
以前、下落合623番地で暮らした曾宮一念の証言として、1921年(大正10)3月半ばアトリエが竣工し、柏木128番地の借家で綾子夫人の出産(長男・俊一)と夫人の恢復を待ってから、3月末か4月の頭に新築アトリエへ転居してきたあと、アトリエ前の諏訪谷の丘上に通う道で、俥(じんりき)を追いかけて走る佐伯祐三の姿を目撃していたことをご紹介していた。
人力車には、足の悪い米子夫人が乗っており、曾宮一念はアトリエ前を抜けていくのが、当時は目白駅へと向かう道筋だったと書いている。おそらく、1921~22年(大正10~11)ごろの情景で、当時の目白駅は目白橋にかかる橋上駅となる3代目・目白駅の竣工以前、鉄道省による2代目・地上駅だった時代のことだ。また、逆に目白駅から米子夫人が俥に乗り、そのあとを佐伯祐三が追いかけるという証言も残されている。おそらく、佐伯米子が死去する1972年(昭和47)以前に、直接本人へ取材して書いたとみられる朝日晃の記録だ。
1971年(昭和46)に集英社から出版された、座右宝刊行会・編『現代日本美術全集 9』に収録の、朝日晃「佐伯祐三の生涯と芸術」から引用してみよう。ただし、朝日晃は1922年(大正11)まで目白駅が地上駅であり、橋上駅化の時期を正確に認識していないせいか、俥は目白駅から目白通りを走って佐伯アトリエに向かったことになっている。当時の地上駅から見ると、目白通りは高くて急傾斜の土手上の道路(つまり山手線の電車とその架線がくぐれる目白橋の高度)であり、俥はおろか徒歩でさえそのまま上ることが困難だった。
また、目白橋下の目白停車場踏切(LEVEL CROSSING 51CN)の位置から、目白通りへと上がる長いダラダラ坂も設置されていたが、下落合661番地の佐伯アトリエまでは、下落合の中を抜けたほうがむしろ近道で、わざわざ目白通りを利用するとかなり遠まわりになっただろう。
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目白駅から下落合のアトリエに向かって、足の悪い米子夫人が人力車で帰宅するとき、彼はそれを追うように絵具箱をかかえて走り続ける光景のくり返された頃であり、友人たちの注目をあびながら、平然と走り続けた佐伯祐三であった。(中略) 目白駅から佐伯祐三のアトリエに帰る途中、ちょうど中間あたりを左折すると中村彝(一八八七~一九二四)のアトリエがあった。
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目白通りからの「左折」を前提に、中村彝のアトリエの位置を書いているが、これはおそらく誤りで、米子夫人の俥と走る佐伯の道筋は、それを目撃していた曾宮一念のアトリエ前を通過すると、下落合584番地の東京美術学校で同窓だった二瓶等(二瓶徳松)アトリエの前を通り、桜並木があった中村彝アトリエの真ん前の道路を、目白駅へ向けてまっすぐ東へ進んでいったにちがいない。それが地上駅だった目白駅へと出る、もっとも短絡で効率的な道筋だったからだ。
ところで、目白駅から佐伯アトリエまでは、駅前に客待ちの俥がズラリと並んでいただろうから乗車に困らなかっただろうが、佐伯アトリエから目白駅までは俥を手配しなければならず、佐伯アトリエに電話などなかった当時、どうしていたのだろうと書いたことがある。当時の豊満な女中か佐伯自身が、空きの俥が往来しそうな目白通りまで出て引き子(車夫)を捕まえたのだろうかと想定していた。ところが、社会教育劇『街(ちまた)の子』(1924年)を観ていたら、落合第二府営住宅の中にある「むさしや」という屋号の店が浮上してきた。
佐伯米子が結婚する以前、銀座時代あるいは土橋(新橋)時代の実家(池田象牙店)では、彼女に専属の俥(じんりき)とでもいうべき「足」が用意されていた。現代の運転手つき送迎車のようなもので、車夫は富五郎という、なんだか新派の芝居にでもでてそうな引き子の名前だった。その様子を、佐伯祐三の親友だった山田新一が記録していて、のちに証言を残している。1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された、山田新一『素顔の佐伯祐三』から少し引用してみよう。
人力車には、足の悪い米子夫人が乗っており、曾宮一念はアトリエ前を抜けていくのが、当時は目白駅へと向かう道筋だったと書いている。おそらく、1921~22年(大正10~11)ごろの情景で、当時の目白駅は目白橋にかかる橋上駅となる3代目・目白駅の竣工以前、鉄道省による2代目・地上駅だった時代のことだ。また、逆に目白駅から米子夫人が俥に乗り、そのあとを佐伯祐三が追いかけるという証言も残されている。おそらく、佐伯米子が死去する1972年(昭和47)以前に、直接本人へ取材して書いたとみられる朝日晃の記録だ。
1971年(昭和46)に集英社から出版された、座右宝刊行会・編『現代日本美術全集 9』に収録の、朝日晃「佐伯祐三の生涯と芸術」から引用してみよう。ただし、朝日晃は1922年(大正11)まで目白駅が地上駅であり、橋上駅化の時期を正確に認識していないせいか、俥は目白駅から目白通りを走って佐伯アトリエに向かったことになっている。当時の地上駅から見ると、目白通りは高くて急傾斜の土手上の道路(つまり山手線の電車とその架線がくぐれる目白橋の高度)であり、俥はおろか徒歩でさえそのまま上ることが困難だった。
また、目白橋下の目白停車場踏切(LEVEL CROSSING 51CN)の位置から、目白通りへと上がる長いダラダラ坂も設置されていたが、下落合661番地の佐伯アトリエまでは、下落合の中を抜けたほうがむしろ近道で、わざわざ目白通りを利用するとかなり遠まわりになっただろう。
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目白駅から下落合のアトリエに向かって、足の悪い米子夫人が人力車で帰宅するとき、彼はそれを追うように絵具箱をかかえて走り続ける光景のくり返された頃であり、友人たちの注目をあびながら、平然と走り続けた佐伯祐三であった。(中略) 目白駅から佐伯祐三のアトリエに帰る途中、ちょうど中間あたりを左折すると中村彝(一八八七~一九二四)のアトリエがあった。
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目白通りからの「左折」を前提に、中村彝のアトリエの位置を書いているが、これはおそらく誤りで、米子夫人の俥と走る佐伯の道筋は、それを目撃していた曾宮一念のアトリエ前を通過すると、下落合584番地の東京美術学校で同窓だった二瓶等(二瓶徳松)アトリエの前を通り、桜並木があった中村彝アトリエの真ん前の道路を、目白駅へ向けてまっすぐ東へ進んでいったにちがいない。それが地上駅だった目白駅へと出る、もっとも短絡で効率的な道筋だったからだ。
ところで、目白駅から佐伯アトリエまでは、駅前に客待ちの俥がズラリと並んでいただろうから乗車に困らなかっただろうが、佐伯アトリエから目白駅までは俥を手配しなければならず、佐伯アトリエに電話などなかった当時、どうしていたのだろうと書いたことがある。当時の豊満な女中か佐伯自身が、空きの俥が往来しそうな目白通りまで出て引き子(車夫)を捕まえたのだろうかと想定していた。ところが、社会教育劇『街(ちまた)の子』(1924年)を観ていたら、落合第二府営住宅の中にある「むさしや」という屋号の店が浮上してきた。
佐伯米子が結婚する以前、銀座時代あるいは土橋(新橋)時代の実家(池田象牙店)では、彼女に専属の俥(じんりき)とでもいうべき「足」が用意されていた。現代の運転手つき送迎車のようなもので、車夫は富五郎という、なんだか新派の芝居にでもでてそうな引き子の名前だった。その様子を、佐伯祐三の親友だった山田新一が記録していて、のちに証言を残している。1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された、山田新一『素顔の佐伯祐三』から少し引用してみよう。




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米子は、前にも触れたように新橋の豪商池田家の令嬢であり、幼い頃の事故が原因で、足が不自由であったこともあり、両親の厚い庇護の下に大切に育てられた。長じて虎ノ門の東京女学院へ通うにも、富五郎という人の人力車に乗って、毎日送り迎えされるような生活であった。今風にいえば、運転手付きのハイヤーを傭っていたと言える。/足の病で本郷の大学病院にながく入院したあと、時々通院して治療に通っていた。
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朝日晃は「新橋の豪商」と書いているが、関東大震災以前は尾張町(銀座4丁目)の豪商だった。この証言も、米子夫人に直接取材して訊いていると思われ、彼女が語る佐伯祐三との結婚前後の思い出話が、彼女の口調でいくつか引用されている。
さて、この富五郎という車夫が引く俥を、そのまま下落合の佐伯アトリエで雇用していたとはとても思えない。また、そのような記録も見あたらない。俥は、下落合の地元の俥屋を利用していたと考えるのが自然だ。そこで、先の「むさしや」との関連が浮上してくる。
下落合1511番地の落合第二府営住宅に隣接する「むさしや」を、当初は住宅街にある蕎麦屋か鮨屋ではないかと考えていた。だが、江戸東京の新内(しんない)節に関する資料を読んでいたら、重要無形文化財の11世・鶴賀若狭掾(本名:高橋行道)の実家が神楽坂にあり、高橋家では曽祖父の代から大きな俥屋を営んでおり、はからずも屋号が「武蔵屋」といったことが判明した。しかも、俥を50~100台と数多く所有しており、神楽坂ばかりでなく周辺のおもな省線駅や住宅街にも、支店「武蔵屋」を開業・展開していたこともわかった。
「武蔵屋」は、当時の東京では旅館や料理屋、呉服屋によくみられる屋号で、たとえば新宿周辺だと四谷新伝馬町にあった武蔵屋百貨店(旧・武蔵屋呉服店)がすぐに思い浮かぶ。現在の伊勢丹デパートの位置にあった、ほてい屋百貨店と肩を並べる大型デパートだったが1928年(昭和3)に倒産している。また、明治期の俥屋は旅館(おもに商人宿)も兼ねていたところが多いと、当時の東京旅行案内には載っているので、神楽坂の武蔵屋も多角経営の一環として旅館も営業していたのかもしれない。確かに、旅館に泊まった客を翌日、俥(じんりき)で最寄りの駅か目的地まで案内するのが効率的だし、宿泊客のニーズにも合致していたのだろう。
落合第二府営住宅の「むさしや」が、神楽坂に本店を置く大規模な俥屋の支店だったとすれば、佐伯アトリエから300mほどしか離れていない。米子夫人が外出する前日か当日早めに、女中か佐伯祐三がひとっ走りして予約を入れ、約束の時間にアトリエへ俥をつけてもらえば、佐伯アトリエから目白駅まで米子夫人を乗せて、10分以内でたどり着けただろう。
米子は、前にも触れたように新橋の豪商池田家の令嬢であり、幼い頃の事故が原因で、足が不自由であったこともあり、両親の厚い庇護の下に大切に育てられた。長じて虎ノ門の東京女学院へ通うにも、富五郎という人の人力車に乗って、毎日送り迎えされるような生活であった。今風にいえば、運転手付きのハイヤーを傭っていたと言える。/足の病で本郷の大学病院にながく入院したあと、時々通院して治療に通っていた。
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朝日晃は「新橋の豪商」と書いているが、関東大震災以前は尾張町(銀座4丁目)の豪商だった。この証言も、米子夫人に直接取材して訊いていると思われ、彼女が語る佐伯祐三との結婚前後の思い出話が、彼女の口調でいくつか引用されている。
さて、この富五郎という車夫が引く俥を、そのまま下落合の佐伯アトリエで雇用していたとはとても思えない。また、そのような記録も見あたらない。俥は、下落合の地元の俥屋を利用していたと考えるのが自然だ。そこで、先の「むさしや」との関連が浮上してくる。
下落合1511番地の落合第二府営住宅に隣接する「むさしや」を、当初は住宅街にある蕎麦屋か鮨屋ではないかと考えていた。だが、江戸東京の新内(しんない)節に関する資料を読んでいたら、重要無形文化財の11世・鶴賀若狭掾(本名:高橋行道)の実家が神楽坂にあり、高橋家では曽祖父の代から大きな俥屋を営んでおり、はからずも屋号が「武蔵屋」といったことが判明した。しかも、俥を50~100台と数多く所有しており、神楽坂ばかりでなく周辺のおもな省線駅や住宅街にも、支店「武蔵屋」を開業・展開していたこともわかった。
「武蔵屋」は、当時の東京では旅館や料理屋、呉服屋によくみられる屋号で、たとえば新宿周辺だと四谷新伝馬町にあった武蔵屋百貨店(旧・武蔵屋呉服店)がすぐに思い浮かぶ。現在の伊勢丹デパートの位置にあった、ほてい屋百貨店と肩を並べる大型デパートだったが1928年(昭和3)に倒産している。また、明治期の俥屋は旅館(おもに商人宿)も兼ねていたところが多いと、当時の東京旅行案内には載っているので、神楽坂の武蔵屋も多角経営の一環として旅館も営業していたのかもしれない。確かに、旅館に泊まった客を翌日、俥(じんりき)で最寄りの駅か目的地まで案内するのが効率的だし、宿泊客のニーズにも合致していたのだろう。
落合第二府営住宅の「むさしや」が、神楽坂に本店を置く大規模な俥屋の支店だったとすれば、佐伯アトリエから300mほどしか離れていない。米子夫人が外出する前日か当日早めに、女中か佐伯祐三がひとっ走りして予約を入れ、約束の時間にアトリエへ俥をつけてもらえば、佐伯アトリエから目白駅まで米子夫人を乗せて、10分以内でたどり着けただろう。




なぜ、「むさしや」が俥屋だったのではと思いついた要因のひとつに、社会教育劇『街(ちまた)の子』に目白文化村や街中を走る人力車が、複数のシーンで登場している点だ。伊澤蘭奢を乗せた俥が、車夫ともどもしっかりとらえられている。これは、明らかに通りすがりの俥を頼んで出演してもらったのではなく、事前に映画出演を依頼し俥と車夫をあらかじめ手配して、シーンごとに登場してもらったものだ。そして、ロケに使用されている落合第二府営住宅は、まさに「むさしや」の真ん前の路上、下落合1511番地で撮影が行われている。
もし「むさしや」が高橋家の「武蔵屋」支店だとしたら、映っている俥と車夫は下落合に常駐していたのであり、1924年(大正13)の撮影なので、『街の子』のために雇われた俥は、佐伯アトリエから目白駅まで米子夫人を乗せて走っていたかもしれない俥であり、それを引く車夫は、うしろから画道具を抱え懸命に走る佐伯祐三の先で俥を引いていた人物である可能性さえある……ということになる。着物姿の伊澤蘭奢を乗せて走る姿は、そのまま佐伯米子を乗せて下落合東部の住宅街を走りぬけていた、俥と車夫そのものの姿とストレートに重なるのだ。
そしてもうひとつ、どこかで神楽坂の大規模な俥屋について読んだ記憶がある。いろいろ記憶をたどっても思いだせなかったが、現在の鶴賀若狭掾(11代目)は、その襲名が2000年(平成12)であり、それ以前は「鶴賀伊勢太夫」(2代目)と名のっていたことに気がついた。この名前を見て、ピンときた。この新内の師匠が若いころのインタビューを読んだことがあり、聞き手は向田邦子だった。さっそく、1981年(昭和56)に向田邦子が台湾で事故死した直後に、講談社から出版されたエッセイ集『夜中の薔薇』を参照してみた。同エッセイは、1976~77年(昭和51~52)の女性誌「an・an」に連載されていた「男性鑑賞法」シリーズの初回で、1976年2月号に掲載されたものだ。
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黒門付に仙台平の袴に威儀を正して、三味線弾き二人(本手と上調子)を従えて「蘭蝶」を語れば、新内界のホープ二世鶴賀伊勢太夫としてピタリと決るのである。/東京は神楽坂の生れ、ひい祖父さんの代から武蔵屋という俥屋をやっており、五十人からの引き子を抱えていたという。今のタクシー会社のハシリである。この家で六人の兄弟の末っ子として育ったのが初代伊勢太夫、つまり彼の父君である。太夫の長男として生れ、十歳から稽古をしていたというから、スンナリ太夫の道を歩いたと考えると大間違いで、この人の経歴はおよそ新内の世界とは程遠い。
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もし「むさしや」が高橋家の「武蔵屋」支店だとしたら、映っている俥と車夫は下落合に常駐していたのであり、1924年(大正13)の撮影なので、『街の子』のために雇われた俥は、佐伯アトリエから目白駅まで米子夫人を乗せて走っていたかもしれない俥であり、それを引く車夫は、うしろから画道具を抱え懸命に走る佐伯祐三の先で俥を引いていた人物である可能性さえある……ということになる。着物姿の伊澤蘭奢を乗せて走る姿は、そのまま佐伯米子を乗せて下落合東部の住宅街を走りぬけていた、俥と車夫そのものの姿とストレートに重なるのだ。
そしてもうひとつ、どこかで神楽坂の大規模な俥屋について読んだ記憶がある。いろいろ記憶をたどっても思いだせなかったが、現在の鶴賀若狭掾(11代目)は、その襲名が2000年(平成12)であり、それ以前は「鶴賀伊勢太夫」(2代目)と名のっていたことに気がついた。この名前を見て、ピンときた。この新内の師匠が若いころのインタビューを読んだことがあり、聞き手は向田邦子だった。さっそく、1981年(昭和56)に向田邦子が台湾で事故死した直後に、講談社から出版されたエッセイ集『夜中の薔薇』を参照してみた。同エッセイは、1976~77年(昭和51~52)の女性誌「an・an」に連載されていた「男性鑑賞法」シリーズの初回で、1976年2月号に掲載されたものだ。
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黒門付に仙台平の袴に威儀を正して、三味線弾き二人(本手と上調子)を従えて「蘭蝶」を語れば、新内界のホープ二世鶴賀伊勢太夫としてピタリと決るのである。/東京は神楽坂の生れ、ひい祖父さんの代から武蔵屋という俥屋をやっており、五十人からの引き子を抱えていたという。今のタクシー会社のハシリである。この家で六人の兄弟の末っ子として育ったのが初代伊勢太夫、つまり彼の父君である。太夫の長男として生れ、十歳から稽古をしていたというから、スンナリ太夫の道を歩いたと考えると大間違いで、この人の経歴はおよそ新内の世界とは程遠い。
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「五十人からの引き子」の証言は、おそらく俥が衰退していく昭和初期あたりの記憶だろう。大正の中期に、はたして俥の大店「武蔵屋」が目白駅、あるいは下落合の住宅地に進出していたものだろうか。確かに、「むさしや」の周囲は落合府営住宅で埋まり、また南側の丘上には1922年(大正11)より目白文化村が開発されつつある周辺環境なので、かなり可能性が高いように思うのだ。
◆写真上:映画『街の子』(1924年)で、街中を疾走する伊澤蘭奢を乗せた俥。(AI着色/以下同)
◆写真中上:上・中上は、佐伯アトリエから目白駅(2代目・地上駅)までの俥による最短ルート。中下は、1922年(大正11)ごろに制作された佐伯祐三『米子像』。下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる落合府営住宅に囲まれた「むさしや」。
◆写真中下:『街の子』に登場する、伊澤蘭奢を乗せた引き子(車夫)と俥。下は、第一文化村入口のシーンだが、「むさしや」は正面樹林の向こう側にある落合府営住宅内。
◆写真下:いまでもよく見かける鎌倉は若宮大路の俥(上)と、浅草は江戸通り(日光街道)の俥(中)。下左は、1980年(昭和55)に出版された山田新一『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版)。下右は、1981年(昭和56)の台湾での事故死の直後に出版された向田邦子『夜中の薔薇』(講談社)。
◆写真中上:上・中上は、佐伯アトリエから目白駅(2代目・地上駅)までの俥による最短ルート。中下は、1922年(大正11)ごろに制作された佐伯祐三『米子像』。下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる落合府営住宅に囲まれた「むさしや」。
◆写真中下:『街の子』に登場する、伊澤蘭奢を乗せた引き子(車夫)と俥。下は、第一文化村入口のシーンだが、「むさしや」は正面樹林の向こう側にある落合府営住宅内。
◆写真下:いまでもよく見かける鎌倉は若宮大路の俥(上)と、浅草は江戸通り(日光街道)の俥(中)。下左は、1980年(昭和55)に出版された山田新一『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版)。下右は、1981年(昭和56)の台湾での事故死の直後に出版された向田邦子『夜中の薔薇』(講談社)。
★おまけ
『街の子』が撮影されてから14年後、1938年(昭和13)に作成された「火保図」では、但本邸の南側は変わらずに空き地のままだが、「むさしや」はとうに閉店し、別の店舗が入っていた可能性が高い。戦後、この位置には洋服のオーダーメイド「テーラー白山」(1960年代)が開店していた。


この記事へのコメント
ものたがひ
落合道人
わたしも、俥の「武蔵屋」に気がついたとたん、そんな気が強くしました。
もうひとつ面白いのは、当時の引き子(車夫)の格好です。学帽か駅員のような帽子
をかぶり、下着はランニングシャツに上着は白麻のブレザー(?)、麻の短パンに
地下足袋という、なんともいえない姿をしています。
いま現在、観光地などにいる俥の引き子よりもモダンですね。w いまの引き子は、
明治期の古い姿のコスチュームが多いので、むしろ大正期の車夫のほうがモダンに
感じます。ww
てんてん
落合道人
こちらではフジもボタンも、盛りが過ぎてしまったようです。