戦中戦後を走る堤康次郎の食糧増産列車。

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 きょうの記事は、食事中にノートPCやスマホ片手に読んでいる方がいるとしたら、ただちに読むのをやめてページ遷移することをお奨めする。今回は、江戸東京の郊外野菜の栽培に用いられた重要な肥料、人糞尿のリサイクル活用についてがテーマだ。
 糞尿を肥料にしようと発想したのは、別に日本だけではない。中国をはじめ、アジアの多くの国々では肥料として用いられている。これに対して、ヨーロッパでは早くから糞尿は汚穢(おわい)、つまり汚らわしく厭うものとして忌避されており、古代ローマ帝国の時代から下水を通じて河川へそのまま流し、大地へ還元させるという発想そのものがなかった。したがって、糞尿たれ流しによるさまざまな疾病が、ヨーロッパでは恒常的に流行している。
 人間の糞尿を汚穢だとするとらえ方は、日本史の中では大きく二度ほどありそうだ。一度目は、明治以降に欧米からもたらされた思想や価値観をそのままコピーした時期であり、二度目は1945年(昭和20)以降に米軍からもたらされた衛生観だ。もっとも、ヨーロッパでは糞尿を平然と道路や広場にぶちまけるか、河川へたれ流していたので、実際にはどちらが「衛生」的なのか多々異論があるだろう。ヨーロッパで古くから、男女ともにハイヒールが発達したのは、石畳の道路を歩くときに糞尿の汚れを避けるためだという伝承があるぐらいだ。
 ところが、1877年(明治10)に東京帝大へ招聘された、大森貝塚の発見などで有名なE.S.モースは、糞尿のリサイクルと河川の清潔さ、糞尿による不衛生な環境に起因する病気が、日本ではきわめて少ないことに早くも気づいている。1987年(昭和62)に泰流社から出版された李家正文『糞尿と生活文化』によれば、日本人は糞尿に対する感じ方(抵抗感)が鈍いのではないかとしつつも、モースは「アメリカ人を悩ませる病気が日本ではみられない。(米国では)汚物を下水管で流し水を汚しているのに、日本ではそんなことがない」と記している。
 また、戦後に日本を占領した米軍は、糞尿を肥料のひとつとして育てられた日本の野菜をきらい、東京郊外の府中にわざわざハイドロポニックス水耕田の施設を建設して、将兵のために野菜を供給していた。これは、そもそも糞尿を回収する供給地だった、東京市街地の大半が戦災で壊滅してしまったため、肥料不足ひいては野菜不足に陥っていた課題を解消するための水耕田だったようだが、当然ながら関東ロームの大地+有機肥料で育てられた野菜のほうが風味がよく、戦後の食糧不足の時代でさえ水耕電は日本に定着しなかった。
 糞尿は汚穢だという感覚が欧米から輸入され、それを無批判・無検証で信じてしまう人間が多かった明治期、人糞を化学的に処理して衛生的な肥料にしようという試みが、日本でも行われている。イギリスで開発された肥料製造法のようだが、すばやく効率的に人糞を加工して扱いやすい肥料にできるということで期待されたらしい。もともと、京都の宇治では茶の栽培に人糞を使用していたが、ときに人糞を乾燥させ粉状にしたものを肥料として用いていた例もあり、人糞の加工はイギリスばかりでなく日本でも早くから行われていたようだ。
 明治の初期、本所にあった勧業寮で行われた人糞を原料とする肥料製造について、宮武外骨が主宰していた東京大学大学院の法学政治学研究科に付属する、「明治新聞雑誌文庫」に保存された新聞を見てみよう。1940年(昭和15)に林泉社から出版された『新聞集成明治編年史』第2巻に収録の、1876年(明治9)発行の郵便報知新聞4月18日号より、一部を引用してみよう。
  
 近年英国の発明にて、人糞を煮詰め盡(ことごと)く水分を去り、硫酸とかき和して臭気を止め乾して袋に盛り蓄へ、遠方の運輸に便にし肥料とすることは至極能き工夫なればとて、此程勧業寮にて其術を伝へ、本所五ッ目の広漠なる明け地へ竈を築き大釜を掛け並べ、千早籠城のごとく数十斛(こく)の黄龍汁をぐらぐら煮たぎらすと何とも彼とも譬へ様のなき臭煙が立ち昇り、風の随意々々吹散らすと、近所最寄の人々は胸を悪くし堪らぬとて、数十人連署して(東京)府庁へ願ひ出したるが、其後お止めになりたる由。(中略) 至極能いことゆゑ今後人家遠ふの場所にて盛に製法になつたら、嘸(さぞ)農家の益になる事で御座りましやう。(カッコ内引用者註)
  
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 これは、糞尿を活用して優れた肥料の「硫安」(硫酸アンモニウム)をつくろうとしているとみられる。だが、いくら本所にあった広い空き地を実験場にしても、風向きによっては近辺の住宅地にも臭気が流れこみ、住民たちはたまったものではなかったろう。東京府の命令で、さっそく実験は中止されているようだが、その後、「人家遠ふの場所」でも継続されたのかもしれないけれど、戦後まで糞尿の利用はつづけられたので、肥料開発は結局失敗したのだろう。
 先述したように、野菜栽培をするのに人糞尿は肥料のひとつにすぎず、ほかに江戸期からは糠(ぬか)や草木灰、油粕、魚粕、酒粕、家畜糞なども併せて畑に用いられていた。肥料となる人糞尿は、江戸市街地の町家や武家屋敷と農家が、便所汲みとりの請け負い契約を結び、代償として現金を支払うか、のちに生産した野菜をとどけるかして購入している。貸家や長屋などの場合は、買いとり先の代表として大家か、長屋の差配へカネを支払った。運搬は、農家が用意した肥桶に入れ、大八車や牛車に積んで生産地へと運んでいる。
 糞尿は、そのまま畑には撒けないので、下屋(肥料小屋)や肥溜めで熟成させる必要があった。下肥は、腐熟すればするほど酸性がアルカリ性になり、やがて中性になって優れた肥料になった。当時の農家には、下屋(肥料小屋)あるいは肥溜めがふたつ用意されており、ひとつは熟成させた下肥を保存し、もうひとつは新たに運搬してきた糞尿を貯蔵・熟成させる目的のものだった。練馬区教育委員会が、1985年(昭和60)にまとめた『練馬大根』によれば、甘みのある大きなダイコンを育てるのに、もっとも適した肥料は下肥と糠の2種類だったという。
 また、食糧や物資(肥料など)が極端に不足していた戦時中にも、糞尿の活用は大いに奨励されている。この事業を推進したのは、下落合の目白文化村国立学園都市を開発した、箱根土地でおなじみの堤康次郎だ。往路の鉄道で糞尿を東京郊外の田園地帯へと運び、糞尿貯溜槽と呼ばれるタンクでしばらく保存し、帰路の列車で生産物を東京市街地へと運びこむ、食糧増産&流通サイクルの事業化を試みている。畑への下肥利用と野菜栽培は、堤家の自宅で実証実験が繰り返されたようで、糞尿の貯蔵・熟成にはどの程度時間をかければすぐに利用できる状態になるか、堤自身をはじめ操夫人や娘、女中らも総動員して自宅の庭で実証実験に取り組んでいたらしい。
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 糞尿輸送は、1944年(昭和19)6月からスタートし、戦後の食糧難時代をほぼ脱却する1953年(昭和28)3月までつづけられている。糞尿輸送と食糧増産計画を事業化するにあたり、堤康次郎は資本金3,000万円で食糧増産株式会社を、1944年(昭和19)7月に設立している。では、その様子を、1955年(昭和30)に東洋書館から出版された筑井正義『堤康次郎伝』より引用してみよう。
 なお、糞尿輸送は西武線(現・西武新宿線)の開設時からまもなく開始されたと話される方もいるが、明らかに誤りで、戦争末期から9年弱つづけられた東京都ひいては国の食糧増産計画とシンクロした事業だった。ただし、ややこしいことに武蔵野鉄道(現・西武池袋線)や東武東上線では大正中期から行われており、当時は食糧増産がテーマではなく、人口が急増する東京市部の衛生環境、すなわち都市問題としての屎尿処理がメインテーマだった。
  
 まず輸送用の専用タンク車を百十五輌つくった。タンク車はコック一つひねればドーッと下へ出るように設計した。糞尿貯溜槽は武蔵野、西武の両沿線数十ヶ所に全容積二十七万一千五石のものを作った。肥溜の上へレールをしき、ここへタンク車を引込んで、コックをひねれば手をよごさずに操作できるというわけだ。輸送第一号車が肥溜にあけられる日、これをみにきた島田農林大臣や大達都長官、それに当時都会議員だった浅沼稲次郎等は、堤の構想にびっくりしたという。/このくさい特別列車が、とくに深夜の輸送力を利用して行われたことも従業員にとっては、かなりの負担となったが、みな喜んで協力した。/堤はまたこの肥料を利用して食糧増産を考えた。両電鉄を中心として東京都の郊外と埼玉県下の不毛の土地、平地、林野など二千町歩を開墾して畑にしようというのだ。そして、その食糧は専用タンクの上に特殊装置を作って、復路に運搬することまで計画した。
  
 文中、糞尿貯溜槽は「数十ヶ所」となっているが、1944年(昭和19)11月現在では17ヶ所の貯溜槽が稼働していた。堤康次郎が実施したのは、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)と西武鉄道(現・西武新宿線)の2線だが、郊外の田園地帯から食糧不足が深刻な大都市へ乗り入れする鉄道の大手は、戦争末期から戦後にかけて全国的に同様の輸送事業を手がけている。
 東京ではほかに東武鉄道が、名古屋では名古屋鉄道が、近畿では大阪電気軌道や京阪神急行電鉄が下肥輸送に参画していた。なお、国有鉄道は東京都(1943年より府→都)ひいては国の要請を拒否し、鉄道による糞尿輸送を引きうけた堤康次郎のもとへ、運輸通信省の牛島辰弥が訪れて、「国鉄に(糞尿輸送の)累が及ぶ」として抗議している。食糧増産計画は、戦中戦後を通じての大都市を抱える地方自治体ひいては国策だが、国鉄が拒否して私鉄が協力しているのは興味深い事実だ。
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 戦争末期から戦後の食糧難時代、毎年全国で万単位の餓死者が出たとされるが、政府統計が残る1950年(昭和25)の時点でさえ9,119人が餓死している。だが、これは正式に栄養失調と認定された数字であり、衰弱死など限りなく餓死に近い例まで入れると膨大な数にのぼるだろう。敗戦直後には、政府(+GHQ)は1,000万人の餓死者が出ると予測していた。それほど、国内の食糧は絶対的に不足し危機的な状況だったにもかかわらず、1944年(昭和19)の戦時中から自治体や国が推進する食糧増産計画は私鉄ばかりが協力し、国鉄が拒否して参画しなかったのは不可解で奇異に映る。鉄道官僚のエリートたちは、ことさら「汚穢」とかかわるのを忌避したものだろうか。日々、国内で数百人の餓死者が出る状況下、そんなことを気にしている場合ではなかったと思うのだが。

◆写真上:赤門を入ってすぐの、東京大学大学院法学政治学研究科「明治新聞雑誌文庫」入口。
◆写真中上は、1876年(明治9)4月18日に発行された郵便報知新聞の「人肥製造の失敗」記事。は、現在の畑で散布される化学肥料の「硫安」(硫酸アンモニウム)。は、宮武外骨が主宰・管理していた「明治新聞雑誌文庫」の資料室内部。
◆写真中下は、農家で実際に使われた直径38cm()と35cm()の肥桶。は、糞尿を運ぶ牛車。は、農家の畑近くに建てられた下屋(肥料小屋)。
◆写真下は、府中に建設された米軍のハイドロポニックス水耕田施設。は、西武鉄道が115輌製造した糞尿輸送のタンク車。上部には、復路で生産物を積載する設備も備えていた。

この記事へのコメント

  • 石井治方

    幼少期熊谷過ごした事が有り 農家の人が肥を汲みに来て野菜を置いて行きました 東京に戻り東京でもバキュームカーを見掛けました 江戸時代からの最高のリサイクルシステムでしたが 戻る事は無理でしょうが。
    2025年05月29日 09:50
  • 落合道人

    石井治方さん、コメントをありがとうございます。
    子どものころの家は水洗でしたが、近くに浄化槽という地下式のコンクリートで
    できた汚水貯蔵槽があり、たまにマンホールのふたを開けバキュームカーが汲み
    とっているのを見かけました。
    家では、できるだけ有機栽培の野菜を購入するようにしていますが、いまと
    なっては寄生虫などよりも、化学肥料や農薬多用による野菜栽培のほうが、
    身体に与えるダメージがよほど大きくて怖いと感じる時代になりましたね。
    2025年05月29日 10:40
  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年05月29日 20:35
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    だんだんできてきましたね。わたしも近々、ネコの記事を書きたいと
    思っています。
    2025年05月29日 21:03

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