下落合界隈のアタマが痛い身の上相談。

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 戦前、平凡社が出版していた『家庭百科全書』には、人生や家庭で起きる多種多様な問題を相談する、「身の上相談」ページが設けられていた。同書の1936年(昭和11)版には、下落合やその近辺に住む人たちが手紙でとどく悩みを読み、それぞれ回答を寄せている。
 同書で読者からの身の上相談にのっていたのは、下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の帆足理一郎と、下落合2丁目680番地(現・中落合2丁目)の高良とみ(高良富子)、そして目白町3丁目3630番地(現・西池袋2丁目)の宮崎燁子(柳原白蓮)の3人だった。それぞれの思想や宗旨、経験などを反映してか、身の上相談に対して三者三様の回答を寄せているのが興味深くて面白い。帆足理一郎は宗教的かつ観念的な論旨を展開し、高良とみは論理的かつ合理的な回答であり、宮崎燁子は自身の体験を通じて得た経験主義的な事例を紹介している。
 まず、古くて新しい悩みを相談した、とある30歳前後と思われる男性の悩みから見ていこう。彼は、高校時代に学友に誘われ左翼運動に身を投じて、警視庁から要注意人物としてマークされ、とある争議団の支援に出向いたときついに逮捕された。数ヶ月のちの裁判では執行猶予で釈放され、スターリニズム下のソ連の実情などを知るにおよび、左翼運動をやめて家業を継ごうと郷里へ帰ったのだが、今度は「満洲事変」が起きたため「愛国熱が俄かに燃上がつて」、思想的に「フアツシヨ転向」=ファシストになった。「闘争的精神」へ火が点き、家業を放り出して陸軍の軍事探偵(スパイ)として大陸にわたり、「満洲」の広野に骨を埋める覚悟でいたのだが、「他国の軍権に支配されてゐる異民族の憐れさ」を痛感して、ものの一面しか見ていなかった自身を恥じ、「神経衰弱」になり陸軍の軍事探偵をやめて帰国することになった。
 実家で療養しつつ、「自分の不甲斐なさ」と不徹底さに「どこかに欠陥がある」と思いこみ、いまでいう鬱状態になってしまった。世間には「滔々私利を求めて生きる者多く」、いくら社会運動に身を捧げたところで、搾取の手が緩められて生活が楽になれば、「一般大衆」は物的享楽に狂奔するのみで、結局、人間はただ生きているだけのつまらない動物ではないか。相談者の母親は寺の娘だったが、仏教の本質は無神無霊魂でマルキシズムに近く、入信したところで「弥陀の本願」など方便か神話にすぎず、キリスト教の「罪」や「復活」、「昇天」などは理解不能で、近代科学の目から見ればまったくの「迷信」にすぎない。「奉仕奉仕」と要求するが、「神」は一種の封建君主と同類ではないか。人生は夢だと悟っても、快楽は否定できるが苦悶は「真実相」として残る。とすれば、「人間は何の為に活きてゐるのでせう?」という、しごく面倒な相談だった。
 これに回答を寄せているのは、自由主義的キリスト者で当時は早大教授だった帆足理一郎だ。さまざまなテーマを4つに分けて回答しているが、その結論部分を同書より引用してみよう。
  
 要するに、神は宇宙環境に内在する霊的生命として全宇宙の善美化、聖霊化に奉仕する想像力であります。人間は神から派生したものか、そこは分りませんが、神の如く宇宙を対象として、その向上発展に奉仕する。これ即ち人間の固的生命(ママ)をして神と共働せしむるものです。神と理想を同じうし目的を同じうして、その滅悪創善の道徳的事業に参加する。それは、吾々の一挙手一投足に宇宙的な永遠の意味を付与するものであります。宇宙的生命の存続する限り、吾等が五十年の生涯を捧げて奉仕したその努力は、永遠に失はれることはないと信じます。繰返へして云ひます。それは奉仕ではなく、自我の成長其物であります。
  
 やや高揚気味な帆足理一郎の回答文だけれど、この帆足流観念論で、思想的な思考回路の相談者が納得したとは到底思えない。少しあとの時代になるが、「神などあってもなくてもいい存在」であり、信念をもちながら理想に向けて主体的に自己投企する(働きかける)のが、その結果がどうであろうと「人間」であり「活きてゐる」ことだとする実存主義的な、あるいは主体性論的な回答のほうが、この相談者にはより響いたのではないだろうか。
 宇宙に内在する「霊的生命」の「神」や、仏教の無心無霊魂が基盤の「弥陀の本願」など、別にイヤなら気にせず無視してもいいことであり、要は自分自身が(思想であれ宗教であれ)なにを考え、なにを「理想」あるいは「目的」として働きかけるのか(生きるのか)が、「人間」存在の本質であり人生そのものだ……というような回答のほうが、相談者の「神経衰弱」を多少なりとも和らげられたのではないかと感じてしまう。
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 さて、「あなたの主体性はどこにあるのか?」と怒気をはらんでいるのが、次の相談者に対する高良とみ(富子)の回答だ。相談者は当時の「職業婦人」で、妻子ある男性Kと恋に落ちてしまい、愛人となって部屋をあてがわれ生活費をもらうようになるが、やがて子どもができてしまう。すると、Kは別の男Aを紹介し、この男と結婚してくれと懇願する。出産したら結婚を考えてもいいと答えると、会ったこともないAが突然訪ねてきて、すぐに結婚してくれといわれズルズルと結婚してしまう。結婚後も、Kからの生活費はつづいてとどき、産まれた子ども(男子)はKの家で引きとることになり、すぐにどこかへ里子に出されてしまった。結婚した彼女のもとに、相変わらずKは通ってきており、生活費をもらっているので断り切れなかった。
 ここまででもかなりドロドロの状況だが、さらに輪をかけて彼女は泥沼にはまっていく。Kが通ってきているのが夫のAに知られてしまい、Kから手切れ金を取ってこいといわれ、そのとおりにするとカネは夫が3分の2ほど自分の借金返済に当て、彼女には3分の1しか渡さなかった。そして、なにかというと「出ていけ!」としじゅう暴言・暴力をふるうようになる。同時に、Aが花柳病(梅毒)に罹患していることが判明し、ふたりで病院通いをするハメになってしまった。夫は、いまでは身体も不自由になり不憫なので看病しているが、いっそ別れて職業婦人にもどったほうがいいかどうか、「何卒々々良き智恵を御与へ下さいませ」という相談だった。
 これに対し高良とみは、「あなたいったい何やっているの!」という叱責の回答を寄せている。
  
 初めはKが妻君(ママ:細君)を離縁するかも知れないといふ気が薄々あつたにせよ、自分が妊娠しても、子だけは引取ると云ふ様子なら、その時に、「この男にだまされたナ、自分はこんな馬鹿だつたか」と大いに立腹して、歯をくひしばり、「もうこの男の云ふ事は一つも信用しないゾ」といふ決心がつかねばなりません。ましてやあなた自身も自分の弱かつた為めであるとチヤンと知つて居られ、「一度ならず二度迄も失敗したくない」と思つて居られたのに、その折角の決心も反抗も、くじけて、そのしたくない事をズルズルとするやうになるあなたは、全く唯弱いといふだけではない、自分が全くないと云つてよい位、何と云つていゝかわからぬ弱さです。
  
 合理的な思考回路の高良とみは、このような同性をいい加減で歯がゆく見ちゃいられないと感じたのだろう、きつい口調は最後までつづく。「全く何と云つてよいかわからない位、馬鹿な事」と叱責し、特に手離した実子については、簡単に人にあげてしまえるほど愛情がなかったのかと攻めている。その子を探しだし、もとは自立した生活をしていたのだから「その子を連れて、職業婦人として更生の生涯を御はじめになつたら」、どんなに立派だろうと書いている。現在の夫Aとのことは、どこまでいっても「あなた自身」と相手の心しだいだとし、あえて突き放している。
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 宮崎燁子(柳原白蓮)は、ふたりの相談者に回答を寄せているが、ひとりは上記のケースに似て妻子のいる医師に恋した看護婦の相談なので割愛し、もうひとりの家庭内で孤立する後妻からの相談を見てみよう。妻と死に別れた男性のもとへ嫁いだ、35歳の元・教師からの相談だった。妻と対立して離婚した家庭ではなく、愛しい妻と死に別れた家庭に入り、姑と夫と14歳になる娘からことあるごとに仲間外れにされ、相手にされない悩みを相談している。
 「何うして私はこんな所へ嫁いだかと今ではつくづく後悔してゐるので御座います」ではじまる、「ゆか子」と名のる相談者は、娘の世話は姑がすべてとり仕切っており、新しい母親はなにもさせてもらえず、ことあるごとに「継子いじめ」や「なさぬ仲」のイジワル話を娘にいい聞かせ、継母には近づかないように仕向けていた。元・教師ということで、学校の教科だけは見てあげていたようだが、勉強のことで少しでも注意や小言をいおうものなら、継子(ままこ)の娘はすぐに姑や父親にいじめられたと泣きついたらしい。すると、夫や姑は「継子いじめは止してくれ」などと露骨なことをいい、「子供を中心にして姑と夫と三人が仲よく談笑したり」していると、なぜ自分がここにいるのかわからないくらい疎外感をおぼえるというような相談だった。
 宮崎燁子は、「行き跡には嫁くとも死に跡には嫁くな」という昔ながらの格言をもちだしながら、知り合いの面白い解決策を紹介している。その知り合いの家庭も、早くに先妻を病気で亡くし後妻として結婚した、相談者と同じような環境だったが継子は男の子だった。相談者と同様に疎外され、ずいぶんイヤなこともいわれたようだが、それらをすべて先妻の亡霊のせいにしてしまったというのだ。だから、亡霊が夫に憎らしいことをいわせたり、継子と自分との間を険悪にするよう仕向けたりしていると、あえて信じるようにしたという。
 継子が反抗するときは、亡霊が乗り移って表情が先妻の顔に変貌し(親子だから似ているのは当然だが)、夫が文句をいうときは先妻の亡霊が妬んで憑依し、自分と家族の仲を裂こうとたくらんでいると考えるようにした。そして、仏壇にある先妻の位牌へ盛んに文句をいうのだという。
  
 「私はこの家に縁あつて後妻として嫁いで来たものであります。私は云はゞ貴女の代りに来たもの、その私を苦しめるといふことは後に残つた子供の為めにも夫の為めにも決して幸ひにはなりません」(中略) さうすると先づ自分の気持がすつかり落ちついてしまふのださうです。それから又夫にしろ子供にしろ、何か自分の腹の立つやうな事を云はれたりすると、すぐに又亡妻の祭つてある仏壇のところへ行つて怒るのださうです。
  
 このようなことを繰り返しているうちに、自分の気持ちが軽くなったばかりでなく、家庭内の雰囲気がガラリと変わり、夫や継子ともうまくゆくようになったという事例を紹介している。
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 でも、考えてみれば仏壇に収められた先妻の位牌に向かって腹を立て、文句を並べたてて大声で怒鳴りちらす後妻の姿を見たら、夫も継子も姑も「マジか、ガチヤバくね?」と少なからず不安や危機感をおぼえ、3人とも彼女をことさら刺激しないよう急にニコニコと笑顔で接するようになり、まるで腫れ物にでもさわるような扱いになりそうなことは想像に難くない。彼女がなにか悪い霊に憑依されたんじゃないかと心配してるのは、実は夫や継子や姑のほうではなかったろうか。

◆写真上:落合界隈の執筆者が揃った、『家庭百科全書』のお悩み身の上相談。
◆写真中上は、1926年(大正15)に撮影された下落合は近衛町の帆足理一郎・帆足みゆき夫妻と子どもたち。は、下落合1丁目404番地の帆足邸。
◆写真中下は、1933年(昭和8)ごろに撮影された高良とみ(富子)・高良武久夫妻。背後の書棚に置かれた、戦後に焼失する法隆寺金堂の壁画レプリカがめずらしい。は、1940年(昭和15)に創設された高良武久の森田療法で有名な高良興生院の記念写真。
◆写真下は、1921年(大正10)に撮影された宮崎燁子(柳原白蓮/右)と宮崎龍介(左)のカップル。は、いまも目白町3丁目3630番地に残る宮崎邸。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年05月26日 19:58
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    フェンダーミラーのスカイラインが、懐かしいですね。
    2025年05月26日 21:54

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