
上落合186番地に住んだ村山知義は、優れたAD(アートディレクター)だったと思う。こんなことを書くと、グラフィックデザイン業界からは「そんなことあるもんか!」と多少は反発され、また妙に整理されたお考えをお持ちの左翼(特に美術関係)の方からは、「彼を商業美術といっしょにするな、矮小化してる!」などとお叱りを受けかねないのだけれど、わたしには村山知義が現代のグラフィックデザインに与えた影響は決して少なくないように思える。
さっそくの余談で恐縮だが、AD(エーディー)というと「アシスタントディレクター」だと思っている方が多く、話が通じないのに改めて驚かされる。楽屋落ちネタが多い、昨今のTVの見すぎではないだろうか? ADは、デザイナーたちを束ねデザイン全体を統括するボス、すなわちデザイナーの親分のことだ。システム関連でいえば、SEたちを束ねるPM(プロジェクトマネージャー)と同等の位置にあたる。肩書が「AD」の名刺をわたされて、「な~んだ、アシスタントか」などという反応をしたら、とんだ赤っ恥をかくことになるのでご注意を。グラフィックデザインの会社でいえば、老若男女にかかわらず役員クラスだと思えばまちがいない。
村山知義のことを画家や絵本作家、舞台美術家、装丁家、漫画家にとどまらず優れたグラフィックデザイナーだと思っているのは、わたしだけではない。『村山知義グラフィックの仕事』(本の泉社/2001年)という画集も出ているが、今回は村山知義のことを優れたデザイナーなどといえば、「??」と怪訝な顔をされたであろう、少し前の書籍をご紹介したい。1994年(平成)にミニプランニングから出版された中井幸一『クリエイティブの潮流』より、少し長めだが引用してみよう。
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私はかねがね、近代デザイン史の中で、時代の流れを変えた重要な作家として、まず杉浦非水、次いで村山知義が挙げられると考えているが、この説には異論を唱える方が多いだろう。杉浦は別にして、村山はこの分野で作品らしい作品を残していないし、彼の主な舞台は舞台演出や舞台装置、それに純美術の世界だったからだ。しかし私が敢えて彼を挙げる第一の理由は、彼のあの強烈な破壊のバイタリティがなければ、保守的な風土性の強かった当時のデザイン界がどれだけ現代に向かって脱皮できたか疑問に思うからである。当時のデザイン界は、時代の要求に応えて「七人社」、「商業美術家協会」、「実用版画美術協会」という三派が生まれたばかりであったが、実体は師弟関係やグループ内の序列が厳しく存在していて、古い閉鎖的な世界であった。彼はそういう世界につきまとっている属性とか概念とか、社会性をどしどし削ぎ取っていった。
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村山知義とともに、西落合1丁目306番地(のち303番地)の柳瀬正夢にも多少それを感じるのだが、柳瀬の場合は漫画界に与えた影響のほうがむしろ大だろうか。
絵画に舞台に、絵本に装丁と大忙しの村山知義だが、1929年(昭和4)の夏に長崎町大和田1983番地にあった造形美術研究所(のちプロレタリア美術研究所)へ、夏季講習会の講師として美術を教えに通っている。教えていたのは絵画やグラフィックではなく、舞台美術についてだった。ここでまた余談というか訂正なのだが、以前、造形美術研究所(プロレタリア美術研究所)の跡地として現状写真を掲載していたが、1本北側の路上であることが判明した。つつしんでお詫びするとともに、同研究所跡地の現状写真を改めて当記事に掲載している。
村山知義が造形美術研究所へ通っていたのは、すでに下落合735番地のアトリエからではなく、上落合186番地に竣工した新たなアトリエからなので、少なくとも1929年(昭和4)8月には、彼は下落合から上落合へもどっていたのがわかる。以下、同研究所へ通勤する様子を、1930年(昭和5)にアトリエ社から出版された、村山知義『プロレタリア美術のために』から引用してみよう。



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つまりその研究所といふのは、目白の奥の、長崎村の日の出湯といふ風呂屋の手前にあるといふことになるのである。で私は上落合の自分の家から歩いて行つて四十分といふ見当をつけて、傾きかけてはゐるが充分に暑い日に照らされながら出掛けた。文化村を通りぬけて、たつた十八分でその日の出湯の前に出た。所でいやしくも美術研究所の男の描いてくれた地図に似気なく、手前隣りは医者の家なので、三四分時間をつぶした上、裏手に発見した。――プロレタリア美術研究所。
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ここで、同研究所についてご存じの方なら、記述がおかしいことに気づかれるだろう。1929年(昭和4)の夏時点で、同研究所は造形美術研究所だったはずであり、プロレタリア美術研究所と改称されるのは、翌1930年(昭和5)の6月だったはずだ。1967年(昭和42)に造形社から出版された、岡本唐貴/松山文雄・編著『日本プロレタリア美術史』にそうあるし、念のために調べてみた『豊島区史』(1982年版)にもそのように記述されている。
村山知義により、上記の文章が書かれたのは文末に残されたタイムスタンプによれば、夏季講習会(8月)が終わって2ヶ月後の1929年(昭和4)10月のことであり、このときはいまだ名称が造形美術研究所だったはずだ。なぜ、このような研究所名の齟齬が生じているのだろうか? ひとつ想定できるのは、教育機関として公式に登録している名称は「造形美術研究所」のままだったが、経営者や講師たち、あるいは学生たちなどの仲間うちでは、すでに「プロレタリア美術研究所」と通称されていた可能性があるということだ。1930年(昭和5)6月の改称とされているのは、役所への登録名を正式に変更した時点でのタイムスタンプではないだろうか。
上記の文章から、村山知義が同研究所へと向かう道筋がおおよそ見えてくる。上落合186番地の自邸を出発した彼は、そのまままっすぐ西へ道筋をたどったと思われる。下落合側へ向かうには、どこかで妙正寺川をわたらなければならず、もっとも近い道筋の橋は寺斉橋をわたって北上するコースだったはずだ。その手前には、大正橋が架かっていたが、上落合の中を歩いていくには、当時はかえって道筋が遠まわりになったと思われる。寺斉橋をわたり、中井駅を左手に見ながら踏切を越えると、下落合の目白崖線が目の前に迫ってくる。
中ノ道(現・中井通り)を少し東へ歩き、村山知義は傾斜が比較的ゆるい振り子坂を上りはじめただろう。同坂の途中からは、目白文化村の第二文化村エリアに入る。坂上に出たところで少し西へ歩き、同文化村のメインストリートである三間道路に入るとそのまま北上して、第一文化村へと入ったはずだ。周囲は上落合の風景とは異なり、オシャレな西洋館が建ちならぶ街並みだったろう。そのまま弁天池や弁天社のある、小さな前谷戸の谷間を下っては上り、彼は第二府営住宅の中を歩いて目白通りへと出た。
椎名町大通りとも呼ばれたこのあたりの目白通りを横断し、もうひとつ目白バス通り(長崎バス通り)と呼ばれていた通りもわたって、長崎町(文中には長崎村とあるがすでに町制が敷かれていた)大和田の街へと入った。彼は大きな目印となる日ノ出湯の煙突をめざしながら、さらに道筋を北へと歩いていった。すると、銭湯の隣りの空き地にポツンと建てられた粗末な建物が目についたはずだ。おそらく以上のコースが、1929年(昭和4)の時点における上落合の村山知義アトリエから長崎町大和田の造形美術研究所へと通う、最短の道のりだったろう。
つまりその研究所といふのは、目白の奥の、長崎村の日の出湯といふ風呂屋の手前にあるといふことになるのである。で私は上落合の自分の家から歩いて行つて四十分といふ見当をつけて、傾きかけてはゐるが充分に暑い日に照らされながら出掛けた。文化村を通りぬけて、たつた十八分でその日の出湯の前に出た。所でいやしくも美術研究所の男の描いてくれた地図に似気なく、手前隣りは医者の家なので、三四分時間をつぶした上、裏手に発見した。――プロレタリア美術研究所。
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ここで、同研究所についてご存じの方なら、記述がおかしいことに気づかれるだろう。1929年(昭和4)の夏時点で、同研究所は造形美術研究所だったはずであり、プロレタリア美術研究所と改称されるのは、翌1930年(昭和5)の6月だったはずだ。1967年(昭和42)に造形社から出版された、岡本唐貴/松山文雄・編著『日本プロレタリア美術史』にそうあるし、念のために調べてみた『豊島区史』(1982年版)にもそのように記述されている。
村山知義により、上記の文章が書かれたのは文末に残されたタイムスタンプによれば、夏季講習会(8月)が終わって2ヶ月後の1929年(昭和4)10月のことであり、このときはいまだ名称が造形美術研究所だったはずだ。なぜ、このような研究所名の齟齬が生じているのだろうか? ひとつ想定できるのは、教育機関として公式に登録している名称は「造形美術研究所」のままだったが、経営者や講師たち、あるいは学生たちなどの仲間うちでは、すでに「プロレタリア美術研究所」と通称されていた可能性があるということだ。1930年(昭和5)6月の改称とされているのは、役所への登録名を正式に変更した時点でのタイムスタンプではないだろうか。
上記の文章から、村山知義が同研究所へと向かう道筋がおおよそ見えてくる。上落合186番地の自邸を出発した彼は、そのまままっすぐ西へ道筋をたどったと思われる。下落合側へ向かうには、どこかで妙正寺川をわたらなければならず、もっとも近い道筋の橋は寺斉橋をわたって北上するコースだったはずだ。その手前には、大正橋が架かっていたが、上落合の中を歩いていくには、当時はかえって道筋が遠まわりになったと思われる。寺斉橋をわたり、中井駅を左手に見ながら踏切を越えると、下落合の目白崖線が目の前に迫ってくる。
中ノ道(現・中井通り)を少し東へ歩き、村山知義は傾斜が比較的ゆるい振り子坂を上りはじめただろう。同坂の途中からは、目白文化村の第二文化村エリアに入る。坂上に出たところで少し西へ歩き、同文化村のメインストリートである三間道路に入るとそのまま北上して、第一文化村へと入ったはずだ。周囲は上落合の風景とは異なり、オシャレな西洋館が建ちならぶ街並みだったろう。そのまま弁天池や弁天社のある、小さな前谷戸の谷間を下っては上り、彼は第二府営住宅の中を歩いて目白通りへと出た。
椎名町大通りとも呼ばれたこのあたりの目白通りを横断し、もうひとつ目白バス通り(長崎バス通り)と呼ばれていた通りもわたって、長崎町(文中には長崎村とあるがすでに町制が敷かれていた)大和田の街へと入った。彼は大きな目印となる日ノ出湯の煙突をめざしながら、さらに道筋を北へと歩いていった。すると、銭湯の隣りの空き地にポツンと建てられた粗末な建物が目についたはずだ。おそらく以上のコースが、1929年(昭和4)の時点における上落合の村山知義アトリエから長崎町大和田の造形美術研究所へと通う、最短の道のりだったろう。



さて、当時の造形美術研究所(プロレタリア美術研究所)の内部を、村山知義の目を通して観察した様子も記録されている。同書より、つづけて引用してみよう。
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這入つて行くと、取つつきの事務所―四畳半―で矢部や岡本がサルマタ一つで研究所ニユースをプリントしてゐた。(中略) 玄関、事務所、台所を除いて、大きな部屋が二つある。一つは殊に大きくて三間に四間程ある。流石安ぶしんで、板の間は歩くとフカフカする。これでは一寸左翼劇場の稽古には使へない。ほかに中二階があつて物置になつてゐる。/さて私は今、プロレタリア美術夏期(ママ:夏季)講習会で舞台美術について一時間ばかりしやべるべくやつて来たのである。
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1929年(昭和4)の夏季講習で、講師を務めたのは蔵原惟人、岡本唐貴、永田一脩、須山計一たちだった。学生は30人余だったが、そのうちいわゆる組合運動などの労働者(おそらく組合の広報宣伝担当)はわずか5名にすぎなかったという。生徒たちが集まるまで、村山知義は研究所の壁に架けられた絵画やポスター類などの作品を眺めている。
それら作品への村山知義の批評は、非常に手厳しく容赦ない。同書よりつづけて引用しよう。
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これらの昔のポスターに於ける技術の拙劣さは誠に戦慄的である。きたなく、拙く、「戦闘的に」デツサンの崩れたのが塗りたくつてある。(中略) この事はこの研究所の壁に掛けてある旧作の油絵についても当て嵌る。(中略) そしてどれもこれも同一の手から出たとしか思はれない単調さである。(中略) それがマシコフ張りのボツボツした荒い筆致で、にごり、きたなく、崩れてゐる。
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上記のような文章を読むにつけ、村山知義は左翼活動家であるよりもはるか手前で、画家でありグラフィック・デザイナーであり、美術家だったのだと感じてしまう。彼の目には、同研究所の壁に架けられた黒澤明の300号油絵など、「ヘッタクソ!」としか思えなかったのかもしれない。
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這入つて行くと、取つつきの事務所―四畳半―で矢部や岡本がサルマタ一つで研究所ニユースをプリントしてゐた。(中略) 玄関、事務所、台所を除いて、大きな部屋が二つある。一つは殊に大きくて三間に四間程ある。流石安ぶしんで、板の間は歩くとフカフカする。これでは一寸左翼劇場の稽古には使へない。ほかに中二階があつて物置になつてゐる。/さて私は今、プロレタリア美術夏期(ママ:夏季)講習会で舞台美術について一時間ばかりしやべるべくやつて来たのである。
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1929年(昭和4)の夏季講習で、講師を務めたのは蔵原惟人、岡本唐貴、永田一脩、須山計一たちだった。学生は30人余だったが、そのうちいわゆる組合運動などの労働者(おそらく組合の広報宣伝担当)はわずか5名にすぎなかったという。生徒たちが集まるまで、村山知義は研究所の壁に架けられた絵画やポスター類などの作品を眺めている。
それら作品への村山知義の批評は、非常に手厳しく容赦ない。同書よりつづけて引用しよう。
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これらの昔のポスターに於ける技術の拙劣さは誠に戦慄的である。きたなく、拙く、「戦闘的に」デツサンの崩れたのが塗りたくつてある。(中略) この事はこの研究所の壁に掛けてある旧作の油絵についても当て嵌る。(中略) そしてどれもこれも同一の手から出たとしか思はれない単調さである。(中略) それがマシコフ張りのボツボツした荒い筆致で、にごり、きたなく、崩れてゐる。
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上記のような文章を読むにつけ、村山知義は左翼活動家であるよりもはるか手前で、画家でありグラフィック・デザイナーであり、美術家だったのだと感じてしまう。彼の目には、同研究所の壁に架けられた黒澤明の300号油絵など、「ヘッタクソ!」としか思えなかったのかもしれない。

舞台美術の講義が終わったあと、村山知義は帰らずしばらく研究所に残り、矢部友衛が担当する実技(人体デッサン)の講義を引きつづき見学している。「窓の外では日の出湯の桶の音が高く朗かに響いている。時間が遅くなるに従つてその音がかまびすしくなる」と、数多くの労働者たちがプロレタリア美術研究所に隣接する日ノ出湯で、真夏の1日の労働による汗を流す音を聞いている。
◆写真上:長崎町大和田1983番地(現・南長崎2丁目)のプロレタリア美術研究所で、背後の煙突は銭湯「日ノ出湯」。同研究所は特高と憲兵隊による弾圧をうけたが、東京プロレタリア美術学校に改称された1933年(昭和8)には憲兵隊により建物ごと破壊された。
◆写真中上:上は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる同美術研究所。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる東京プロレタリア美術学校跡で、破壊された建物の跡らしい影が見える。下は、2001年(平成13)出版の村山知義『グラフィックの仕事』(本の泉社)。
◆写真中下:上は、1962年(昭和37)制作の村山知義『自画像』。中は、プロレタリア美術研究所跡の現状。下左は、1930年(昭和5)出版の村山知義『プロレタリア美術のために』(アトリエ社)。下右は、1991年(平成3)出版の中井幸一『日本広告表現技術史』(玄光社)。
◆写真下:上は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図で想定する村山知義の同研究所への通勤ルート。中・下は、同研究所跡の周辺に残る戦災をまぬがれた戦前とみられる住宅。(2012年撮影)
◆写真中上:上は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる同美術研究所。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる東京プロレタリア美術学校跡で、破壊された建物の跡らしい影が見える。下は、2001年(平成13)出版の村山知義『グラフィックの仕事』(本の泉社)。
◆写真中下:上は、1962年(昭和37)制作の村山知義『自画像』。中は、プロレタリア美術研究所跡の現状。下左は、1930年(昭和5)出版の村山知義『プロレタリア美術のために』(アトリエ社)。下右は、1991年(平成3)出版の中井幸一『日本広告表現技術史』(玄光社)。
◆写真下:上は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図で想定する村山知義の同研究所への通勤ルート。中・下は、同研究所跡の周辺に残る戦災をまぬがれた戦前とみられる住宅。(2012年撮影)
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
なかなか完成レポートが上がらないと思ったら、作り直しをされてたんですね。