
わたしが親もとから独立して住んだ学生向けアパートの近くには、商店や小型スーパーがたくさん開店していた。よく利用したのは、そのときの名称でいえば目白通り沿いの新豊商栄会、ニコニコ商店会、ときに聖母坂沿いの中通り商店会の店々だろうか。
たいがいは、アパートにひとつしかないガスコンロで調理して食べる食材類で、ニコニコ商店会にあった魚屋や青物屋、肉類は目白通り沿いにあった小型スーパーで価格の安かった丸正、食器や生活道具類は目白通りに面した瀬戸物屋や金物屋など、パンは聖母坂の神田精養軒と契約していたケーキ屋か、十三間通り(新目白通り)に面していた神田精養軒本社1Fの店舗などで、学校からの帰りにブラブラ散歩がてら立ち寄っては買って帰った。
特に肉類は、その日のうちに塩コショウや醤油・味醂などで濃いめな味つけをして調理してしまい、5日分ぐらいを冷凍庫で凍らせ、小分けにしてはいろいろな料理に使っていたのを思いだす。これらの工夫は、どこの出版社だかは忘れたが、「ひとり暮らしの料理」(学生援護会?)とかいう本からヒントをもらって、まめに実行していたのを記憶している。そうすると、外食に比べて食費が驚くほど浮くので、そのぶんをレコードや本に費やすことができたのだ。
自分のほしいモノが商店街で手に入らないと、面倒だったが椎名町駅の西側にある大型スーパーのサミットストアか、下落合のピーコックストアまで買いにいっていた。もっとも、当時のピーコックストアは高級志向の品ぞろえで、学生の身分には痛い出費になるから、アルバイト料の残りが入った財布とよく相談しながら、覚悟を決めて出かけていたように思う。
これらの商店街は、夕方になるとドッと人が集まって混むので、できるだけ早めに出かけるか、あるいは商品が安くなる夕食時をねらって出かけていたけれど、いつごろからか食事どきが近くなっても混まなくなってしまった。1980年代から90年代にかけ、あちこちに大型スーパーやコンビニが開店したのとシンクロして、商店街の人出は減少していったのだろう。わたしがいきつけだった店も、目に見えて次々と閉店していった。当時は、人手不足で跡継ぎがいなかったというよりも、狂乱地価で固定資産税が高額化し、小さな商いではとても払えなくなったケースも多かったのではないか。地上げ屋に、立ち退きを迫られた店もあったかもしれない。
わたしが学生だったころ、さんざん利用した商店街のかなり昔の姿が写っている、1932年(昭和7)の目白通り(椎名町大通り)をとらえた記念絵はがきを以前ご紹介しているが、戦前の東京にあった特に賑やかな商店街の状況を、細かく取材・調査してまとめたレポートが残されている。1936年(昭和11)に東京商工会議所から出版された『東京市内商店街ニ関スル調査』だが、この報告書は同年2月の早い時期に出版されており、実際に取材した商店街の状況あるいは写真は、前年の1935年(昭和10)12月現在ということになっている。
残念ながら、落合・目白・長崎地域の商店街は取りあげられていないが、この地域近辺の商店街としては新宿商店街、神楽坂商店街、高円寺商店街の3ヶ所が紹介されている。同レポートは、商工省の小売業改善調査委員会から依頼されて実施したものだ。東京商工会議所が編集しているので、おそらく店舗数や売上データなどをチェックしながら、賑やかな「主要ナルモノ十七」商店街をピックアップしているのだろう。上記の新宿、神楽坂、高円寺のほか、銀座や日本橋人形町、神田小川町、浅草雷門、佐竹本通り、上野広小路、亀戸、初音坂下、十条、巣鴨、渋谷道玄坂、武蔵小山、蒲田、小松川春日町の17商店街となっている。
中でも新宿商店街の様子を、同レポート(原文カタカナ→ひらがな)より引用してみよう。
▼
震災後省線新宿駅改築の結果、商店街の中心地帯は一旦、新宿追分より省線新宿駅前へ移動せしも、其の後百貨店の移転、新設、環状線道路の完成等により三越支店、伊勢丹附近が最も繁華となれり、尚新宿商店街全体としては西方淀橋方面へ向つて発展の傾向にあり(略) 散歩街化の傾向最も濃厚なり、附近一帯娯楽機関の増加傾向著し、店頭設備の現代化取扱商品の専門家傾向も著し(略) 震災後、背後住宅地の増加、百貨店の新設等に因り繁栄を辿れり(略) 一般的不況の影響に因り景気は幾分低下の傾向にあり (原文カタカナ)
▲
文中の「環状線道路」とは、震災復興で敷かれたばかりの明治通り=環状五号線のことだ。
たいがいは、アパートにひとつしかないガスコンロで調理して食べる食材類で、ニコニコ商店会にあった魚屋や青物屋、肉類は目白通り沿いにあった小型スーパーで価格の安かった丸正、食器や生活道具類は目白通りに面した瀬戸物屋や金物屋など、パンは聖母坂の神田精養軒と契約していたケーキ屋か、十三間通り(新目白通り)に面していた神田精養軒本社1Fの店舗などで、学校からの帰りにブラブラ散歩がてら立ち寄っては買って帰った。
特に肉類は、その日のうちに塩コショウや醤油・味醂などで濃いめな味つけをして調理してしまい、5日分ぐらいを冷凍庫で凍らせ、小分けにしてはいろいろな料理に使っていたのを思いだす。これらの工夫は、どこの出版社だかは忘れたが、「ひとり暮らしの料理」(学生援護会?)とかいう本からヒントをもらって、まめに実行していたのを記憶している。そうすると、外食に比べて食費が驚くほど浮くので、そのぶんをレコードや本に費やすことができたのだ。
自分のほしいモノが商店街で手に入らないと、面倒だったが椎名町駅の西側にある大型スーパーのサミットストアか、下落合のピーコックストアまで買いにいっていた。もっとも、当時のピーコックストアは高級志向の品ぞろえで、学生の身分には痛い出費になるから、アルバイト料の残りが入った財布とよく相談しながら、覚悟を決めて出かけていたように思う。
これらの商店街は、夕方になるとドッと人が集まって混むので、できるだけ早めに出かけるか、あるいは商品が安くなる夕食時をねらって出かけていたけれど、いつごろからか食事どきが近くなっても混まなくなってしまった。1980年代から90年代にかけ、あちこちに大型スーパーやコンビニが開店したのとシンクロして、商店街の人出は減少していったのだろう。わたしがいきつけだった店も、目に見えて次々と閉店していった。当時は、人手不足で跡継ぎがいなかったというよりも、狂乱地価で固定資産税が高額化し、小さな商いではとても払えなくなったケースも多かったのではないか。地上げ屋に、立ち退きを迫られた店もあったかもしれない。
わたしが学生だったころ、さんざん利用した商店街のかなり昔の姿が写っている、1932年(昭和7)の目白通り(椎名町大通り)をとらえた記念絵はがきを以前ご紹介しているが、戦前の東京にあった特に賑やかな商店街の状況を、細かく取材・調査してまとめたレポートが残されている。1936年(昭和11)に東京商工会議所から出版された『東京市内商店街ニ関スル調査』だが、この報告書は同年2月の早い時期に出版されており、実際に取材した商店街の状況あるいは写真は、前年の1935年(昭和10)12月現在ということになっている。
残念ながら、落合・目白・長崎地域の商店街は取りあげられていないが、この地域近辺の商店街としては新宿商店街、神楽坂商店街、高円寺商店街の3ヶ所が紹介されている。同レポートは、商工省の小売業改善調査委員会から依頼されて実施したものだ。東京商工会議所が編集しているので、おそらく店舗数や売上データなどをチェックしながら、賑やかな「主要ナルモノ十七」商店街をピックアップしているのだろう。上記の新宿、神楽坂、高円寺のほか、銀座や日本橋人形町、神田小川町、浅草雷門、佐竹本通り、上野広小路、亀戸、初音坂下、十条、巣鴨、渋谷道玄坂、武蔵小山、蒲田、小松川春日町の17商店街となっている。
中でも新宿商店街の様子を、同レポート(原文カタカナ→ひらがな)より引用してみよう。
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震災後省線新宿駅改築の結果、商店街の中心地帯は一旦、新宿追分より省線新宿駅前へ移動せしも、其の後百貨店の移転、新設、環状線道路の完成等により三越支店、伊勢丹附近が最も繁華となれり、尚新宿商店街全体としては西方淀橋方面へ向つて発展の傾向にあり(略) 散歩街化の傾向最も濃厚なり、附近一帯娯楽機関の増加傾向著し、店頭設備の現代化取扱商品の専門家傾向も著し(略) 震災後、背後住宅地の増加、百貨店の新設等に因り繁栄を辿れり(略) 一般的不況の影響に因り景気は幾分低下の傾向にあり (原文カタカナ)
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文中の「環状線道路」とは、震災復興で敷かれたばかりの明治通り=環状五号線のことだ。




新宿商店街に見られる特徴は、落合地域とその周辺で見られるそれと同じような傾向を示していたのではないか。1935年(昭和10)以降になると、目白通り沿いに設置されていた公設市場がデパート化していき、東京府市場協会が経営していた大規模な目白市場や椎名町百貨店は、地元の商店街と競合するデパートレベルにまでに発展していた。
特に関東大震災後は、稠密だった市街地の住宅街から郊外への転居が爆発的に増え、消費市場の急激な拡大とともに商店街も発展していった。以前、東京府市場協会が運営していた淀橋市場についてご紹介したが、1938年(昭和13)以降になると、大型百貨店化した淀橋市場の売り上げが、伊勢丹や新宿三越のデパートを上まわるようになっていく。
一方、関東大震災のあと市街地のなかなか復興しないエリア(深川地域が多かっただろうか?)から、置き屋や茶屋、料理屋、料亭などが次々と移転し、華街としてリスタートした神楽坂商店街の様子はどうだったろう。1935年(昭和10)の同報告書では、「慰安化傾向著シ」として「震災後漸次不振トナレリ」という状況で、華街のせいか昭和初期の不況をまともにかぶるかたちになり、景気は「最近一般的不況ノ為メ特ニ悪シ」と活気のない姿が報告されている。
高円寺商店街も、不況のために似たような状況だった。つづけて、報告書より引用してみよう。
▼
取扱商品の専門化及び現代化の傾向多少あり(略) 震災後附近住宅地の増加に伴ひ急発展せり(略) 数年来景気低下の傾向あり、蓋し一般不況の影響及び新宿商店街の発展に因る、尚附近小売市場の影響も相当大なるものゝ如し (原文カタカナ)
▲
「附近小売市場」とは、急激にスーパーマーケットやデパートのように大型店舗化をつづける、東京府市場協会の公設市場のことだ。高円寺の住民は、散歩がてら交通の至便な大久保や新宿に出て、大規模な市場やデパートで買い物することが多くなったのだろう。1935年(昭和10)ともなると、近隣への大型店舗の進出で商店街がすでに多少の影響を受けていた様子がわかる。特にターミナル駅だった新宿駅の周辺地域では、その傾向が顕著だったろう。
さて、話はわたしの学生時代にもどると、やはり落合地域のどこの商店街でも、次々と進出する大型スーパーに悩まされていた様子がうかがえる。山手線の主要ターミナル駅で起きていた大型商業施設の進出が、戦後は各駅の駅前や幹線道路沿いに拡散していった様子がうかがえる。
特に関東大震災後は、稠密だった市街地の住宅街から郊外への転居が爆発的に増え、消費市場の急激な拡大とともに商店街も発展していった。以前、東京府市場協会が運営していた淀橋市場についてご紹介したが、1938年(昭和13)以降になると、大型百貨店化した淀橋市場の売り上げが、伊勢丹や新宿三越のデパートを上まわるようになっていく。
一方、関東大震災のあと市街地のなかなか復興しないエリア(深川地域が多かっただろうか?)から、置き屋や茶屋、料理屋、料亭などが次々と移転し、華街としてリスタートした神楽坂商店街の様子はどうだったろう。1935年(昭和10)の同報告書では、「慰安化傾向著シ」として「震災後漸次不振トナレリ」という状況で、華街のせいか昭和初期の不況をまともにかぶるかたちになり、景気は「最近一般的不況ノ為メ特ニ悪シ」と活気のない姿が報告されている。
高円寺商店街も、不況のために似たような状況だった。つづけて、報告書より引用してみよう。
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取扱商品の専門化及び現代化の傾向多少あり(略) 震災後附近住宅地の増加に伴ひ急発展せり(略) 数年来景気低下の傾向あり、蓋し一般不況の影響及び新宿商店街の発展に因る、尚附近小売市場の影響も相当大なるものゝ如し (原文カタカナ)
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「附近小売市場」とは、急激にスーパーマーケットやデパートのように大型店舗化をつづける、東京府市場協会の公設市場のことだ。高円寺の住民は、散歩がてら交通の至便な大久保や新宿に出て、大規模な市場やデパートで買い物することが多くなったのだろう。1935年(昭和10)ともなると、近隣への大型店舗の進出で商店街がすでに多少の影響を受けていた様子がわかる。特にターミナル駅だった新宿駅の周辺地域では、その傾向が顕著だったろう。
さて、話はわたしの学生時代にもどると、やはり落合地域のどこの商店街でも、次々と進出する大型スーパーに悩まされていた様子がうかがえる。山手線の主要ターミナル駅で起きていた大型商業施設の進出が、戦後は各駅の駅前や幹線道路沿いに拡散していった様子がうかがえる。



1981年(昭和56)に、新宿区商店会連合会から出版された『商業の街・新宿』より、わたしが利用していた落合地域の懐かしい商店街の様子を、少し長めに抜粋してみよう。
▼
目白通り新豊商栄会/限られた消費者を対象に営々として商業を守り続けており、現在、購買者に買物の魅力・意欲を起こさせるよう努力している。恒例の中元・歳末の連合売出し、新宿区商業観光まつりの積極参加、一部会員のディスカウントセール、月2回の定期特別セールの実施、大型店の進出に対処して、消費者のニーズを把握し、購買力を守るべく対応策を模索して商業活動を守り、会員の意識向上を図っている。 目白通りニコニコ商店会/中元・歳暮共同売出し、夏期子安地蔵祭りに夜店など、地元密着のニコニコチェーン店によるチケットなど定期的サービスを実施。目白通りは、激化するスーパー合戦の谷間に落ち込み、打撃は深刻。生鮮三品の店揃えもままならない。これまでの商店街親睦会的なものからの脱皮が課題だが、様変わりする顧客ニーズには、散歩しながらショッピングを楽しめ、良い品を安心して買える街づくりで対応中。 中落合中通り商店会/豚カツ、化粧品、肉、ケーキ、果物、酒、クリーニング、米屋よりなる商店会は、スーパーがあるにもかかわらず、良い品を厳選して販売することをモットーに日夜努力し、サービスの向上を考え、次代の若者にバトンタッチを望むこじんまりとした商店会である。
▲
目白通りニコニコ商店会が指摘するように、当時の商店会は「親睦会的なものからの脱皮」が最大のテーマであり、商店同士が(ときに商店会同士が)結束・連携して、大型店に対抗しなければならない時代を迎えていたことがわかる。ちょうど1935年(昭和10)すぎごろから、大手デパートや大規模な公設市場の進出に悩んでいた新宿駅周辺の小売店の課題が、戦後は東京じゅうに拡がっていたのだろう。ただし、1981年(昭和56)はいまだコンビニの乱立現象は起きておらず、現代ではさらに深刻な打撃を商店街(の専門店)に与えているとみられる。
ちなみに、中落合中通り商店会(冒頭写真)=聖母坂沿いに連なっていた商店街では、学生時代に国際聖母病院の北側角の豚カツ屋とケーキ屋(先述した神田精養軒のパン)、酒屋、米屋を利用したことがある。いまでも健在なのは酒屋とクリーニング屋、床屋、および鮨屋ぐらいだろうか。
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目白通り新豊商栄会/限られた消費者を対象に営々として商業を守り続けており、現在、購買者に買物の魅力・意欲を起こさせるよう努力している。恒例の中元・歳末の連合売出し、新宿区商業観光まつりの積極参加、一部会員のディスカウントセール、月2回の定期特別セールの実施、大型店の進出に対処して、消費者のニーズを把握し、購買力を守るべく対応策を模索して商業活動を守り、会員の意識向上を図っている。 目白通りニコニコ商店会/中元・歳暮共同売出し、夏期子安地蔵祭りに夜店など、地元密着のニコニコチェーン店によるチケットなど定期的サービスを実施。目白通りは、激化するスーパー合戦の谷間に落ち込み、打撃は深刻。生鮮三品の店揃えもままならない。これまでの商店街親睦会的なものからの脱皮が課題だが、様変わりする顧客ニーズには、散歩しながらショッピングを楽しめ、良い品を安心して買える街づくりで対応中。 中落合中通り商店会/豚カツ、化粧品、肉、ケーキ、果物、酒、クリーニング、米屋よりなる商店会は、スーパーがあるにもかかわらず、良い品を厳選して販売することをモットーに日夜努力し、サービスの向上を考え、次代の若者にバトンタッチを望むこじんまりとした商店会である。
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目白通りニコニコ商店会が指摘するように、当時の商店会は「親睦会的なものからの脱皮」が最大のテーマであり、商店同士が(ときに商店会同士が)結束・連携して、大型店に対抗しなければならない時代を迎えていたことがわかる。ちょうど1935年(昭和10)すぎごろから、大手デパートや大規模な公設市場の進出に悩んでいた新宿駅周辺の小売店の課題が、戦後は東京じゅうに拡がっていたのだろう。ただし、1981年(昭和56)はいまだコンビニの乱立現象は起きておらず、現代ではさらに深刻な打撃を商店街(の専門店)に与えているとみられる。
ちなみに、中落合中通り商店会(冒頭写真)=聖母坂沿いに連なっていた商店街では、学生時代に国際聖母病院の北側角の豚カツ屋とケーキ屋(先述した神田精養軒のパン)、酒屋、米屋を利用したことがある。いまでも健在なのは酒屋とクリーニング屋、床屋、および鮨屋ぐらいだろうか。



『商業の街・新宿』(新宿区商店会連合会)には、ほかに中落合四丁目文化村商店会が掲載されているけれど、わたしはこの商店街にほとんど馴染みがない。目白通りを東へ歩き、途中のどこかで目白崖線を上下して登下校していたせいか、買い物はやはり目白通りで済ませ、目白文化村沿いの商店街は利用していない。また、「上落合銀座」と呼ばれる上落合二丁目商盛会と、西落合旭通り商店会が掲載されているが、同様に大型スーパーや宅配生協の脅威を挙げているものの、1981年(昭和56)当時は、まだそれほど深刻な影響を受けていなかった様子がうかがえる。
◆写真上:1981年(昭和56)に撮影された、聖母坂沿いの中落合中通り商店会の店々。国際聖母病院の見舞い用に開店していたとみられるフルーツ店の左手が、神田精養軒と契約して食パンを販売していたケーキ店。また、フルーツ店の右手に見える角地のタバコ屋の手前が酒店で、その間の細い路地を入ると当時の佐伯祐三を記念した「佐伯公園」がある。
◆写真中上:上は、1932年(昭和7)の絵はがき「大東京(豊島区)長崎町本通下」用に撮影された目白通り(AI着色)。中上は、同じ場所の現状。中下は、1935年(昭和10)12月に撮影された新宿商店街。新宿通りを東から西を向いて撮影しており、右手に増改築中の伊勢丹、左手に三越新宿支店、正面遠景には二幸のビルが見えている。下は、同商店街の見取図。
◆写真中下:上は、1935年(昭和10)に坂下から撮影された神楽坂商店街。中は、同商店街の見取図。下は、同年撮影の駅をはさみ南北に伸びる高円寺商店街。
◆写真下:上は、1981年(昭和56)に撮影された目白通り新豊商栄会の商店街の一画。中は、同年に撮影された目白通りニコニコ商店会の商店街の一画。下は、1980年(昭和55)ごろ大売出し中に撮影された上落合二丁目商盛会(現・上落合銀座商盛会)の賑わい。
★おまけ1
1981年(昭和56)に新宿区商店会連合会が撮影した、上から下へ西落合の商店街の一画、高田馬場駅前から早稲田へとつづく商店街の一画、早大正門の近くにあった商店街の一画。
◆写真中上:上は、1932年(昭和7)の絵はがき「大東京(豊島区)長崎町本通下」用に撮影された目白通り(AI着色)。中上は、同じ場所の現状。中下は、1935年(昭和10)12月に撮影された新宿商店街。新宿通りを東から西を向いて撮影しており、右手に増改築中の伊勢丹、左手に三越新宿支店、正面遠景には二幸のビルが見えている。下は、同商店街の見取図。
◆写真中下:上は、1935年(昭和10)に坂下から撮影された神楽坂商店街。中は、同商店街の見取図。下は、同年撮影の駅をはさみ南北に伸びる高円寺商店街。
◆写真下:上は、1981年(昭和56)に撮影された目白通り新豊商栄会の商店街の一画。中は、同年に撮影された目白通りニコニコ商店会の商店街の一画。下は、1980年(昭和55)ごろ大売出し中に撮影された上落合二丁目商盛会(現・上落合銀座商盛会)の賑わい。
★おまけ1
1981年(昭和56)に新宿区商店会連合会が撮影した、上から下へ西落合の商店街の一画、高田馬場駅前から早稲田へとつづく商店街の一画、早大正門の近くにあった商店街の一画。



★おまけ2
1970年代の早い時期に撮影されたとみられる、目白通りの富士銀行目白支店の前歩道。


この記事へのコメント
てんてん
落合道人
Audiは、こんなに高かったのですね。
sakura
懐かしい写真ありがとうございます!
私は1980年代末に南長崎三丁目、目白通りファミマの向いを北に入った辺りのアパートに二年程住んでいました。新婚当時(1990年初期)は鶴の湯近くでした。
当時は通りのお店もまだ元気な頃で味楽百貨店も何店も現役でした。
今は通り全体が寂しくなってしまいましたね・・・
写真下・中は「落合ストアー?」かと思い、昔のユネスコ?と思いましたがニコニコ商店会なんですね。現在のどの辺りでしょう?アダチさん辺りでしょうか。
1970年代~1980年代の目白通りの写真って見当たらないんですよね・・・
馬場も東京コンタクトの看板懐かしいです。1986年頃にバイトで1年程毎日通いました。
落合道人
わたしは、学生時代の途中から南長崎4丁目にある椎名町教会の、すぐ南側に
建っていた学生アパートに3年ほど住んでいました。周囲にはいろいろな店舗が
あって、銭湯も徒歩30秒と近く便利でしたね。1982年から聖母坂に移って
しまいましたが、ときどき懐かしくなって南長崎もよく散歩していました。
昔に比べたら、ずいぶんと店舗が減った印象ですね。
ニコニコ商店会の写真は、どこかで見たことのある風景なのですが、わたし
も思いだせません。少し前のコメントで書かれていましたが、店が変わると
以前そこになにがあったのか思いだせない……という、風景喪失の積み重ねで
実景を見ているにもかかわらず、わからなくなってしまったものでしょうか。
確かに、1970年代の目白通りをとらえた写真は少ないですね。記事末に1枚、
1970年代の目白通りにあった富士銀行目白支店(のちみずほ銀行)の懐かしい
写真を追加しておきました。歩道が敷石ですので、70年代の前半あたりで
しょうか。海老茶のタイル張りだったと思うのですが、目白通りの行き帰りに
なぜか目についたデザインでしたので、印象に残っています。この銀行を
すぎると、ほどなく目白駅でしたね。
sakura
時代が違いますがご近所だったのですね!(たぶん今も)
富士銀行も懐かしい!確かに植え込みありました!
ところどころ残っていたアーケードも完全になくなってしまいましたね。。
件の写真、あれから気になって穴が開くほど見つめていますw
やはり、落合ストア→ユネスコ→ツルカメ?→驚安→モールスマートの場所ではないでしょうか。
カルピスの看板の上に見えるビルは泉屋さん、写真左スミの電柱の向こうに見える建物は米屋さんではないかと・・・如何でしょう。
ちなみに、写真下:上はファミマ、元松州飯店の場所でしょうか。
落合道人
写真をよく見ると、店舗の上部におっしゃるとおり「落合ストアー」の看板が
見えてますね。同所にまちがいないと思います。
また、写真下の上ですが、この資生堂看板のある手前が酒屋さんで、確実に
既視感があります。ひょっとすると店前を歩いているとき、気づいてタバコか
酒でも買ったような気もしていますが、実景を見ていた記憶は確実にあるのに、
具体的な場所がピンポイントで規定できないで困っています。
sakura
写真右はじのマンションは中落合マンションのベランダ、手摺に特徴が似ています。
現在歯医者さんが一階ですね。
一階店舗の看板に「N」と見えているのですが、かなり朧気な記憶でステーキ屋のような店が入ってたような?「WESTEN」みたいな店名だったような?ですw
ファミマは私の冷蔵庫代わりだったのですが、元酒屋だったような気がしています。
酒もタバコも置いていたハズので・・・
すみません、推理ゲームみたいになってしまいました。
際限がないのでスルーしてくださいませ。
落合道人
的確なヒントで、思いだしました。手前に見えている酒屋は「伊勢元酒店」、
わたしはこの店で、学生時代にビールやタバコをまちがいなく買っています。
その隣りが「クリーニング8(エイト)」、そして縦に資生堂の看板がある店が
「スズラン化粧品店」、道をはさんで米国西部風の造りの店がステーキハウス
「食いしんぼうの店」です。もちろん、当時は学生でしたのでステーキなどと
いう贅沢はできず、横目で見ながら前の歩道を歩いていました。
これでモヤモヤがすっきりしました、ありがとうございました。