物資不足で「特高月報」から「思想旬報」へ。

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 1944年(昭和19)になると、内務省の特高から刊行されていた「特高月報」が廃刊となり、その代替誌として同年4月から「思想旬報」と呼ばれる冊子が発行されるようになる。戦争末期の物資不足から、低質な用紙にガリ版(謄写版)刷りという、満足に製本さえされていない紐綴じなどの粗末な仕様だった。だが、用紙やインクも不足気味で旬報(10日毎)で刊行されるはずが、たびたび欠号も見られ、それを補うためか“号外”も何度か発行されている。
 敗戦間近な時期、政府出版物でさえ定期的な刊行・配布ができず、しかもガリ版刷りで紐綴じかホチキス(ステープラー)による簡易製本という、物資配給制の崩壊とともに通常業務まで末期的な状況だったのがよくわかる。1944年(昭和19)4月10日に第1号が刊行され、翌1945年(昭和20)7月20日に第31号で発刊不能に陥っているようだが、先述したように“号外”も何号か印刷されているので、すべての発行数は31号よりも実際には多いのだろう。
 「特高月報」だけでなく、戦時中の思想取り締まり報告書である「思想旬報」の存在を確認したのは、1970年代に米国公文書館を訪れ、戦時資料を片っぱしから調査していたジャーナリストの松浦総三だ。敗戦と同時に、焼却をまぬがれた「特高月報」および「思想旬報」は、内務省の各種資料とともにGHQに押収され、30年近くも米国で眠っていた。その存在を、あえて米国が積極的に公表しなかったのは、日本占領時に特高警察の部員を元・憲兵隊員などとともに「戦犯」の脅しをチラつかせながら、米軍の手足(調査員・工作員・スパイなど)として雇用していたせいだとみられ、当時はその多くがいまだ存命だったからだろう。それは、別に彼らへ配慮したからなどではなく、米軍内のさまざまな工作を表だって証言されては困るからだ。
 特高警察(内務省)は、1935年(昭和10)前後に左翼勢力をほぼ壊滅させたあと、資本主義の政治思想基盤である民主主義や自由主義の傾向がある国民を、根こそぎ検挙する計画を立てている。それには、従来の左翼に対する弾圧と同様の手口で、ときにはあることないことをデッチ上げて、反政府・反戦的な政治家華族知識人出版人芸術家宗教者、一般市民などを次々と検挙していった。そして同時に、国内へ軍国主義ないしは全体主義(ファシズム)の思想を拡げ、浸透させるための施策として「思想戦」と呼ばれる、左翼の諸思想はもちろん資本主義的民主主義や自由主義思想へ対抗するための施策を、次々と打ち出していった。
 以前ご紹介した、戦時標語の創作もその一環だが、1938年(昭和13)には国内外のプロパガンダに関する中心だった内閣情報部の肝煎りによる、名称もストレートな第1回「思想戦」展覧会が日本橋高島屋で開かれている。前年に成立した、第1次近衛文麿内閣のもとで国家総動員法が推進されており、このころから内務省や特高警察は、反政府・反戦・反軍国などの思想を抱く人物を逮捕・検挙するだけでなく、街中に流れるウワサ話や落書き、主婦たちの世間話など、いわゆる「流言蜚語」にいたるまで細かく注意を払うようになった。それは先の軍国主義やファシズムがどの程度、国民の間に拡がり根づいているかの、「思想戦」による成果の調査・分析を行うためであり、また隠れた反政府・反戦の勢力(人物たち)をあぶりだすためでもあった。
 当時の様子を、2016年(平成28)に明石書店から出版された、ケンブリッジ大教授で緻密な日本研究者で知られる、B.クシュナー『思想戦―大日本帝国のプロパガンダ』から引用してみよう。
  
 戦時下日本社会の雰囲気や流行を分析していた特別高等警察のファイルや報告書からは、プロパガンダ関連組織が一般大衆の希望や恐怖に対して寄せていた関心の度合いを知ることができる。世論に対して払われたこの関心は、効果的なプロパガンダと対抗プロパガンダの構築にとって主要な役割を果たしていた。警察は、工場・公衆便所・橋の下・居酒屋・食堂・道端等、あらゆる場所で広まっていた噂に注意を払っていた。
  
 この特高による情報収集に対し、最大限の協力・貢献をはたしたのが各町に設置された町会(町内会)であり、戦時下における隣組による相互監視・摘発組織だった。
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 各町内に住んでいる住民の言動や、落書きの「犯人」とおぼしき人物(町会から疎外されている人間)のあぶりだしなど、中国の「監視員」制度(通報奨励法)や、北朝鮮の「申告箱」制度とまったく同様に、特高による密告の奨励が進められた。中には、町内で「なにをしているのかが不明」な画家や、「働かないで家にいるだけ」の著述家、戦時なのに楽器演奏やレコード鑑賞をしている人物など、町会から反感を抱かれた家庭が「アカ」としてねらい撃ちにされ、または町会の寄合いや防空訓練などを欠席しただけで、嫌がらせの密告をされた人々も大勢いた。
 さて、「思想旬報」は日米開戦後、反政府・反戦・反軍国思想の取り締まりとともに、「民心の動向」=世論の把握を大きな柱としている点で、「特高月報」とはやや趣きが異なる内容となっている。それは、発刊されたのが1944年(昭和19)4月というタイミングであり、聨合艦隊の泊地だったトラック島が大空襲を受け、米軍がサイパンへ迫り、輜重・兵站を無視した無謀なインパール作戦の破綻と、急速に敗戦色が強まる時期だったことに起因するのだろう。内務省および特高は、国内に反戦や厭戦、反軍国主義の世論や雰囲気が拡がるのを、なによりも怖れていた様子が見てとれる。だからこそ世間話の中で厭戦を口にし、町会か隣組により密告された主婦でさえ検挙して恫喝・暴力では済まさず、あえて起訴事案にしているのだ。
 たとえば、B.クシュナーも引用しているが、引用元は松浦総三がまとめた「思想旬報」第3号(1944年4月30日)の要約だろう。1974年(昭和49)に東京空襲を記録する会から出版された『東京大空襲/戦災誌』第5巻収録の第3号要約版では、次のような検挙事例が挙げられている。
〇戦争は陛下が勝手にやつてゐるのである。やるなら市民大会でもやつてから始るべきである。勝手にやつたのだから(戦争)債券を購入することは出来ぬ。(検挙・栃木県)
〇長男を昭和十二年十二月西安にて、次男を昭和十七年ソロモン方面にて失ひたる母親、次男戦死の公報に接するや「二児を失ひたるは天皇陛下の為の為なり」とて畏くも陛下の御肖像及掛軸を取外し、之を足蹴にす。(検挙・秋田県)
〇(前略)天皇陛下は飾り物でこんな物は穀潰しだ。(検挙・埼玉県)
〇下手な戦争をするから長引くのぢや、外国では(大)統領が陣頭に立つて戦争だのに、上御一人ぢやと云つて何も知らぬ者が大本営に控へての戦争ぢや解決はつかぬ、上御一人といふものはいらぬものぢや、無くしてしまへばよい。(検挙・岡山県)
〇東条首相も今となつては大東亜戦争を開いたことを後悔しているだらう。戦争をやつてゐるからこんなに苦しいのだから戦争は早く止めて貰はなければならん。(検挙・静岡県)
〇こんなに骨を折つて子供を育てゝも大きくなると天皇陛下の子供だといつて持つて行かれて仕舞ふのだもの嫌になつて仕舞ふ。子供を育てゝも(中略) 大きく育てゝから持つて行くなんてことをするのだから天皇陛下にだつて罰が当るよ。(検挙・栃木県)
〇百姓の保有米迄取上げられて百姓がやれるか。こんな事で戦争に勝てるか。兵隊は戦場で天皇陛下万歳を云つて死んで行きよると云ふがさうぢやない、必ず恨んで死による。(検挙・高知県)
〇宿直などしなくとも同じだ。御真影(天皇皇后の写真)など何でもない。御真影は只の紙でしかない。宿直をする必要はない。(検挙・群馬県)
〇道路上に於て(中略) 天皇陛下の御写真を二つ折りとし、之を首に吊し遺骨帰還を模倣する悪戯を為す。(検挙・国民学校児童・島根県)
〇宮様であらうが、天皇様であらうが俺達が斯うやつて一生懸命に働いてゐるから生きて居られるのだ。こんな忙しい時出迎へに停車場へ出なくともよい。(検挙・新潟県)
 ……他事例多数(カッコ内引用者註)
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 町会や隣組の制度により、生活の隅々にまで特高の目が光っていたのかが判然とする検挙事例だ。「思想旬報」を読み進めると、中には国民学校児童(小学生)まで検挙している事例を見ても、今日の北朝鮮の状況と同様、非常によく似た監視・密告体制だったのがわかる。それだけ、敗戦間近になると国民の不平不満や怒りが、いつ爆発して警察や政府に向けられるかもしれないという危機感を抱きつつ、いかに怖れていたのかが透けて見える
 特に、1944年(昭和19)7月にサイパン島が陥落すると、いつ米軍の空襲が現実化してもおかしくない状況を迎え、国民の間にはますます不安とともに政府への反感や厭戦・反戦、反軍国の想いが強まっていく様子が、特高が記録した検挙事例や流言からあからさまに見てとれる。もはや、多くの国民が大本営発表など信じておらず、よほどの「忠君愛国」主義者か軍国少年少女でない限り、為政者へ疑いや怒りの目を向けるようになっていった。
 戦争末期の様子を、『思想戦―大日本帝国のプロパガンダ―』からつづけて引用してみよう。
  
 一九四四年の夏の終わりに日本軍が危機的な状況に陥り、戦争が悪化しているという明白な事実を隠すことができなくなってくると、特別高等警察は一般大衆の監視をさらに強めていった。大本営は国内大衆に向けて、曖昧な用語を用いながらも、サイパンが米国の手に落ちたことを認めている。この報道が行われた後、特高は日本中を駆け巡り、一般大衆の反応を記録しようとした。一九四四年八月に内務省へと送られた機密文書では、この報道が国全体にとって衝撃的なものであったことを警察当局者が認めている。多くの人々は、この敗北を戦術的な軍事的失敗と、不十分な政府計画の結果として考えていた。
  
 「特高は日本中を駆け巡り」としているが、このころには日本全国の警察署にはもれなく特高係が設置され、また各地の交番に勤務する巡査にさえ、特高と同様に思想監視の役割りが付与されていたので(荻野富士夫『特高警察』岩波書店/2012年)、日本全国の警察署からサイパン島陥落に関する国民の反応について情報収集をした……というのが正確な表現なのだろう。
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 敗戦が近づくにつれ、もはや政府への批判や怒り、反戦・厭戦の声は抑えきれなくなっていく様子が「思想旬報」からはうかがえる。そして、日本の街々が空襲で焼かれるようになると、政府や戦争に不満を口にしたぐらいでは全員を検挙できなくなる状況を迎え、ついに「思想旬報」は発行を停止している。「特高」という思想警察の存在自体を問われる時代が、目前に迫っていた。

◆写真上:「ぜいたくは敵だ」の戦時標語に、「素」の文字を書き入れる女性のドラマシーン。この落書きは、実際に1940年(昭和15)以降は全国的に見られた。
◆写真中上は、1945年(昭和20)7月20日発行の「思想旬報」第31号()と、1945年(昭和20)7月29日発行の「思想旬報」号外()。は、ガリ版刷りで手書きの粗末な第31号の内容。は、1944年(昭和19)4月に「思想旬報」が刊行される以前の「特高月報」。
◆写真中下:1938年(昭和13)に近衛内閣の情報部が日本橋高島屋で開催した「思想戦」展で、国内の思想統制を強化する政府のプロパガンダ展覧会だった。
◆写真下は、1945年(昭和20)3月10日に撮影された東京大空襲直後の(城)下町の様子。は、淀橋区(新宿区の一部)十二社320番地の小西六写真工業ビル屋上から撮影された撃墜されるB29。下左は、1974年(昭和49)に出版された『東京大空襲/戦災誌』第5巻(東京空襲を記録する会)。下右は、2016年(平成28)出版のB.クシュナー『思想戦―大日本帝国のプロパガンダ』(明石書店)。
おまけ
 現在の港区潮路橋付近の住宅街で、敗戦直後に見られた空襲の「記念碑」。米軍が落としたとみられる、木造バラック建ての2階家に達するほどの、巨大なTALLBOY(5t)爆弾とみられる不発弾を、住民たちがそのまま垂直に立てて空襲の「戦災記念碑」にしていた。信管が抜かれていないのかもしれず危険きわまりないが、戦争をはじめた政府への痛烈な批判オブジェにもなっている。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    「ぜいたくは敵だ」の戦時標語に「素」の文字を書き入れるなんて素敵だな~♪
    2025年08月12日 20:01
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    1940年に標語が作られて以来、敗戦までポスターや立看などへ「素」入れの
    落書きが全国各地で見られたようですね。
    2025年08月12日 20:17

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