
コメント欄においてsakuraさんより、たいへん貴重なフィルムのご紹介をいただいた。1926年(大正15)、霞ヶ浦の海軍航空隊が所有する飛行船に映像カメラマンが乗りこみ、東京上空を周遊しながら撮影する『航空船にて復興の帝都へ』(文部省/14分)という記録映画だ。つまり、拙サイトでご紹介している佐伯祐三の『下落合風景』シリーズと同時代の、彼が目にしていた東京市街地の様子が、実際に動く映像として低空から手にとるように記録されている。一連の貴重なフィルムは、国立映画アーカイブに保存されていたものだ。
これまで、飛行船ではなくカメラマンが熱気球に乗りこみ上空からスチールカメラで撮影した、1904年(明治37)の東京市街地や1922年(大正11)の早稲田、あるいは「アサヒグラフ」のカメラマンが1923年(大正12)にチャーター機から撮影した早大の戸塚球場(のち安部球場)や、1932年(昭和7)に学習院昭和寮や学習院グラウンドの上空を飛行機から撮影した写真などをご紹介してきたが、飛行船に乗りしかも動く映像として撮影されたものは初めてのケースだ。
霞ヶ浦を離陸した、竣工したばかりの飛行船4号機(乗員6名)は、常磐線沿いに東京の市街地へと向かい、上野をはじめ本郷、神田、千代田城、九段、四谷、新宿(淀橋・角筈)、原宿、市ヶ谷、丸ノ内、銀座、神田、日本橋、両国橋(旧)、両国広小路、本所、蔵前橋(架け替え中)、浅草……という順序で飛んでいる。関東大震災の被害は、もうほとんど消えてはいるが、ところどころに建物が解体されたままの空き地や草原が見てとれる。
気になった風景シーンを、飛行の航路順に見ていこう。まず、本郷の上空で撮影された竣工間もない安田講堂や旧・前田侯爵邸(東京帝大キャンパス内)と、その近くにある心字池(三四郎池)のあたりだ。赤門を入ってすぐ右手の椿山古墳と、心字池の東側にあった螺(さざえ)山が、いまだ校舎の拡張前で破壊されず、江戸期の前田家上屋敷のままの状態で残っているのが見える。椿山古墳は、上から見ると直径40m前後の円墳状(後円部?)をしているが、南側を前田邸の敷地に削られているため、もともとは前方後円墳だったのかもしれない。
当時、前田邸の南側にあるはずの双子の半球ふくらみは、残念ながら画角からぎりぎり外れていてハッキリと観察することができない。また、螺山はベースの古墳上に、三四郎池の土砂がかぶせられたとすると、直径60~70mほどだろうか。こちらも、前田邸の築山としてサザエの螺旋形に改造され、映像にとらえられているように南側を校舎群の敷地に削られ整地されているので、本来のサイズは不明だ。これらの校舎が建設される以前、江戸末期から明治最初期の前田邸庭園を描いた図面でも残っていれば、ぜひ見てみたいものだ。ちなみに、螺山の右横に見えているゴチャゴチャした部分は、建設途上の図書館だとみられる。
つづいて、大正期から昭和初期の気象記録や降雨量(降雪量)などで、拙ブログでもずいぶんお世話になっている、大手町の東京中央気象台が上空からの映像でとらえられている。同建物は、関東大震災では倒壊しなかったが、時計の針が正午少し前で停止したため、大地震発生の瞬間をとらえた報道写真などにずいぶん使われていた。
次に、飛行船は千代田城や九段、四谷をへて新宿駅周辺を周遊している。ここで驚きなのが、淀橋町角筈94~100番地一帯に見える松平摂津守義比の下屋敷跡に、巨大な「津ノ守山」(松平庭園)=新宿角筈古墳(仮)の残滓が上空からハッキリと見てとれることだ。今日の新宿駅西口にあたる一帯は大正中期、日本中学校(現・日本学園)や女子学院(現・東京女子大学)のキャンパスとなっていたが、明治末まではこの一帯に数多くの陪墳群をともなう、巨大な前方後円墳とみられる墳丘がそのまま残されていた。おそらく、松平家下屋敷の庭園築山にされていたため、明治政府の目を逃れ廃毀・破壊からまぬがれていたのだろう。
飛行船からとらえられた墳丘は、濃い森林が繁る前方部の一部とみられ、大正末の当時は後円部から前方部をほとんど崩した日本中学校キャンパスを中心に、周囲を大蔵省専売局工場や精華女学院、明治学院神学部、淀橋青物市場などに囲まれていた。
これまで、飛行船ではなくカメラマンが熱気球に乗りこみ上空からスチールカメラで撮影した、1904年(明治37)の東京市街地や1922年(大正11)の早稲田、あるいは「アサヒグラフ」のカメラマンが1923年(大正12)にチャーター機から撮影した早大の戸塚球場(のち安部球場)や、1932年(昭和7)に学習院昭和寮や学習院グラウンドの上空を飛行機から撮影した写真などをご紹介してきたが、飛行船に乗りしかも動く映像として撮影されたものは初めてのケースだ。
霞ヶ浦を離陸した、竣工したばかりの飛行船4号機(乗員6名)は、常磐線沿いに東京の市街地へと向かい、上野をはじめ本郷、神田、千代田城、九段、四谷、新宿(淀橋・角筈)、原宿、市ヶ谷、丸ノ内、銀座、神田、日本橋、両国橋(旧)、両国広小路、本所、蔵前橋(架け替え中)、浅草……という順序で飛んでいる。関東大震災の被害は、もうほとんど消えてはいるが、ところどころに建物が解体されたままの空き地や草原が見てとれる。
気になった風景シーンを、飛行の航路順に見ていこう。まず、本郷の上空で撮影された竣工間もない安田講堂や旧・前田侯爵邸(東京帝大キャンパス内)と、その近くにある心字池(三四郎池)のあたりだ。赤門を入ってすぐ右手の椿山古墳と、心字池の東側にあった螺(さざえ)山が、いまだ校舎の拡張前で破壊されず、江戸期の前田家上屋敷のままの状態で残っているのが見える。椿山古墳は、上から見ると直径40m前後の円墳状(後円部?)をしているが、南側を前田邸の敷地に削られているため、もともとは前方後円墳だったのかもしれない。
当時、前田邸の南側にあるはずの双子の半球ふくらみは、残念ながら画角からぎりぎり外れていてハッキリと観察することができない。また、螺山はベースの古墳上に、三四郎池の土砂がかぶせられたとすると、直径60~70mほどだろうか。こちらも、前田邸の築山としてサザエの螺旋形に改造され、映像にとらえられているように南側を校舎群の敷地に削られ整地されているので、本来のサイズは不明だ。これらの校舎が建設される以前、江戸末期から明治最初期の前田邸庭園を描いた図面でも残っていれば、ぜひ見てみたいものだ。ちなみに、螺山の右横に見えているゴチャゴチャした部分は、建設途上の図書館だとみられる。
つづいて、大正期から昭和初期の気象記録や降雨量(降雪量)などで、拙ブログでもずいぶんお世話になっている、大手町の東京中央気象台が上空からの映像でとらえられている。同建物は、関東大震災では倒壊しなかったが、時計の針が正午少し前で停止したため、大地震発生の瞬間をとらえた報道写真などにずいぶん使われていた。
次に、飛行船は千代田城や九段、四谷をへて新宿駅周辺を周遊している。ここで驚きなのが、淀橋町角筈94~100番地一帯に見える松平摂津守義比の下屋敷跡に、巨大な「津ノ守山」(松平庭園)=新宿角筈古墳(仮)の残滓が上空からハッキリと見てとれることだ。今日の新宿駅西口にあたる一帯は大正中期、日本中学校(現・日本学園)や女子学院(現・東京女子大学)のキャンパスとなっていたが、明治末まではこの一帯に数多くの陪墳群をともなう、巨大な前方後円墳とみられる墳丘がそのまま残されていた。おそらく、松平家下屋敷の庭園築山にされていたため、明治政府の目を逃れ廃毀・破壊からまぬがれていたのだろう。
飛行船からとらえられた墳丘は、濃い森林が繁る前方部の一部とみられ、大正末の当時は後円部から前方部をほとんど崩した日本中学校キャンパスを中心に、周囲を大蔵省専売局工場や精華女学院、明治学院神学部、淀橋青物市場などに囲まれていた。




次に、新宿駅舎の周辺を見てみよう。新宿駅東口というと、すぐにムーランルージュの赤い風車と武蔵野館を探してしまうが、映像でとらえられているのは1926年(大正15)の街並みであり、昭和期に開館するムーランルージュなど影もかたちもない、また、武蔵野館は移転前であり、新宿中村屋の裏ではなく東並びの新宿通り沿いに建っているのが見える。高野果実店(現・タカノ)は、すでにコンクリートビルが竣工しており、タカノフルーツパーラーが開店していたのだろう。その東側にある新宿中村屋は、大正期の古い店舗のままであり、いまだ大震災記念餅を売っていたころだ。その裏にある、目立つ白いビルは新宿ホテルだ。
新宿駅舎の真ん前に目を移すと、三越新宿分店(のち二幸デパート)のビルが目につくが、その周辺には浅田銀行などの建物が見えている。また、新宿通りの北側をたどっていくと、紀伊国屋炭店の2階家が見える。1926年(大正15)では、紀伊国屋はいまだ炭屋であり、書店およびギャラリーとしてリニューアルオープンするのは、1927年(昭和2)以降のことだ。線路上には、新宿貨物駅を出発した白煙をあげる蒸気機関車が牽引する貨物列車が通過しており、新宿通りを走る東京市電や人々がいきかう様子がとらえられている。
つづいて、途中の原宿や市ヶ谷、丸ノ内、銀座、日本橋(築地へ移転前の魚市場!)などを一気に省略して、わたしの実家があった東日本橋界隈の空中映像を見てみよう。1926年(大正15)なので、大橋(両国橋)は関東大震災のときに破損した古い旧橋のままで、いまだ現在の橋(1932年竣工)には架け替えられていない。埋め立てられた薬研堀の入口にある千代田尋常小学校(現・日本橋中学校)も旧校舎のままで、震災復興小学校としてのモダン校舎へリニューアル(1929年竣工)されていない。もちろん元祖すずらん通りには、丸見屋ミツワ石鹸本社ビルも未建設だ。
日本橋米澤町(現・東日本橋2丁目)の界隈には、関東大震災で焼けたとみられるエリアに妙な倉庫(建設資材置き場?)のような建物が見えており、住宅や店舗などがいまだすべて復興していないのが見てとれる。古いままの大橋のたもとには、一銭蒸気の「両国橋」桟橋が見えており、その下流には東京通運の船着き場、その下には木村荘八が記録した大正期の古い「水練場」とみられる施設が見えている。どうやら大川は引き潮どきのようで、桟橋が水面からずいぶん高い位置に見えているのがわかる。元柳町から浅草見附、そして柳橋の料亭街を眺めると、神田川に架かる柳橋もまた昔のままで、リニューアル(1929年竣工)されていない。
さて、すずらん通りを見ていくと、小林信彦の実家である立花屋和菓子店や、わたしの実家をすぐに見つけることができた。わたしは、“動く”東日本橋の実家を見るのは初めてだ。昭和期に入ると、実家の前に大きなミツワ石鹸(丸見屋)の本社ビルが建ってしまい、実家が見えている写真が激減してしまうので、大正末のきわめて貴重な映像だ。実家では、親父が祖母に抱かれながら、2階の窓からめずらしい飛行船を見あげていたか、あるいはわけもわからず泣いていただろうか。千代田尋常小学校の左下に、少しだけ見えている日本橋矢ノ倉町(現・東日本橋1丁目)では、親父よりもひとつ年上の三木のり平(親父のいう「田沼くん」)が、「ごはんですよ」と離乳食に桃屋のフルーツ缶詰を食べて、キャッキャと笑っていたのかもしれない。w
新宿駅舎の真ん前に目を移すと、三越新宿分店(のち二幸デパート)のビルが目につくが、その周辺には浅田銀行などの建物が見えている。また、新宿通りの北側をたどっていくと、紀伊国屋炭店の2階家が見える。1926年(大正15)では、紀伊国屋はいまだ炭屋であり、書店およびギャラリーとしてリニューアルオープンするのは、1927年(昭和2)以降のことだ。線路上には、新宿貨物駅を出発した白煙をあげる蒸気機関車が牽引する貨物列車が通過しており、新宿通りを走る東京市電や人々がいきかう様子がとらえられている。
つづいて、途中の原宿や市ヶ谷、丸ノ内、銀座、日本橋(築地へ移転前の魚市場!)などを一気に省略して、わたしの実家があった東日本橋界隈の空中映像を見てみよう。1926年(大正15)なので、大橋(両国橋)は関東大震災のときに破損した古い旧橋のままで、いまだ現在の橋(1932年竣工)には架け替えられていない。埋め立てられた薬研堀の入口にある千代田尋常小学校(現・日本橋中学校)も旧校舎のままで、震災復興小学校としてのモダン校舎へリニューアル(1929年竣工)されていない。もちろん元祖すずらん通りには、丸見屋ミツワ石鹸本社ビルも未建設だ。
日本橋米澤町(現・東日本橋2丁目)の界隈には、関東大震災で焼けたとみられるエリアに妙な倉庫(建設資材置き場?)のような建物が見えており、住宅や店舗などがいまだすべて復興していないのが見てとれる。古いままの大橋のたもとには、一銭蒸気の「両国橋」桟橋が見えており、その下流には東京通運の船着き場、その下には木村荘八が記録した大正期の古い「水練場」とみられる施設が見えている。どうやら大川は引き潮どきのようで、桟橋が水面からずいぶん高い位置に見えているのがわかる。元柳町から浅草見附、そして柳橋の料亭街を眺めると、神田川に架かる柳橋もまた昔のままで、リニューアル(1929年竣工)されていない。
さて、すずらん通りを見ていくと、小林信彦の実家である立花屋和菓子店や、わたしの実家をすぐに見つけることができた。わたしは、“動く”東日本橋の実家を見るのは初めてだ。昭和期に入ると、実家の前に大きなミツワ石鹸(丸見屋)の本社ビルが建ってしまい、実家が見えている写真が激減してしまうので、大正末のきわめて貴重な映像だ。実家では、親父が祖母に抱かれながら、2階の窓からめずらしい飛行船を見あげていたか、あるいはわけもわからず泣いていただろうか。千代田尋常小学校の左下に、少しだけ見えている日本橋矢ノ倉町(現・東日本橋1丁目)では、親父よりもひとつ年上の三木のり平(親父のいう「田沼くん」)が、「ごはんですよ」と離乳食に桃屋のフルーツ缶詰を食べて、キャッキャと笑っていたのかもしれない。w




『航空船にて復興の帝都へ』と同じく、sakuraさんのご紹介で動く九条武子も初めて目にすることができた。彼女が死去してから間もない時期に制作された、『九條武子夫人の遺影』(制作者不詳/1928年)という記録フィルムだ。敗血症で死去する晩年に近い九条武子をとらえたとみられ、かなり貴重な映像なのだろう。日比谷公園から築地へと抜ける、東京市電の築地本願寺電停を降りたらしい子どもたちが、焼失した本願寺の広い境内だろうか、輪になって遊戯をするシーンがとらえられている。関東大震災で、肉親を喪った孤児たちだろうか。その遊戯の中央に九条武子が立ち、ときどき転んでいる子どもを助け起こしているシーンだ。
中でも目立つのは、九条武子の背丈だろう。今日の女性ではまったくめずらしくないが、着物で草履をはくと170cm近くとみられる身長は、周囲にいる男性たちよりもおおよそ大きく、どこにいても目立つ存在だったのがわかる。また、子どもたちの保護者か縁者(?)、あるいは築地本願寺に集まった信徒たちだろうか、児童の遊戯をとり巻く見物人たちの数がやたら多い。大正期からつづく、九条武子の高い人気をしのばせる稀少な映像だ。
つづいて、時間を忘れて記録フィルムを漁っていたら、動く南方熊楠も『天皇陛下関西行幸』(文部省/1929年)の、和歌山県に立ち寄るシーンで観ることができた。昭和天皇が背後に近づいているのに、背を向けたまま隣りの人物と楽しそうなおしゃべりを止めないのが、いかにも南方熊楠らしい。世界的に知られた自然科学の博物的(多彩な分野の生物・植物学)な権威で、人文科学(人類学・民俗学・比較文化学・語源学・説話学・江戸文芸学など)の多彩な分野のエキスパートでもあり、エコロジー(現代的な意味での生態学)の概念を初めて日本に導入・実践したといわれる南方熊楠には、生物学者の天皇のほうから会いたいと申し入れたようだが、「オレに会いたいなら、孫文と同様に和歌山へ来い」と回答したという伝説が残る有名なシーンだ。
中でも目立つのは、九条武子の背丈だろう。今日の女性ではまったくめずらしくないが、着物で草履をはくと170cm近くとみられる身長は、周囲にいる男性たちよりもおおよそ大きく、どこにいても目立つ存在だったのがわかる。また、子どもたちの保護者か縁者(?)、あるいは築地本願寺に集まった信徒たちだろうか、児童の遊戯をとり巻く見物人たちの数がやたら多い。大正期からつづく、九条武子の高い人気をしのばせる稀少な映像だ。
つづいて、時間を忘れて記録フィルムを漁っていたら、動く南方熊楠も『天皇陛下関西行幸』(文部省/1929年)の、和歌山県に立ち寄るシーンで観ることができた。昭和天皇が背後に近づいているのに、背を向けたまま隣りの人物と楽しそうなおしゃべりを止めないのが、いかにも南方熊楠らしい。世界的に知られた自然科学の博物的(多彩な分野の生物・植物学)な権威で、人文科学(人類学・民俗学・比較文化学・語源学・説話学・江戸文芸学など)の多彩な分野のエキスパートでもあり、エコロジー(現代的な意味での生態学)の概念を初めて日本に導入・実践したといわれる南方熊楠には、生物学者の天皇のほうから会いたいと申し入れたようだが、「オレに会いたいなら、孫文と同様に和歌山へ来い」と回答したという伝説が残る有名なシーンだ。
だが、ほんとうに天皇が“御召艦”の戦艦「長門」に乗りこみ、内火艇で和歌山に上陸して会いにきてしまったので、ちょっと困った様子の南方熊楠の表情が面白くてかわいい。繊細な性格を備えているのとは裏腹に、ある側面では非常に豪胆な人物だった南方熊楠だ。




最後は、『輝やく大東京』(東京市教育局/1930年)というフィルムだ。薬研堀の千代田尋常小学校を恒例訪問する、昭和天皇の姿がとらえられている。同小学校の鉄筋コンクリート製復興建築は戦災にも焼け残っているので、わたしは子どものころ実際に目にしているが、当時は日本橋中学校になる直前の久松中学校時代だったろう。校庭に集まった子どもたちへ、なぜか先に敬礼をしてしまう昭和天皇だが、それに気づいてゆっくりお辞儀をする生徒たちがかわいい。あと2~3年もすれば、この中に親父や「田沼くん」も混じっていたはずだと思うと、なんとなく奇妙な感覚にとらわれてくる。実際に動く映像が与えるインパクトは、やはりとてつもなく大きく感じるのだ。
◆写真上:築地本願寺の境内とみられる庭園で、児童の遊戯を観覧する九条武子。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)撮影の映像にみる東京帝大キャンパスの椿山古墳と螺山。中上は、関東大震災からも焼け残った東京中央気象台。中下は、新宿角筈古墳(仮)の残滓が映像で記録された新宿駅とその周辺。下は、現在の新宿駅界隈。
◆写真中下:上は、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図にみる新宿駅西口の新宿角筈古墳(仮)とその陪墳群。中上は、映像と同じ1926年(大正15)竣工の高野果実店(タカノフルーツパーラー)ビル。中下は、大正末に撮影された大震災記念餅を販売する新宿中村屋。下は、1928年(昭和3)の『九條武子夫人の遺影』に映る児童遊戯を見学する“動く”九条武子。
◆写真下:上は、1926年(大正15)に撮影された東日本橋と大橋(両国橋)界隈。中上は、1929年(昭和4)に和歌山の南方熊楠に会いにきた昭和天皇(背後)。楽しそうにおしゃべりをつづけて、まったく気づいてくれない南方熊楠へ、「朕ははるばる会いにきた」という視線を向けているようだ。中下は、1930年(昭和5)に千代田尋常小学校を訪れた昭和天皇。この35年後、わたしは親父に連れられこの復興校舎の入口に立っている。下は、敬礼のあと校庭で生徒たちを見まわす昭和天皇。
★おまけ
1924年(大正13)に発表された、東日本橋界隈の「震災復興計画」図。だが、実現したのは両国広小路の拡幅と浜町河岸通り、清杉通り-江戸通り(日光街道)の幹線道路の拡幅のみで、日本橋米澤町をはじめ同馬喰町、同横山町などの道筋はまったく変わらず現在にいたっている。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)撮影の映像にみる東京帝大キャンパスの椿山古墳と螺山。中上は、関東大震災からも焼け残った東京中央気象台。中下は、新宿角筈古墳(仮)の残滓が映像で記録された新宿駅とその周辺。下は、現在の新宿駅界隈。
◆写真中下:上は、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図にみる新宿駅西口の新宿角筈古墳(仮)とその陪墳群。中上は、映像と同じ1926年(大正15)竣工の高野果実店(タカノフルーツパーラー)ビル。中下は、大正末に撮影された大震災記念餅を販売する新宿中村屋。下は、1928年(昭和3)の『九條武子夫人の遺影』に映る児童遊戯を見学する“動く”九条武子。
◆写真下:上は、1926年(大正15)に撮影された東日本橋と大橋(両国橋)界隈。中上は、1929年(昭和4)に和歌山の南方熊楠に会いにきた昭和天皇(背後)。楽しそうにおしゃべりをつづけて、まったく気づいてくれない南方熊楠へ、「朕ははるばる会いにきた」という視線を向けているようだ。中下は、1930年(昭和5)に千代田尋常小学校を訪れた昭和天皇。この35年後、わたしは親父に連れられこの復興校舎の入口に立っている。下は、敬礼のあと校庭で生徒たちを見まわす昭和天皇。
★おまけ
1924年(大正13)に発表された、東日本橋界隈の「震災復興計画」図。だが、実現したのは両国広小路の拡幅と浜町河岸通り、清杉通り-江戸通り(日光街道)の幹線道路の拡幅のみで、日本橋米澤町をはじめ同馬喰町、同横山町などの道筋はまったく変わらず現在にいたっている。

この記事へのコメント
sakura
拝読させていただきました。私の紹介まで頂き恐縮です。
やはり日頃から研究している方の記事は深いです。
特に東大周辺や両国橋辺りは地理的にも明るくないので興味深く拝読致しました。
もっと貴重な映像が眠っていそうですし、掘り起こされそうな予感もありますので目が離せませんねw
落合道人
こちらこそ、フィルムのご紹介をありがとうございました。初めて見る“動く”
実家に、目が釘づけになってしまいます。親父が生きていたら、ほとんどの
家の住民名や店名を片端から挙げて、驚喜していたでしょうね。
もうひとつの「文化村」映画ですが、14日(月)からの連載予定です。書くこと
が多すぎて(上)(中)(下)の3回連続記事になってしまいました。おっしゃるとおり、
まだまだ貴重な映像がどこかに眠っていそうですね。上野の美術展を記録した
映像に“動く”佐伯祐三がとらえられていたら、当分、仕事が手につかなくなる
でしょうね。w
てんてん
落合道人
まだ、seesaaブログには慣れませんが、使い慣れればssブログより
使いやすいのかもしれません。
アヨアン・イゴカー
熊楠にこんな逸話があったとは。それにしても御召艦が長門とは、豪勢ですね。飛行船と言えばツェッペリン伯飛行船が1929年に来日した際、大伯母は小さかったのですが、父親に連れられて観に行ったそうです。
落合道人
テーマの地域から外れてしまうので、これまであまり触れてきませんでしたけれど、
南方熊楠は強く惹かれる人物です。絶滅したとされるニホンオオカミの、その後の
棲息を確認している人物としても有名ですね。
映画アーカイブには、ツェッペリン号の来日フィルムも残っていました。一度、観
はじめると止まらなくなります。
サクラ、きれいですね!