
1933年(昭和8)4月ごろから、下落合2丁目623番地(現・下落合4丁目)にある曾宮一念のアトリエ西隣りで、大規模な住宅建設工事がはじまった。もともと、落合町議会議員で日本画家だった川村東陽邸の広い敷地の一部だったが、川村東陽が1932年(昭和7)に淀橋区議会議員へ立候補するとともに、下落合2丁目622番地の敷地を切り売りしているとみられる。その後、川村は1935年(昭和10)すぎに下落合から転居しているようだ。
曾宮アトリエの西側に、2棟に分かれた大きな屋敷を建てていたのは、海軍の軍事参議官を退職し予備役に編入された、海軍大将の谷口尚真(なおみ)だった。谷口は、練習艦隊司令官から海軍兵学校長、第二艦隊司令長官、呉鎮守府司令長官、第一艦隊と聨合艦隊司令長官、海軍軍令部長などを歴任した人物だ。同年、ほどなく谷口邸の北側にも住宅の建設がはじまり、転居してきたのは新婚まもない蕗谷虹児だった。曾宮一念と蕗谷虹児ふたりのアトリエに囲まれた隣人としては、およそ異色の人物が下落合に転居してきたことになる。
海軍の歴史に詳しい方なら、谷口尚真という名前を聞いただけで、昭和初期に「艦隊派」と対立した「条約派」あるいは反軍拡派、戦争不拡大派、英米との非戦論者などの多様なイメージを即座に思い浮かべるだろう。のちに、彼の主張を受け継ぎ日独伊三国同盟に強く反対して、米英との戦争を回避しようとつとめた人物には米内光政や井上成美、山本五十六などがいる。谷口をはじめ、彼らは海外勤務や視察などを通じて欧米、特に米国がもつ圧倒的な生産力を知悉しており、万が一でも戦争になれば必敗なのを見通せていた人物たちだ。
1940年(昭和15)11月、海軍大将の野村吉三郎が米国大使として渡米する直前、病床にあった谷口尚真を見舞いに下落合を訪れた際、「何としてもアメリカとの戦争にはするな」と谷口が涙ながらに叫んでいた様子を、家族たちが記憶している。谷口尚真は、米国公使館付きの駐在武官時代にさまざまな生産現場を公使たちと見学してまわったとみられ、呉鎮守府司令長官時代には国内の生産工場を積極的に視察してまわっている。したがって、両国の生産力や効率性、製造設備や機械技術など生産インフラの圧倒的な落差を熟知していたと思われる。
谷口尚真は、艦隊将兵や海軍兵学校の学生などへの訓示の際に、「Silent Service(サイレントサービス)」という用語を頻繁につかっている。直接的には、あれこれ議論したり詮索したりせず、決定し命令されたことは黙って実行するのが海軍軍人だ……という主旨で用いられているが、もともと「Silent Service(静かなるサービス)」は欧米用語で、その存在を国民にことさら強く意識させることなく、黙々と安全保障や危機回避を支える国家のセキュリティインフラ(この場合は海軍)という意味あいで使用されていた古い造語だ。時代や兵器の移ろいとともに、いまでは潜水艦による防衛体制をそのように呼ぶ軍事用語になっている。「Silent Service」という用語で、「Silent Shield(静かなる盾)」と評される米内光政を想起する方も多いのではないだろうか。ちなみに米内光政は、陸軍のテロを避け隠れ家を転々とする敗戦間近に、下落合でも目撃されている。
谷口が残した筆録『鶏肋』には、さまざまな機会に訓示した文章が収録されているが、その中から第二艦隊司令長官時代の1926年(大正15)に少尉候補生たちへ訓示した内容を、2010年(平成22)にカゼット出版から刊行の武部健一・編『条約派提督海軍大将/谷口尚真』から引用してみよう。なお、原文はすべてカタカナ表記で読みにくいため、ひらがな表記に変更している。(以下同)
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諸子が艦外に於て接するところの活社会は学校の校庭ではない。自ら守ること固く、自ら持すること厳なるにあらざれば、往々にして誘惑に陥ることなしとも期し難い。衆人皆右し、若(もしく)は左する場合に在ても、此の道右すべからず左すべからずと信じたならば、敢然として直行すべきである。/他と好く調和することは軍隊生活上極めて必要なるが、決して雷同してはならぬ。勇者は独往し、怯者は同行す。進んで勇者となれ。謹んで怯者となつてはならぬ。
▲
谷口尚真の、海軍軍人としての思想や“立脚点”がよくわかる文章だ。時流に流されて安易に付和雷同せず主体的に判断して生きよと、青年士官候補生たちに戒めている。
曾宮アトリエの西側に、2棟に分かれた大きな屋敷を建てていたのは、海軍の軍事参議官を退職し予備役に編入された、海軍大将の谷口尚真(なおみ)だった。谷口は、練習艦隊司令官から海軍兵学校長、第二艦隊司令長官、呉鎮守府司令長官、第一艦隊と聨合艦隊司令長官、海軍軍令部長などを歴任した人物だ。同年、ほどなく谷口邸の北側にも住宅の建設がはじまり、転居してきたのは新婚まもない蕗谷虹児だった。曾宮一念と蕗谷虹児ふたりのアトリエに囲まれた隣人としては、およそ異色の人物が下落合に転居してきたことになる。
海軍の歴史に詳しい方なら、谷口尚真という名前を聞いただけで、昭和初期に「艦隊派」と対立した「条約派」あるいは反軍拡派、戦争不拡大派、英米との非戦論者などの多様なイメージを即座に思い浮かべるだろう。のちに、彼の主張を受け継ぎ日独伊三国同盟に強く反対して、米英との戦争を回避しようとつとめた人物には米内光政や井上成美、山本五十六などがいる。谷口をはじめ、彼らは海外勤務や視察などを通じて欧米、特に米国がもつ圧倒的な生産力を知悉しており、万が一でも戦争になれば必敗なのを見通せていた人物たちだ。
1940年(昭和15)11月、海軍大将の野村吉三郎が米国大使として渡米する直前、病床にあった谷口尚真を見舞いに下落合を訪れた際、「何としてもアメリカとの戦争にはするな」と谷口が涙ながらに叫んでいた様子を、家族たちが記憶している。谷口尚真は、米国公使館付きの駐在武官時代にさまざまな生産現場を公使たちと見学してまわったとみられ、呉鎮守府司令長官時代には国内の生産工場を積極的に視察してまわっている。したがって、両国の生産力や効率性、製造設備や機械技術など生産インフラの圧倒的な落差を熟知していたと思われる。
谷口尚真は、艦隊将兵や海軍兵学校の学生などへの訓示の際に、「Silent Service(サイレントサービス)」という用語を頻繁につかっている。直接的には、あれこれ議論したり詮索したりせず、決定し命令されたことは黙って実行するのが海軍軍人だ……という主旨で用いられているが、もともと「Silent Service(静かなるサービス)」は欧米用語で、その存在を国民にことさら強く意識させることなく、黙々と安全保障や危機回避を支える国家のセキュリティインフラ(この場合は海軍)という意味あいで使用されていた古い造語だ。時代や兵器の移ろいとともに、いまでは潜水艦による防衛体制をそのように呼ぶ軍事用語になっている。「Silent Service」という用語で、「Silent Shield(静かなる盾)」と評される米内光政を想起する方も多いのではないだろうか。ちなみに米内光政は、陸軍のテロを避け隠れ家を転々とする敗戦間近に、下落合でも目撃されている。
谷口が残した筆録『鶏肋』には、さまざまな機会に訓示した文章が収録されているが、その中から第二艦隊司令長官時代の1926年(大正15)に少尉候補生たちへ訓示した内容を、2010年(平成22)にカゼット出版から刊行の武部健一・編『条約派提督海軍大将/谷口尚真』から引用してみよう。なお、原文はすべてカタカナ表記で読みにくいため、ひらがな表記に変更している。(以下同)
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諸子が艦外に於て接するところの活社会は学校の校庭ではない。自ら守ること固く、自ら持すること厳なるにあらざれば、往々にして誘惑に陥ることなしとも期し難い。衆人皆右し、若(もしく)は左する場合に在ても、此の道右すべからず左すべからずと信じたならば、敢然として直行すべきである。/他と好く調和することは軍隊生活上極めて必要なるが、決して雷同してはならぬ。勇者は独往し、怯者は同行す。進んで勇者となれ。謹んで怯者となつてはならぬ。
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谷口尚真の、海軍軍人としての思想や“立脚点”がよくわかる文章だ。時流に流されて安易に付和雷同せず主体的に判断して生きよと、青年士官候補生たちに戒めている。



谷口尚真が、なぜ「Silent Service」という用語にこだわったのかは、政治の世界へ次々とくちばしを入れ、政党政治を饒舌に批判ときに威嚇・恫喝し、ポピュリズムを背景に文民統制をなし崩し的に破壊していく、陸軍の姿がいきおい念頭にあったのではないかと思える。軍人は軍事には明るいが、国家対国家という広範で複雑かつ奥深い外交には疎く、またグローバルな視野にもとづく社会や歴史、文化にも狭窄気味だというのを、彼はよく知っていたからだろう。谷口尚真は軍人というより不正を嫌う謹厳実直で、膨大な蔵書の読破と研究に裏打ちされた、「教育者」という側面のほうが強い人物だ。谷口の座右の銘は、「百術一清(百術は一清にしかず)」だった。いかに権謀術数をめぐらそうと、ひとつの清(誠実さ)にはかなわないという意味だ。
谷口は海軍で砲術の大家でも水雷の専門家でもなかったが、各国の海軍の事情やその歴史についてはことのほか詳しかった。また、英語にも堪能で東郷平八郎が英米を訪問した際には、随行員兼通訳として同行している。各国の海軍将官とも知己をえており、またセオドア・ルーズヴェルトJr.(第26代・米国大統領)とも親しく、のちに私邸まで招かれるような間がらだった。彼は訓示の中で、よく米英海軍のエピソードを引用して士官たちへ語りかけている。
海軍の歴史や伝統からいえば、英米のほうがよほど“先輩”で敬意を払うのはあたりまえであり、中には10年後にはとても戦争をすることになるなど、思いも及ばない訓示もある。1930年(昭和5)の呉鎮守府司令長官のとき、日本海海戦記念日における訓示を同書より引用してみよう。
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米国にては近世海軍勃興の恩人たる故「ルーズヴェルト」大統領の偉業を記念するため、毎年其の誕生日たる十月二十七日を海軍日として軍艦を沿岸各地に派遣し、其の一日艦内を民衆に開放する行事がある。数年前の記録を見るに、大西洋岸のみにて観衆三十五万人に達したとある。又英国海軍にては毎年八月下旬、一週日に亘つて各軍港を開放し、又十一月二十一日の「トラファルガーデー」の名に於て祝典を行ふの慣例があつて、百二十五年後の今日に至り尚ほ連綿として継続して居ることは世人周知のことである。
▲
訓示では、イギリスの自由主義を追求した政治家W.グラットストーンの言葉を引用し、また東郷平八郎と同時代を生きているわれわれは、「光栄」であり「特権」だとしている。また、軍港や艦船を開放し、このときは戦艦「伊勢」をはじめ各艦の見学会が開催された。
谷口尚真は、日露戦争時に大本営軍令部の参謀時代から東郷平八郎を敬愛していたが、その尊敬する人物と軍縮をめぐり、もっとも対立する関係になるとは思いもよらなかっただろう。東郷は軍縮には大反対(「艦隊派」の中心人物)であり、米英を仮想敵とした「八八艦隊」(戦艦8隻×巡洋戦艦8隻)構想を、そのまま昭和期までもち越してきた軍拡推進の人物だった。
谷口は海軍で砲術の大家でも水雷の専門家でもなかったが、各国の海軍の事情やその歴史についてはことのほか詳しかった。また、英語にも堪能で東郷平八郎が英米を訪問した際には、随行員兼通訳として同行している。各国の海軍将官とも知己をえており、またセオドア・ルーズヴェルトJr.(第26代・米国大統領)とも親しく、のちに私邸まで招かれるような間がらだった。彼は訓示の中で、よく米英海軍のエピソードを引用して士官たちへ語りかけている。
海軍の歴史や伝統からいえば、英米のほうがよほど“先輩”で敬意を払うのはあたりまえであり、中には10年後にはとても戦争をすることになるなど、思いも及ばない訓示もある。1930年(昭和5)の呉鎮守府司令長官のとき、日本海海戦記念日における訓示を同書より引用してみよう。
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米国にては近世海軍勃興の恩人たる故「ルーズヴェルト」大統領の偉業を記念するため、毎年其の誕生日たる十月二十七日を海軍日として軍艦を沿岸各地に派遣し、其の一日艦内を民衆に開放する行事がある。数年前の記録を見るに、大西洋岸のみにて観衆三十五万人に達したとある。又英国海軍にては毎年八月下旬、一週日に亘つて各軍港を開放し、又十一月二十一日の「トラファルガーデー」の名に於て祝典を行ふの慣例があつて、百二十五年後の今日に至り尚ほ連綿として継続して居ることは世人周知のことである。
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訓示では、イギリスの自由主義を追求した政治家W.グラットストーンの言葉を引用し、また東郷平八郎と同時代を生きているわれわれは、「光栄」であり「特権」だとしている。また、軍港や艦船を開放し、このときは戦艦「伊勢」をはじめ各艦の見学会が開催された。
谷口尚真は、日露戦争時に大本営軍令部の参謀時代から東郷平八郎を敬愛していたが、その尊敬する人物と軍縮をめぐり、もっとも対立する関係になるとは思いもよらなかっただろう。東郷は軍縮には大反対(「艦隊派」の中心人物)であり、米英を仮想敵とした「八八艦隊」(戦艦8隻×巡洋戦艦8隻)構想を、そのまま昭和期までもち越してきた軍拡推進の人物だった。



谷口は東郷を敬愛しつつも、軍縮を推進して米英その他諸国との緊張関係を低減するのが、この先、戦争を回避する最善の道だと考えていた。彼は感情的で軍国主義的なナショナリストではなく、米英の国力を現地で深く認識したうえでの、具体的な緊張緩和と戦争回避策を想定していた。このあたり、敬愛する東郷の「艦隊派」と軍縮の「条約派」とで、軍令部長時代のロンドン海軍軍縮条約をめぐり、谷口はアンビバレントでかなりシビアな精神状態に置かれていたと思われる。だが、もし米英と対立し万が一戦争にでもなったら、「亡国」を招来しかねないリスクを十二分に承知していたのが、海軍大将・谷口尚真という人物だった。
1929年(昭和4)、呉鎮守府司令長官時代に高等官を集めて訓示した内容は、「軍人の本分」と「文民統制」について語る本質的かつ教科書的な内容なので、同書よりつづけて引用してみよう。
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偖(さて)、所謂軍縮問題は目下世界の大問題でありまして、其の結果は帝国海軍国防の盛衰に関することは申す迄もなきことであります。今や我国民は之を以て単なる海軍の問題となすことなく、実に国民全体の問題として多大の注意を払つて居るのであります。況(いわ)んや我々海軍々人にとりましては直ちに自家頭上の大問題であります。我全権(若槻礼次郎)は確乎たる信念、動かすべからざる決心を以て今や正に渡欧の途上に在るのであります。此の際、我々は全権其の人の決心と技倆に対し満幅の信頼を繋ぎ、決して高論放言するが如きことなからんことを要するのであります。軍縮を論ずるは別に其の人あり。我々は只黙々として我々の職務に尽瘁するを以て足れりとするのであります。(カッコ内引用者註)
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大蔵省の全権(若槻礼次郎)が、軍縮会議において下す判断や決定を尊重して信頼し、遵守しようと呉鎮守府の幹部たちに呼びかけている。「高論放言」する無責任な若い士官たちを戒め、国民をベースとした政府や議会に対する軍人らしいピュアで謙虚な姿勢(議会制下における軍隊では当然であたりまえの姿勢だが)は、谷口の生涯にわたり決して変わることがなかった。けれども、政府自体が大陸における戦争を主導してきた陸軍に牛耳られ、それに「付和雷同」する人々で議会の多くが占められてしまうと徐々に孤立し、なす術(すべ)がなくなっていったように見える。
1929年(昭和4)、呉鎮守府司令長官時代に高等官を集めて訓示した内容は、「軍人の本分」と「文民統制」について語る本質的かつ教科書的な内容なので、同書よりつづけて引用してみよう。
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偖(さて)、所謂軍縮問題は目下世界の大問題でありまして、其の結果は帝国海軍国防の盛衰に関することは申す迄もなきことであります。今や我国民は之を以て単なる海軍の問題となすことなく、実に国民全体の問題として多大の注意を払つて居るのであります。況(いわ)んや我々海軍々人にとりましては直ちに自家頭上の大問題であります。我全権(若槻礼次郎)は確乎たる信念、動かすべからざる決心を以て今や正に渡欧の途上に在るのであります。此の際、我々は全権其の人の決心と技倆に対し満幅の信頼を繋ぎ、決して高論放言するが如きことなからんことを要するのであります。軍縮を論ずるは別に其の人あり。我々は只黙々として我々の職務に尽瘁するを以て足れりとするのであります。(カッコ内引用者註)
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大蔵省の全権(若槻礼次郎)が、軍縮会議において下す判断や決定を尊重して信頼し、遵守しようと呉鎮守府の幹部たちに呼びかけている。「高論放言」する無責任な若い士官たちを戒め、国民をベースとした政府や議会に対する軍人らしいピュアで謙虚な姿勢(議会制下における軍隊では当然であたりまえの姿勢だが)は、谷口の生涯にわたり決して変わることがなかった。けれども、政府自体が大陸における戦争を主導してきた陸軍に牛耳られ、それに「付和雷同」する人々で議会の多くが占められてしまうと徐々に孤立し、なす術(すべ)がなくなっていったように見える。



海軍退役後、1936年(昭和11)5月に谷口尚真は自宅で脳溢血の発作に襲われた。さっそく海軍兵学校の先輩・後輩たちが、下落合へ見舞いに訪れている。百武三郎や飯田久恒、山梨勝之進、野村吉三郎、永野修身、左近司政三、米内光政、豊田貞次郎、伍堂卓雄など、中には井上成美が「ナチスの第五列の如し」と批判した人物もいるが、その多くは世界情勢に明るく陸軍の暴走に危機感を抱き、対米英などに対する好戦的な動きには否定的な海軍軍人たちばかりだった。1941年(昭和16)10月31日、谷口は三度めの脳溢血の発作を起こし、家族や友人たちに見守られながら71歳で死去している。翌月、谷口の葬儀は最後の「海軍葬」としてとり行われたが、そのわずか1ヶ月のち、日本は谷口尚真がもっとも怖れていた対米英戦へ突入し、「亡国」への坂道を転落していった。
◆写真上:下落合2丁目622番地(現・下落合4丁目)にあった谷口尚真邸跡の現状。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる谷口邸。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同邸。下は、ワシントン軍縮会議(1922年)から主要な装備を陸揚げし長期間にわたり海軍の練習艦となっていた戦艦「比叡」。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)撮影の第二艦隊の主力艦で、戦艦「榛名」からとらえた戦艦「金剛」「比叡」「霧島」とみられる。中は、イギリスを訪問した東郷平八郎と谷口尚真の記念写真(1911年)。下は、1928年(昭和3)10月28日に「条約派」と「艦隊派」の対立が深まる中、海軍幹部らとともに撮影された東郷平八郎と聨合艦隊司令長官・谷口尚真。当時の政治・軍事思想では真っ向から対立した両者だが、谷口は東郷への敬愛を終生もちつづけた。
◆写真下:上は、1932年(昭和7)3月に霞ヶ関離宮で撮影された記念写真。右から海軍次官・左近司政三、軍事参議官・谷口尚真、同・岡田啓介、陸相・荒木貞夫、海軍元帥・東郷平八郎。中は、1933年(昭和8)ごろ制作された清水多嘉示の『風景(仮)』(op285)。左手の2棟に分かれた赤い屋根の屋敷が谷口尚真邸で、奥の切妻が曾宮一念アトリエ。下左は、軍令部長時代の谷口尚真。下右は、2010年(平成22)に刊行された武部健一・編『条約派提督海軍大将/谷口尚真』(カゼット出版)。
※掲載している清水多嘉示の作品は、ご子孫である保存・監修/青山敏子様によります。
★おまけ1
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる谷口邸。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同邸。下は、ワシントン軍縮会議(1922年)から主要な装備を陸揚げし長期間にわたり海軍の練習艦となっていた戦艦「比叡」。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)撮影の第二艦隊の主力艦で、戦艦「榛名」からとらえた戦艦「金剛」「比叡」「霧島」とみられる。中は、イギリスを訪問した東郷平八郎と谷口尚真の記念写真(1911年)。下は、1928年(昭和3)10月28日に「条約派」と「艦隊派」の対立が深まる中、海軍幹部らとともに撮影された東郷平八郎と聨合艦隊司令長官・谷口尚真。当時の政治・軍事思想では真っ向から対立した両者だが、谷口は東郷への敬愛を終生もちつづけた。
◆写真下:上は、1932年(昭和7)3月に霞ヶ関離宮で撮影された記念写真。右から海軍次官・左近司政三、軍事参議官・谷口尚真、同・岡田啓介、陸相・荒木貞夫、海軍元帥・東郷平八郎。中は、1933年(昭和8)ごろ制作された清水多嘉示の『風景(仮)』(op285)。左手の2棟に分かれた赤い屋根の屋敷が谷口尚真邸で、奥の切妻が曾宮一念アトリエ。下左は、軍令部長時代の谷口尚真。下右は、2010年(平成22)に刊行された武部健一・編『条約派提督海軍大将/谷口尚真』(カゼット出版)。
※掲載している清水多嘉示の作品は、ご子孫である保存・監修/青山敏子様によります。
★おまけ1
1945年(昭和20)5月17日に、偵察機F13から撮影された下落合東部の街並み。同年4月13日夜半の第1次山手空襲で、曾宮一念や蕗谷虹児のアトリエとともに谷口尚真邸も延焼で焼失しているのが見てとれる。このとき、邸内の書庫(図書室)にあった膨大な蔵書や資料類も灰になった。

★おまけ2
1926年(大正15)の夏、建設前の谷口邸敷地から描かれた佐伯祐三による『セメントの坪(ヘイ)』。

この記事へのコメント
てんてん
落合道人
「超音波動物撃退器」は、防犯にも役立ちそうですね。