
1970年(昭和45)に発行された着物雑誌「そめとおり」(染織新報社)には、みゆき染めの石井孫兵衛による回想録が収録されている。同回想録は、同年10月から翌1971年(昭和46)4月までの半年間にわたり連載されたもので、中でも1970年(昭和45)12月号には、戸塚地域(現・早稲田/高田馬場)の旧・神田上水沿いの工房から、落合地域へ移転してきた大正初期の様子が記録されている。移転は関東大震災の前で、豊多摩郡落合村の時代だった。
いつかの記事にも書いたけれど、落合地域に参集した染織工房は最初、大洗堰から舩河原橋までの間を流れる江戸川沿いに点在していたが、付近に印刷工場などが建設されはじめると、河川の汚濁を嫌ってより上流の戸塚地域を流れる旧・神田上水沿い(1966年より神田川)へ、さらに大正期に入ると落合地域の旧・神田上水、および妙正寺川の沿岸へ集まるようになる。大正前期ともなれば、落合地域の両河川にはホタルがあちこちで飛びまわっていた時代だ。
当時の風情を、1970年(昭和45)に刊行された「そめとおり」12月号より、石井孫兵衛の回想録である『蛍、鯉、柿の名所落合/牧歌的な武蔵野史』から、少し引用してみよう。
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私が此の落合へ移住しました頃は、あたり一面が田圃でして、柿と蛍が、東京でも名所と云われていた所でした。/初夏には、神田川の上水である妙正寺川は、澄み切った清流の中からものを思わしそうに、蛍が飛び立ちまして、家の中まで、灯を求めて、飛び込んで来たものでした。/私が移住しました以前は、余り水が清冽でしたので、上水道にも使われていたと申します。/この妙正寺川には、水車がいくつもありまして、その動力でもって、米をついていたものでした。(中略) ですから、当時の事を偲びまして今でも私の家の庭には、柿を大切に植えてありますが、至るところに、柿の木がありまして、秋になりますと、枝もたわわに、あの美しい柿の実が、一杯実っていたものです。/今から思いますと、全く牧歌的な風景そのものの落合でしたが、こう云うのが、国電高田馬場駅より、落合へかけての風景でした。
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河川ばかりでなく、染物業にはかんじんの井戸水も、落合地域は非常に優れていたと証言している。このあたり、井戸水がとても美味しかったので、あえて荒玉水道は引かなかったという落合地域に住む多くの住民証言とも重なってくる。水質は弱アルカリ性で、中には中性に限りなく近い井戸水もあったようだ。そして、井戸水には鉄分が少なかったのも、染物には適した環境だった。「染屋にとっては、先づ最高の場所」と、石井は回想している。
妙正寺川沿いでは、石井孫兵衛の工房がいちばん初めに移転してきたようで、つづいて「小林サン」や「大隈サン」が移住してきたという。大正前期には、6軒の染物工房が妙正寺川沿いに集まったが、さらに染物には最適な地域として工房を誘致するため、「下町の浅草・日本橋・渋谷……それに下町ぢゃありませんが、戸塚あたりまで」、染屋の誘致運動に出かけたり、落合地域の推薦パンフレットを刷っては市街地へまいたりしていた。石井孫兵衛は「大川時代」と書いているが、大川とは一珍(いっちん)染めの師匠がいた大川工房のことで、江戸期からの染物工房へ弟子入りして修業を重ねてきたので、(城)下町の同業者や業界事情には明るかったのだろう。
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私が此の落合へ移住しました頃は、あたり一面が田圃でして、柿と蛍が、東京でも名所と云われていた所でした。/初夏には、神田川の上水である妙正寺川は、澄み切った清流の中からものを思わしそうに、蛍が飛び立ちまして、家の中まで、灯を求めて、飛び込んで来たものでした。/私が移住しました以前は、余り水が清冽でしたので、上水道にも使われていたと申します。/この妙正寺川には、水車がいくつもありまして、その動力でもって、米をついていたものでした。(中略) ですから、当時の事を偲びまして今でも私の家の庭には、柿を大切に植えてありますが、至るところに、柿の木がありまして、秋になりますと、枝もたわわに、あの美しい柿の実が、一杯実っていたものです。/今から思いますと、全く牧歌的な風景そのものの落合でしたが、こう云うのが、国電高田馬場駅より、落合へかけての風景でした。
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河川ばかりでなく、染物業にはかんじんの井戸水も、落合地域は非常に優れていたと証言している。このあたり、井戸水がとても美味しかったので、あえて荒玉水道は引かなかったという落合地域に住む多くの住民証言とも重なってくる。水質は弱アルカリ性で、中には中性に限りなく近い井戸水もあったようだ。そして、井戸水には鉄分が少なかったのも、染物には適した環境だった。「染屋にとっては、先づ最高の場所」と、石井は回想している。
妙正寺川沿いでは、石井孫兵衛の工房がいちばん初めに移転してきたようで、つづいて「小林サン」や「大隈サン」が移住してきたという。大正前期には、6軒の染物工房が妙正寺川沿いに集まったが、さらに染物には最適な地域として工房を誘致するため、「下町の浅草・日本橋・渋谷……それに下町ぢゃありませんが、戸塚あたりまで」、染屋の誘致運動に出かけたり、落合地域の推薦パンフレットを刷っては市街地へまいたりしていた。石井孫兵衛は「大川時代」と書いているが、大川とは一珍(いっちん)染めの師匠がいた大川工房のことで、江戸期からの染物工房へ弟子入りして修業を重ねてきたので、(城)下町の同業者や業界事情には明るかったのだろう。



当時の妙正寺川は、川床が砂利で水が澄んでおり、コイやウナギ、フナなど魚がたくさんいたが、川底が浅いために台風や梅雨などで大雨が降ると、たちまち氾濫して洪水になった。大水や鉄砲水を防ぐため、昭和初期から1936年(昭和11)ごろにまでかけて、蛇行する川筋の整流化と川底の浚渫、さらに大規模な護岸工事が実施されたため、ホタルやウナギ、コイなどの姿が消えていった。また、関東大震災以降は市街地からの移住者が激増して、妙正寺川に生活排水が流れこみ、清冽だった水質は年を追うごとに汚れていったという。
落合地域に染織工房が多く集まるようになったのは、1927年(昭和2)に西武線が開通してからで、1928~1933年(昭和3~8)の間に、おもな染織の工房は落合地域に参集したようだ。日々の仕事の様子を、同誌の回想録からつづけて引用してみよう。
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別に外交専門の店員がいる訳でもありませんので、朝は八時から夕方は五時まで、工場の仕事をして、五時になると、仕事を止めて得意先廻りをします。/家へ帰って来るのが、大体夜の十二時になり、朝は七時から、早くも仕事をやり始めていました。「いっちん染」は、時代に合わないと云うので、「しごき」をするようになりましたから、一反二円の染賃を二円五十銭にして呉れと頼みますと、得意先は殆んど逃げて了って仕事を呉れませんし、困ったものです。/落合へ来ました頃には、未だ弟子がいない時分でしたから、工場の仕事から、得意先廻りまで、何でも一人でやりぬいていかないといけません。(中略) 自転車を唯一の武器にして、飛んで廻って、仕事を貰って来たものでした。
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文中には、「未だ弟子がいない」と書いているけれど、得意先が増え事業規模も徐々に大きくなってきた昭和期に入ると、各地から仕事をおぼえたいという弟子や、染め職人が工房へ集まってきた。弟子が5人に、職人が3人の体制で仕事をこなしていたようだ。
ただし、石井孫兵衛は仕事の仕上りにきびしいため、弟子や職人に対しガミガミと口やかましく叱ったせいか、厳格な師匠に耐えきれず辞めていった弟子や職人もいたらしい。師匠と弟子の関係はきびしく、今日でいえば技術が一人前になるまではパワハラもあたりまえだったろう。現在でも職人の世界では、シビアな師弟関係がそれほどめずらしくない。
落合地域に染織工房が多く集まるようになったのは、1927年(昭和2)に西武線が開通してからで、1928~1933年(昭和3~8)の間に、おもな染織の工房は落合地域に参集したようだ。日々の仕事の様子を、同誌の回想録からつづけて引用してみよう。
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別に外交専門の店員がいる訳でもありませんので、朝は八時から夕方は五時まで、工場の仕事をして、五時になると、仕事を止めて得意先廻りをします。/家へ帰って来るのが、大体夜の十二時になり、朝は七時から、早くも仕事をやり始めていました。「いっちん染」は、時代に合わないと云うので、「しごき」をするようになりましたから、一反二円の染賃を二円五十銭にして呉れと頼みますと、得意先は殆んど逃げて了って仕事を呉れませんし、困ったものです。/落合へ来ました頃には、未だ弟子がいない時分でしたから、工場の仕事から、得意先廻りまで、何でも一人でやりぬいていかないといけません。(中略) 自転車を唯一の武器にして、飛んで廻って、仕事を貰って来たものでした。
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文中には、「未だ弟子がいない」と書いているけれど、得意先が増え事業規模も徐々に大きくなってきた昭和期に入ると、各地から仕事をおぼえたいという弟子や、染め職人が工房へ集まってきた。弟子が5人に、職人が3人の体制で仕事をこなしていたようだ。
ただし、石井孫兵衛は仕事の仕上りにきびしいため、弟子や職人に対しガミガミと口やかましく叱ったせいか、厳格な師匠に耐えきれず辞めていった弟子や職人もいたらしい。師匠と弟子の関係はきびしく、今日でいえば技術が一人前になるまではパワハラもあたりまえだったろう。現在でも職人の世界では、シビアな師弟関係がそれほどめずらしくない。



弟子や職人は、ときに流動的だったが、1929~30年(昭和4~5)には京都から東京へ腕のいい職人が流れてきた。世の中は金融恐慌から大恐慌へと向かっているさなかで、京都の友禅染め業界は不況のために大きなダメージを受けていた。京都からきた職人たちは、朝の10時から仕事をはじめて、夜の10時までに10反を仕上げたが、従来から工房にいた職人たちは、同じ時間内でその半分ほどしか仕上げられなかった。製作リードタイムの短縮と業務の効率化は、注文が増えている工房にとっては大助かりだったのだろう。
また、石井孫兵衛の工房では当時、職人の世界にはつきものだった博打(ばくち)をいっさい禁止した。そして、工房の技術と品質をストイックに磨きながら、江戸東京の高級小紋を製作するチャンスをつかむことになる。「そめとおり」の回想録より、つづけて引用してみよう。
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私が主人になりましてからは、職人につきものの博打は、せめて、ウチだけは、厳禁にしていたものです。/弟子は全く方々から、やって来ました。皆小紋と云う職を、身に付けたいと云う希望者ばかりでして、福島とか、茨木(ママ:茨城)とか……東北方面に当る人々が多かったものでしたが、所謂腕達者なベテランとなりますと、皆京都からの流れ職人でした。/抜き染の誂えばかりをやっています中に、高崎雁水サンが、珍粋を止(ママ:辞)められまして、独立されましてからは、珍粋サンと大川とに、取引きがあった関係上、私が独立して、落合で工場をやっています事を、嗅ぎ付けられまして、ここで始(ママ:初)めて、白生地の仕入れ物を、手掛けるようになりました。/全く、仕入れの高級小紋に飛躍する契機を、造って戴いたのは、高崎雁水サンからでして、あの鋭い感覚でもって、新時代に生きる小紋とはこう云うものだと云う御指導を、始(ママ)めて受けた訳です。(カッコ内引用者註)
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「珍粋」と「大川」は、ともに当時の着物メーカーや工房だが、それらの製造現場では大正期以前の伝統柄ばかりでなく、新しい時代の市場に向けた着物のデザインが常に研究されていた。また、江戸東京は、たとえば京都などとは着物の柄や色彩の好みがまったく異なるため、伝統色を活かしたデザインの工夫が繰り返し行われていたのだろう。まかりまちがっても、この街の親から上の世代の年寄りたちが口にしていた、歩く「金魚」のような着物は論外だったにちがいない。
また、石井孫兵衛の工房では当時、職人の世界にはつきものだった博打(ばくち)をいっさい禁止した。そして、工房の技術と品質をストイックに磨きながら、江戸東京の高級小紋を製作するチャンスをつかむことになる。「そめとおり」の回想録より、つづけて引用してみよう。
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私が主人になりましてからは、職人につきものの博打は、せめて、ウチだけは、厳禁にしていたものです。/弟子は全く方々から、やって来ました。皆小紋と云う職を、身に付けたいと云う希望者ばかりでして、福島とか、茨木(ママ:茨城)とか……東北方面に当る人々が多かったものでしたが、所謂腕達者なベテランとなりますと、皆京都からの流れ職人でした。/抜き染の誂えばかりをやっています中に、高崎雁水サンが、珍粋を止(ママ:辞)められまして、独立されましてからは、珍粋サンと大川とに、取引きがあった関係上、私が独立して、落合で工場をやっています事を、嗅ぎ付けられまして、ここで始(ママ:初)めて、白生地の仕入れ物を、手掛けるようになりました。/全く、仕入れの高級小紋に飛躍する契機を、造って戴いたのは、高崎雁水サンからでして、あの鋭い感覚でもって、新時代に生きる小紋とはこう云うものだと云う御指導を、始(ママ)めて受けた訳です。(カッコ内引用者註)
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「珍粋」と「大川」は、ともに当時の着物メーカーや工房だが、それらの製造現場では大正期以前の伝統柄ばかりでなく、新しい時代の市場に向けた着物のデザインが常に研究されていた。また、江戸東京は、たとえば京都などとは着物の柄や色彩の好みがまったく異なるため、伝統色を活かしたデザインの工夫が繰り返し行われていたのだろう。まかりまちがっても、この街の親から上の世代の年寄りたちが口にしていた、歩く「金魚」のような着物は論外だったにちがいない。




1945年(昭和20)の二度にわたる山手大空襲で、落合地域の河川沿いは壊滅的な被害を受けた。工房もなにもかも、すべてを失った石井孫兵衛は悉皆屋に転業しようとした。だが、子どものころから修業を積んできた、“本職”を放りだしてはいけないと考えなおして、腕一本を頼りに戦後復興の波にうまく乗り、やがて妙正寺川沿いに再び染めの華を咲かせることに成功している。
◆写真上:1973年(昭和48)に銀座のホコテンで撮影された、京都呉服の晴着広告。ウ~~ン……、銀座の柳下には似合わない、うしろ指さされそうな野暮ったい「金魚」デザイン。高度経済成長のもと、江戸東京本来の伝統色がもっとも稀薄化していた時代だった。
◆写真中上:この地方の代表的な染織である、江戸小紋(上)と江戸友禅(中)に江戸紬(下)。
◆写真中下:「そめとおり」に掲載された、女優をモデルに起用した豪華なグラビア。京都の染織企業が目立つが、モデルの女優は江戸東京の出身者が多い。
◆写真下:上・中は、やはり江戸東京出身の女優をモデルにしたグラビア。この地方の美意識からすれば、小川眞由美の小紋と帯がスマートかつ粋で美しい。ほかの東京女性もそうだが、たとえば神田出身の梶芽衣子は派手な柄の京友禅ではなく、本藍染めの江戸小紋か藍色を濃淡織り交ぜた片滝縞あたりの紬などを着せたら、さらに美しく映えて彼女の存在を引き立たせるだろう。江戸東京の女性に、京都のケバケバしい色や派手な柄の友禅は、やはり周囲の風景や文化も含め野暮ったくて似合わない。下は、1970年(昭和45)の「そめとおり」11月号(左)と12月号(右)。
◆写真中上:この地方の代表的な染織である、江戸小紋(上)と江戸友禅(中)に江戸紬(下)。
◆写真中下:「そめとおり」に掲載された、女優をモデルに起用した豪華なグラビア。京都の染織企業が目立つが、モデルの女優は江戸東京の出身者が多い。
◆写真下:上・中は、やはり江戸東京出身の女優をモデルにしたグラビア。この地方の美意識からすれば、小川眞由美の小紋と帯がスマートかつ粋で美しい。ほかの東京女性もそうだが、たとえば神田出身の梶芽衣子は派手な柄の京友禅ではなく、本藍染めの江戸小紋か藍色を濃淡織り交ぜた片滝縞あたりの紬などを着せたら、さらに美しく映えて彼女の存在を引き立たせるだろう。江戸東京の女性に、京都のケバケバしい色や派手な柄の友禅は、やはり周囲の風景や文化も含め野暮ったくて似合わない。下は、1970年(昭和45)の「そめとおり」11月号(左)と12月号(右)。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
わたしもよくやってますが、ハチミツ添えのバタートーストうまそうですね。
石井治方
落合道人
印刷・製本業とともに、用紙屋さんも多かった記憶があります。よくフォークリフト
で、裁断前の大きな印刷用紙を運んでいたのを憶えています。いま、神田川沿いを
散歩すると、それらの業種がほとんどないことに気づきますね。むしろ、アユが棲む
ほど神田川の清流化が進み、染物業のほうが頑張っているような印象です。
わずかこの20年ほどの間の出来事で、時代の転換というのは一気にくるものですね。