下落合の「墓のある風景」に住む丹羽文雄。

丹羽文雄邸跡.JPG
 丹羽文雄については以前、上高田に残るアビラ村(芸術村)のネームについて書いた随筆『アビラ村の神様』(1936年)をご紹介していた。アビラ村は本来、東京土地住宅の事業である下落合4丁目(現・中井2丁目)一帯の開発名称だが、当時は上高田305番地に住んでいた丹羽文雄は、アビラ村を上高田地域の名称だと勘ちがいした記述をしている。あるいは、上高田氷川明神社の西側一帯の地元で、実際にそのネームが語られていたものだろうか。
 丹羽文雄はその後、太田綾子と結婚して同じ中野区の文園町40番地に新居をかまえ、2年後の1938年(昭和13)に下落合へ転居してくる。住所は、銭湯「福ノ湯」の近く下落合2丁目617番地(現・下落合4丁目)で、ちょうど下落合2丁目630番地の森田亀之助邸の東並び、あるいは同番地の里見勝蔵アトリエがあった北東側にあたる一画だ。ここには、同番地にあった稲村邸の敷地に隣接して、江戸期からつづく農村時代の畑中にあったとみられる古い墓地(祖霊墓)があり、丹羽文雄はその北隣りに接した借家に住んでいる。
 下落合には、江戸期からつづくこのような農村墓が、昭和初期まであちこちに点在していた。こちらでもいくつかご紹介しているが、蘭塔坂(二ノ坂)の名称由来(僧侶の卵塔に由来しているとみられる)となった同坂の丘上と坂下にあった2ヶ所の墓地、目白文化村のセンター通り沿いに残っていた農村墓、目白学園(研心学園)のキャンパス東側の一画に残っていた、小島善太郎の先祖代々が眠る墓地などが、大正期の地図では確認できる。
 下落合の住宅街に、ポツンととり残された江戸期の下落合村からつづく祖霊墓なので、あまり記録が見あたらなかったけれど、丹羽文雄が墓地の様子を詳しく記録している。1940年(昭和15)に改造社から出版された、『新日本文学全集/第18巻』から、少し長いが引用してみよう。
  
 私は現在淀橋区下落合二の六一七番地の、墓場のとなりに住まつてゐる。この土地の地主の墓といふことであるが相当古い墓石である。ある時、「文藝」の編集子から求められて、「墓のある風景」といふ短文を綴つた。以下がそれである。/『私自身がそもそも坊主出なので、墓に無神経になつてゐるといふのではないが、普通な人より度々墓を見かけてゐて、慣れているのは確かである。が、夜ふけにかへつてくる時、路次の前方に樹立にかこまれて、墓石が幽気をたたへて静まりかへつてゐるのを見かけるのは、あまりいい気持のものではない。ことに卒塔婆の新しいのが立つてゐるやうな時は、人肌が感じられて、気味が悪い。/土地の地主の墓ださうであるが、かなり古い墓もある。/以前借家をさがしてゐた頃、今の家を出ていく訳なので、次のかりてが見にきたことがあつた。が墓があるといふので、家の中をろくに見ないで帰つていつた。/今どき人家の中に墓があるのは、をかしいことである。その内にはどこかへ移転することだらう。しかし墓をかこむ一画は、いつもほつたらかされてゐるが、味のある風景である。近所の子供もはいらない。(後略)
  
 エッセイのタイトル『墓のある風景』は、まるで佐伯祐三「下落合風景」だ。わたしなど、近くに墓地があれば静かだし、めったに再開発などされないので樹林の環境が長く保全でき、かえって安心ではないかなどと考えてしまうが、これは現代の考え方で、当時の下落合はいまだ住宅街といっても鬱蒼とした屋敷林が多かった時期だし、街灯もそれほど多くなく、また電球も明るくはない時代だったので、夜になると薄気味悪く感じたのだろう。
 けれども、丹羽英雄は「そもそも坊主出」と自身で書いているように寺(三重県四日市の崇顕寺)の出身であり、仏教(丹羽家は浄土宗)の多くが死者は西方浄土へ旅立つのであり、「幽霊」や「霊魂」など存在しないと否定しているので、彼が墓場に「幽気」を感じるのも妙な具合だ。
祖霊墓1921.jpg
墓地1926.jpg
墓地跡.jpg
 丹羽文雄は、下落合で母親と同居して暮らしているのだが、母はといえば寺の娘なので墓には慣れている、というか「却つて墓がある方が落着くらしい」ので、この家は気に入っていたらしい。ただし、彼岸の時期になると、墓ではたくさんの線香がたかれ、その煙が2階の仕事部屋まで流れこんできたようだ。それでも別に苦情はいわず、隣りが寺だった上高田時代を思いだしながら、「私はやはり寺か墓に隣合つてゐる方が、気持が落着く」と書いている。ひとつ困ったのは、近所には自分の娘の桂子と同じ「ケイコ」ちゃんという名前の女の子が3人いて、子どもの間では娘のことを「墓場のケイコちゃん」と呼んでいたことぐらいだった。w
 下落合のこの家を舞台に、丹羽文雄はいくつかの作品を残している。その代表的なものに、下落合へ引きとった母親と、訪ねてきた父親とが30年ぶりに対面する、『再会』(1940年)がもっとも有名だろうか。丹羽文雄は「私小説」家なので、書かれていることはほぼ事実なのだろう。あらかじめ父親を歓迎する計画を立て、新宿散歩や築地本願寺参詣、目黒雅叙園での会食、日光詣り、善光寺詣り、湯田温泉めぐりなどいろいろと予定している。その様子を、1976年(昭和51)に講談社から出版された、丹羽英雄『創作の秘密』から引用してみよう。
  
 私も母同様生家をとび出したが、九年目にゆるされて、故郷の寺に出入り出来るようになっていた。母を岐阜からひきとった私は、下落合の家で父を迎えた。三十年目の父と母の対面であった。父を歓迎するプランは、そのスケジュールどおりにはいかなかったと記憶している。その父も母も、すでに幽明界を異にしている。
  
 この下落合の家で、丹羽文雄は小説や随筆など数多くの作品を手がけており、石川達三高見順太宰治伊藤整などとともに文芸誌「新風」を創刊している(創刊号のみで休刊)。また、内閣情報局から従軍ペン部隊として徴用されたのも、下落合時代の1938年(昭和13)からだ。のちに、海軍報道班員として第1次ソロモン海戦のツラギ夜襲戦で重巡「鳥海」に乗艦し、米軍側の攻撃で顔面と両腕に34ヶ所の破片を受け重傷を負っている。
 前年の1941年(昭和16)には、河出書房から出版された小説『中年』が、特高検閲で発禁処分を受けており、翌1942年(昭和17)、最前線へ報道班員として派遣されたのは、当局によるなんらかの懲罰的な意味あいがあったのかもしれない。また、特高から目をつけられていたのか、1943年(昭和18)にも改造社から出版された『報道班員の手記』が、重ねて発禁処分を受けている。下落合の家にも、特高が何度かやってきているのかもしれない。
丹羽文雄×桂子ちゃん1938下落合.jpg
丹羽文雄×母下落合1938.jpg
新風194007創刊号.jpg 丹羽文雄「再会」1978集英社.jpg
 さて、下落合2丁目617番地の丹羽邸には、多くの作家たちや編集者が訪ねてきている。戦後に「松川事件」を追いつづけた、広津和郎もそのひとりだった。最初は、本郷区菊坂の菊富士ホテルにいた広津和郎を、丹羽文雄が訪ねたのが最初だった。初対面にもかかわらず、旧知の友人のように話しはじめた広津に対し、丹羽は好感を抱いている。一度も会ったことがない人物でも、書いたものを読んでいると親しみをおぼえる、今日のネットでもまま感じるような既知感を広津ももっていたのだろう。ふたりの会話は、おもに広津ばかりがしゃべっていた。
 牛込矢来町生まれの広津は、作家にはめずらしくおしゃべりだったらしい。彼の話を聞いていると、そのまま小説や随筆、評論にまとめられるような内容のものばかりで、原稿用紙に書くよりも口から言葉で吐きだしてしまったほうが速く、いざ作品にしようとすると口頭で“発表”した内容が、かえって色褪せて見えるのではないかと丹羽は想像している。
 だから、文学青年の間では広津に接すると、「(物書きとして)スポイルされる」というのがウワサになっていた。広津の話を聞いていると、わざわざ原稿用紙に落とさなくてもいいような気になり、文学などしているのが空しくなるのだという。書く気力がなくなるので、「スポイルされる」と感じていたようだが、それほど広津の話はおもしろく、どこかその話には講談師的な要素があったのかもしれない。書き手というよりも、語り部的な傾向が強かったのだろう。
 広津和郎が、下落合の墓地横にある丹羽宅を訪ねてきた様子も残されている。1971年(昭和46)に講談社から出版された、丹羽文雄『古里の寺』から引用してみよう。
  
 下落合にいたころ、深夜外から私の名を呼ぶものがあった。徹夜の仕事をしていたときだ。玄関をあけると、広津さんが立っていた。応接間で話をはじめたが、なかなか用件を切り出さない。金を借りに来たのである。広津さんのお喋りをきいている内に、朝になった。金を借りに来たのは、ほんのつけ足しで、深夜のお喋りが目的であったかのような訪問であった。
  
 原稿の締め切りが近かったのだろう、徹夜仕事のさなか、朝までおしゃべりに付きあわされてはさぞ迷惑だと思うのだが、広津の話が面白いのでイヤな気はしなかったようだ。丹羽文雄は広津和郎を小説家で評論家、語り部など多角的な性格を備えていたからこそ、戦後、「松川事件」のような謀略事件を追及しつづけられたのではないかと述懐している。広津和郎について、あまり作家仲間からのポジティブな批評を見かけないので、丹羽の文章がめずらしく目にとまったしだいだ。
東京の女性1940原節子.jpg
丹羽文雄1942鳥海.jpg
丹羽文雄×広津和郎1939.jpg
 丹羽文雄は、1944年(昭和19)12月に空襲を避けるため、下落合から妻の実家がある栃木県鳥山町へと疎開している。丹羽が住んでいた家は、翌1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲で全焼しているが、敗戦後は疎開先から下落合へはもどらず、新たに武蔵野市西窪276番地(現・同市西久保)へ住まいを移している。つごう、約6年間にわたる下落合での生活だった。

◆写真上:2008年(平成20)に撮影した、下落合2丁目617番地の丹羽文雄邸跡。正面の家屋と右手(南側)の住宅をあわせた敷地が、当時の借家跡だとみられる。
◆写真中上は、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図にみる下落合の畑地に散在していた祖霊墓地。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合617番地の墓地。は、丹羽邸跡の現状(路地左手の住宅2軒分の敷地)。
◆写真中下は、下落合の自邸庭で撮影されたとみられる同時期の丹羽一家。左の女の子が、近所から「墓場のケイコちゃん」などと呼ばれてしまった長女・桂子。は、1938年(昭和13)に下落合で撮影された丹羽文雄と母・こう。下左は、1940年(昭和15)7月に丹羽文雄を中心に石川達三や高見順、太宰治、伊藤整らと発刊した文芸誌「新風」創刊号。下右は、下落合の自邸で父母の30年ぶりの再会を描いた1978年(昭和53)刊の『再会』(集英社)。
◆写真下は、丹羽文雄の『東京の女性』を映画化(1939年)した同タイトルの撮影現場で左側は原節子は、1942年(昭和17)に重巡「鳥海」の艦上で撮影された丹羽文雄。この直後、第1次ソロモン海戦で重傷を負っている。は、1939年(昭和14)に撮影された丹羽文雄と広津和郎(右)。

この記事へのコメント

  • 落合道人

    ふるたによしひささん コメントをありがとうございます。
    昨日、旅行からもどったのですが、山中ではかなりにわか雨が多くて、
    梅雨真っただ中の雰囲気でした。
    2025年06月28日 14:40

この記事へのトラックバック