著述業とICT事業はネコとの相性がいい?

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 1990年代に開発された、UNIXワークステーション用(SUN-SPARC用だったろうか?)のツールに、「CATS MEOW」というのがあったと記憶している。そのまま訳せば「猫ニャン」ツールだが、別にネコに関連したソフトではなく、画像や音声、映像、テキストなどをオーサリング(構築・編集)する、当時の流行り言葉でいえば「マルチメディア」ツールだった。
 また、UNIX/LINUXの標準コマンドにはCATコマンドというのがあるが、これはファイルマネジメントの命令のひとつで、別にネコには関係ない。それでも、Catに関連するシステム製品や用語が多いのは、ICT業界にネコ好きが多かったせいだろう。確かにこの分野は、クライアント(PC・WS端末)の前にデンと腰をすえ、モニターとにらめっこをする時間が長いせいか、イヌのように毎日散歩へ連れだす必要がなく、そこいらへ放っておいても人間など無視して、好き勝手に生きて遊んでいるネコのほうが、飼い主にとっては都合がいいのかもしれない。
 文筆業も、昔は机の前で原稿用紙とにらめっこをする(現代は端末の前に腰をすえる)時間が長いせいか、ネコ好きの人たちが大勢いた。画家も同様に、イーゼルのキャンバスを前に、日がな1日仕事をすることが多いせいか、いちいち世話がかからず、かまいたいときにだけ相手をしてくれるネコの愛玩者は多かったようだ。少し前にご紹介していた、木村荘八ネコ好きをはじめ、数多くのネコの絵で思いつくのは熊谷守一藤田嗣治などが有名だ。ほかにも、小絲源太郎や池部釣猪熊弦一郎なども大のネコ好きだったらしい。ネコ好きな作家や文筆家には、寺田寅彦戸川秋骨谷崎潤一郎柳田国男壺井栄大谷藤子井伏鱒二大佛次郎宇野千代内田百閒など、落合地域やその周辺域と関連が深い人たちもたくさんいた。
 少し余談だけれど、江戸東京の古い言葉に“居職”というのがある。企業(または商店)へ勤めることなく、自宅で仕事を完結できる職人たちの業務形態を指した言葉だが、店員や勤め人のように出勤しない専門技術をもつ職人のことをそう呼んだ。新型コロナ禍からこっち、自宅やサテライトオフィスで仕事をする人が急増しているが、多い会社では社員の50%以上が在宅勤務というところも出はじめている。セキュリティの堅牢性さえ確保できれば、自宅でもどこでも仕事ができるので、江戸期以来の“居職”が復活したような環境だ。ただし、現代の“居職”は端末利用の可視化が不可欠だが、勤怠管理と連動した仕組みづくりで残業超過やコンプライアンスを容易に管理できるようになった。したがって、いままでは出勤するため1日じゅう留守にするので、ペットを飼いにくかった独身者でもネコやイヌを飼う人が増えている。
 最近、落合地域、ことに下落合で野良ネコの姿を見かけることが少なくなった。空前のネコブームなので、みんな飼いネコとして近所の家庭にうまく住みこんだか(小さいときにきた、うちのネコのように)、あるいはネコの保護活動をするNPO法人などの団体に捕獲され、どこかの会場で里親探しに出されているのだろうか。だが、カネ集めが目的の動物保護団体などに捕まったら、ネコにとっては悲劇にちがいない。それこそ、20年前はあちこちにいた野良ネコが、この地域では激減している。うちで飼っているネコとは別に、外で野良ネコと遊ぶのも楽しみにしていたわたしとしては、よく目にしていただけにちょっとさびしい気がする。
 うちのネコはといえば、ときどき散歩に外へ出してあげるせいか、春には裏ですさまじい声で鳴きながらタヌキと大げんかをし、興奮おさまらぬ様子で肩を怒らせながら帰還した。以来、夜になると北側の窓で見張りをして、自分の縄張りにタヌキが通りかかろうものなら、とてもふだんの様子からは想像できないような咆哮あげる。ちなみに、うちのネコは♀(7歳)なので縄張り意識があるとも思えないが、自分のテリトリーに侵入する動物(人間を除く)にはまったく容赦がない。獰猛な肉食獣ならではの牙と、ラプトルなみの爪をムキだしにしながら威嚇する。
 ネコ好きの作家について、1958年(昭和33)に法政大学出版局から刊行された、木村喜久弥『ネコ―その歴史・習性・人間との関係―』(1966年改訂版)より引用してみよう。
  
 谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人の女』は漱石の『猫』とともに、近世日本文学のネコを扱ったものの双璧といえよう。偏執的にネコを愛する主人公の愛猫心理は、愛猫家であった谷崎にしてはじめて、文章のうえに躍如として描写しえたところであろう。また故村松梢風氏ほど徹底した愛猫家もすくない。かれの家ではネコの数だけネコ専用のベッドが用意され、冬はネコのための電気ストーブ、皮膚病予防の太陽灯がそなえられ、一週に一、二回獣医がネコの健康診断にやってきた。
  
 娘夫婦が住んでいた、下落合2丁目722番地(現・下落合4丁目)のグリンコート・スタヂオ・アパートメントへ、ときどきやってきては滞在していた谷崎潤一郎だが、同アパートメントでは「ペット可」の規約だったのだろうか。父親がネコ好きなら、当然娘もそのはずだが、いままで同アパートメントで買われていた動物の記録は見たことがない。
国芳「其のまま地口 猫飼好五十三疋」1848頃.jpg
女性作家記念写真1954林芙美子三回忌.jpg
大谷藤子「六匹の猫と私」1958.jpg
 下落合4丁目1986番地(現・中井2丁目)に住んだ矢田津世子のもとへ、頻繁に顔を見せていた大谷藤子もまた、大のネコ好きだった。1958年(昭和33)に竜南書房から出版されたエッセイ集『六匹の猫と私』では、子どものころから家でネコを飼っていた母親に薦められ、庭先にきていた野良の子ネコを飼うことにするが、それが♀ネコで見るまに彼女の家がネコ屋敷になっていく様子が描かれていて、ネコ好きにはたまらない1冊だろう。
 同書に収録された「お茶漬けネコ」から、魚屋の前にいた主婦たちの会話を引用してみよう。
  
 「ネコがお茶漬けを好きだったら、どんなにいいんだろうなんて思うことがありますわ。でなければ、納豆とかお豆腐とかをねえ」/「うちのネコは、たくあんを食べるんですよ。それに、ホウレン草も好きですわ」/「まあ、たくあんやホウレン草をですって? じゃ、お茶漬けを食べる一歩手前ですわね」/「でも、お茶漬けとまではいきませんわ」/女の人が二人、さかな屋の前で、こんな話しをしている。/「うちのネコは、マグロが好きなので、いつもチアイを食べさせているんですよ。ビキニの灰のときのマグロなんか、あきるほど食べさせてやりましたわ」/「まあ、ビキニのマグロをねえ」/たくあんを食べるネコを飼っている奥さんは、びっくりしたようにいう。/「何しろ、あのときは安かったんですもの。ネコは大助かりでしたわ」/「でも、わたしは、こわくって、食べさせられなかったの」/「あら、うちでは何だってやりますわ。主人が、お酒を飲ませたことだってあるの。腰がぬけたみたいになって、ヒョーロリ、ヒョーロリ、ペタンとなっちまったわ。可哀想に……。でも、お茶漬けは、だめですわ」/二人の女の人は、買い物をすませて帰って行く。
  
 現代の愛猫家が聞いたら、「とんでもない!」と怒りだすような会話だが、当時の日本はいまだ敗戦のキズから立ち直れておらず、食生活も豊かではなかった。また、現在とは異なりネコにしろイヌにしろ、主人の人間に養ってもらっている獣(けもの)というハッキリとした位置づけがあり、その「分際(ぶんざい)」という意識や規範が強かった時代だ。人間と獣類との間には、厳然と区別する一線が引かれるのがふつうの意識であり、現代のようにペットを擬人化して処遇するなどということは、一部の(異常な)愛好者を除けばまずありえないことだった。
 ネコに沢庵など食べさせたら、ほどなく腎臓病になって早死にするとか、第五福竜丸が被曝した、ビキニ島の水爆実験で汚染された「原子マグロ」を与えたりしたら、体内被曝でほどなくガンになって死んでしまうとか、ネコに酒など与えたら呼吸困難で意識を失い、心臓に負荷がかかり最悪の場合は死にいたるとか、現在の知識やペットの位置づけからすれば、いくらでも非難できてしまうのだが、まだ当時は人間が食べていくのさえ精一杯の時代だったので、なんらかの食べものを与えられること自体が、野良ネコとは次元が異なるたいへん恵まれた環境だったのだ。
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 人間の余った母乳を飲ませてもらった、幸福な仔猫の話が残されている。母乳が出すぎると赤ちゃんだけでは飲みきれず、放っておくと乳腺炎になってしまうので、余分な母乳を通い看護婦の飼っていた子ネコに飲ませていたのは、尾崎一雄夫妻だ。上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の「なめくじ横丁」から、下落合4丁目2069番地(現・中井1丁目)の「もぐら横丁」に住んだ尾崎一雄もまた、ネコ好きだったようだ。
 もっとも、連れ合いのほうはそれほどでもなく、むしろネコが発情期にだす声を気味悪がったりしていた。タイトルもそのまま『猫』という、1933年(昭和8)8月に書かれた小説ともエッセイともつかない、登場人物の名前を少し変えただけの「私小説」から引用してみよう。
  
 毎日搾つては捨ててゐる芳枝の余り乳が小皿に移され、生れたばかりと見える仔猫が舌を鳴らしてそれを吸つてゐるのである。私は何も云ふことが出来ず、突つ立つたままそれを見下ろしてゐた。/「お帰りなさい」芳枝と若い看護婦が同時に云つた。/「可愛いいでしよ。これ、昨日貰つて来たんですつて。とてもおいしさうに呑むのよ」/「うん」 我乍ら気の無い声も出るものだと思つた。/「どうせお捨てになるので、勿体なうございますから玉ちやんの御馳走に頂きました」/「ねえねえ。初枝ちやん、玉ちやんと乳姉妹よ。猫と乳姉妹なんて面白いわね」/看護婦と一緒になつてはしやいでゐる芳枝の顔が、この上なく無神経に見えた。
  
 ネコを気味悪がっていた「芳枝」(実際は松枝夫人のこと)が、ネコの「玉ちやん」に余った母乳をあげるのを見て、人と獣との境界をなくすのが「無神経」に思えた著者だが、すぐに「笑ひが止まらず弱つた」気分になっている。おそらく、尾崎夫人はその後もネコを見かけると、気味の悪さは失せてかわいく感じたのではないだろうか。執筆されたのが1933年(昭和8)の夏なので、上落合へ転居してくる直前、諏訪町98番地(現・高田馬場1丁目)に住んでいたころのエピソードだ。
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 ネコを主人公に小説を書いた夏目漱石だが、飼いネコとみられる素描が残されている。(冒頭写真) 蒲団の下にいる仔猫を、誤って踏み殺してしまうほどの無神経さから、それほどネコ好きとは思えない漱石だけれど、スケッチに描かれたネコの意志的な目を見る限り、なにか先々のことを考え、なんらかの人格的な性格を兼ね備えた、人間にいちばん近しい獣ととらえていたのは、どうやらまちがいなさそうだ。だが、人間とあまりに近づきすぎて分際を忘れ、「吾輩は人間である」と勘ちがいするネコがでてくるとは、明治の漱石には思いもよらなかったのではないだろうか。

◆写真上:明治末に描かれた、夏目漱石のスケッチ『猫』。
◆写真中上は、1848年(嘉永元)ごろに制作された国芳『其のまま地口 猫飼好五十三疋』。大磯がタコを引きずる「おもいぞ」、藤沢が青魚をくわえる「ぶちさば(鯖)」、三島が踊る「三毛ま(魔)」など、ほとんど凍えそうなダジャレの世界だ。は、1954年(昭和29)に撮影されたネコ好きが多い作家たちの集合写真。後列左から宇野千代、大谷藤子、阿部艶子、城夏子、壺井栄、平林たい子、前列左から小山いと子、森田たまで、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)の林芙美子邸の庭にて三回忌記念写真。は、ネコ屋敷と化した大谷藤子の書斎。
◆写真中下は、1857年(安政4)制作の安藤広重『江戸名所百景』のうち「浅草田甫酉の町詣」(部分)。は、1962年(昭和37)に制作された熊谷守一の木版画『猫』。は、第二次世界大戦中にドイツ軍の空襲から防空壕に避難していたロンドンの野良ネコたち。
◆写真下は、「猫寺」と猫地蔵で有名な西落合の自性院。は、2020年に出版された町田尚子の絵本『ねこのるすばん』(ほるぷ出版)。人間の目がとどかないところで、なにをしてるか知れたものではないネコたちの生態を描いている。は、本が邪魔だからどけろとお気に入りの書棚で眠るうちのネコ(♀)。「なにか文句がおありなのかしら?」という眼で、いつもにらみつけられる。
おまけ
 木村荘八や大谷藤子と同様に、ネコに囲まれて暮らしているのは向田邦子。ひとり暮らしのせいか、一時期はネコたち専用の部屋まであったらしい。
向田邦子ネコ.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年09月23日 20:30
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    クルミのお菓子は、美味しそうで身体にもよさそうですね。
    2025年09月23日 21:27

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