山手線に近すぎた上屋敷駅と初代・下落合駅。

上屋敷駅1939モハ1321.jpg
 池袋駅の南西側には、江戸期からつづく「上屋敷(あがりやしき)」という小名が残っていた。江戸期には雑司ヶ谷村上屋敷、1878年(明治11)からは雑司ヶ谷村(字)西谷戸大門原(小名)上屋敷、1889年(明治22)からは高田村(大字)雑司ヶ谷(字)西谷戸大門原(小名)上屋敷、1920年(大正9)からは高田町(大字)雑司ヶ谷(字)西谷戸大門原(小名)上屋敷となった。
 そして、東京35区制が施行され豊島区が成立すると、1932年(昭和7)からは豊島区雑司ヶ谷6丁目(一部は目白町3丁目)、そして現在は豊島区西池袋2丁目(一部は目白3丁目)というややこしい経緯をたどっている。もちろん、1932年(昭和7)までは「高田町上屋敷XXXX番地」、それ以降の敗戦までは「豊島区上屋敷XXXX番地」という住所の宛先でも、基本的に番地には大きな変更がなくほぼそのままだったので、古くから住む家なら郵便物はふつうにとどいていただろう。戦後、西池袋2丁目になってからは配達不能で返送されただろうか。
 なぜ、戦時中まで「豊島区上屋敷XXXX番地」でも郵便物が配達されていたかといえば、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の池袋駅-椎名町駅間に、1945年(昭和20)2月3日まで「上屋敷駅」のネームが残っており、また地元の郵便局員には、雑司ヶ谷6丁目の一部が上屋敷という小名だったことを知悉している人間が、いまだ多く残っていたからだ。
 武蔵野鉄道の上屋敷駅は、1929年(昭和4)5月25日に開設され、16年後の1945年(昭和20)2月3日に営業を停止、1953年(昭和28)には廃止されている。理由は単純で、あまりに山手線の目白駅や池袋駅に近すぎたため、乗降客が少なかったのだ。武蔵野鉄道のほかの駅に比べ、上屋敷駅は半分以下という利用客数だった。たとえば、『豊島区史』(1941年版)を参照すると、1日の乗降客数は1932年(昭和7)が855人、1933年(昭和8)が880人、1934年(昭和9)が961人、1935年(昭和10)が1,167人と、当時のほかの駅が1日に数千人規模の利用客があったにもかかわらず、上屋敷駅の利用客はあまり伸びなかった。
 面白いエピソードも残っている。武蔵野鉄道は当初、駅を設置した地域の小名をそのまま採用して上屋敷駅と名づけ、そう表記もしていたが、多くの人が「かみやしき」と読んでしまったのだろう、のちにわざわざ「上り屋敷駅」と「り」の送り仮名を挿入している。大名の住居である上屋敷と、上り屋敷とではまったく意味が異なるが、小名の成立は以下のような故事にちなんでいる。1971年(昭和46)に豊島区から出版された、『豊島風土記』(区立豊島図書館編)より引用してみよう。
  
 このあたりは将軍家の放鷹の場所にも指定されていたようで、享保二年(一七一七)に、本郷弓町にあった御鷹部屋が雑司谷に移されたことが、「徳川実記」にみえる。そして将軍吉宗はこの狩の折の休憩所として、今の婦人之友社あたりに上り屋敷を設けたのも、この頃のことという。昭和四年より二十年まで、西武線に上り屋敷駅というのがあったのは、それに因んで付けられた駅名である。鼠山という名のおこりは、源頼朝の奥州征伐から帰られた折、物見の兵をここに出した。彼らは夜も寝ないで番をしたので、不寝見と名付けられたという。太田道灌であるという説もある。
  
 「婦人の友社」は婦人之友社で、「西武線」は武蔵野鉄道だが、ここで面白いのが、千代田城の主だった徳川吉宗の上屋敷(幕府抱屋敷)についてだ。吉宗は、中野筋だった落合地域の御留山を中心に、記録によれば都合20回の狩りをしているが、戸田筋の鼠山で狩りをした際、休息した屋敷は側用人の著作によれば「長崎村抱屋敷」だった。この上屋敷は、いまにも朽ち果てそうなほどボロボロで、縁の下からノミの襲撃を受けたと同行した側用人・如鷃舎千伯(筆名)が記録している。
武蔵野鉄道1924デハ100.jpg
上屋敷1921.jpg
上屋敷駅1932.jpg
 婦人之友社界隈にあった雑司ヶ谷村の抱え屋敷も、やはりかなり傷んでいたのではないだろうか。質素倹約で緊縮財政を推進する、あたかも大名行列のような儀礼的な狩りを嫌い、少人数で騎馬による実戦的な巻狩りを好んだ慣例破りで質実剛健な徳川吉宗にしてみれば、抱え屋敷の修繕など真っ先に経費削減の対象だったろう。如鷃舎千伯が著した『江戸櫻』では、鼠山で疾走する馬上から鉄砲を撃つ「上」(吉宗)の姿が活写されている。なお、上(り)屋敷は雑司ヶ谷村や鷹場組合など地元側からの呼称であり、幕府側からは抱(え)屋敷と呼ばれている。
 余談だが、源頼朝が「奥州征伐」の帰途に斥候を出したから「不寝見(ねずみ)」の山は、明らかにおかしいだろう。本拠の鎌倉を目前に、物見を放つ意味が不明だし、留守をあずかる迎えの軍勢も鎌倉から繰りだしていただろう。そのような謂れがあるとすれば、豊島氏と対峙し各地で戦闘を繰り広げていた太田道灌の時代ではないだろうか。
 さて、上屋敷駅にはもうひとつ面白い逸話がある。武蔵野鉄道の利用客で、山手線を利用する人々は上屋敷駅で降りて、目白駅まで歩くのが常態化していたようだ。確かに、上屋敷駅で降り省線・目白駅まで歩いても、ほんの600m足らずなので5~6分もあればたどり着けてしまう。その様子を、1987年(昭和62)に新宿区教育委員会から出版された『地図で見る新宿区の移り変わり/索引編』収録の、中田易直『「落合」の移り変わり』から引用してみよう。
  
 (ダット乗合自動車の路線と) これと並行して私鉄の武蔵野鉄道(西武池袋線)が通っていて、池袋駅から上り屋敷駅、椎名町駅、東長崎駅、江古田駅、練馬駅……となっていた。私どもが市内に出る時には池袋駅まで出ないで、上り屋敷駅で下車して徒歩で省線の目白駅に出て新宿駅方面に向うといったコースが一般に利用されていた。(カッコ内引用者註)
  
 著者は中央大学教授だが、もともと下落合1丁目473番地の浅田知定邸の敷地跡に開発された住宅地に住んでいたが、のちに西落合3丁目へ転居しているので、利用したのは東長崎駅だろう。山手線が近すぎたため池袋駅まで乗ってもらえず、山手線の内回りを利用する乗客たちは、みんな上屋敷駅で降りてしまった様子がうかがえる。また、当初から利用客が少ないため、武蔵野鉄道では早くから事業計画の失敗ととらえていた可能性も高い。1945年(昭和20)の営業停止の理由は「戦時の混乱のため」だが、本音は赤字つづきの駅だったからではないか。
上屋敷駅跡.jpg
武蔵野鉄道時刻表1929.jpg
豊島風土記1971.jpg 写真でみる豊島区50年のあゆみ1982.jpg
 同じような事象が、西武鉄道の山手線からひとつめの駅でも起きている。ホップ・ステップ・ジャンプの「高田馬場駅の三段跳び」記事でも書いたが、下落合氷川明神社の南にあった1927年(昭和2)4月16日開業の西武線の初代・下落合駅は、あまりに山手線の高田馬場駅に近いため、地元住民からの強い要請で、270mほど西へ移動している。初代・下落合駅も、駅を降りてから田島橋で旧・神田上水をわたり、栄通りを斜めに経由して早稲田通りをわたれば、上屋敷駅と同様に省線・高田馬場駅までは600mほどしかなく、あまり意味がなかったからだ。特に下落合(現・中落合/中井含む)の東部住民にしてみれば、1時間に数本の電車をホームで待つよりも、山手線の目白駅か高田馬場駅まで歩いたほうがよほど早かったろう。
 わたしが下落合を歩きはじめた高校時代には、下落合氷川社の周囲にいまだ駅前商店街の名残りがあり、駅前交番こそ聖母坂の下へ移動していたと思うが、八百屋や魚屋、床屋、菓子屋、食堂、蕎麦屋、スナックなどが健在だった。現在は床屋を残し、すべてが閉店して住宅街になってしまった。駅前商店街として繁華になるはずが、初代・下落合駅の開業後わずか3年余で駅自体が引っ越してしまうとは、当時の商店主たちは考えてもいなかったろう。
 下落合駅の現在地への移転について、西への移転誘致運動も含め、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から、少し長いが引用してみよう。
  
 西武電鉄
 (前略) 沿線は所謂武蔵野情緒に富み、殊に村山線は風光明媚の地にて其四季の眺めは確かに近郊第一の勝地であらう。本線は高田馬場-川越間延長四五.七粁、町内に中井及び下落合の両駅を置設す。/中井駅の現今乗降客は一日平均五千余人、売上げは百七十円乃至二百三四十円と云ふ。/下落合駅は本線開通当時は氷川神社際にあつたが、高田馬場駅に近接して殆んど用途にならず、偶々内田助五郎、福室郷次の両氏先達となり石崎輝彦、橋本幾次郎、中村半三郎、中村鍬次郎、福室鏻太郎、北原正幸、西田梅吉、中村銀太郎、宇田川鐵五郎、有泉治一、佐久間五郎、渡邊明の諸氏等現駅地附近に開駅を目論見、之が設置運動に従事する処ありて、昭和五年七月三日果然会社は打算上より旧駅を閉鎖して現在地に移転、業務を執ることゝなつたものである。現今乗降客一日平均二千余名、売上げは八十五六円内外を算す。
  
下落合駅平面図.jpg
落合町市街図(地形図)1927.jpg
下落合駅跡.jpg
 移設運動のメンバーを見ると、上落合の東部住民が誘致の中心だったのがわかる。青柳ヶ原に聖母坂が拓かれ、補助45号線に指定される以前だが、国際聖母病院の建設計画は耳にしていただろう。また、田島橋を経由して早稲田通りへと抜ける予定の放射第7号線=十三間通り(現・新目白通り/当時は頻繁にルート変更が行われていた)の敷設計画も、既知の情報だったにちがいない。上落合の東端に接する現在地に、下落合駅を移設させたかったものとみられる。

◆写真上:1939年(昭和14)撮影の、上屋敷駅に停車する武蔵野鉄道モハ1321形。(提供:炭谷太郎様) 左端に踏み切りが見えるので、中間停車場の北側ホームを写している。
◆写真中上は、1924年(大正13)の武蔵野鉄道が電化されたときに撮影された最初期の車両デハ100形。は、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図にみる小名「上屋敷」。は、1932年(昭和7)に作成された豊島区地図にみる上屋敷駅。
◆写真中下は、上屋敷駅跡の現状。は、1929年(昭和4)現在の武蔵野鉄道時刻表。(提供:炭谷様) 下左は、1971年(昭和46)に出版された『豊島風土記』(豊島区立豊島図書館編)。下右は、1982年(昭和57)出版の『写真でみる豊島区50年のあゆみ』(豊島区)。
◆写真下は、西武鉄道に残る島状停車場と中間停車場の平面図。初代・下落合駅は島状ホームだったが、現在の下落合駅は中間ホーム型。は、1927年(昭和2)作成の「落合町市街図(地形図)」に描かれた氷川明神に南接する初代・下落合駅。は、初代・下落合駅跡の現状。
おまけ1
 東京35区制が施行された、1932年(昭和7)ごろに撮影された空中写真にみる両駅。上は中間駅の上屋敷駅がとらえられているが、その下に見えている屋敷が戸田康保邸(のち徳川義親邸)と思われるのがめずらしい。下は西へ移動した聖母坂下の下落合駅(現在地)が見えるが、下落合氷川社前の旧駅の跡には、島状ホームの痕跡がいまだ顕著に残っている。
上屋敷駅1932頃.jpg
下落合駅1932頃.jpg
おまけ2
 郊外ハイキングのブームで、1929年(昭和4)に西東社から出版された『東京近郊日帰りの手引』。初代・下落合駅が氷川明神前にあったので、薬王院が「北二丁」とあるが、実際には「北西二丁」(220mほど)。気になるのは、御霊社が中井駅より「西二丁」とあるけれど、たっぷり750mほどは歩かなければたどり着けないので、正確には中井駅から「西北西約七丁」が正しいだろう。
東京近郊日帰りの手引1929西東社.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年09月17日 19:56
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    すごい御馳走です。食事をしたばかりですが、また腹が減って
    きました。w
    2025年09月17日 20:32
  • pinkich

    papaさん いつも楽しみに拝見しております。最寄駅の遠近が、まちの発展に与える影響は大きいですね。とくに西落合地域は、大江戸線が開通するまでは最寄駅まで遠く陸の孤島であったとききます。落合南長崎駅もようやく近くにアイテラスや体育館ができて、それなりに発展してきましたが、それ以前は、本当に寂しいかぎりでした。
    2025年09月19日 20:38
  • 落合道人

    pinkichさん、コメントをありがとうございます。
    西落合地域にお住まいのみなさんは、北へ歩いて西武池袋線の東
    長崎駅を利用するか、バスを利用して中野駅か目白駅へ向かうしかなかった
    ので、最寄りのターミナルまで時間がかかり不便だったでしょうね。
    大江戸線ができる前、西落合のお宅を訪ねるときは椎名町駅まで歩き、
    次の東長崎駅で下りますが、それでも駅からかなり歩かないと目的地に
    着かなかった憶えがあります。西落合の北端に住んだ本田宗一郎は、
    もちろん自社のクルマをお持ちだったでしょうから、それほどの不便さ
    は感じなかったかもしれませんが。
    2025年09月19日 22:01

この記事へのトラックバック