虎狼痢(ころり)でキャパオーバーの落合火葬場。

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 喉元すぎればなんとやらで、つい忘れがちだが、数年前、新型コロナウィルス(COVID-19)の世界的な流行で、死者の急増に対して葬儀・火葬が追いつかず、遺体が葬儀場の周囲に放置されたり、大きな穴にまとめて埋葬される事例が世界じゅうで起きていた。
 日本の各地でも、斎場の火葬炉をフル稼働させているにもかかわらず、遺体の数が多すぎて数日間(最長は1週間だったろうか)は、順番待ちというような事態に陥っている。国内では、新型コロナ禍だけでわずか3年の間に、全国で13万2,000人を超える死者が出ており、これに通常の病死や事故死などの死者を加えると膨大な人数になるのだろう。各地の斎場はキャパシティをはるかに超え、隣県の斎場へ越境して遺体を運び火葬するというニュースまでが流れた。江戸東京で、一度にこれほどの病死者が発生したのは、大正期のスペイン風邪以来ではないだろうか。これと同様の事態が江戸期、特に江戸後期のこの街でも起きている。
 江戸期のケースは、コロナやインフルのウィルスではなく、虎狼痢(ころり=コレラ)の大流行だった。江戸時代は「鎖国」をしていて、きわめて閉鎖的なイメージがつくられているが(これも薩長政府による教育の“成果”だろうか)、貿易拠点を限定しているだけで当然、アジア諸国やヨーロッパ(おもにオランダを介して)の技術や文化、知識、モノ、動物までが日本にそのまま流入していた。欧米諸国による、アジアの植民地化を警戒しての政策だったが、幕末には欧米諸国に向けて開国しているので、それらがさらに国内へ加速してもたらされている。
 この中で、流入してほしくはないもの、すなわち伝染病も時代をへるにしたがって急増していった。その代表格が虎狼痢(ころり=コレラ)だった。コレラは、長崎で発症すると街道沿いに大坂(阪)で大流行し、ほどなく京から東海道を伝わって江戸でも大流行するのが通例となった。特に江戸中期から後期になると、コレラの流行は定期的に発生するようになる。
 たとえば、1822年(文政5)に発生したコレラ禍では、7万3,000人が死亡している。さらに、1858年(安政5)の発生時には全国で10万人以上(江戸だけでも2万8,000人)が、1861年(文久2)には江戸の街では麻疹の流行と重なり7万人とも、全国では20万人以上が死亡したともいわれ実数は不明のままだ。1858年(安政5)に発生したコレラの災禍を、1882年(明治15)に出版された斎藤月岑『武江年表』(巻の十)の、「安政五年戌午」より引用してみよう。
 ちなみに、日本はすでに欧米諸国と開国しており、この年にはオランダ使節が江戸を表敬訪問(安政5年6月4日<旧暦>に江戸発)しており、7月4日(以下同)にはロシアの使節団が芝に到着・滞在、同日にはイギリス使節団が品川沖に投錨し上陸・滞在している。ことのほか雨が多い夏で、さまざまな祭りやイベントの人出は少なかったが、7月末ごろからコレラの流行がはじまった。
  
 始めの程は一町に、五人七人次第に殖て、擔を並べ一ッ家に枕を並べ臥したるものあり、路頭に匍匐して死に就けるものありけり、此の病暴瀉又は暴痧などと号し、俗諺にコロリと云へり、西洋にはコレラ又アジヤ、テイカなど唱ふるをよし、東都の俗ころりといふは、頓死をなしてころりと死したりといふ俗言に出て、文政二年疫病行はれしより、しかいへり、然るに西洋にコレラといふよしを思へば、自から通音なるもをかし、大方は即時に、嘔気を催し吐瀉して後、続て潟痢をなし、手足厥冷し、蹇痿痺れて企踵(たちどころ)に絶命す、稀には数刻の後蘇生せるも有りける由、多くは夭札(わかじに:若死)の輩にして老人に少なく、又小児にも鮮なし、医生は籃輿(らんよ:駕籠)を飛して東西に奔走し、庸医薬舗といへども、薬餌を乞ふ者更に絶ゆる事なし、官府よりも薬法を択で、貴賤に示されたり、偖(さて)此の処にや乗しけん、狐惑(きつねつき)の患もあり(カッコ内引用者註)
  
 このとき、日本で初めて本格的な西洋の最先端臨床医学を学んでいた松本順(松本良順)は、いまだ長崎でポンペのもとにおり、幕府の医学所(のち西洋医学所)の頭取には就いていない。
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緒方洪庵・訳「虎狼痢治準」1858.jpg
荼毘室(やきば)混雑の図1858.jpg
 当時、コレラ対策の中心にいたのは蘭学の緒方洪庵であり、また旧来の漢方医たちだった。緒方洪庵は、ヨーロッパで出版された3冊の医学書を抄訳し、治療法と看護法をまとめた『虎狼痢治準』を出版している。ただし、同書はあくまでも蘭学をベースとした「文献医学」であり、臨床例を積み重ねて得たコレラに対する実践的・技術的な医療ではなかった。
 緒方洪庵は当時、大坂(阪)で活躍していたが、江戸ではお玉が池にあった幕府の医学所を中心に、西洋医薬のキニーネや漢方の処方が行なわれている。緒方洪庵が幕府の医学所頭取に就任するのは、1862年(文久2)からだ。だが、江戸は人口がケタちがいに多いため、医薬が不足するのは目に見えていた。先の新型コロナ禍のときも、関連する医薬が払底したのは記憶に新しい。そこで庶民は、さまざまな「おまじない」を通じてコレラを避けようとしている。
 かなり前、のちの明治に入って流行したお染風邪(おそらくインフルエンザ)の際に、「久松るす」と書いた紙を門口に貼った事例をご紹介していたが、それとまったく同じような気休めの“魔除け”だ。コレラの場合は、街頭に神輿獅子頭を展示したり、神事の結界に用いる斎竹を張りめぐらしたり、門口に注連縄を張ったり、三峰社からの分社を建立したり、軒に高梁提灯をかかげて節分のように豆まきをしたり、家々の軒に八つ手の葉を吊るしたり、門松を立てて厄払いをしたりと、およそ考えられる魔除けのすべてが試みられている。
 だが、このような「おまじない」でコレラ菌が消滅するはずもなく、ますます死者は急増していった。当時の悲惨な様子を、再び『武江年表』(巻の十)より、少し長いが引用してみよう。
  
 やがて寺院も葬儀にかゝりて片時の暇なし、小柄原(こずかっぱら=小塚原)、深川霊岸寺、桐ケ谷、狼谷、落合村其余三昧の寺院は混雑いふべからず、棺を積む事山の如く、故に止む事を得ずして、数旬の後を約し置、或は価を増して、次第に荼毘の烟とはなしぬ、其あたりの臭気鼻を襲ふて堪え難し、この頃街を徘徊するに、郊送の群に逢ふ事更に絶へず、日本橋、永代橋、両国橋、或は浅草、下谷、谷中、三田、四谷其外寺院の多き所にては、陸続として引きもきらず、日本橋畔には、これを見ること百に余れる日もありとぞ、八月朔日より九月末迄、武家市中社寺の男女、この病に終れる者凡二万八千余人、内火葬九千九百余人なりしといふ、実に恐るべき病なり、八月末の頃は次第に蔓延して、其辺際たしかならねど、奥羽のあたりにも至りしと聞けり(中略) 九月初旬より些とく遠ざかり、十月に至り漸く此の噂止みたり、(カッコ内引用者註)
  
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日本の作法と習慣のスケッチ1864-1865英Day&Son社.jpg
 わずか2ヶ月間に、大江戸だけで2万8,000人の生命が奪われているが、全国の死者をあわせるとゆうに10万人を超えていたと推定されている。
 安政期のコレラでは、有名人も多数罹患して死亡している。浮世絵師の安藤広重をはじめ、山東京伝の実弟で戯作者だった山東京山、俳人の西馬得蕪、川柳の5代・緑亭川柳、名うての三味の演奏家だった杵屋六左衛門、狂歌師の六朶園や燕栗園など、幕末の大江戸文化をけん引していた数多くの芸術家や文化人が罹患して没している。
 当時の火葬は、隠亡(おんぼう=火葬夫のこと)が薪を積み上げ、ひと晩かけて遺体を骨灰にし、翌朝に遺族へわたすのが通常の業務だったので、寺院の葬儀待ちとともに火葬待ちの遺体がちまたにあふれた。もちろん、いくら江戸の街といえども、それだけ多数の死者を迅速に火葬できる施設などなく、火葬場の周辺は順番を待つ棺桶で埋めつくされた。火葬しきれない遺体は、そのまま土中に埋めてしまった事例も多いとみられる。コレラの流行が一段落したのは、秋の虫の音が大きくなる9月(旧暦)の中旬をすぎたころからだった。
 文中に「落合村」が登場しているが、上落合村の「日蓮宗火葬場法界寺」(のち落合火葬場/現・落合斎場)も、パニックに近い状況だったのではないかと想定できる。運びこまれた、処理しきれない棺の遺体が腐敗すると別の疾病を生じかねないので、村役は衛生保全のために奔走したのではないかと思われる。当時は炉も煙突もなく、薪を組んでの野焼きに近い火葬だったので、あたり一帯には遺体を焼きつづける独特な臭気が充満しただろう。いまでこそ、斎場と名を変えた火葬場は、きわめて高温で短時間に処理するため煙突もなく、まるで高級ホテルのような意匠をしているが、わたしが子どものころまでは高い煙突と、独特の暗鬱な雰囲気が漂う場所だった。
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 江戸期からつづく落合火葬場(現・落合斎場)だが、ここから昇天した人物たちの名前を挙げるだけで、江戸期以降に起きた近・現代史の出来事や逸話が、およそ網羅できてしまう“史蹟”だろう。皇室からアナキストまで、多彩な人々がここで骨灰になっている。拙ブログに登場している、近所の人々をはじめ、東京の西北部に居住していた人たちの多くも、落合の空から旅立っていった。

◆写真上:現代ではめったに見かけなくなった、空へのびる火葬場の高い煙突。
◆写真中上は、大江戸の街をたびたび悩ませたコレラ菌。は、1858年(安政5)に緒方洪庵が3冊の医学本から抄訳した『虎狼痢治準』。は、1858年(安政5)に天寿堂から出版された仮名垣魯文・編『安政午秋頃痢流行記』の口絵「荼毘室(やきば)混雑の図」。
◆写真中下は、同書の仮名垣魯文・編『安政午秋頃痢流行記』の本文。は、1862年(文久3)に作成された『虎狼痢病療方』。治療法が書かれているが、ほとんど「おまじない」の気休めレベルの内容だ。は、1864~65年(元治元~慶応元)にかけ英国のDay & Son社から出版された『Sketches of Japanese manners and customs(日本の作法と習慣)』の火葬図。
◆写真下は、1928年(昭和3)ごろに撮影された落合地域の葬列は、憲兵隊に虐殺されたあと隠蔽された井戸から掘りだされ落合火葬場へと到着した大杉栄、伊藤野枝、橘宗一3人の棺は、ホテルのロビーと見まごうような落合斎場で、右手には喫茶コーナーも設置されている。
おまけ
 上の写真は、1932年(昭和7)5月19日に首相官邸を出て落合火葬場へと向かう犬養毅の葬列。下は死の床の夏目漱石で、1916年(大正5)12月9日に死去し、東京帝大医科大学で解剖されたあと落合火葬場で荼毘にふされた。落合斎場の歴史をたどると、近・現代史の総ざらえになりそうだ。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年11月13日 20:31
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    「なんばん往来・糸島ミルク」は、一度も食べたことがないです。
    美味しそうですね。
    2025年11月13日 21:38
  • sakura

    Papaさん、おはようございますsakuraです。
    2021年後半に父を落合斎場で送りました。(コロナではありません)
    コロナの影響は下火になっていたのか?待たされることもありませんでした。
    今は別の理由で費用面が大変らしいですが・・・
    2025年11月18日 06:56
  • 落合道人

    sakuraさん、コメントをありがとうございます。
    わたしも、母を落合斎場で見送りました。明治期に入ると、落合火葬場は
    木村荘八の父親の木村荘平が法人化して運営する博善社が経営するように
    なりますね。ほぼ同時期に、木村荘平はヱビスビールを設立しています。
    母のときはやや混雑していたものか、少し待たされたような記憶があり
    ます。いまは、新型コロナよりもインフルが流行っているようですね。
    2025年11月18日 09:52

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