紙にものを書かなくなった机と書斎はいつまで?

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 わたしの机はいま使っているものが、これまででいちばん粗末でボロいだろうか。両袖には引出しもなく、天板と同じ幅の合板脚が左右に付属し、背後にはそれを支える太い幕板が2枚(合板)付属している。天板は合板の厚いもので、机というよりは頑丈な置き台のようだ。
 もう30年近くも使っているので、ところどころ表面の板目を装ったコーティングが剥がれ、中身の安っぽい生の合板が見えている。ときどきミシッとかピキッとか妙な音を立てるが、おそらく季節ごと温湿度の高低多寡によるのだろう。横の幅だけは長く、改めて測ってみたら150cmほどはありそうだ。ニトリやAmazonで調べてみたら、だいたい1万円前後の価格帯のもので、いまでも安く手に入りそうだ。考えてみれば、これまでわたしが使ってきたものの中では、いまの机がいちばん武骨で粗末であり安モノではないかと思う。
 小学校から中学時代まで使っていた机は、壁際の書棚や引出しと一体化した折り畳み式のもので、4畳半サイズだったわたしの部屋では、机を折りたたんでから蒲団を敷いて寝ていた。親が大工か指物師に頼みオリジナルでつくらせたのだろうが、合板ではなく無垢材(材質は憶えていない)でつくられており、表面は滑らかなニスが濃い色に塗られていた。壁につくり付けにするのだから、大工か指物師の手間賃も含めれば、けっこう値も張ったのではないだろうか。
 高校から大学時代に使っていたのは、ありがちな合板机だったけれど、かなり重たくてツヤツヤしており、親がけっこう高めな机を買ってくれたのだろう。「これでしっかり勉強しろ」ということだったと思うが、わたしは隠れて好きな本を読みふけりヒマなときは絵ばかり描いていた。机の左横には大きめな引き出しが4つほど付いていたが、ほとんど整理をしないせいか文房具類を乱雑に入れっぱなしにしており、行方不明のモノを探すのがたいへんだった。
 学生時代の後半は、親から独立して学生アパートで暮らしたが、机はほとんど使わなくなり、机上は物置きか平積みの本棚と化していった。そのかわり、なにもかも電気ゴタツと座イスで済ますようになり、食事も勉強も読書もみんなコタツ(夏はコタツ掛けなし)で用を足していた。座イスさえ倒せば、いつでも寝られる気楽なひとり暮らしの生活は、わたしにとっては新鮮で天国だった。この電気ゴタツと座イスは、忘れもしない目白通りと山手通りの交差点角にあった、いまも場所を少し北に移して営業中のリサイクルショップで安く手に入れたものだ。
 大学を卒業してマンション暮らしになると、当時はバブル経済の真っただ中で徹夜仕事もめずらしくなかったため、自宅の机はますます使わなくなり、結婚する前後に処分してしまった。そのかわり、16ビットPCが発売されてしばらくすると、従来の机の半分ほどのサイズだったPCラックを買った憶えがある。当時のPCは大きく、ラックはけっこうな面積を占領した。NECがPC-98シリーズやPC-100、富士通がFMシリーズ、Appleがマッキントッシュを発売して間もなくのころだった。マンションはカーペットを敷いた洋間仕様だったが、学生時代からのコタツはそのまま使っていたので、机がなくてもそれほど不自由は感じなかったのだ。
 戦前、落合地域に建てられた西洋館の書斎には、必ずおしゃれなスタンドとともに洋風の机やイスが置かれていた。和館にも書斎の間はしつらえられて、丈の低い書きもの机(文机)が置かれていた。ものを書くには必須だった書斎や机だが、上落合553番地に住んだ吉川英治は外出からもどると、まずは書斎机の前に座りホッとひと息入れることで落ち着いたと書いている。1936年(昭和11)に新英社から出版された、『草思堂随筆』収録の『ゴシップ』から引用してみよう。
  
 永い習性といふのか、家に帰ると、私はすぐ、有るべき所にあるものが帰つたやうに、机の前に、坐りこむ。/机と私、私と机。/おそろしいやうな宿縁だ。/やむを得ない私用か、或は、夜更けて、酒席からのがれて来た晩なども、これから、ペンがとれないほど疲れてゐても、いちどは、机の前に、坐つてみないと、気がすまないのである。ほんとに、家へ落着いた気がしない。
  
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 吉川英治にとっては、机の前が自分の居場所であるといいたいのだろうが、それにしてはよく原稿用紙を手に、やす夫人の前から姿を消しては旅館や温泉場などへ出かけている。この文章が書かれたのは、やす夫人との離婚寸前にあたるので、いつヒステリーを起こすかわからない夫人を気にしつつ、自宅の机はそれほど落ちつける場所ではなかったのではないか。
 上落合2丁目829番地の“なめくじ横丁”、次に下落合5丁目2069番地の“もぐら横丁”に住んでいた尾崎一雄は、机の素材から形状にまでかなりこだわっていたようだ。1971年(昭和46)に、俳句雑誌「馬酔木」10月号に執筆されたエッセイ『四角な机丸い机』では、そんな机ヲタクぶりを披露している。かなり細かなこだわりがあったようだが、抜粋して引用してみよう。
  
 この机――現にその上でこれを書いてゐる欅の真四角な机は、一辺がかつきり八十糎(cm)ある。大きさは手頃だが、高さがちよつと不足なのは、身体の小さかつた母が、自分に合ふ寸法にさせたのか、と想像されたりして面白い。但し、使ひにくいので、書きもの机として常用はしてゐない。(中略) もう一つの方(伐採された松材)は、直径八十五糎、厚さ十二糎で、この断面には傷がない。昨年十月に伐られた木の、地上十三米(m)の部分の断片である。私はこの無傷の方を机につくらせ、書きもの用にするつもりだ。半年ぐらゐ陽かげで乾かせとの注意で、廊下にずつとたてかけて置いたが、やはりヒビが入つた。しかしかまはず机にするつもりだ。すでにある職人と約束済みである。その老職人は、「お宮の松の木」で机を作ることに大きな興味を抱いてゐる。脚にするための、同じ樹の太い枝も貰つてある。(カッコ内引用者註)
  
 尾崎一雄は、祖父の代まで神官をつとめていた社(やしろ)の老松が伐られるのを見て、その一部を譲り受け、早くから書きもの机にしようと計画していた。
 これほど「机」を気にし、こだわる作家たちだけれど、現代の多くの著述家の机上には原稿用紙や文房具などないのではないか。置かれているのはPCのみで、それもSaaS上のソフトウェアを活用して手もとにはなにも置かない、小型で軽量なTHINクライアントのみかもしれない。あるいは、WiFi/WiMAX環境を設定したノートPCで、別に書斎にあるデスク上に限らず、いつでもどこでも原稿が書けるような創作環境の人も多いのだろう。そうなると、あえてデスクも不要になり、寝室や居間、喫茶店、ファミレス、取材先、ホテルと、どこでも自在に執筆できてしまう。
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 わたしも、机の上で書きものをする機会がほとんどなくなった。もともと字がヘタなので、ずいぶんと助かっている。それでも、前世紀の古い人間なので万年筆文房具一式にはこだわりがあっていちおう保存している。でも、実際には“紙”へ字を書く機会はないに等しい生活だ。せいぜい、いただいた手紙やハガキに返事を書くか、あるいはワープロで打った手紙に署名するかしか、あえてペンを握ることはなくなった。
 いま、家の机上に乗っているのは、正面に大きなモニターとキーボードが、右手にやや小さめなモニターとキーボードが、机の左下には大きめなデスクトップPC本体(メインマシン)と外付けのストレージが、右下にはサブマシン(冗長化バックアップ)用の小さめな本体が置いてあり、ほかにワイヤレス固定電話とA4サイズのスキャナ、それにスマホとLEDスタンドがあるだけだ。デスクサイドには、どこへでも携帯できるA4サイズのノートPCが置いてあり、少し離れた机(というか台)の上にはTHINクライアント化した予備PCが乗っている。つまり、先述のように書斎の“机”ではなく各種デバイスを設置する、単なる“台”と化してしまっているのだ。
 これらデバイスは、いずれもFATクライアント(アプリケーションやSSD/HDDがインクルードされている、ネット環境がなくても仕事ができる仕様)だが、すべての仕事はネット上のアプリケーションで処理し、ネット上のストレージへ蓄積するのがあたりまえになっている。それでもFATマシンを棄てずTHINクライアントにしないのは、いまひとつネット環境が信用できず、「みんな手もとでできるよう備えておかないと、なにがあるかわからない」と考えてしまう、ICT黎明期を経験した古臭い人間だからだろう。なんでもかんでも揃っているFATクライアントのほうが、なぜか安全で安心できる気分の問題なのかもしれない。
 上落合や下落合のアビラ村(芸術村)に、短期間だが住んでいた高群逸枝は、1949年(昭和24)に『机のちり』というエッセイを書いている。その中で、書斎の屑かごに書きつけた俳句(川柳?)のようなものとして、「わが家は机の塵ぞたのもしき」という句を紹介している。日々、さまざまな活動へ積極的に参加しつづける彼女にとっては、机に積もったほこりが「ちゃんと行動できている」という証しだったのだろうか。机上に塵がないきれいな状態だと、自分はポジティブに活動できていないのではないかと、ことさら不安になったのかもしれない。
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 机上のPCに塵が積もりはじめたとき、おそらく全国すべての地域で10Gbps以上のワイヤレスネットAPが整備され、スマホではなく複雑な仕事ができる新時代のクライアントが開発されているのだろう。ウェアラブルなグラス方式かもしれないし、どこでも速入力が可能な投影型キーボードを装備しているのかもしれない。机はおろか、書斎さえ不要な時代がそこまでやってきている。

◆写真上:あめりか屋が下落合415番地の近衛町に建設した、旧・杉邸2階の書斎。
◆写真中上:上は、吉川英治の書斎と机。中上は、尾崎一雄の書斎と机。中下は、AI着色した下落合時代の吉屋信子の書斎と机。は、鎌倉長谷の吉屋信子の書斎と机。
◆写真中下は、下落合から井荻町下井草の新居へ転居したあとの外山卯三郎の書斎と机。中上は、下落合に住んだ蕗谷虹児の書斎と机だが実質はアトリエ中下は、葛ヶ谷(西落合)ののち第三文化村に住んだ宮地嘉六の書斎と机。は、下落合の船山馨の書斎と机。
◆写真下は、本の山に埋もれた高群逸枝の塵が積もる書斎と机。は、五ノ坂下の西洋館に住んだころの林芙美子の書斎と机。は、四ノ坂下の自邸で暮らした林芙美子の書斎と机。
おまけ
 落合地域の東南、大久保村西大久保133番地に住んだ国木田独歩は、随筆『机は部屋の置物』の中で、ほとんど机は使わないことを吐露している。(上写真) 書きものや読書は、もっぱら寝床か畳に寝そべりながら、あるいは柱に寄りかかってするので、机がなくても不自由しない生活をしていた。また、下の写真は下落合753番地に住んだ九条武子の書斎と文机。(AI着色)
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この記事へのコメント

  • pinkich

    papaさん いつも楽しみに拝見しております。最近は、家具などもニトリやIKEAでかなり安く手に入りますね。質にこだわらなければ、安くても十分使えるものが手に入るので助かります。文章も、昔と違い、原稿に書くのではなく、パソコンへの入力なので、文具のこだわりがなくなり、その延長で書斎へのこだわりも薄れてきているような気がします。
    2025年06月07日 06:31
  • 落合道人

    pinkichさん、コメントをありがとうございます。
    1990年代に家を建てたとき、設計していた連れ合いに「書斎は必須!」と
    いって造ってはもらったのですが、いまやほとんど図書室か資料室のように
    なってしまいました。昔の資料は、まだまだ書籍や紙媒体のものが多いので、
    特に本は増える一方ですね。A4ノートPCがあれば、家の中はおろか外出先でも、
    仕事にしろ趣味にしろすぐにできてしまいますので、オフィスや書斎の意味
    がかなり薄れつつあると感じます。
    「書斎」という言葉が、いつまで使われるのかわかりませんが、もうすぐ
    なにか別の言葉に変わりそうな気がします。コロナ禍以来、自宅勤務が多い
    人たちも増えているので、そういう方たちの書斎はもはやサテライトオフィス
    化しているのではないでしょうか。
    2025年06月07日 11:27
  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年06月07日 22:33
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    そろそろ、旬のビワの実が出回りはじめましたね。
    2025年06月07日 23:17
  • 落合道人

    ハマコウさん、コメントをありがとうございます。
    少しご無沙汰いたしました。ssブログ時代からの書籍のご紹介、いつも参考になります。
    2025年06月09日 21:51

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