
1953年(昭和28)1月から6月まで、読売新聞に連載されたコラム「味なもの」を読んでいると、ときどきわたしの時代と重なる“食いもんや”が登場していて懐かしい。いまは存在しない店もあるが、300年以上にわたってつづく江戸期からの老舗も少なくない。
わたしの学生時代、早稲田の古書店街を探しても見つからない古本や、高田馬場または新宿の輸入盤店を漁っても見つからないブートレグなどの稀少レコードは、わざわざ駿河台や神田神保町まで足を伸ばしては探し歩いたものだ。運よく目的の本やレコードが見つかればいいが、見つからないときは手もとに用意していたおカネが残るので、かわりに駿河台から神田小川町まで歩き「笹巻けぬき鮨」をお土産に買っては、南長崎の学生アパートで食べていた。
思いだしてみると、神保町→駿河台→小川町→御茶ノ水駅というコースは、めずらしい本やレコードが見つかる散歩道であるのと同時に、神田にある古くからの“美味(うま)いもん”を食べさせる店が、当時はいまだあちこちにあったことがわかる。学生時代は貧乏だったので、とても老舗の“美味いもん”を食べに寄ることなどできず、「笹巻けぬき鮨」の折詰めをだいじに抱えて帰るのがせいぜいだった。ただし、折詰めは学生の腹満たしには少し足りない量だったので、あとからカップラーメンを食べたりしていたのを憶えている。
開店は1702年(元禄15)だから江戸中期、今年(2025年)で創業323年を迎える「笹巻けぬき鮨」は、握り鮨が好きだった親父の口にはあまり合わなかったようで、子どものころにこの店で食べさせてもらった記憶はない。したがって、学生時代に口にしたのが初めてだった。きっかけは、「江戸名物」と書かれた暖簾ないしは看板の前で、「どんな鮨なんだろ?」とショウウィンドウの笹の葉を巻いた鮨をしばらくのぞいていたら、店内から割烹着姿の女性が出てきて、「お持ち帰りもできますよ」と声をかけられたのが最初だったと記憶している。
確か当時の値段は、5ケ入りの折詰めが800~900円、10ケ入りのものが1,500円ぐらいだったと思う。もちろん、学生の身分では5ケ箱しか買えなかったけれど、握り鮨ではなく笹の葉で巻いた独特な製法で、飯に含む甘酢は少し強めだ。握り鮨の新鮮さとはまったく別な、江戸の古い時代ならではの鮨の風味が感じられて美味しい。折詰めで予想された方もあるかもしれないが、「笹巻けぬき鮨」は基本的に食べ物を長もちさせる“保存食”で、江戸期から遠出の花見や遊山のときなどに持参する、昼の弁当がわりなどに用いられた。
鮨をくるんでいる笹の葉には、細菌の増殖を抑制する滅菌効果があるからで、酢が少し強めなのも鮨を長もちさせるための工夫だ。ネタには、コハダやエビ、コダイ、卵焼き、おぼろ、海苔などが用いられ、季節によっては青身魚や白身魚が加わったように思う。わたしは、青身魚とコダイが好きで、ときどき寄っては買っていた。10ケ箱にしてしまうと、輸入盤のLPレコードが1枚余裕で買えてしまうので、頼むのはいつも5ケの折詰めだった。
1953年(昭和28)に現代思潮社から出版された読売新聞社会部・編『味なもの』収録の、源氏鶏太「秘伝をついで二百五十年」から引用してみよう。
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店は小川町にある。店でも食べさせるが、出前が主であるらしい。私はこの店にいって、いちばん興味深かったのは、八代目である八十歳の宇田川しげさんであった。多少、後家のガンバリ的であったが、実に、元気で、わが家に継がれてきた秘伝については、絶対の自信を持っていた。主人には十三年前、七十三歳で亡くなられて、しかも子供がなく、現在は夫婦養子を迎えている。(中略) しげさんは、今でも、鮨をつくる技術は、誰にも負けない自信に満ちている。きたないことの嫌いな性分は、店内によく現れていた。そして、孤独で、きかん気の強いしげさんは、一生、鮨を忘れることはないだろう、と思った。
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この「夫婦養子」が、おそらくわたしの学生時代の店主だろう。いまでも、魚をあれこれいじりすぎて風味を落とさないために、細かい小骨はいちいち毛抜きでとっているという。



少し前、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)に住む林芙美子がいきつけの蒲焼き屋は、戦後に評判の根岸「宮川」だとてっきり勘ちがいしていたことを書いたが、灯台もと暗しで、うちの先祖たちの墓がある深川(門前仲町)の深川八幡(富岡八幡)の前、大横川をはさんだ深川の「宮川」だった。残念ながら、現在は閉店してしまったようだが、そこを訪ねているのは下落合3丁目1447番地(現・中落合2丁目)に住んだ洋画家の宮田重雄だ。ちなみに、林芙美子が大江賢次を襲ったのはw、浦和のうなぎ屋で深川のいきつけだった「宮川」ではない。
『味なもの』に掲載された、宮田重雄「粋の本場に風流の店」から少し引用してみよう。
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すぐ向こう側が八幡様で、八幡鐘だの、羽織だのと本来、大へん粋なところだが、いまや辰巳芸者もトンコ節を歌わねば生きて行けない。/一体深川というところは昔はうなぎの名所で、うなぎ屋の多かった場所だという。「宮川」という名前は文政のうなぎ屋番付に出ているそうだ。東京にも「宮川」を名乗るうなぎ屋がずいぶん沢山あるらしい。中には「宮川総本家」と名乗る家もあるというが、みんなこの曼魚さんの家とは無関係だとのこと。(中略) 寒菊に霜除けした庭に趣があって、それをいうと主人は秋草の時がいいという。林芙美子さんは、この庭の秋草の風情を好んだそうだ。食べる物の味ばかりでなく、壁の色から床の軸から、投入れた花から、庭の下駄まで、一本神経をとおらせることは大へんなことだと思う。
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文中の「八幡鐘」は、江戸期に設置された“刻の鐘”のひとつで、「曼魚さん」は随筆家で江戸研究家でもあった店主の宮川曼魚のことだ。辰巳芸者が歌って弾いていた「トンコ節」は、戦後に流行った当時の歌謡曲で、すでに昔ながらの江戸唄ではないことに気づく。
わたしは子ども時代も含め、この「宮川」には一度も寄ったことがないと思う。墓参りの帰りに親と寄っていた蒲焼きは、もの心つくころから深川不動前の「大和田」のほうだった。林芙美子が、大横川向こうの牡丹町にあった「宮川」の馴染みになったのは、戦前「女人藝術」か「輝ク」のからみで、宮川曼魚と同郷の長谷川時雨あたりに連れてってもらったものだろうか。戦災で焦土と化したあと、戦後は庭もあって風情がよかったようだが、東京オリンピック1964を境に道路の拡幅や倉庫街の進出、河川の汚濁などが進み、「秋草の風情」どころではなくなったのだろう。
『味なもの』に掲載された、宮田重雄「粋の本場に風流の店」から少し引用してみよう。
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すぐ向こう側が八幡様で、八幡鐘だの、羽織だのと本来、大へん粋なところだが、いまや辰巳芸者もトンコ節を歌わねば生きて行けない。/一体深川というところは昔はうなぎの名所で、うなぎ屋の多かった場所だという。「宮川」という名前は文政のうなぎ屋番付に出ているそうだ。東京にも「宮川」を名乗るうなぎ屋がずいぶん沢山あるらしい。中には「宮川総本家」と名乗る家もあるというが、みんなこの曼魚さんの家とは無関係だとのこと。(中略) 寒菊に霜除けした庭に趣があって、それをいうと主人は秋草の時がいいという。林芙美子さんは、この庭の秋草の風情を好んだそうだ。食べる物の味ばかりでなく、壁の色から床の軸から、投入れた花から、庭の下駄まで、一本神経をとおらせることは大へんなことだと思う。
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文中の「八幡鐘」は、江戸期に設置された“刻の鐘”のひとつで、「曼魚さん」は随筆家で江戸研究家でもあった店主の宮川曼魚のことだ。辰巳芸者が歌って弾いていた「トンコ節」は、戦後に流行った当時の歌謡曲で、すでに昔ながらの江戸唄ではないことに気づく。
わたしは子ども時代も含め、この「宮川」には一度も寄ったことがないと思う。墓参りの帰りに親と寄っていた蒲焼きは、もの心つくころから深川不動前の「大和田」のほうだった。林芙美子が、大横川向こうの牡丹町にあった「宮川」の馴染みになったのは、戦前「女人藝術」か「輝ク」のからみで、宮川曼魚と同郷の長谷川時雨あたりに連れてってもらったものだろうか。戦災で焦土と化したあと、戦後は庭もあって風情がよかったようだが、東京オリンピック1964を境に道路の拡幅や倉庫街の進出、河川の汚濁などが進み、「秋草の風情」どころではなくなったのだろう。



もうひとつ面白く感じたのは、作家の菊岡久利が紹介している、銀座通りの裏にあった「牛めし屋」だ。『味なもの』に収録の「銀座裏に残る牛めし屋」では、銀座並木通りの尾張町(銀座4丁目)寄り三笠会館近くに開店していた、「天下一牛めし」の俎板看板を掲げていた御飯屋「太公房」という店だ。看板からすると、「牛めし」は当然“和食”の領域だと思われるのだが、これがまったくちがったようなのだ。ひと皿100円で出されていた「牛めし」を、少しだけ引用してみよう。
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ブラウン・ソースを入れろといったのは郵船浅間丸で鳴らした南条君、花キャベツを入れろといったのは作曲家の団伊玖磨、トマトとブドウ酒で味付けをし、セロリィで抵抗感を出せといったのは浅草、吉原、新宿追分でそのかみ(ママ)「牛めし学」を専攻していた小生の意見である。日本通の安藤鶴夫が驚倒し、フランス貧乏料理通の鳥海青児画伯舌賛するのもむべなるかなで、店頭の懸額には「温故知新」久保田万太郎、「日に日に新なり」川端康成とある。
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これって、上野精養軒(江戸期の旧・築地西洋館ホテル料理部)の林料理長が考案した、ハヤシライスに限りなく近い料理で、まちがっても「牛めし」などと呼ぶ料理じゃないのでは?w 敗戦後の銀座あたりになると、これが「牛めし」になるのかと思うとおかしい。
文中では、随筆家で仏文学者の辰野隆(ゆたか)が、「牛鍋」や「牛めし」という言葉(見世)が消えてしまったと嘆いていることが紹介されている。けれども、日本の軍閥を「低能無識背徳」で「彼等馬鹿野郎ども」と罵倒した見識をお持ちの頑固な辰野先生に、上記の料理を「牛めしです」と出したら、卓袱台(ちゃぶだい)返しはまちがいないのではないか。
辰野隆が教授をしていた、本郷あたりの馴染みな学生街では、「牛めし」「牛鍋」は消えてしまったのかもしれないが、神楽坂あたりでは1980年(昭和55)ごろまでは確実に残っていた。わたしの学生時代、神楽坂の毘沙門横丁にあった牛めし屋「牛もん」は、700~800円ほどで牛めし定食を食わせてくれた。友だちといっしょに2階の座敷に上がって待っていると、小さな鉄鍋に牛肉と野菜類を入れた卵つきの膳が運ばれてきた。要するにミニ牛鍋の趣きなのだが、これなら辰野先生はひっくり返さず、おとなしく食べたのではないかと思う。
もっとも、牛肉は脂身が多く野菜もモヤシがやたら入っていた記憶があるが、学生相手のランチ商売では、価格を抑えるのに四苦八苦していたのだろう。ちなみに「牛もん」=牛門とという店名は、神楽坂の下にあった外濠の向こう側、千代田城の牛込御門(牛込見附)のことだ。
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ブラウン・ソースを入れろといったのは郵船浅間丸で鳴らした南条君、花キャベツを入れろといったのは作曲家の団伊玖磨、トマトとブドウ酒で味付けをし、セロリィで抵抗感を出せといったのは浅草、吉原、新宿追分でそのかみ(ママ)「牛めし学」を専攻していた小生の意見である。日本通の安藤鶴夫が驚倒し、フランス貧乏料理通の鳥海青児画伯舌賛するのもむべなるかなで、店頭の懸額には「温故知新」久保田万太郎、「日に日に新なり」川端康成とある。
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これって、上野精養軒(江戸期の旧・築地西洋館ホテル料理部)の林料理長が考案した、ハヤシライスに限りなく近い料理で、まちがっても「牛めし」などと呼ぶ料理じゃないのでは?w 敗戦後の銀座あたりになると、これが「牛めし」になるのかと思うとおかしい。
文中では、随筆家で仏文学者の辰野隆(ゆたか)が、「牛鍋」や「牛めし」という言葉(見世)が消えてしまったと嘆いていることが紹介されている。けれども、日本の軍閥を「低能無識背徳」で「彼等馬鹿野郎ども」と罵倒した見識をお持ちの頑固な辰野先生に、上記の料理を「牛めしです」と出したら、卓袱台(ちゃぶだい)返しはまちがいないのではないか。
辰野隆が教授をしていた、本郷あたりの馴染みな学生街では、「牛めし」「牛鍋」は消えてしまったのかもしれないが、神楽坂あたりでは1980年(昭和55)ごろまでは確実に残っていた。わたしの学生時代、神楽坂の毘沙門横丁にあった牛めし屋「牛もん」は、700~800円ほどで牛めし定食を食わせてくれた。友だちといっしょに2階の座敷に上がって待っていると、小さな鉄鍋に牛肉と野菜類を入れた卵つきの膳が運ばれてきた。要するにミニ牛鍋の趣きなのだが、これなら辰野先生はひっくり返さず、おとなしく食べたのではないかと思う。
もっとも、牛肉は脂身が多く野菜もモヤシがやたら入っていた記憶があるが、学生相手のランチ商売では、価格を抑えるのに四苦八苦していたのだろう。ちなみに「牛もん」=牛門とという店名は、神楽坂の下にあった外濠の向こう側、千代田城の牛込御門(牛込見附)のことだ。



江戸東京の懐かしい店や、現役の老舗が数多く紹介されている『味なもの』だが、意地きたないわたしにはピッタリな随筆集なのだろう。読んでいてまったく飽きないのは、同時に昔のさまざまな東京の情景がよみがえってくる、“想い出帳”のような味わいがあるからかもしれない。
◆写真上:「牛もん」で昼どきに出されていた、学生相手の牛鍋はこんな感じの具材構成だった。
◆写真中上:上は、神田小川町にいまも健在な「笹巻けぬき鮨」の入口。中は、同店の鮨7ケ定食。下は、源氏鶏太が描く同店主の「8代目・宇田川しげ像」。
◆写真中下:上は、つい最近閉店したかつて一度も食べたことがない深川「宮川」。中は、同店のうな重。(いずれも「食べログ」より) 下は、宮田重雄が描く深川「宮川」。
◆写真下:上は、銀座並木通りにあったらしい“牛めし屋”を菊岡久利が描いた「太公房」。中は、上野精養軒で発明された元祖ハヤシライス。下は、三菱銀行(写真右手)と毘沙門天や出世稲荷(同左手)間を西へ入る毘沙門横丁のすぐ1軒目、写真右手の鮨屋のあたりが「牛もん」の店跡。
◆写真中上:上は、神田小川町にいまも健在な「笹巻けぬき鮨」の入口。中は、同店の鮨7ケ定食。下は、源氏鶏太が描く同店主の「8代目・宇田川しげ像」。
◆写真中下:上は、つい最近閉店したかつて一度も食べたことがない深川「宮川」。中は、同店のうな重。(いずれも「食べログ」より) 下は、宮田重雄が描く深川「宮川」。
◆写真下:上は、銀座並木通りにあったらしい“牛めし屋”を菊岡久利が描いた「太公房」。中は、上野精養軒で発明された元祖ハヤシライス。下は、三菱銀行(写真右手)と毘沙門天や出世稲荷(同左手)間を西へ入る毘沙門横丁のすぐ1軒目、写真右手の鮨屋のあたりが「牛もん」の店跡。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
きょうは久しぶりに、近所の茶室に集う着物姿の女性を20人ほどみかけました
ので、冒頭のネコの鼻が茶請けの和菓子に見えてしまいました。w