
1924年(大正13)の6月から8月にかけて撮影された、社会教育劇『街(ちまた)の子』(監督:畑中蓼坡/後援:文部省)は、目白文化村や落合第二府営住宅でロケが行われている。そのシーンの中に、一面の花が咲いた草原を仙吉(小島勉)がスローモーションで疾走する場面が登場する。きょうの記事は、このシーンがどこで撮影されたのかを探ってみたい。
以前、このシーンをAIエンジンでカラー変換した際、AIは手前の花を白色、奥の花を黄色と判断していた。したがって、手前の花は撮影が6月だとすればヒメジオンで、奥がアブラナ科のいずれかの花だろうと判断していた。ところが、新たに別のAIエンジンを用いて着色すると、全体が黄色い花々が咲いている風景として認識した。もし、後者のAIの判断が正確だとすれば、8月の終わりごろに野草のオミナエシが、いっせいに開花する時期を待って撮影された可能性もありそうだ。仙吉や他の俳優の服装からして、6月でも8月末でも不思議ではない。陽光は右手上空の高い位置から射しており、夏らしくかなり強そうだ。
また、モノクロでは気づきにくかったが、中央のハーフティンバーが目立つ大きな西洋館のさらに奥に、もう1棟の家屋らしいかたちがとらえられていることに気がついた。レンズのピントがあっていないせいかぼやけているが、シーンのコマによっては陽光による屋根の反射が強く、外壁はベージュないしはクリーム色、主棟は画面の左右に長く見え切妻は右手に見えるようだ。階数は不明だが、手前の西洋館がカメラ目線の先で2階部をとらえているところを見ると、奥の住宅も2階建てなのかもしれない。なお、新たに試してみたAIエンジンによるカラー化では、中央の大きな西洋館の光を反射する屋根は、“赤”だと認識しているようだ。
画面全体の地形を観察すると、手前の地面のほうが奥の屋敷が建つ位置よりもやや高めであり、画面の左手は平地のようだが、画面の右側に映る地面は、右手に向けてゆるやかに傾斜しているように見える。また、左手の樹間には、風が吹いて周囲の樹木が大きく揺れても、まったく動かないなんらかの構造物があるように見える。この構造物は、住宅のようには見えず灰色をしており、細くてかなり高度のある物体状のものだ。このように、画面にとらえられた周囲の地形や家々、あるいは構造物らしきものを細かく観察して総合すると、1924年(大正13)夏の時点で、目白文化村の中でもおのずと撮影場所が絞られてきそうだ。
左手の樹間に映る構造物を、下落合1642番地に建っていた第二文化村の水道タンクだとすれば、タンクの左手の樹木に隠れている敷地は、箱根土地が建設を予定していた社宅建築敷地(本社ビルの国立への移転で社宅建設は中止)であり、三間道路をはさんだ屋敷群が建っている奥の敷地、および手前の敷地の大部分が、映画『街の子』(1924年)が撮影された前年の、1923年(大正12)から販売がスタートしていた第二文化村ということになる。第二文化村が販売されはじめてから、映画の撮影までわずか1年ほどしかたっておらず、多くの敷地が売れてはいただろうが、住宅の建設は進んでいない。草原に生えた花々で見えないが、中央の西洋館が建つ敷地と手前の少し高めな敷地との間には、画面を横切る二間道路が敷設されていたはずだ。電燈・電力線は地下共同溝に埋設されており、電柱がまったく見えない点にも留意したい。
第二文化村が開発される以前の地図を参照すると、たとえば1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図には、地面の東北東側が平地に近く、南南西側に向けて少しずつ傾斜していく等高線が描かれている。水道タンクが設置された道路沿い、すなわち第二文化村の三間道路は、もともと途中がクラックしていた農道を、できるだけ直線状にして拡幅していった様子がわかる。そして、同地図には当該の道路沿いに、境界の畔あるいは囲みのある、なんらかの畑地跡とみられる草原が採取されている。この畑地跡を花畑、すなわち油を採取するためのアブラナ科の植物を植えた跡だとすれば、耕地整理が終わり畑の手入れがされなくなったあと、その種子が周囲に飛散して画面に映る一面の花畑を形成している可能性があるかもしれない。
以前、このシーンをAIエンジンでカラー変換した際、AIは手前の花を白色、奥の花を黄色と判断していた。したがって、手前の花は撮影が6月だとすればヒメジオンで、奥がアブラナ科のいずれかの花だろうと判断していた。ところが、新たに別のAIエンジンを用いて着色すると、全体が黄色い花々が咲いている風景として認識した。もし、後者のAIの判断が正確だとすれば、8月の終わりごろに野草のオミナエシが、いっせいに開花する時期を待って撮影された可能性もありそうだ。仙吉や他の俳優の服装からして、6月でも8月末でも不思議ではない。陽光は右手上空の高い位置から射しており、夏らしくかなり強そうだ。
また、モノクロでは気づきにくかったが、中央のハーフティンバーが目立つ大きな西洋館のさらに奥に、もう1棟の家屋らしいかたちがとらえられていることに気がついた。レンズのピントがあっていないせいかぼやけているが、シーンのコマによっては陽光による屋根の反射が強く、外壁はベージュないしはクリーム色、主棟は画面の左右に長く見え切妻は右手に見えるようだ。階数は不明だが、手前の西洋館がカメラ目線の先で2階部をとらえているところを見ると、奥の住宅も2階建てなのかもしれない。なお、新たに試してみたAIエンジンによるカラー化では、中央の大きな西洋館の光を反射する屋根は、“赤”だと認識しているようだ。
画面全体の地形を観察すると、手前の地面のほうが奥の屋敷が建つ位置よりもやや高めであり、画面の左手は平地のようだが、画面の右側に映る地面は、右手に向けてゆるやかに傾斜しているように見える。また、左手の樹間には、風が吹いて周囲の樹木が大きく揺れても、まったく動かないなんらかの構造物があるように見える。この構造物は、住宅のようには見えず灰色をしており、細くてかなり高度のある物体状のものだ。このように、画面にとらえられた周囲の地形や家々、あるいは構造物らしきものを細かく観察して総合すると、1924年(大正13)夏の時点で、目白文化村の中でもおのずと撮影場所が絞られてきそうだ。
左手の樹間に映る構造物を、下落合1642番地に建っていた第二文化村の水道タンクだとすれば、タンクの左手の樹木に隠れている敷地は、箱根土地が建設を予定していた社宅建築敷地(本社ビルの国立への移転で社宅建設は中止)であり、三間道路をはさんだ屋敷群が建っている奥の敷地、および手前の敷地の大部分が、映画『街の子』(1924年)が撮影された前年の、1923年(大正12)から販売がスタートしていた第二文化村ということになる。第二文化村が販売されはじめてから、映画の撮影までわずか1年ほどしかたっておらず、多くの敷地が売れてはいただろうが、住宅の建設は進んでいない。草原に生えた花々で見えないが、中央の西洋館が建つ敷地と手前の少し高めな敷地との間には、画面を横切る二間道路が敷設されていたはずだ。電燈・電力線は地下共同溝に埋設されており、電柱がまったく見えない点にも留意したい。
第二文化村が開発される以前の地図を参照すると、たとえば1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図には、地面の東北東側が平地に近く、南南西側に向けて少しずつ傾斜していく等高線が描かれている。水道タンクが設置された道路沿い、すなわち第二文化村の三間道路は、もともと途中がクラックしていた農道を、できるだけ直線状にして拡幅していった様子がわかる。そして、同地図には当該の道路沿いに、境界の畔あるいは囲みのある、なんらかの畑地跡とみられる草原が採取されている。この畑地跡を花畑、すなわち油を採取するためのアブラナ科の植物を植えた跡だとすれば、耕地整理が終わり畑の手入れがされなくなったあと、その種子が周囲に飛散して画面に映る一面の花畑を形成している可能性があるかもしれない。




このように画面を分析してみると、カメラマンの背後には大きなカシの木がそびえている、下落合1674番地の旧家・宇田川邸の建物群があったはずであり、画面右手の上部および下部に映る樹木の枝葉は、同邸の屋敷林の一部かもしれない。また、右手の下り気味な緩斜面の終端、すなわち第二文化村の敷地が終わる境界には、大谷石による築垣がほどこされて、できるだけ地面を水平に保つ整地工事が終了していたはずだ。そして、その2年後の1926年(大正15)9月24日、境界の石垣上あたりから宇田川邸のある丘上の方角を向いて描かれたのが、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズの1作『かしの木のある家』だ。
そして、第二文化村の境界築垣の西側にある広い草原は、昭和初期を通じてそのままの状態が長くつづくが、1940年(昭和15)1月より勝巳商店地所部による、その名も箱根土地のネーミングをそのまま踏襲(盗用?)した、昭和版「目白文化村」の販売がスタートすることになる。おそらく、この勝巳商店による分譲地開発の経緯が、目白文化村の「第五文化村」伝説のはじまりではないかと思われる。箱根土地による目白文化村は、国立(くにたち)へ本社移転する直前の1925年(大正14)、第四文化村の販売開始を伝える媒体広告と、販売後の分譲地地割図(販売済みスタンプ押印)が最後の資料であり、「第五文化村」関連の資料は存在していない。残っているのは、勝巳商店地所部による1940年の「目白文化村」資料のみだ。
さて、左寄りの樹間にとらえられた構造物が第二文化村の水道タンクだとすると、中央の大きな西洋館は下落合1665番地に建つ松葉養太郎邸ということになる。その右手の敷地は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」の時点でも販売済みになってはおらず、しばらく空き地のままの状態がつづく。この空地が売れて清水玄邸が建設されるのは、大正末から昭和初期にかけてのころだ。少し前に書いた記事でご紹介している、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲時に、海上グラウンドへ避難したあの清水家だ。
そして、第二文化村の境界築垣の西側にある広い草原は、昭和初期を通じてそのままの状態が長くつづくが、1940年(昭和15)1月より勝巳商店地所部による、その名も箱根土地のネーミングをそのまま踏襲(盗用?)した、昭和版「目白文化村」の販売がスタートすることになる。おそらく、この勝巳商店による分譲地開発の経緯が、目白文化村の「第五文化村」伝説のはじまりではないかと思われる。箱根土地による目白文化村は、国立(くにたち)へ本社移転する直前の1925年(大正14)、第四文化村の販売開始を伝える媒体広告と、販売後の分譲地地割図(販売済みスタンプ押印)が最後の資料であり、「第五文化村」関連の資料は存在していない。残っているのは、勝巳商店地所部による1940年の「目白文化村」資料のみだ。
さて、左寄りの樹間にとらえられた構造物が第二文化村の水道タンクだとすると、中央の大きな西洋館は下落合1665番地に建つ松葉養太郎邸ということになる。その右手の敷地は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」の時点でも販売済みになってはおらず、しばらく空き地のままの状態がつづく。この空地が売れて清水玄邸が建設されるのは、大正末から昭和初期にかけてのころだ。少し前に書いた記事でご紹介している、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲時に、海上グラウンドへ避難したあの清水家だ。



そして、画面中央の松葉邸の右奥に見えている住宅は、位置的に見て下落合1665番地の桜木富蔵邸、ないしは西隣りに建っていた下落合1712番地の土肥幸太郎邸だろう。手前の大きな松葉邸の右側面(西側面)の見え方からして、桜木邸の可能性が高そうに思える。桜木邸の左隣り、すなわち東隣りには安倍能成邸が建っているという位置関係だ。これらの邸を、1936年(昭和11)の空中写真で観察すると、建物群がよく照合しているのに気づく。
『街の子』の撮影から12年後の空中写真であり、多少の増改築はあるかもしれないが、基本的に建物の位置は変わらないと思われる。ただし、住民のほうは多少の入れ替わりがあったかもしれず、1925年(大正14)の箱根土地作成による「目白文化村分譲地地割図」の土地購入者名と、1938年(昭和13)作成の「火保図」に採取された目白文化村の住民名とでは、一致しない邸も少なくない。これは、昭和初期に起きた経済危機=金融恐慌から大恐慌の影響で、屋敷や土地を手離した家庭、あるいは住宅を貸家にして転居した家庭も多いとみられる。
1936年(昭和11)の空中写真をベースに考察すると、カメラマンは下落合1674番地の宇田川邸敷地に繁る屋敷林の東端あたりから、ほぼ真東を向いて撮影したと思われ、仙吉少年は左手から右手へ半円を描くように、下落合1662~1663番地あたりの敷地を駆け抜けていることになる。当時の住宅敷地は、『街の子』記事のシーンでもご紹介したように、住宅を湿気から遠ざけ乾燥させるために、道路面から1m以上盛り上げて整地するのが通例であり、草花が繁る原っぱ(住宅敷地)の間に敷設された、三間道路や二間道路は隠れていて見えない。これは、佐伯祐三の『かしの木のある家』でも書いたことだが、この大幅な盛り土が撤去され、道路と水平になるような住宅建築が増えていくのは、各家庭に自家用車が普及しはじめ、路面がアスファルトやコンクリートで舗装されて車庫の必要性が生じたあとの時代だ。
このように見てくると、『街の子』の撮影クルーたちはロケ現場として、第一文化村をはじめ落合第二府営住宅、そして販売をほぼ終えたばかりの第二文化村の敷地を選んでおり、映画の最後にブランコなどの遊具とともに登場する洋館2邸も、目白文化村内のどこかである可能性が高いように思う。映画が撮られた1924年(大正13)という年は、第三文化村を販売していた最中であり、やはり上記の2邸は第一文化村、ないしは第二文化村の可能性が高いように思うのだ。
『街の子』の撮影から12年後の空中写真であり、多少の増改築はあるかもしれないが、基本的に建物の位置は変わらないと思われる。ただし、住民のほうは多少の入れ替わりがあったかもしれず、1925年(大正14)の箱根土地作成による「目白文化村分譲地地割図」の土地購入者名と、1938年(昭和13)作成の「火保図」に採取された目白文化村の住民名とでは、一致しない邸も少なくない。これは、昭和初期に起きた経済危機=金融恐慌から大恐慌の影響で、屋敷や土地を手離した家庭、あるいは住宅を貸家にして転居した家庭も多いとみられる。
1936年(昭和11)の空中写真をベースに考察すると、カメラマンは下落合1674番地の宇田川邸敷地に繁る屋敷林の東端あたりから、ほぼ真東を向いて撮影したと思われ、仙吉少年は左手から右手へ半円を描くように、下落合1662~1663番地あたりの敷地を駆け抜けていることになる。当時の住宅敷地は、『街の子』記事のシーンでもご紹介したように、住宅を湿気から遠ざけ乾燥させるために、道路面から1m以上盛り上げて整地するのが通例であり、草花が繁る原っぱ(住宅敷地)の間に敷設された、三間道路や二間道路は隠れていて見えない。これは、佐伯祐三の『かしの木のある家』でも書いたことだが、この大幅な盛り土が撤去され、道路と水平になるような住宅建築が増えていくのは、各家庭に自家用車が普及しはじめ、路面がアスファルトやコンクリートで舗装されて車庫の必要性が生じたあとの時代だ。
このように見てくると、『街の子』の撮影クルーたちはロケ現場として、第一文化村をはじめ落合第二府営住宅、そして販売をほぼ終えたばかりの第二文化村の敷地を選んでおり、映画の最後にブランコなどの遊具とともに登場する洋館2邸も、目白文化村内のどこかである可能性が高いように思う。映画が撮られた1924年(大正13)という年は、第三文化村を販売していた最中であり、やはり上記の2邸は第一文化村、ないしは第二文化村の可能性が高いように思うのだ。



もうひとつ、『街の子』を見ていて気づくことがある。現代では、住宅敷地を購入するとすぐに家を建てはじめるケースがほとんどだが、当時は土地を早めに購入し、数年後にようやく建てはじめる事例もめずらしくなかった。それは、今日のように誰でも利用できる便利な住宅ローンの仕組みが未整備であり、基本的には資金がたまってから、あるいは銀行からの融資が承認されてからの建設となるため、住宅建設における資金繰りはいまよりもよほど不便だったせいだろう。
◆写真上:『街の子』(1924年)の、第二文化村敷地を走る仙吉のシーン。(別AIによる着色)
◆写真中上:上は、樹間に見える水道タンクとみられる構造物の拡大。中上は、1926年(大正15)10月14日制作の第二文化村の水道タンクを描いた佐伯祐三『タンク』。中下は、とらえられた屋敷群の拡大。下は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図。
◆写真中下:第二文化村の敷地を疾走する、仙吉のスローモーション連続シーン。
◆写真下:上は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」の第二文化村水道タンクの周辺。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる第二文化村の当該エリア。下は、1926年(大正15)9月24日に制作された佐伯祐三『かしの木のある家』(宇田川邸)。
◆写真中上:上は、樹間に見える水道タンクとみられる構造物の拡大。中上は、1926年(大正15)10月14日制作の第二文化村の水道タンクを描いた佐伯祐三『タンク』。中下は、とらえられた屋敷群の拡大。下は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図。
◆写真中下:第二文化村の敷地を疾走する、仙吉のスローモーション連続シーン。
◆写真下:上は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」の第二文化村水道タンクの周辺。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる第二文化村の当該エリア。下は、1926年(大正15)9月24日に制作された佐伯祐三『かしの木のある家』(宇田川邸)。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
わたしも近々、ネコをテーマにした記事を書きたいと思っています。
pinkich
落合道人
鬼頭鍋三郎の『落合風景』は、収蔵庫にしまわれてめったに展示されないので
めずらしいですね。林武の『文化村風景』ともども、都合がつきましたら、
ぜひ観にいきたいです。
情報をありがとうございました。