目白文化村の住民は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲のあともほとんど疎開をしなかったようだ。ひとつは、下町とは異なり中小の軍需工場が町内に点在しているわけでもなく、爆撃目標にはされにくいだろうという判断があった。もうひとつは、庭が広くたっぷりとあるので、万が一空襲されても家屋が密集した下町とはちがって、類焼は最小限で済むだろうという予測があったらしい。さらに、焼夷弾が落ちても家屋間のスペースに余裕があるため、落ちたそばから地上で燃える焼夷弾さえ早期消火してしまえば、なんとか持ちこたえられるだろう…という、ほとんど根拠のない楽観的な見方が多かったようだ。
それに、借家住まいで着の身着のまま逃げられる下町の住民とは異なり、目白文化村はほとんどが土地つきの「持ち家」であり、また住民の職業がら美術品や蔵書、骨董品、貴重品などの「モノ持ち」が多く、いざ疎開するとなったら所蔵品の疎開だけで、膨大な手間ヒマと費用がかかってしまう。戦時下で、トラックの手配さえままならない当時としては、身動きがとれなかった…というのが正確な表現なのかもしれない。
民家も工場も、病院も役所もまったく無差別な、米軍の下町における絨毯爆撃の実態を、どうやら目白文化村の住民たちはよく認識できていなかったようだ。当時の、大本営による空襲被害の秘匿も、少なからず影響していたのかもしれない。
4月13日の金曜日、夜も更けた灯火管制下の目白文化村上空にB-29の編隊が姿を見せたとき、住民たちはまだ半信半疑だったのかもしれない。なぜなら、空襲警報とともに高田馬場から神田川を西進する、照明弾に照らされて銀色に光るB-29の編隊を、避難もせずに見上げていた人たちがかなりいたからだ。
しかし、中井駅の手前あたりで編隊が右へやや旋回し、またたくまに目白文化村の上空へやってきたとき、そして焼夷弾が文化村内へ着弾しはじめたとき、ようやく事態の深刻さが住民たちへと伝わり、いっせいに避難を始めている。防空壕へ飛びこんだ人たちもいたが、文化村が直撃されているのに気づき火に巻かれて“蒸し焼き”になるのを避けるため、防空壕を飛び出して工事中の改正道路(山手通り)から東へ、また空襲をまぬがれた中井駅の御霊神社のある西側へと避難した人も多かった。
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