戦前のももんじ屋にオオカミが入荷していた。

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 以前、大江戸の各地にあったももんじ屋(肉理屋)についてご紹介しているが、大橋(両国橋)東詰めの本所側に、1718年(享保3)から開店している「豊田屋」さんには、興味深い記録が残っていた。ももんじとして、2頭のニホンオオカミを仕入れたというものだ。
 しかも、このエピソードは吉田家の先々代にあたる8代目が記憶していたものであり、時代は戦前の昭和初期だと思われる。ご存じのように、ニホンオオカミは1905年(明治38)を最後に絶滅したとされているが、明治末から現代にいたるまで目撃情報や遠吠えの報告はあとをたたない。環境庁の規定では、「過去50年間の生存確認ができない」という規定から絶滅種とされている。ところが、豊田屋では昭和初期に「狼」を仕入れていた。
 ちょうど同時期に、南方熊楠は周辺の紀伊山中でニホンオオカミの目撃情報が絶えないことから、熊野古道へ探索に出かけたりしている。また、関東の秩父山系では、オオカミとみられる動物が猟師や登山家、ハイカーたちによって頻繁に目撃されており、国の規定がどうであれ、そこにいて当然のような存在として戦前戦後を通じ伝えられている。
 わたしは親に連れられ、幼稚園のころから豊田屋へは昼食・夕食を問わず食べに寄っていたけれど、オオカミの話は聞いたことがない。わたしの子どものころは、8代目・吉田実店主から9代目にかかる時代だったのだろう。オオカミのエピソードが記録されたのは、1953年(昭和28)1月から半年間にわたり、読売新聞に連載されたコラム「味なもの」で、豊田屋を訪ねて8代目の吉田店主からオオカミの話を聞いているのは石黒敬七だ。1953年(昭和28)に現代思潮社から出版された読売新聞社会部・編『味なもの』収録の、石黒敬七「享保の昔から精力鍋」より引用してみよう。
  
 此頃は猪と鹿ぐらいのものだが、時々、猿、狐、狸、熊などがくるそうだ。主人公<8代目店主・吉田実>が覚えあってから狼が二匹来たことが一回だけあるという。「お相撲さんも場所の前後には見えます。場所中は四ツ足(手をつくの意)だというので、縁起をかついで見えません」とのこと。春日野親方、元安芸ノ海、栃錦、元双葉山などは好きらしい。(< >内引用者註)
  
 豊田屋の常連には、9代目・市川団十郎西園寺公望2代目・市川猿之助尾崎士郎横山大観坂口安吾、木村武山……などがいたようだ。石黒敬七は「精力鍋」とタイトルしているが、わたしが子どものころ……というか親の世代から上では、寒い冬場の夜や雪の降った日などに、冷えた身体を暖めるのが“ももんじ食”の目的なので、別に「精力」云々は上野山下のケコロ(岡場所)のやき鳥深川の「う」と同様、年間を通じて食べてもらえるよう、あと追いでつけられた「効能」(大正以降?)ではないだろうか。
 いつか、大江戸の武家屋敷跡や商家跡から、たくさんのアオジシ(ニホンカモシカ)やシシ(ニホンジカ)など山に棲む動物の骨が発掘された記事を書いたけれど、江戸の武家・町人を問わず肉食、あるいは江戸各地のももんじ屋の暖簾をくぐって肉料理を食べるのは、別に江戸中期から特別めずらしいことではなくなっていた。流行りの江戸本などに書かれている、おそらく江戸詰めだった大名のこの街以外の藩士か、仏教の関係者あたりが記録したとみられる「薬食い」などという意識はなく、大江戸での肉食はとうに定着していただろう。うちの先祖も、大橋(両国橋)の東詰めに開店した豊田屋へ、さっそく冬の寒い夜など食べに出かけていると思われる。
 上記の文中に挙げられているももんじの中で、もちろんオオカミは食べたことがないが、サルは気味が悪いので口にしたことがなく、仕入れのタイミングが悪いのかキツネも食べたことがない。イノシシとタヌキ、シカ、クマは豊田屋で食べている。イノシシ鍋とシカ(ニホンジカ・エゾシカを問わず)の刺し身や鍋は非常に美味だが、ツキノワグマの鍋や汁は美味しくない。クマは、北陸にある多くの鮨屋がそうしているように、極低温冷凍で殺菌・殺虫してルイベ(ルイペ:溶かしながら食べる料理の総称/アイヌ語)の状態から、ポッと赤みがさした溶けかけの刺し身を、ワサビ醤油でいただくのがすばらしく美味しい。
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味なもの1953現代思潮社.jpg 宗像充「ニホンオオカミは消えたか?」2017旬報社.jpg
 タヌキは、どう調理しようが臭くてマズイので口にあわない。おそらく、キツネも同じような風味ではないかと想像しているが、どうだろうか。アオジシ(ニホンカモシカ)は、牛肉よりもはるかに美味しいという記録が、戦前の資料やマタギの記録各種には見えるけれど、現在は特別天然記念物に指定され、食べると即座に逮捕されるので経験がない。オオカミの味は、はたしてどのような風味だったのだろうか。食肉目イヌ科に属する動物なので、イヌの肉に近い味なのだろうか? もっとも、わたしはイヌ肉も食べたことがないので味はわからない。
 ちょっと横道へそれるけれど、江戸東京ではキツネのことを「コンチキ」あるいは「コンコンチキ」と呼んでいた。この名称は、うちの祖父から親の世代まで現役でつかわれていて、そのころにはキツネの呼称というよりも、なにかを強調したいときに語尾へくっつける表現としてつかわれていた。「嘘八百のコンコンチキだ」とか「バカ丸出しのコンコンチキなやつだ」、「当ったりまえのコンコンチキさね」とかいうつかい方だ。有吉佐和子は、『和宮様御留』(講談社/1978年)の中で京の祇園囃子を「コンコンチキチン、コンチキチン」と表現しているが、これはもちろん本来の意味でつかわれている事例で、陰険でズルがしこいイメージが付与されたキツネ(かわいそうに)を、京の公家たちになぞらえて「コンコンチキ」としたものだろう。
 さて、ももんじの豊田屋で昭和初期に仕入れた「狼」は、はたして「オオカミ」だったのか、それとも「ヤマイヌ」と呼ばれ、江戸期には同一視されていた別種のイヌ科動物だったのだろうか。これは相変わらずハッキリせず、ニホンオオカミの謎とされているテーマだ。そもそも、オランダのライデン博物館に保存されているシーボルトが送った標本でさえ、それぞれの個体標本が一致していない。したがって、現在では日本の山中にはニホンオオカミとともに、イヌ科のもう1種類の動物が棲息していたのではないかという見方が有力なようだ。
 誤解を怖れずにいうなら、ちょうど北米大陸におけるオオカミとコヨーテのような関係に似ているだろうか。けれども、北米大陸ほどコトは単純ではなく、ニホンオオカミはイヌとも交配していたような形跡が見うけられ、亜種の存在という課題がよけいに分類をややこしくしているようだ。つまり純粋なニホンオオカミと、イヌと交配した亜種の雑種オオカミと、日本の山に棲息し「ヤマイヌ」と呼ばれた独自のイヌ科の動物の、3種類が想定できるということなのだろう。
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 江戸期の人々は、ニホンオオカミ(狼)ともう1種(2種?)のイヌに似た野生動物(豺・犲=山犬)を、総称して「ヤマイヌ」あるいは「オオカミ」と呼んでいた可能性があるということだ。シーボルトは、確実に2種の異なるイヌ科の動物と認識していたが、ライデン博物館館長のテミンクはシーボルトの帰国を待たず、1種と断定してタイプ標本化してしまった。その錯誤(?)の経緯を、2017年(平成29)に旬報社から出版された、宗像充『ニホンオオカミは消えたか?』から引用してみよう。
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 ライデン自然史博物館にCanis hodophilaxのタイプ標本として現在保存されている標本は、シーボルトが送ったものとされる。一体の動物のセットではなく、三つの頭骨と一つの全身骨格、それによく知られている立像の剥製標本があり、後ほど述べるように三体の動物のものであると説明されている。/シーボルト自身は、ヤマイヌとオオカミという二種類の動物をライデンに送ったつもりだった。ところがライデン自然史博物館の初代館長で、鑑定にあたった動物学者テミングは、それらをまとめてCanis hodophilaxとし、標本群をタイプ標本に指定している。/山根(一眞)は剥製標本の台座の裏には、「Jamainu」と明記があることを確認している。ニホンオオカミの呼称はヨーロッパでは当初、ヤマイヌという動物一種とされていた。ヤマイヌに付された学名がCanis hodophilaxだから、オオカミには、まだ学名が付されていないことにもなりかねない。(カッコ内引用者註)
  
 この背景には、シーボルトとテミングの根深い確執があったとされている。シーボルトが長崎の出島に拘禁されて(いわゆる「シーボルト事件」)帰国が遅れている間に、シーボルトが2種のイヌ科動物として送った標本をあえて1種にまとめ、シーボルトの業績をできるだけ過小化しようとしていたフシが見られるのだ。ライデン博物館に保存されているタイプ標本には、「発見者」であるシーボルトの名前ではなく、テミングの助手の名前が記されている点からも、シーボルトの業績を「なかったこと」にしようとする意図がうかがえるというのが現状の解釈だ。
 現代から見ると、ライデン博物館のタイプ標本は2種以上の動物に分類されている。ひとつの頭骨と全身骨格(♂)は、明らかにイヌ(野犬?)のものであり(A)、もうひとつの頭骨は日本国内でニホンオオカミとされる標本と一致している(B)。また、残りの頭骨と剥製にされた標本は、ニホンオオカミに似ているが小型で、国内に残るニホンオオカミの毛皮などと比較してもかなり小さい(C)。すなわち、先述したようにBが本来のニホンオオカミであり、Aが日本の山野にいたイヌ科の未知の動物(ヤマイヌ?)で、Cがオオカミとヤマイヌが交配した亜種ということになりそうだ。
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 いまの動物学による観察・分類を踏まえると、ももんじ屋「豊田屋」が仕入れた「狼」とは、はたしてニホンオオカミだったのだろうか? それとも、日本の山野にいたイヌ科の固有動物(ヤマイヌ)、あるいはオオカミとイヌとが交配した亜種だったのだろうか? 昭和初期のことなので、写真が撮られたかもしれないが、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲で焼失しているのだろう。実際にそれを食べた人物の“食レポ”が残されていないかどうか、これからも注意してみたい。

◆写真上:子どものころから見かける、豊田屋の軒先に吊るされたイノシシ。ちなみに、イノシシ以外の動物が熟成のために吊るされているのは見たことがない。
◆写真中上は、夜になると輝くももんじ屋「豊田屋」の電飾看板。は、出汁を先に張ってから肉を入れる江戸東京では牛鍋と同じく「鍋料理」に分類されるシシ鍋。下左は、1953年(昭和28)に出版された読売新聞社会部・編『味なもの』(現代思潮社)。下右は、2017年(平成29)に出版された宗像充『ニホンオオカミは消えたか?』(旬報社)。
◆写真中下は、ライデン自然史博物館に収蔵されているシーボルトが収集した「Jamainu(ヤマイヌ)」の剥製だがニホンオオカミとは形状が異なる。は、シーボルトの資料に描かれたヤマイヌ。は、和歌山大学が所蔵しているニホンオオカミの剥製標本。
◆写真下は、東京大学が所蔵しているニホンオオカミの剥製。は、国立科学博物館に展示されているニホンオオカミの骨格標本。は、狛犬ならぬ狛狼が出迎える渋谷の宮益御嶽社。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年05月20日 20:16
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    ちょうど季節がら、花卉がめちゃくちゃ美しいですね。
    2025年05月20日 20:29

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