
今年は、いつもより夏が早めにきたので、すっかり恒例の怪談アーティクルが出遅れてしまった。拙サイトではずいぶん以前だが、井上円了の哲学堂やその周辺に出没する「幽霊」について書いたことがある。他愛ないウワサ話だったのだけれど、井上円了が創立した東洋大学でも、この「哲学堂の幽霊」が課題になっていることを最近知った。
以前にこちらでご紹介していたのは、落合地域でもウワサになっていた、哲学堂公園の入口(哲理門)近く、あるいは近接する公衆電話ボックスに表れる女性の幽霊だった。電話ボックスは、携帯電話の普及ですでに撤去されていそうなので、いまでは哲学堂公園内のトイレにしようか売店にしようか迷って、彼女は文字どおりさまよい歩いているのかもしれない。
前世紀末に東洋大学で記録された哲学堂の怪談は、「幽霊門」と「地獄門」のあたりで深夜、男女の合唱する声が聞こえるというものだ。その合唱をよく聴いてみると、どうやら念仏を唱えているような抑揚で、一家心中をした近くの住民の幽霊ではないか?……という怪談話のようだ。「幽霊門」とは哲理門(妖怪門)のことだろうが、「地獄門」とはどの建物を指しているのだろうか。いずれにしても、哲学堂の哲理門をくぐってしばらく歩いた道沿いということらしい。念仏が、男女の二部合唱だったかどうかはまでは不明だが、同大学の紀要「Satya」(東洋大学井上円了記念センター)に収録されるぐらいだから、以前からかなりポピュラーな怪談なのだろう。
1995年(平成7)の「Satya」4月号に収録の、一柳廣孝『哲学堂の幽霊』から引用してみよう。
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<怪談を聞いて> まず、円了は「妖怪」(合理的説明を拒否するような、自然界の不可思議な現象)的なるものをすべて否定したのではなかったか。だとすれば、哲学堂の幽霊は、円了に対して真っ向から戦いを挑む、勇気あるチャレンジャーではないのか。また、こうも考えられる。哲学堂は、円了の哲学体系を象徴的に組織化した公園である。ならば、その公園に出没する幽霊は、場合によっては「哲学堂」と同じく、円了の思想の象徴になろうと日夜(?)努力を重ねている存在とも解釈できるのではないか。(< >内引用者註)
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哲学堂に出る幽霊が、円了の死後100年近くたってから「戦いを挑」んだり「努力」をするのはヘンな話だが、戦いを挑む相手=井上円了も幽霊になっているという前提があるとすれば、すでに幽霊側が論戦を制している(男女合唱しながらいわず語らず論破している)のであり、円了が定義した「真怪」は稀有な現象どころか、野球音が響く東京の哲学堂公園内にも、日常的に存在するありふれた現象であると、円了も大学も認めざるをえなくなるだろう。w
さて、音楽や楽器に関連する怪談が多いことは、よくご存じだろう。学校の音楽室と聞いただけで、ベートーヴェンが瞬きしたとか、誰もいないのにピアノが鳴ったとかいう話は、どこの学校でもありがちな怪談だ。たとえば、松谷みよ子が全国に分布する古今東西の「音楽室怪談」を記録した、1987年(昭和62)に立風書房から出版された『現代民話考』第2巻より引用してみよう。
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青森県青森師範学校。音楽の先生の松本先生は、深夜人が寝静まったころ、学校の講堂にろうそくをともしてピアノを弾いた。ある朝、結核だった松本先生は、ピアノの前で喀血して死んでいた。それ以来、当直の小使いの爺さんが見回りすると、誰もいない講堂からピアノの音がするようになった。ピアノは講堂から楽器練習室に移されたが、今度はこの楽器練習室からピアノが聞こえる。真夜中、音楽教室へはいると、壁にかけられた松本先生の肖像画がにやりと笑って、口からたらたらと赤い血を流すのだという。師範の七不思議の一つである。(青森県児童文学研究会)
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以前にこちらでご紹介していたのは、落合地域でもウワサになっていた、哲学堂公園の入口(哲理門)近く、あるいは近接する公衆電話ボックスに表れる女性の幽霊だった。電話ボックスは、携帯電話の普及ですでに撤去されていそうなので、いまでは哲学堂公園内のトイレにしようか売店にしようか迷って、彼女は文字どおりさまよい歩いているのかもしれない。
前世紀末に東洋大学で記録された哲学堂の怪談は、「幽霊門」と「地獄門」のあたりで深夜、男女の合唱する声が聞こえるというものだ。その合唱をよく聴いてみると、どうやら念仏を唱えているような抑揚で、一家心中をした近くの住民の幽霊ではないか?……という怪談話のようだ。「幽霊門」とは哲理門(妖怪門)のことだろうが、「地獄門」とはどの建物を指しているのだろうか。いずれにしても、哲学堂の哲理門をくぐってしばらく歩いた道沿いということらしい。念仏が、男女の二部合唱だったかどうかはまでは不明だが、同大学の紀要「Satya」(東洋大学井上円了記念センター)に収録されるぐらいだから、以前からかなりポピュラーな怪談なのだろう。
1995年(平成7)の「Satya」4月号に収録の、一柳廣孝『哲学堂の幽霊』から引用してみよう。
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<怪談を聞いて> まず、円了は「妖怪」(合理的説明を拒否するような、自然界の不可思議な現象)的なるものをすべて否定したのではなかったか。だとすれば、哲学堂の幽霊は、円了に対して真っ向から戦いを挑む、勇気あるチャレンジャーではないのか。また、こうも考えられる。哲学堂は、円了の哲学体系を象徴的に組織化した公園である。ならば、その公園に出没する幽霊は、場合によっては「哲学堂」と同じく、円了の思想の象徴になろうと日夜(?)努力を重ねている存在とも解釈できるのではないか。(< >内引用者註)
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哲学堂に出る幽霊が、円了の死後100年近くたってから「戦いを挑」んだり「努力」をするのはヘンな話だが、戦いを挑む相手=井上円了も幽霊になっているという前提があるとすれば、すでに幽霊側が論戦を制している(男女合唱しながらいわず語らず論破している)のであり、円了が定義した「真怪」は稀有な現象どころか、野球音が響く東京の哲学堂公園内にも、日常的に存在するありふれた現象であると、円了も大学も認めざるをえなくなるだろう。w
さて、音楽や楽器に関連する怪談が多いことは、よくご存じだろう。学校の音楽室と聞いただけで、ベートーヴェンが瞬きしたとか、誰もいないのにピアノが鳴ったとかいう話は、どこの学校でもありがちな怪談だ。たとえば、松谷みよ子が全国に分布する古今東西の「音楽室怪談」を記録した、1987年(昭和62)に立風書房から出版された『現代民話考』第2巻より引用してみよう。
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青森県青森師範学校。音楽の先生の松本先生は、深夜人が寝静まったころ、学校の講堂にろうそくをともしてピアノを弾いた。ある朝、結核だった松本先生は、ピアノの前で喀血して死んでいた。それ以来、当直の小使いの爺さんが見回りすると、誰もいない講堂からピアノの音がするようになった。ピアノは講堂から楽器練習室に移されたが、今度はこの楽器練習室からピアノが聞こえる。真夜中、音楽教室へはいると、壁にかけられた松本先生の肖像画がにやりと笑って、口からたらたらと赤い血を流すのだという。師範の七不思議の一つである。(青森県児童文学研究会)
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音楽室というとたいていピアノだが、学校を離れると、巷にはさまざまな楽器の怪談が眠っている。江戸東京では三味がもっとも多く、化け猫が弾く楽器はたいてい三味と相場が決まっている。また、新橋演舞場の誰もいないはずの楽屋で、真夜中になると亡くなったばかりの名手が細竿をつまびく音を聞いたとか、やはり死んだはずの新内の門付け(流し)が、深夜の路上で三味を弾いて唄っていたとか、座敷をつとめる芸者衆の背後で、死んだはずの姐さんが細竿を弾いていたとか、この手の怪談は江戸期からエンエンとつづいている。
また、あまり目立たないが琴(箏)の怪談というのもある。そこで、ここは日本橋の琴にまつわる怪談をご紹介したい。この話を記録しているのは、牛込の早稲田変電所近くの「事故物件」に住む住民の話を採取した、怪談好きな礒萍水(いそひょうすい)で、以前に「お化け大明神」として拙ブログでもご紹介している。今度は、わたしの故郷である日本橋が舞台だ。
時代は、おそらく明治末か大正のころだろう。「自分の親友の野守新一郎の事実談」としているので、直接本人に取材しているとみられる。野守の妹が12歳になったので、三味や琴を習わせようとしていた。それには、妹専用の琴が一面入用なので、日本橋仲通りにある古道具屋をのぞいて歩いた。すると、45円と少々高価だが、造りのよさそうな高級琴を見つけたので帰って家族に相談すると、母親が改めて古道具屋を訪ねることになった。
母親の見立ては、生田流の琴で総体が黒のツヤ消し、金の高蒔絵がほどこされ、模様は斧に菊の花をあしらった「よき・こと・きく」を表現したもので、柱はすべて象牙製と、大名のお姫(ひい)様が嫁入り道具にするような出来だった。そこで、母親は娘のために無理をして、この琴を購入することに決めた。45円という値段は、父親の1ヶ月分の給料とほぼ同額だった。
こうして、野守家にやってきた高級琴なのだが、異変はすぐに起きた。兄の野守新一郎が夜遅く帰宅し、琴の置かれた床の間のある部屋で電気を消して就寝したときのこと……。1919年(大正8)に井上盛進堂から出版された、礒萍水『最も物凄き怪談新百物語』より引用してみよう。
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その真暗の中である、床の方がぼーつと明るい、いや床の一円が明るいのではない、琴の在る辺り、いや、琴の上ばかりが明るいのに気がついた、実に明るいのは琴の上ばかりなのに気がついた。/野守は由来、暢気至極の男であつたから、これは大方、自分の眼の什応(どう)かしたのだらうと思つて、手で能く撫でゝ、再び試験のつもりで見やると、これは不思議、眼の迷ひではなかつた、琴の上はぼーツと明るい、十三弦の柱のくばりも其儘(そのまま)、糸の細いのまでが数へられる、そして直ぐ右に隣りして居る掛物は全然見ゑず。(カッコ内引用者註)
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また、あまり目立たないが琴(箏)の怪談というのもある。そこで、ここは日本橋の琴にまつわる怪談をご紹介したい。この話を記録しているのは、牛込の早稲田変電所近くの「事故物件」に住む住民の話を採取した、怪談好きな礒萍水(いそひょうすい)で、以前に「お化け大明神」として拙ブログでもご紹介している。今度は、わたしの故郷である日本橋が舞台だ。
時代は、おそらく明治末か大正のころだろう。「自分の親友の野守新一郎の事実談」としているので、直接本人に取材しているとみられる。野守の妹が12歳になったので、三味や琴を習わせようとしていた。それには、妹専用の琴が一面入用なので、日本橋仲通りにある古道具屋をのぞいて歩いた。すると、45円と少々高価だが、造りのよさそうな高級琴を見つけたので帰って家族に相談すると、母親が改めて古道具屋を訪ねることになった。
母親の見立ては、生田流の琴で総体が黒のツヤ消し、金の高蒔絵がほどこされ、模様は斧に菊の花をあしらった「よき・こと・きく」を表現したもので、柱はすべて象牙製と、大名のお姫(ひい)様が嫁入り道具にするような出来だった。そこで、母親は娘のために無理をして、この琴を購入することに決めた。45円という値段は、父親の1ヶ月分の給料とほぼ同額だった。
こうして、野守家にやってきた高級琴なのだが、異変はすぐに起きた。兄の野守新一郎が夜遅く帰宅し、琴の置かれた床の間のある部屋で電気を消して就寝したときのこと……。1919年(大正8)に井上盛進堂から出版された、礒萍水『最も物凄き怪談新百物語』より引用してみよう。
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その真暗の中である、床の方がぼーつと明るい、いや床の一円が明るいのではない、琴の在る辺り、いや、琴の上ばかりが明るいのに気がついた、実に明るいのは琴の上ばかりなのに気がついた。/野守は由来、暢気至極の男であつたから、これは大方、自分の眼の什応(どう)かしたのだらうと思つて、手で能く撫でゝ、再び試験のつもりで見やると、これは不思議、眼の迷ひではなかつた、琴の上はぼーツと明るい、十三弦の柱のくばりも其儘(そのまま)、糸の細いのまでが数へられる、そして直ぐ右に隣りして居る掛物は全然見ゑず。(カッコ内引用者註)
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この現象を家族に話すと、「そんなバカな」と両親が琴の前で寝てみたが、やはり同じ現象が起きて父母ともにすっかり怖気づいてしまった。琴のボーッとした光は、どこか別の部屋の灯火が漏れているのでもなく、月光の反射でもなく、琴自体が青白く発光しているのだと気がついた。気味が悪くなり、仲通りの古道具屋へ返しにいくと買い値より5円安い40円で引きとってくれたが、最後に「これで三度返されますよ」といわれ、改めてゾッとしたという。
なぜ琴が深夜に青白く光っていたのか、その因果関係はまったく不明で、また因果関係を追及してもいないので、なんらかの謂れがあるのだろうが、妙に納得してしまうような原因やオチをつけないところに、この怪談のリアリティを強く感じてしまう。琴を愛用したお姫(ひい)様=華族の娘が若くして死んだとか、死ぬ間際の箏職人が精魂こめてこしらえたものだとか、因果を説明されると「やはりそうだったんだ」と落ち着きはするが、不思議な現象は不思議なまま投げだされたほうが、より現実味を帯びた怪談のように感じるようだ。
そういえば、同じ新宿区内で落合地域の南西に位置する神楽坂には、「さくらさくら」変奏曲や「春の海」で有名な琴(箏)の宮城道雄が住んでいたけれど、児童向けの曲を含めたくさんの箏曲を残してはいるが、残念ながらお化けや幽霊の曲はないようだ。
その神楽坂には、若いころは座敷に出ていてのちに歌手へ転向し、『ゲイシャ・ワルツ』が大ヒットした神楽坂はん子が、戦後にこんな怪談を残している。幽霊の存在などまったく信じていなかった神楽坂はん子だが、まだレコード歌手になる以前、芸者をしていた時分に知りあいの元芸者が、喘息をこじらせて急死した。ところが、その翌日にお座敷へ向かう途中で、その元芸者の姐さんに出会っている。1953年(昭和28)の東京新聞に掲載された記事より、少し引用してみよう。
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あくる晩の八時ごろ、私がお座敷にゆく途中でした。いつも見上げたりしないのに、その日に限って何げなく見上げると、黒塀の前に白い着物で死んだはずのあの人が、すうっと立っているのです。もともとノンビリした方で、あんまりこわがったりしないのに、この時ばかりはびっくりして、うわーっと大声をあげ、お座敷に行くのも忘れて、家へ飛んで帰ってみんなに話すと「今しがた納棺したところだから、きっと魂が出たのよ」といわれてぞーっ。早速お経をあげるやら大騒ぎでした。
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なぜ琴が深夜に青白く光っていたのか、その因果関係はまったく不明で、また因果関係を追及してもいないので、なんらかの謂れがあるのだろうが、妙に納得してしまうような原因やオチをつけないところに、この怪談のリアリティを強く感じてしまう。琴を愛用したお姫(ひい)様=華族の娘が若くして死んだとか、死ぬ間際の箏職人が精魂こめてこしらえたものだとか、因果を説明されると「やはりそうだったんだ」と落ち着きはするが、不思議な現象は不思議なまま投げだされたほうが、より現実味を帯びた怪談のように感じるようだ。
そういえば、同じ新宿区内で落合地域の南西に位置する神楽坂には、「さくらさくら」変奏曲や「春の海」で有名な琴(箏)の宮城道雄が住んでいたけれど、児童向けの曲を含めたくさんの箏曲を残してはいるが、残念ながらお化けや幽霊の曲はないようだ。
その神楽坂には、若いころは座敷に出ていてのちに歌手へ転向し、『ゲイシャ・ワルツ』が大ヒットした神楽坂はん子が、戦後にこんな怪談を残している。幽霊の存在などまったく信じていなかった神楽坂はん子だが、まだレコード歌手になる以前、芸者をしていた時分に知りあいの元芸者が、喘息をこじらせて急死した。ところが、その翌日にお座敷へ向かう途中で、その元芸者の姐さんに出会っている。1953年(昭和28)の東京新聞に掲載された記事より、少し引用してみよう。
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あくる晩の八時ごろ、私がお座敷にゆく途中でした。いつも見上げたりしないのに、その日に限って何げなく見上げると、黒塀の前に白い着物で死んだはずのあの人が、すうっと立っているのです。もともとノンビリした方で、あんまりこわがったりしないのに、この時ばかりはびっくりして、うわーっと大声をあげ、お座敷に行くのも忘れて、家へ飛んで帰ってみんなに話すと「今しがた納棺したところだから、きっと魂が出たのよ」といわれてぞーっ。早速お経をあげるやら大騒ぎでした。
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「見上げると」と書いているので、神楽坂はん子は芸者新道(じんみち)あたりを上りながら、呼ばれた料亭をめざしていたのだろう。その後、彼女は作詞・西條八十で作曲・古賀政男のお化けをテーマにした『ヒュードロ節』をレコードに吹きこむが、その際にも自宅の鏡に死んだ姐さんが出現している。もっとも、二度めは『ヒュードロ節』の発売にあわせた、話題づくりのプロモーション臭がするけれど、神楽坂の坂道で出会った一度めの怪談は、かなりリアルな感じがするのだ。
◆写真上:1860年(万延元)に2代目・河竹新七(のち河竹黙阿弥)が書いた『加賀見山再岩藤』(かがみやま ごにちのいわふじ)で、「骨寄せ岩藤」を演じるのは4代目・尾上松緑。
◆写真中上:上は、明治末ごろ撮影された哲学堂の哲理門。中は、その哲理門で出迎える幽霊と天狗。下は、江戸期の絵巻に描かれた細竿を弾く化け猫。
◆写真中下:上は、箏曲のおさらい風景。中は、会津材に象牙の柱を用いた現代の高級琴。下は、戦後1952年(昭和27)ごろに撮影された歩道のない神楽坂通り。
◆写真下:上は、『ヒュードロ節』を唄った神楽坂はん子。中は、1953年(昭和28)に撮影された左から西條八十(作詞)、古賀政男(作曲) 、神楽坂はん子。念のために、『ヒュードロ節』の成功と祟り封じで四谷の於岩稲荷を参詣したときの様子。下は、神楽坂の芸者新道(じんみち)の現状。
◆写真中上:上は、明治末ごろ撮影された哲学堂の哲理門。中は、その哲理門で出迎える幽霊と天狗。下は、江戸期の絵巻に描かれた細竿を弾く化け猫。
◆写真中下:上は、箏曲のおさらい風景。中は、会津材に象牙の柱を用いた現代の高級琴。下は、戦後1952年(昭和27)ごろに撮影された歩道のない神楽坂通り。
◆写真下:上は、『ヒュードロ節』を唄った神楽坂はん子。中は、1953年(昭和28)に撮影された左から西條八十(作詞)、古賀政男(作曲) 、神楽坂はん子。念のために、『ヒュードロ節』の成功と祟り封じで四谷の於岩稲荷を参詣したときの様子。下は、神楽坂の芸者新道(じんみち)の現状。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
子どものころ、ソテツとかユッカランは住宅の庭やグリーンベルトで
よく見かけていたものですが、最近はめずらしくなりました。