牧水は1904年(明治39)、早稲田大学文学科高等予科に入学するために宮崎県から上京した。だが、馴れない東京生活でストレスがたまったせいか、ほとんど下宿と大学を往復するだけの、「引きこもり」に近い生活を送っていたようだ。
そんなある日、大学からまっすぐ下宿へは帰らず、大学裏から戸山ヶ原へと散策に出た彼は、思いがけずに東京郊外に広がる武蔵野ハイキングの楽しさを味わう。さっそく、早稲田の穴八幡へ引っ越してきた牧水は、ほとんど毎日のように付近の散策をはじめた。牧水が見た当時の戸山ヶ原は、写真下のような風情だったろう。(明治末の戸山ヶ原/ポイント①)
日々、散歩の範囲は拡がり、歩く距離も伸びつづけて、ついに目白橋をわたり下落合の南斜面を“発見”することになる。では、彼がいつも歩いたお気に入りのハイキングコースを、そのままたどってみよう。
「そして目白橋を渡つて・・・」
いまの目白橋は、牧水のころの面影は皆無だ。学習院をすぎて左手を見れば新宿の高層ビル群、右手を見れば池袋の繁華街が拡がっている。(ポイント②)
品川・赤羽鉄道線(山手線の前身)の開通当初から、目白停車場は存在したが、隣りの高田馬場駅はまだなかった。
「左折、近衞公のお邸に行き當つて・・・」
右は、昭和20年代の近衛篤磨邸への道、左は現在の様子。(ポイント③) 道のまん中に、近衛邸の庭にあった木がそのまま残っているが、牧水が見た風景は、正面に近衛邸の門があっただろう。突き当たって、すぐに右折することになる。
「右折、一二町もゆくととろゝゝとした下り坂になつた其處の窪地全體が落合遊園地といふものになつてゐた。・・・」
牧水が見たこの道の風景は、右手がところどころに草原のある雑木林、左手は近衛邸の屋敷塀がずっとつづいていた。近衛邸母屋の黒い瓦屋根も見え隠れしていたはずだ。この先をまっすぐ行くと、右手に「谷戸」地形の小さな谷間があり、池のある「遊園地」があった。
「遊園地に入らずにその入口の處から左に折れてゆく下り坂があつた。其處もほそ長い窪地になつてゐて、いろゝゝな雜木のなかに二三本の朴の木が立ち混り、夏の初めなどあの大きな白い花が葉がくれに匂つてゐたものである・・・」
この南へと下る坂道は、明治末から大正初期にかけて近衛邸の敷地内にあったが、一般の通行に開放していたようだ。大正に入ってほどなく相馬伯爵邸ができると、この道は途中で閉鎖されてしまう。戦後、改めて開通したが、牧水が歩いたころに比べて道の幅もかたちも変っている。現在は、左右に「おとめ山公園」の入口がある。牧水が見たころの面影を、いくらかとどめている一画だ。この坂を下りきったところに、藤稲荷(藤森稲荷)の祠があった。(ポイント④)
「降りきつた右手の所に、藤の古木があるので藤稻荷と呼ばれてゐる稻荷の祠があつた。(今でもこれはあるだらう。) その境内も一寸した高みになつてゐた・・・」
上のモノクロ写真2点は、戦後すぐのころの藤稲荷の様子。このころも手入れをする人たちがいなかったものか、荒れるに任せているような状態だった。写真左は、現在の様子できれいに整備されている。
牧水は、この稲荷がことさら気に入ったようで、荒廃し忘れられた稲荷の祠の様子と、東京での自身の孤独感・寂寥感とを重ね合わせていたのかもしれない。東国の源氏一族が、氏神として祀ったといういわれが残っている。
「ほんのばらばらとした小さなものであつたが、東京の北から東にかけての郊外では全く珍しいものであつた。今は稻荷の側からかけて幾軒かの大きな別莊になつてゐたとおもふ・・・」
左は、戦後すぐの荒れ果てた藤稲荷の祠、右は現在の様子。(ポイント⑤) 藤稲荷または藤森稲荷という名称は、森の中に大きな藤の大木があったからだと伝えられている。現在でも境内には、小さいながらも藤棚がある。1750年(寛延3)と1838年(天保9)に奉納された手水鉢があり、1818年(文化15)奉納の神抓一対の台座には太田南畝(蜀山人)の名前も見える。
左は、藤稲荷から坂を下りきったところの道。当時、右手は雑木林、左手は一面水田の景色だった。(ポイント⑥)
小金井の国分寺崖線の下にかよう「ハケの道」にならえば、ここは目白崖線下を通る「バッケの道」ということになる。正面に、氷川明神女体社を望む。若山牧水が、何度も歩いた道だ。
「その丘を降りた所に氷川神社といふがあり、神社の境内に小さな茶店などの出てゐる事もあつた・・・」
氷川明神の典型的な明神鳥居。(ポイント⑦) いまは茶店の出ることはないが、秋祭りには境内一面に夜店が連なる。このまま「バッケの道」を行くと、ほどなく七曲坂。牧水も、何度となくのぼったに違いない。そして、そこにあった風景は、おそらく次のようなものだったろう。
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