同様の意匠をした住宅を建てるひそみに倣えば(たとえば『セメントの坪(ヘイ)』の屋根の主軸を南北に向けた内藤邸のように現在も同様の住宅が建てられています)、これは仲嶺康輝アトリエの後継住宅と考えてもよさそうに思います。
    また、佐伯の画面で農家の右手からチラリとのぞいている赤い屋根の住宅(農家?)で、アトリエ建築の家からやや南東側にある建物、のちに臼井剛夫アトリエ敷地の西隣りに建っていた住宅のように見えます。もっとも、佐伯が描いたのは1926年(大正15)ですから、同じような農家だったものが、昭和初期に大きめな住宅へ建て替えられている可能性が大ですが……。そして、画面の右手に建てられているのが、昔日に見られた平屋建ての区営住宅のような、規格化されたように見える住宅群です。
    もうひとつ、地形の課題もあります。佐伯の画面では右手が明らかに下り斜面に描かれていますね。でも、西武線の線路近くはほぼ平坦になってしまいますので(昭和期の宅地開発のせいかもしれませんが)、やはり傾斜が右手(南側)に向けて顕著にある位置に、描かれた農家は建っていたのではないかと考え、写真に写るアトリエ建築あたりなのではないかと判断しました。
    ただ、不安要素を挙げればキリがない側面もあって、佐伯が描いた画面は1926年(大正15)であり、妙正寺川の護岸・清流化工事も、同河川の東側を流れていた灌漑用水の埋め立て(暗渠化?)もなされてない時代で、それらが終わった時点で住宅敷地の様子や道路の形状、電柱の位置がどのように変更されているかが正確にはわからないという点でしょうか。
    2025年09月27日 23:24
  • 落合道人

    ものたがひさん、散歩がてら本日歩いてきました。
    おっしゃる通り、上掲の拡大写真に写るアトリエ建築の南庭あたりに、佐伯が描く「洗濯物のある風景」の農家が建っていたように思うてきました。アトリエ建築は、やや北側寄りのようですね。
    そのような視点で、もう一度アトリエ建築の拡大写真を見ますと、手前に妙正寺川に架かる葛橋のような影が見え、御霊坂へとつづく道筋が感じられるようです。この一帯は、昭和初期の妙正寺川の整流化工事と、その東側を流れていた灌漑用水の暗渠化で、何度か再開発が行われていますので正確にはわかりませんが、描かれた洗濯物を干す農家跡は、現場を見てみますとやや南側のように感じました。
    また、電柱が現状は同道筋に3本建てられていますが、アトリエ建築の拡大写真にとらえられた変圧器の乗る電柱が、佐伯が描く電柱が移設されたものか、あるいは再開発時に増やされている電柱なのかはわかりません。ただし、変圧器が乗った電柱は、現在でも拡大写真に写る電柱のみのようで、その南側にある2本の電柱に変圧器はありませんでした。でも、これも変圧器の軽量化でひとつ北側の別の電柱に移設されているのかもしれず、そのあたりは一帯の大がかりな再開発の過程が曖昧なままですので、なんともいえない状態です。
    ついでに、本日は中井御霊社の祭礼日で、神輿が繰りだしていました。佐伯が描く農家跡一帯と電柱を撮影しましたが、ついでに六ノ坂をのぼる御霊社の神輿行列も記事末に掲載しておきます。
    2025年09月28日 15:23
  • ものたがひ

    落合道人さま、わざわざ実地調査の上、再リプライくださり、恐縮です。
    拡大写真には、川沿いの新道から東に向かう坂道が、二筋感じられる気がしますね。この辺の開発史は、たいへん複雑そうです。
    それから、白状しますと、私は今回、佐伯の画面の中の白いものが、ようやく黒い柵の向こうにある大きなシート状の布に見えてきました。爆! 洗濯物がシャツであつとすると巨大過ぎますが、柵が手前にあるために牛の脚に見えると思うと了解できる気持ちになってきました。妙正寺川の整流化以前は水が溢れることも多く、ふだんは牛を飼う場所に向いていたのでは、とまだ思っていますが。猛爆!
    中井御霊社のお神輿は、六の坂を登るのですね。歩いて登るのも、結構きついのに、パワフルな神輿行列です!
    2025年09月28日 18:30
  • 落合道人

    ものたがひさん、コメントを再度ありがとうございます。
    実際に地形を細かく観察すると、灌漑用水が流れていたのを埋め立てたせいなのか、電柱が並ぶ南北の道路が途中で凹み、西武線に向かってやや上り気味なのも確認できました。佐伯が描いた時代と、10年後の1935年(昭和10)ごろとでは、同じ場所とは思えないほど大きな変容をとげていた一画のように感じます。
    洗濯物は、シャツではなくてなんらかの作業着かシートのようなものにも見えます。白い作業着だと、牧場の飼育員のようなつなぎのコスチュームですが(爆!)、はたして何を干しているのでしょうね。
    中井御霊社の神輿は、以前ご紹介した神田明神と同様に、かつぐ女性の姿が多く見られました。
    2025年09月28日 19:46

この記事へのトラックバック