
毎年、大晦日になると下落合(現・中落合/中井含む)の東部一帯には、薬王院の除夜の鐘の音(ね)が響く。わたしは、この鐘の音を聞きながら静かに年を越すか、元旦の料理をこしらえながら味見をするのが、ここ30年ほどの習慣になっている。だが、この梵鐘の響きは戦後、ずいぶん長いこと撞かれずに途切れていた。戦時中の勅令(天皇の命令)による「金属供出」で、全国各地にある寺院の梵鐘が兵器生産の素材集めを理由に供出させられ、その多くが溶かされて戦後になっても寺にはもどってこなかった。
金属供出は、1941年(昭和16)の「金属類回収令」によって実施され、日本全国をはじめ当時は植民地だった朝鮮や台湾などでも実施されている。また、翌1942年(昭和17)には強制譲渡命令、すなわち有無をいわさず強制的な没収命令が公布され、寺々の梵鐘や教会の鐘に限らず、各地の銅像やマンホールの蓋、鍋釜、仏壇や神棚の金属類、はては子どものオモチャ(ブリキ玩具やベーゴマなど)にいたるまで供出させられている。「神国」であるはずの日本が、神の祭祀檀に奉られた神鏡や、子どものオモチャ類まで供出させられているありさまを見て、「まったくお話んならねえやな。この戦争は負けだ」と感じた方々の証言記録は多い。
金属供出の様子を、寺院が多い奈良県に残された「金属供出記念貯蓄要綱」(昭和17年3月17日)から引用してみよう。原文はカタカナ表記で読みにくいので、平仮名に変換している。
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民間金属類特別回収運動に依り県民の愛国心発露を以て相当の鉄銅類の供出を見たるも之は固(もと)より献納の心持にて供出したるものたることを疑はず/仍(よっ)て供出物件買上代金を国債の購入其の他の貯蓄に振向けしめ以て国家非常の秋に際し重要資源を提出したる愛国的行為を永久に記念せしむると共に貯蓄の増強を図るものとす
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金属供出で提出した物品には、当然国家として代金を支払うのがあたりまえだが、愛国心があるのなら「国家非常の秋」なので、もちろんカネなど受けとらず代わりに「おまえ国債や貯蓄にまわすよな?、なっ!?」……という、ほとんど恫喝に近いような文面となっている。
つまり、金属でできた貴重な史的文化財から子どものオモチャ類にいたるまで、償還スケジュールなどまったく存在しない、ただの紙切れに化けてしまったわけで(事実、敗戦後はただの紙切れとなった)、ほとんど今日の金融詐欺に近いやり口だろう。それでも、「オレは国債や通帳じゃなくて、現金でほしいんだけどな」などといおうものなら、さっそく非国民と罵倒されて隣組あたりから密告され、特高警察に引っぱられて恫喝や暴力を受けただろう。主婦の井戸端会議の言質でさえ、隣組による密告から特高が介入してくる時代を迎えていた。
もうひとつ、歴史家で民俗学者だった秋田県の糸井藤之助が、1975年(昭和50)に執筆した『嘘のようなほんとの話』(私家版)より、当時の金属供出の様子を引用してみよう。
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戦争が段々熾烈になって来ると金属を集めることになった。橋の欄干の鉄類、記念碑の柵の鉄の鎖、銅像、お寺の仏具(鐘、燭台、梵鐘)、神社も同様、各家庭の金物、釜、鍋、火鉢、鉄瓶、各家庭所持のメダル、指輪、時計の皮、記念の金盃、銀盃など金気のある物ならなんでも。(中略) 今思えばおしかったとくやまれる物も沢山ある。妻の金指輪、私の金時計の皮(略)、大銀盃(略)、明治初年の金貨(略) 現在迄残して置いたら一個でも数十万円の値うちがあったのに無料献金してしまった。/子供達は、穴あき銭を一人で二千枚、三千枚を出し、葉書版位の小さな表彰状を学校から貰って得意顔をしておった。当時私の子供が四人も小学校に在学中だったので一人で二、三千枚ずつ出されてはたまったものではない。
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金属供出は、1941年(昭和16)の「金属類回収令」によって実施され、日本全国をはじめ当時は植民地だった朝鮮や台湾などでも実施されている。また、翌1942年(昭和17)には強制譲渡命令、すなわち有無をいわさず強制的な没収命令が公布され、寺々の梵鐘や教会の鐘に限らず、各地の銅像やマンホールの蓋、鍋釜、仏壇や神棚の金属類、はては子どものオモチャ(ブリキ玩具やベーゴマなど)にいたるまで供出させられている。「神国」であるはずの日本が、神の祭祀檀に奉られた神鏡や、子どものオモチャ類まで供出させられているありさまを見て、「まったくお話んならねえやな。この戦争は負けだ」と感じた方々の証言記録は多い。
金属供出の様子を、寺院が多い奈良県に残された「金属供出記念貯蓄要綱」(昭和17年3月17日)から引用してみよう。原文はカタカナ表記で読みにくいので、平仮名に変換している。
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民間金属類特別回収運動に依り県民の愛国心発露を以て相当の鉄銅類の供出を見たるも之は固(もと)より献納の心持にて供出したるものたることを疑はず/仍(よっ)て供出物件買上代金を国債の購入其の他の貯蓄に振向けしめ以て国家非常の秋に際し重要資源を提出したる愛国的行為を永久に記念せしむると共に貯蓄の増強を図るものとす
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金属供出で提出した物品には、当然国家として代金を支払うのがあたりまえだが、愛国心があるのなら「国家非常の秋」なので、もちろんカネなど受けとらず代わりに「おまえ国債や貯蓄にまわすよな?、なっ!?」……という、ほとんど恫喝に近いような文面となっている。
つまり、金属でできた貴重な史的文化財から子どものオモチャ類にいたるまで、償還スケジュールなどまったく存在しない、ただの紙切れに化けてしまったわけで(事実、敗戦後はただの紙切れとなった)、ほとんど今日の金融詐欺に近いやり口だろう。それでも、「オレは国債や通帳じゃなくて、現金でほしいんだけどな」などといおうものなら、さっそく非国民と罵倒されて隣組あたりから密告され、特高警察に引っぱられて恫喝や暴力を受けただろう。主婦の井戸端会議の言質でさえ、隣組による密告から特高が介入してくる時代を迎えていた。
もうひとつ、歴史家で民俗学者だった秋田県の糸井藤之助が、1975年(昭和50)に執筆した『嘘のようなほんとの話』(私家版)より、当時の金属供出の様子を引用してみよう。
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戦争が段々熾烈になって来ると金属を集めることになった。橋の欄干の鉄類、記念碑の柵の鉄の鎖、銅像、お寺の仏具(鐘、燭台、梵鐘)、神社も同様、各家庭の金物、釜、鍋、火鉢、鉄瓶、各家庭所持のメダル、指輪、時計の皮、記念の金盃、銀盃など金気のある物ならなんでも。(中略) 今思えばおしかったとくやまれる物も沢山ある。妻の金指輪、私の金時計の皮(略)、大銀盃(略)、明治初年の金貨(略) 現在迄残して置いたら一個でも数十万円の値うちがあったのに無料献金してしまった。/子供達は、穴あき銭を一人で二千枚、三千枚を出し、葉書版位の小さな表彰状を学校から貰って得意顔をしておった。当時私の子供が四人も小学校に在学中だったので一人で二、三千枚ずつ出されてはたまったものではない。
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同書のタイトルどおり、まったく嘘のような話だが、当時はこのようなことが国家ぐるみで、平然とマジメに行われていたのだから、今日の北朝鮮から聞こえてくるおかしな話を笑えない。貯金箱に貯めていた子どものわずかなカネを巻きあげ、親に頼んで集めた膨大な穴あき銭(5銭・10銭玉だろうか)を国家へ無償で提供するなど、これでどうして戦争に「勝てる」などと勘ちがいしたものか、今日から見れば不可解としかいいようのない状況だった。
さて、金属供出で梵鐘を没収されたのは、下落合の薬王院も同様だった。同院の梵鐘は1790年(寛政2)に鋳造され、西村和泉守藤原政平の銘が刻まれており、当時の江戸鋳物師の精巧さや高い技術水準がよくわかる史料として非常に貴重な文化財だ。高さが116.5cm、口径が64cmで当時の住職だった辨海が発願し、同住職の良周が江戸近郊の町村を訪ね歩いて喜捨を募って歩いた。おそらく、最初は鐘の音が聞こえそうな範囲内を訪ね歩いたのだろうが、それでは梵鐘の鋳造費に足りず、かなり遠くの町村にまで出かけ協力を仰いでいる。
良周が訪ねたのは、梵鐘に刻まれた地域を挙げると地元の落合地域の村々(上落合村/下落合村/葛ヶ谷村)はもちろん、長崎村や高田馬場(下戸塚村)、上戸塚村、諏訪村、目白坂下(関口町/関口駒井町)、片山村、上高円寺村、柏木村、大谷口村、向原村、上練馬村、下練馬村、中村、羽根木村、江古田村、荒井(新井)村など、現在の行政区分でいえば新宿区や豊島区、中野区、練馬区、文京区、はては板橋区まで足を伸ばしているのがわかる。
そんな良周の苦労・苦心もむなしく、1941年(昭和16)に「金属類回収令」が発令されると、薬王院の梵鐘はあっさりと供出させられている。けれども、たいへん運のいいことに同院の梵鐘が溶鉱炉へ投げこまれる直前に、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏をして敗戦(1945年8月15日)を迎えた。だが、戦後になって薬王院へ梵鐘引き取りの通知がとどいたので、芝浦の海岸まで受けとりにいくと、どこを探しても同院の梵鐘は見つからなかった。
さて、金属供出で梵鐘を没収されたのは、下落合の薬王院も同様だった。同院の梵鐘は1790年(寛政2)に鋳造され、西村和泉守藤原政平の銘が刻まれており、当時の江戸鋳物師の精巧さや高い技術水準がよくわかる史料として非常に貴重な文化財だ。高さが116.5cm、口径が64cmで当時の住職だった辨海が発願し、同住職の良周が江戸近郊の町村を訪ね歩いて喜捨を募って歩いた。おそらく、最初は鐘の音が聞こえそうな範囲内を訪ね歩いたのだろうが、それでは梵鐘の鋳造費に足りず、かなり遠くの町村にまで出かけ協力を仰いでいる。
良周が訪ねたのは、梵鐘に刻まれた地域を挙げると地元の落合地域の村々(上落合村/下落合村/葛ヶ谷村)はもちろん、長崎村や高田馬場(下戸塚村)、上戸塚村、諏訪村、目白坂下(関口町/関口駒井町)、片山村、上高円寺村、柏木村、大谷口村、向原村、上練馬村、下練馬村、中村、羽根木村、江古田村、荒井(新井)村など、現在の行政区分でいえば新宿区や豊島区、中野区、練馬区、文京区、はては板橋区まで足を伸ばしているのがわかる。
そんな良周の苦労・苦心もむなしく、1941年(昭和16)に「金属類回収令」が発令されると、薬王院の梵鐘はあっさりと供出させられている。けれども、たいへん運のいいことに同院の梵鐘が溶鉱炉へ投げこまれる直前に、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏をして敗戦(1945年8月15日)を迎えた。だが、戦後になって薬王院へ梵鐘引き取りの通知がとどいたので、芝浦の海岸まで受けとりにいくと、どこを探しても同院の梵鐘は見つからなかった。



以下、1967年(昭和42)5月25日に発行された「練馬郷土史研究会会報/第69号」に収録の、横田申一「下落合薬王院の梵鐘」より少し引用してみよう。
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下落合薬王院の梵鐘も(金属)供出の難に遭い、兵器として御用にたつべく芝浦の砂浜に置かれてある内終戦となり溶解寸前の身を九死に一生を得た数少ない梵鐘の一つである。しかしこの梵鐘は懐かしい本寺に還って美しい音色で昔なじみの人に愛されているのではない。落合からはるか東、中川畔の葛飾区立石の南蔵院の鐘楼に淋しく掛けられてある。ではどうしてこのような結果になったのであろうか。南蔵院住職に伺った話の大意は次の如くである。終戦後梵鐘引取りの通知がきたので芝浦にとりに行った時すでに南蔵院の鐘はなかったので止むなく他の鐘を持ち返ってきたのだそうで、それが偶然薬王院の鐘であったのである。如何に終戦後の混乱時の事といいながら誠に粗忽な事で立派に地名寺院名もあるのであるから矢張り供出先の寺に還すのが筋の通った話ではなかろうか。(カッコ内引用者註)
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戦後22年もたったあとの記事だが、1962年(昭和42)の時点でさえ、いまだ立石の古墳上(南蔵院古墳)に建立された南蔵院から、薬王院へ梵鐘が返還されていない様子がわかる。
著者は、自寺の梵鐘が見つからないから、そこらに置かれた他寺の梵鐘を持ち帰るなど、「誠に粗忽な事」と柔らかめな表現で記述しているけれど、「粗忽」とは不注意でそそっかしいという意味であり、梵鐘の中央に「武州豊嶋郡下落合村瑠璃山薬王院」という目立つ寺院名と、「寛政二年大歳次上章閹茂春一月」の年紀が入り、寄進町村や鋳造者銘が明確に刻まれている梵鐘を黙って勝手に持ち去るのは、どう繕ってもドロボー以外の何ものでもない。
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下落合薬王院の梵鐘も(金属)供出の難に遭い、兵器として御用にたつべく芝浦の砂浜に置かれてある内終戦となり溶解寸前の身を九死に一生を得た数少ない梵鐘の一つである。しかしこの梵鐘は懐かしい本寺に還って美しい音色で昔なじみの人に愛されているのではない。落合からはるか東、中川畔の葛飾区立石の南蔵院の鐘楼に淋しく掛けられてある。ではどうしてこのような結果になったのであろうか。南蔵院住職に伺った話の大意は次の如くである。終戦後梵鐘引取りの通知がきたので芝浦にとりに行った時すでに南蔵院の鐘はなかったので止むなく他の鐘を持ち返ってきたのだそうで、それが偶然薬王院の鐘であったのである。如何に終戦後の混乱時の事といいながら誠に粗忽な事で立派に地名寺院名もあるのであるから矢張り供出先の寺に還すのが筋の通った話ではなかろうか。(カッコ内引用者註)
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戦後22年もたったあとの記事だが、1962年(昭和42)の時点でさえ、いまだ立石の古墳上(南蔵院古墳)に建立された南蔵院から、薬王院へ梵鐘が返還されていない様子がわかる。
著者は、自寺の梵鐘が見つからないから、そこらに置かれた他寺の梵鐘を持ち帰るなど、「誠に粗忽な事」と柔らかめな表現で記述しているけれど、「粗忽」とは不注意でそそっかしいという意味であり、梵鐘の中央に「武州豊嶋郡下落合村瑠璃山薬王院」という目立つ寺院名と、「寛政二年大歳次上章閹茂春一月」の年紀が入り、寄進町村や鋳造者銘が明確に刻まれている梵鐘を黙って勝手に持ち去るのは、どう繕ってもドロボー以外の何ものでもない。
敗戦直後の混乱期とはいえ、仏教の基本的な五戒のひとつ「不偸盗戒」を知らなかったらしい南蔵院の住職は、いったいなにを悟りなにを考えていたのだろうか? もっとも、芝浦で行方不明になった当の南蔵院の梵鐘もまた、薬王院の梵鐘よりもやや古い1746年(延享3)の銘が入った、江戸期の貴重な鋳物作品だったのだが、今日にいたるまで行方不明のまま見つかっていない。



その後、南蔵院から下落合の薬王院へ梵鐘が返還され、ようやく江戸期からつづく鐘の音が地元で復活しているようだが、梵鐘がなくなってしまった南蔵院では、2000年(平成12)にようやく新たな梵鐘の鋳造と鐘楼の建立を実現している。戦前に立石で鳴っていた、江戸期の鐘の音を知る方々の耳には、鋳造されたばかりの真新しい鐘の音は、どのように響いているのだろうか?
◆写真上:ようやく返された薬王院梵鐘の龍頭。(新宿区文化観光産業部文化観光課サイトより)
◆写真中上:上・中は、戦時中の金属供出の様子。特に寺社にある金属類は、軒並み供出させられた。下は、コンクリートで造られた代用梵鐘で心底情けない情景だ。
◆写真中下:街角の銅像から、家庭内の鍋・釜・火鉢まで供出させられた。楠木正成や東郷平八郎、二宮金次郎(金治郎)の銅像が写っているがそれらの供出を「出征」と称した。
◆写真下:上は、返還された薬王院の梵鐘(116.5cmH×Φ64cm)。(新宿区文化観光産業部文化観光課サイトより) 子どものころ親父から、おしなべて撞座(つきざ)が下にくる梵鐘ほど時代が新しい作品が多いと教えられた。中は、2000年(平成12)に新しく建立された葛飾区立石の南蔵院の鐘楼。下は、新たに鋳造された同院の梵鐘だが、どのような音(ね)を響かせているのだろうか。
★おまけ
東京メトロの雑司ヶ谷駅にある案内板を、友人がわざわざ撮影してお送りくださった。鬼子母神のツノがなく、ちゃんと「きしもじん」のローマ字ルビがふられている。豊島区の資料類および東京メトロが、すべて「きしもじん」となったところで、「きし【ぼ】じん」と400年近くつづく地元とは異なるおかしな名称で呼んでいるのは東京都の交通機関のみとなった。

◆写真中上:上・中は、戦時中の金属供出の様子。特に寺社にある金属類は、軒並み供出させられた。下は、コンクリートで造られた代用梵鐘で心底情けない情景だ。
◆写真中下:街角の銅像から、家庭内の鍋・釜・火鉢まで供出させられた。楠木正成や東郷平八郎、二宮金次郎(金治郎)の銅像が写っているがそれらの供出を「出征」と称した。
◆写真下:上は、返還された薬王院の梵鐘(116.5cmH×Φ64cm)。(新宿区文化観光産業部文化観光課サイトより) 子どものころ親父から、おしなべて撞座(つきざ)が下にくる梵鐘ほど時代が新しい作品が多いと教えられた。中は、2000年(平成12)に新しく建立された葛飾区立石の南蔵院の鐘楼。下は、新たに鋳造された同院の梵鐘だが、どのような音(ね)を響かせているのだろうか。
★おまけ
東京メトロの雑司ヶ谷駅にある案内板を、友人がわざわざ撮影してお送りくださった。鬼子母神のツノがなく、ちゃんと「きしもじん」のローマ字ルビがふられている。豊島区の資料類および東京メトロが、すべて「きしもじん」となったところで、「きし【ぼ】じん」と400年近くつづく地元とは異なるおかしな名称で呼んでいるのは東京都の交通機関のみとなった。

この記事へのコメント
てんてん
落合道人
九州にはこのところ、線状降水帯が連続して発生していますね。
お気をつけください。