中国の重慶(国民党政府)へ亡命し、そこで対日の反戦・反軍国主義プロパガンダを推進して、蒋介石による日本本土の「初空襲」にも参画していた、作家で文芸評論家の鹿地亘は、帰国後の1947年(昭和22)より下落合4丁目2135番地(現・中井2丁目)に、のち1953年(昭和28)より上落合1丁目36番地に住んだことはかつて記事にしている。
戦後の米軍による謀略事件の資料類を調べていたら、鹿地亘が米軍のキャノン機関(G2)に拉致誘拐・監禁されていた場所の詳細な証言や特定、監禁ルートの調査に同行したカメラマンが撮影したとみられる写真類が、1952年(昭和27)の時点で残されていることが判明した。また、当時は衆議院議員で社会党の代議士だった猪俣浩三も、1952年(昭和27)12月8日の衆議院法務委員会が開催される直前に、鹿地亘が監禁されていた米軍拠点のルートを自身で調査あるいは調べさせ、関連する人物たちや近隣住民への調査・取材を実施している。そして、判明したそれらの事実や証言を、同日の法務委員会で政府への質問内容に含めて詳細に暴露している。
鹿地亘は、藤沢の鵠沼で暴行され米軍に拉致・誘拐されたあと、謀諜機関G2の本部だった不忍池も近い本郷ハウス(現・旧岩崎邸庭園/米軍接収施設)での拷問と自殺未遂を皮きりに、横浜の中央外人病院(同)、川崎市丸子の東京銀行川崎クラブ(TCクラブ/同)、茅ヶ崎の米軍キャンプが置かれた海岸北側の松林に建っていた中島別荘(C31ハウス/同)、渋谷区代官山駅近く猿楽町の猿楽小学校前にあった西洋館(USハウス/同)、殺されそうになった沖縄の米軍知念基地、そしてB17に乗せられて羽田から再び代官山の西洋館(USハウス)へと、神宮外苑で解放されるまでめまぐるしいルートを連れまわされつつ、約1年間にわたって監禁されつづけた。
日本の主権侵害をマスコミが報道せず、国会の法務委員会で質疑応答がなされなければ、米軍のスパイになるのを拒否した鹿地亘は、代官山(渋谷ハウス)へもどされず、おそらく沖縄(当時は米国領)の米軍基地で殺されていただろう。この中で、以前から気になっていたのが、米軍キャンプが設置され射爆場にされていた茅ヶ崎の海岸一帯にあった中島別荘(C31ハウス)と、代官山駅近くの猿楽町にあった大きな西洋館(渋谷ハウス)だ。
衆議院の猪俣浩三議員は、鹿地亘が米軍に監禁されているのを告発した、米軍勤務のコック山田善二郎とともに、これらG2の謀諜拠点を2週間かけてめぐり具体的な調査をしている。その様子を、1952年(昭和27)12月の衆議院法務委員会における国会速記録から引用してみよう。
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(前略)茅ヶ崎市のある松林に囲まれたC三一号と称しまする、アメリカに接収せられましたる公館であるということを山田氏が申しましたので、茅ヶ崎駅からその公館まで行きまする道順を彼に口述させてみましたが、はたして山田が言う通りのC三一号なるみのが存在しておつたことがわかりました。その他、この茅ヶ崎市に抑留せられまする以前におつたと称しまするのは、丸子多摩川の東京銀行の川崎支店、そのとき東銀クラブ、なお東川クラブと称せられる所、これはやはり接収せられましてアメリカ軍の何らかの諜報機関の館になつておつたようでありますが、そこに鹿地氏があつて、やはり山田君はそこで鹿地氏に食事を提供しておつたという証言がありましたので、これもまつたく山田氏の知らざる第三者をつかわしまして、そのTCクラブと称される東銀クラブの公館の付近の住民について調査をいたしました。そうしますと、山田というコックがおつたこと、日本人で病人と称する者が長らくここにおつたということの証言を得たのであります。
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戦後の米軍による謀略事件の資料類を調べていたら、鹿地亘が米軍のキャノン機関(G2)に拉致誘拐・監禁されていた場所の詳細な証言や特定、監禁ルートの調査に同行したカメラマンが撮影したとみられる写真類が、1952年(昭和27)の時点で残されていることが判明した。また、当時は衆議院議員で社会党の代議士だった猪俣浩三も、1952年(昭和27)12月8日の衆議院法務委員会が開催される直前に、鹿地亘が監禁されていた米軍拠点のルートを自身で調査あるいは調べさせ、関連する人物たちや近隣住民への調査・取材を実施している。そして、判明したそれらの事実や証言を、同日の法務委員会で政府への質問内容に含めて詳細に暴露している。
鹿地亘は、藤沢の鵠沼で暴行され米軍に拉致・誘拐されたあと、謀諜機関G2の本部だった不忍池も近い本郷ハウス(現・旧岩崎邸庭園/米軍接収施設)での拷問と自殺未遂を皮きりに、横浜の中央外人病院(同)、川崎市丸子の東京銀行川崎クラブ(TCクラブ/同)、茅ヶ崎の米軍キャンプが置かれた海岸北側の松林に建っていた中島別荘(C31ハウス/同)、渋谷区代官山駅近く猿楽町の猿楽小学校前にあった西洋館(USハウス/同)、殺されそうになった沖縄の米軍知念基地、そしてB17に乗せられて羽田から再び代官山の西洋館(USハウス)へと、神宮外苑で解放されるまでめまぐるしいルートを連れまわされつつ、約1年間にわたって監禁されつづけた。
日本の主権侵害をマスコミが報道せず、国会の法務委員会で質疑応答がなされなければ、米軍のスパイになるのを拒否した鹿地亘は、代官山(渋谷ハウス)へもどされず、おそらく沖縄(当時は米国領)の米軍基地で殺されていただろう。この中で、以前から気になっていたのが、米軍キャンプが設置され射爆場にされていた茅ヶ崎の海岸一帯にあった中島別荘(C31ハウス)と、代官山駅近くの猿楽町にあった大きな西洋館(渋谷ハウス)だ。
衆議院の猪俣浩三議員は、鹿地亘が米軍に監禁されているのを告発した、米軍勤務のコック山田善二郎とともに、これらG2の謀諜拠点を2週間かけてめぐり具体的な調査をしている。その様子を、1952年(昭和27)12月の衆議院法務委員会における国会速記録から引用してみよう。
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(前略)茅ヶ崎市のある松林に囲まれたC三一号と称しまする、アメリカに接収せられましたる公館であるということを山田氏が申しましたので、茅ヶ崎駅からその公館まで行きまする道順を彼に口述させてみましたが、はたして山田が言う通りのC三一号なるみのが存在しておつたことがわかりました。その他、この茅ヶ崎市に抑留せられまする以前におつたと称しまするのは、丸子多摩川の東京銀行の川崎支店、そのとき東銀クラブ、なお東川クラブと称せられる所、これはやはり接収せられましてアメリカ軍の何らかの諜報機関の館になつておつたようでありますが、そこに鹿地氏があつて、やはり山田君はそこで鹿地氏に食事を提供しておつたという証言がありましたので、これもまつたく山田氏の知らざる第三者をつかわしまして、そのTCクラブと称される東銀クラブの公館の付近の住民について調査をいたしました。そうしますと、山田というコックがおつたこと、日本人で病人と称する者が長らくここにおつたということの証言を得たのであります。
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猪俣議員は、本郷ハウス(岩崎邸)で40年間ボイラーマンをしていた斎藤正太郎が、一時的に茅ヶ崎のC31ハウスに同職で勤務していたことも突きとめ、そこでコックの山田善二郎とともに、鹿地亘が監禁されているのを確信するようになった経緯を発表している。そして、明らかに国家の主権が侵されている重大事件だと規定した。ちなみに、鹿地亘が茅ヶ崎の監禁場所へ移送されたころ、責任者はG2のキャノン少佐からCIAのガルシェ大佐に交代している。
茅ヶ崎にあったC31ハウス(現・茅ヶ崎市松が丘2丁目)は、もともと中島飛行機の中島知久平の実弟で、錫(すず)を採掘する千歳鉱山と岩戸鉱山の社長だった中島門吉の別荘だったのを、敗戦と同時に米軍が接収しC31ハウスと称し謀諜機関の拠点としていたもので、返還後はクロマツに囲まれた旅館「松林荘」として営業していたようだ。当時の写真を見ると、門の脇には門番の袖がある和風の造りだが、母家はモダンな西洋館というややチグハグな外観をしている。
鹿地亘が、C31ハウスの2階に監禁されていた時期は、ちょうど朝鮮戦争と重なるので、茅ヶ崎海岸から菱沼海岸、辻堂海岸にかけては、米軍による射爆演習や上陸演習が盛んに行なわれ、C31ハウス(中島別荘)にも砲爆弾の音がよく響いていたにちがいない。烏帽子岩がサムライ烏帽子のかたちを失い、今日のようにただの三角岩になってしまったころだ。
そして、次に移送されたのが代官山駅の近く、渋谷区猿楽町の西洋館(USハウス)だった。鹿地亘は、監禁場所を移動させられるとき常に目かくしをされていたのだが、監禁場所が渋谷の猿楽町にあることは監禁当時より知っていた。それは、1952年(昭和27)10月1日に行われる総選挙に向け、役所の広報係が「立会演説会が裏の猿楽小学校で開かれます!」と、拡声器で繰り返し叫んでいたのを聞いたからだ。この猿楽町にあったUSハウスが、以前より気になっていた。
茅ヶ崎にあったC31ハウス(現・茅ヶ崎市松が丘2丁目)は、もともと中島飛行機の中島知久平の実弟で、錫(すず)を採掘する千歳鉱山と岩戸鉱山の社長だった中島門吉の別荘だったのを、敗戦と同時に米軍が接収しC31ハウスと称し謀諜機関の拠点としていたもので、返還後はクロマツに囲まれた旅館「松林荘」として営業していたようだ。当時の写真を見ると、門の脇には門番の袖がある和風の造りだが、母家はモダンな西洋館というややチグハグな外観をしている。
鹿地亘が、C31ハウスの2階に監禁されていた時期は、ちょうど朝鮮戦争と重なるので、茅ヶ崎海岸から菱沼海岸、辻堂海岸にかけては、米軍による射爆演習や上陸演習が盛んに行なわれ、C31ハウス(中島別荘)にも砲爆弾の音がよく響いていたにちがいない。烏帽子岩がサムライ烏帽子のかたちを失い、今日のようにただの三角岩になってしまったころだ。
そして、次に移送されたのが代官山駅の近く、渋谷区猿楽町の西洋館(USハウス)だった。鹿地亘は、監禁場所を移動させられるとき常に目かくしをされていたのだが、監禁場所が渋谷の猿楽町にあることは監禁当時より知っていた。それは、1952年(昭和27)10月1日に行われる総選挙に向け、役所の広報係が「立会演説会が裏の猿楽小学校で開かれます!」と、拡声器で繰り返し叫んでいたのを聞いたからだ。この猿楽町にあったUSハウスが、以前より気になっていた。



ここは、鹿地亘自身の証言を聞いてみよう。1953年(昭和28)に理論社から出版された鹿地亘/山田善二郎・共著『だまれ日本人!』から、猿楽町USハウスでの様子を引用してみる。
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「茅ガ崎」におったのは、九月の二十三日までで、わたしの察するところでは、山田がここをはなれたことにかれらは不安を感じはじめ、再びわたしの居所を代官山の猿楽小学校前の洋館の二階にうつした。監視はその前の部屋にいつもピストルを枕のわきにおいて寝た。この物置風の小部屋には小窓があったが、それはわたしが暑かろうという口実で、電気冷蔵器をすえつけてふさがれた。/今度はラジオの聴取も禁止された。十一月の初旬のある日のこと、ガルシェはわたしのところからラジオをとりあげてもってゆく。それから、読ましていた新聞もさしとめた。わたしは何事かかれらのおびえることがあると感じた。そして、わたしにさしのべられた国民的救いの手は、ひしひしと迫っているのを感じた。/わたしは光田軍曹と高橋曹長の手ぬかりで、ある日、古い朝日新聞をみると、外ではわたしの救出が大きな問題になっていることがわかった。
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登場している「光田軍曹と高橋曹長」は、鹿地亘の監視役で米軍の日系二世兵士だ。この直後、身辺に危険が迫っているので「国外にあなたを移します」という口実のもと、彼は羽田から沖縄の嘉手納空港に移送され、知念基地の兵舎に監禁されることになる。
鹿地亘が急遽、日本から沖縄(米国領)へ移送されたのは、国会での本格的な調査が開始されようとしていたからだ。このときが、鹿地亘にとってはもっとも危険な時期だったろう。彼を殺して闇に葬れば、当時の米軍と日本政府との力関係からして、事件そのものをたやすく「なかったこと」にできただろう。ちょうど、下山事件などの関係者の何人かが、沖縄の米軍基地を最後に「行方不明」となり消息が知れないのと同様の結果だったのではないか。
そうはならなかったのは、CIAが鹿地亘を対中対ソスパイに仕立てるのを、いまだ諦めていなかったフシが見える。それは、ガルシェ大佐が最後に「あなたに協力を願う我々の希望は捨てていない」と伝えたことからも、「利用価値」を認めていたことがうかがえる。おそらく、当時のCIAには対中対ソに人脈をもつ人材が少なく、彼のように中国国民党や共産党に多くの知己をもつ人物は稀少価値だったのだろう。CIAは、最後の監禁場所となった猿楽町のUSハウス(渋谷区猿楽町10番地)で、鹿地亘に米軍最高司令部への連絡方法まで教えてから解放している。1952年(昭和27)12月7日の夜7時ごろ、鹿地亘は神宮外苑でタクシー代をわたされ米軍のジープから放りだされた。鹿地亘はタクシーをひろうと、下落合4丁目2135番地のわが家へ1年ぶりに帰宅している。
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「茅ガ崎」におったのは、九月の二十三日までで、わたしの察するところでは、山田がここをはなれたことにかれらは不安を感じはじめ、再びわたしの居所を代官山の猿楽小学校前の洋館の二階にうつした。監視はその前の部屋にいつもピストルを枕のわきにおいて寝た。この物置風の小部屋には小窓があったが、それはわたしが暑かろうという口実で、電気冷蔵器をすえつけてふさがれた。/今度はラジオの聴取も禁止された。十一月の初旬のある日のこと、ガルシェはわたしのところからラジオをとりあげてもってゆく。それから、読ましていた新聞もさしとめた。わたしは何事かかれらのおびえることがあると感じた。そして、わたしにさしのべられた国民的救いの手は、ひしひしと迫っているのを感じた。/わたしは光田軍曹と高橋曹長の手ぬかりで、ある日、古い朝日新聞をみると、外ではわたしの救出が大きな問題になっていることがわかった。
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登場している「光田軍曹と高橋曹長」は、鹿地亘の監視役で米軍の日系二世兵士だ。この直後、身辺に危険が迫っているので「国外にあなたを移します」という口実のもと、彼は羽田から沖縄の嘉手納空港に移送され、知念基地の兵舎に監禁されることになる。
鹿地亘が急遽、日本から沖縄(米国領)へ移送されたのは、国会での本格的な調査が開始されようとしていたからだ。このときが、鹿地亘にとってはもっとも危険な時期だったろう。彼を殺して闇に葬れば、当時の米軍と日本政府との力関係からして、事件そのものをたやすく「なかったこと」にできただろう。ちょうど、下山事件などの関係者の何人かが、沖縄の米軍基地を最後に「行方不明」となり消息が知れないのと同様の結果だったのではないか。
そうはならなかったのは、CIAが鹿地亘を対中対ソスパイに仕立てるのを、いまだ諦めていなかったフシが見える。それは、ガルシェ大佐が最後に「あなたに協力を願う我々の希望は捨てていない」と伝えたことからも、「利用価値」を認めていたことがうかがえる。おそらく、当時のCIAには対中対ソに人脈をもつ人材が少なく、彼のように中国国民党や共産党に多くの知己をもつ人物は稀少価値だったのだろう。CIAは、最後の監禁場所となった猿楽町のUSハウス(渋谷区猿楽町10番地)で、鹿地亘に米軍最高司令部への連絡方法まで教えてから解放している。1952年(昭和27)12月7日の夜7時ごろ、鹿地亘は神宮外苑でタクシー代をわたされ米軍のジープから放りだされた。鹿地亘はタクシーをひろうと、下落合4丁目2135番地のわが家へ1年ぶりに帰宅している。



この渋谷猿楽町のUSハウスは、猿楽小学校のすぐ南側に道路を隔てて接した大きな屋敷で、和風の門がまえにモダンな西洋館という、やはり不釣り合いな意匠をしていた。このG2渋谷拠点だった西洋館は、南東側に増築を重ね1980年代まで建っていたのが空中写真から見てとれる。
◆写真上:鹿地亘が拷問を受け、縊死とクレゾール液の服用で何度か自殺未遂を繰り返した、米軍G2(キャノン機関)の本部「本郷ハウス」(現・旧岩崎庭園)。
◆写真中上:上・中は、茅ヶ崎のラチエン通りから東へ折れたところにあったC31ハウス(中島門吉別荘)。下は、1952年(昭和27)に撮影された茅ヶ崎の米軍C31ハウス。
◆写真中下:上は、1947年(昭和22)に撮影された渋谷区猿楽町の渋谷USハウス。中は、1952年(昭和27)に撮影された渋谷USハウス。下は、1979年(昭和54)撮影の同邸。
◆写真下:上は、1952年(昭和27)12月8日刊行の朝日新聞記事。中は、下落合の家族のもとへもどった鹿地亘。下は、1952年(昭和27)12月10日の衆議院法務委員会で証言する鹿地亘。
★おまけ
1952年(昭和27)12月に衆議院の法務委員会で宣誓・証言をする、奥から斎藤正太郎、山田善二郎(マイク前)、上海と神田神保町で内山書店を経営していた内山完造。彼らの証言により当時、日本国内にあった米軍謀諜機関のG2のちCIAのアジトが、次々と明るみにでていった。

◆写真中上:上・中は、茅ヶ崎のラチエン通りから東へ折れたところにあったC31ハウス(中島門吉別荘)。下は、1952年(昭和27)に撮影された茅ヶ崎の米軍C31ハウス。
◆写真中下:上は、1947年(昭和22)に撮影された渋谷区猿楽町の渋谷USハウス。中は、1952年(昭和27)に撮影された渋谷USハウス。下は、1979年(昭和54)撮影の同邸。
◆写真下:上は、1952年(昭和27)12月8日刊行の朝日新聞記事。中は、下落合の家族のもとへもどった鹿地亘。下は、1952年(昭和27)12月10日の衆議院法務委員会で証言する鹿地亘。
★おまけ
1952年(昭和27)12月に衆議院の法務委員会で宣誓・証言をする、奥から斎藤正太郎、山田善二郎(マイク前)、上海と神田神保町で内山書店を経営していた内山完造。彼らの証言により当時、日本国内にあった米軍謀諜機関のG2のちCIAのアジトが、次々と明るみにでていった。

この記事へのコメント
てんてん
落合道人
ぶっかけ蕎麦、美味しそうですね。一度食べてみたいです。