許せない下落合にいた五重塔放火犯のふたり。

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 この街で起きたエピソードについて、親たちより上の世代(江戸期)からエンエンと語り継がれ、世代を超えてわたしの代まで伝承された、どうしても許せない歴史上の人物というのがいる。これは、どこの街にも何人かはいそうだけれど、その街や住民にとり返しのつかないダメージを与えた、あるいは考え方によっては現在でも与えつづけている人間のことだ。
 大江戸の街を混乱に陥れようと、一般市民の婦女子に対する無差別辻斬りや、商家への押しこみ強盗による殺傷、火付けを繰り返していた、まるで数年前のアルカイダやISISのような薩摩のテロリスト・益満休之助の一味や、日本の街々を焦土化し亡国を招来した「低能無識背徳」「彼等馬鹿野郎ども」(辰野隆)の軍閥は、お話にならないほどの愚昧としても、自分の身勝手な欲望からこの街の文化財に取り返しのつかないダメージを与えた連中がいる。
 大江戸(おえど)の街には、「江戸四塔」と呼ばれた五重塔が建立されていた。上野寛永寺と浅草浅草寺、芝増上寺、谷中天王寺(旧・感応寺)の4塔だ。また、明治以降は中野宝仙寺と池上本門寺を加えて「東京六塔」ともいわれていた。「江戸四塔」のうち、1945年(昭和20)の空襲で増上寺と浅草寺(のち再建)の五重塔は焼失したが、上野寛永寺と谷中天王寺の五重塔はかろうじて戦災をまぬがれ健在だった。この奇跡的に焼け残った五重塔に、放火した大べらぼーがいる。地元の谷中住民にしてみれば、京都の鹿苑寺金閣が放火されて全焼したのと同じようなショックだったろう。あるいは、東山のランドマークである八坂の塔が、心中目的で放火されたと知ったときに、地元の人々が感じるであろう怒りと、おそらく同レベルのそれだったにちがいない。
     江戸東京方言で、この場合はバカ野郎のさらに上をいく救いようのない大バカ野郎の意。
 では、下谷消防署の消火記録をもとに事件の経緯を再現してみよう。1957年(昭和32)7月6日の午前3時39分ごろ、谷中天王寺の墓地にある五重塔から突然出火した。下谷各地の消防署が“覚知”したのは、午前3時46分00秒に浅草の日本堤望楼(火の見櫓)が、同じく46分10秒に下谷の谷中望楼が、46分20秒に下谷の消防署望楼が火災に気づき、半鐘を鳴らしはじめてからのことだ。各消防署から合わせてポンプ車12台、はしご車1台、高圧車1台、無線車1台、救急車1台が谷中の天王寺墓地(いわゆる谷中霊園)へ急行している。
 谷中第1消防中隊が、真っ先に現場へ到着したときには、すでに五重塔の1層から3層までが火焔に包まれており、同隊は五重塔から25mほど離れた墓地内の消火栓にホースを接続して消火を開始したが、放水をスタートしたときにはすでに4層まで火が燃え移ったあとだった。つづいて到着した谷中第2消防中隊は、五重塔から150mの距離にある消火栓を探してホースを接続、第1中隊につづいてまもなく放水を開始している。
 だが、火焔の勢いが強く、筒先隊員は熱傷で次々と負傷していった。熱は、ポンプ車に塗られた赤い塗料が剥げるほどだったので、隊員たちは火傷を避けるために、刺し子(当時の消防服)の上から水をかぶり、長靴の中にまで注水しながら消火活動をつづけている。3時54分にははしご車が到着し、高所からの放水でポンプ車による消防隊員たちの消火活動を支援した。火事は五重塔を全焼し、約1時間20分後の午前4時59分にようやく鎮火している。
 この火事により、死者が2名、負傷者が消防隊員5名と地元の消防団員1名が記録されている。五重塔は放火によるもので、死者は男女ふたりの心中による焼死体だった。わたしは、もちろんこの放火事件はリアルタイムでは知らなかったが、親父はTVなどで谷中墓地(現・谷中霊園/甲種:天王寺墓地+乙種:寛永寺墓地+その他)の五重塔跡が映るたびに「バカどもが」と吐き捨てるようにいっていたので、放火事件の当時は激昂したのだろう。
 上野戦争で、天王寺は本坊と五重塔のみを残して他の建築はすべて罹災し、せっかく戦災からもなんとか奇跡的に焼け残った「江戸四塔」のひとつを、身勝手な心中の“道づれ”にしたのだから、何年たっても親父の怒りは収まらなかったのだろう。わたしも、「不倫恋愛」がこじれたあげく、貴重な大江戸の文化財を道づれに放火心中するなどもってのほかで、金輪際許せない所業だ。
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 なぜ、落合地域の拙ブログで場ちがいな「谷中五重塔放火心中事件」などを取りあげるのかといえば、この許せない短慮で愚かな放火犯が下落合の住人だったからだ。無関係な他者や史的文化財を巻きこむ、この手の犯罪は絶対に許容できないので、当時の新聞記事を抄録しまとめた1986年(昭和61)に東京法経学院出版から刊行の、『事件・犯罪大事典』から少し長いが引用してみよう。
  
 谷中の天王寺五重塔放火心中事件
 1957年7月6日午前3時45分ごろ、東京都台東区谷中天王寺町34、谷中墓地内の天台宗天王寺「五重塔」から出火、塔を中心に半径50mにも及ぶ地域に火の粉が噴き上げられた。塔は心柱だけを残したかたちで燃え落ちたが、その焼跡から男女2人の死体を発見。出火原因は石油を詰めた一升ビンを持ち込み、睡眠薬をのんでマッチで火をつけたらしいとわかった。焼け残っていたコケシ模様のワンピースの一部や、八型クロームの女物時計・シガレットケース・義歯などから、男は新宿区下落合の洋装店元店員・長部達夫(48歳)、女は同じ店の店員・山口和枝(21歳)と判明。2人は55年ごろから同洋装店に勤めるうちに親しくなったが、長部の妻子が郷里から上京して以来三角関係になり、山口が妊娠していたこともあって、三角関係を清算するために放火心中をはかったものらしい。谷中の五重塔は、文豪・幸田露伴の名作『五重塔』で有名。この塔の焼失によって東照宮(ママ:上野寛永寺)・増上寺・浅草寺・天王寺の“江戸四塔”といわれていた五重塔は、東照宮(ママ:寛永寺)だけになった。(カッコ内引用者註)
  
 文中には「洋装店元店員・長部」となっているが、下落合1丁目(現・下落合3丁目)の目白通りに開店していた、オーダーメイドで洋服を仕立てる「ノーブル洋裁店」の雇われ店長であり、また「同じ店の店員・山口」は同店の2階に住みこみで勤務していた若い店員だった。もちろん、このふたりは地元の出身者ではなく戦後に東京へやってきており、この地方地域の歴史や谷中五重塔の価値などまったく知らない、この街のアイデンティティなど持たなかった(持てなかった)とみられる連中なので、なんのためらいもなく放火できたのだろう。
 放火当時の下谷消防署記録によれば、1957年(昭和32)7月6日の天候は曇りであり、たまたま無風で気温20度、湿度が82%もあった。したがって、「半径50m」にもおよぶ火の粉の飛散だったにもかかわらず、湿度が高く無風状態だったせいで周囲に延焼しなかったのが不幸中の幸いだった。もし風が吹き、湿度がかなり低ければ周囲が墓地とはいえ、火の粉の拡散で空襲をまぬがれた谷中の古い住宅街、特に西側と南側の家々までがまちがいなく直接類焼の危険にさらされただろう。
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 裏返せば、たまたま偶然に無風で湿度82%の夜だったため、周辺への被害は墓石が焼け焦げただれるぐらいの、最小限の被害で食い止められたということになる。心中したふたりは、自分たちだけが満足して死ねれば、江戸の大工をはじめ各分野の職人が技術の粋を集めて建立した文化財がどうなろうと、周辺の不特定多数の住民に火災の類焼被害が及ぼうが、別に知ったこっちゃないという、最悪の意思を備えた犯罪者だったということだ。
 ふつう心中事件というと、権八小柴のあと追い心中や大磯の坂田山の服毒心中有島武郎の縊死心中、入水や樹海でのそれと、他者を危険に巻きこまず、あくまで自分たちだけでひっそり生命を断つせいか(あと始末はたいへんだが)、後世に同情が集まり比翼塚や供養塔などが建立されるケースもめずらしくない。だが、谷中五重塔の放火心中は、同情の余地など毛すじほどもない最悪のケースだろう。戦災からかろうじて焼け残った、谷中の街並みまで灰にするところだった。1957年(昭和32)といえば、明治・大正期の住宅がいまだ建ち並んでいた時代なので、防火の点でも脆弱だったはずだし、また消防の機能や技術、消火設備も今日ほど発達していなかった。
 谷中の五重塔が焼けるのを、火災現場で目のあたりにしていた幸田文が、駈けつけた新聞記者からインタビューを受けている様子が記録されている。1989年(昭和64)に広済堂から出版された、邦光史郎『情死の歴史―陰の日本史―』から引用してみよう。
  
 声をつまらせる幸田文さん
 この一万人の目撃者たちのなかには、故露伴の令嬢であり、父の衣鉢を継いで文名をはせている幸田文さんの姿もまじっていた。幸田さんは、その姿を見つけて感想を求めた新聞記者たちに、/「美しいだけに、前からこの塔は火事にかかりそうな気がしていたのですが、とうとう……」と声をつまらせ、/「じつは、ついいまさっき、四時頃でしょうか、知らない方から電話をいただきまして、五重の塔が焼けていることを知りました。最期の姿を見たい気持と、見たくない気持とが相半ばしましたが、夢中で浴衣姿のまま駈けつけてしまったものなのです。むかし、父が、よく“中途半端な姿がいちばんむごい”と申しておりましたのですが、はからずも、とんだ五重の塔の姿を見せられてしまうことになって、感慨無量でございます」/と語っていた。
  
 幸田露伴の『五重塔』(1892年)が書かれてから65年めの、あまりにお粗末で無念な焼失だった。
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 下谷消防署の消火記録によれば、ポンプ車の塗装が剥げ、長靴のゴムが溶けるほどの高熱だったようで、周囲の墓地は大丈夫だったのだろうか。墓石に寄り沿うように立てられた卒塔婆は、おそらく火焔の高温で丸焦げだったのではないかとみられるが、墓地への被害は消火記録のどこにも掲載されていない。もし、現代でもこの五重塔が健在だったなら、谷中地域の重要な文化財資源となり、かけがえのないランドマークになっていたのではないかと思うと、しごく残念でならない。

◆写真上:谷中霊園に残る、「江戸四塔」に数えられた天王寺五重塔の焼け跡礎石。
◆写真中上は、戦前の谷中五重塔の観光絵はがき。は、焼失前の五重塔。は、1957年(昭和32)7月6日午前4時ごろに撮影された炎上中の五重塔。
◆写真中下上左は、1909年(明治42)に青木嵩山堂から出版された幸田露伴『五重塔』。上右は、下谷消防署の消防車が通報を受けて到着した直後に撮影された炎上する谷中五重塔。以下の連続写真は、下谷消防署が時系列で撮影しつづけた全焼する同塔。
◆写真下は、春に撮影された戦前の谷中五重塔の観光絵はがき。は、消火活動を見守る住民たちで谷中地域の住宅街から1万人近い人々が集まったという。は、全焼しても倒壊しなかった谷中五重塔の心柱を中心とした骨組み。のちに撤去され、礎石のみが残る草原となった。
おまけ
 上の写真は、谷中五重塔の雪景色を写した絵はがき。下の写真は、「東京六塔」のひとつ池上本門寺の五重塔と、その塔の真下(東南側)にある幸田露伴の墓所。
谷中五重塔雪景色.jpg
池上本門寺五重塔.JPG 幸田露伴墓.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年07月01日 20:44
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    ビッグバンドのLIVEとは羨ましいですね。こちらではコストがかかるせいか、
    ほとんどがコンボによる演奏が中心です。
    2025年07月01日 21:02

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