
落合地域には、あめりか屋が建設を手がけた住宅が、いったいどれほど建っていたのだろうか。たとえば、下落合(現・中落合/中井含む)を開発したディベロッパーの東京土地住宅や箱根土地などには、当然専属の建築部門が設置されており、そこには専門の建築家や建設チームがそろっていた。したがって、第三者の建設会社に依頼するのは、よほど建築にこだわりのある家庭か、あるいはその会社の住宅が好みだった家庭に限られるのだろう。
目白文化村を開発した箱根土地には、F.L.ライトの弟子だった設計士の河野伝がおり、下落合の相馬坂から久七坂界隈までの住宅建築を手がけたとみられる服部建築土木には、森山・石渡両設計士がそろっていた。だから、改めて第三者の企業に建設を依頼するよりも、住宅地の販売や開発をした当の企業へ、そのまま自宅の建設もまかせたほうが手間がかからず効率的だし、ひょっとするとコストもやや低減できたかもしれない。
でも、大正期の文化住宅といえば当時は流行の先端を走っていた、あめりか屋に理想を見いだして注文したがる住民もいただろう。西洋館といっても、明治期に見られたヨーロッパ風の重厚でやや装飾が過剰気味の“大げさ”なものではなく、もっと明るく“軽妙”で親しみやすい米国式の住宅がブームになりかかっていた。ことに、帝国ホテルや自由学園を設計して高名だった、米国の建築家F.L.ライトの影響なども大きかったのだろう。
下落合で、あめりか屋が設計・建設した住宅としてすぐに思い浮かぶのは、2012年(平成24)に解体された近衛町の杉卯七邸(1923年築)と、当時はあめりか屋の技師として勤務していたとみられる中村鎮とともに、中村式コンクリート構造を採用した近衛町の帆足理一郎・みゆき邸(1925年築)、現在の聖母坂下に建っていた川村景敏・景明別邸(のち改築本邸/1917年築)、そして川村邸とともに紹介されることが多い七曲坂の西側高台に建っていた大島久直邸(1917年築)などだろうか。この中で、ハーフティンバー仕様の重厚かつ大きな大島邸と、鉄筋コンクリートの帆足邸は特別な仕様なので除き、ほかの建物は大正末から昭和初期へとつづく、あめりか屋らしいモダンかつオシャレな木造の西洋館だった。おそらく、目白文化村にもあめりか屋が手がけた住宅が何棟か建っていたのではないだろうか。
あめりか屋は、社長の橋口信助が米国シアトルでの生活で得た経験を踏まえ、米国から直輸入した組立て住宅の販売を中心に、1909年(明治42)に創業された建設会社だ。でも、米国輸入の簡易な組立て住宅ばかりでなく、大島久直邸や帆足理一郎邸などに見られるように、営業成績をあげるためか注文主の要望に応じて、組立て住宅とは異なる独自の工法を用いて建築した屋敷も、少なからずあったようだ。
橋口信助は、顧客となるターゲットを「中流階層」と想定しているが、華族の大きな屋敷なども手がけており、あめりか屋の経営が安定するまでは、必ずしも受注先を「中流」のみに限定せず、さまざまな注文をこなしていったように思える。また、橋口信助は自由学園の羽仁もと子とも交流があったようで、同学園に隣接する婦人之友社から刊行されていた雑誌「婦人之友」へ、たびたび日本における住環境の革新を訴求する原稿を寄せている。
会社の経営が安定してきたころ、橋口信助は1916年(大正5)に「住宅改良会」を組織し、機関誌として住宅専門誌「住宅」を創刊している。当時の様子を、1995年(平成7)に発表された久保加津代の論文『都市「中流住宅」における生活者の住居観と住生活改善』から引用してみよう。
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「住宅改良會」の設立趣意書によれば「住宅改良會」のめざすところは、「伝統的生活と欧米的生活が混在する生活は不経済で不便であるため、生活を欧米的生活に統一すべきであり、そのためには生活の基盤である住宅そのものを変えなければならない」ということであり、そのために研究会や講演会を開催し、住宅改良のための資料を紹介し、懸賞募集活動などもおこなうことを計画していた。顧問に武田五一、滋賀重列、塚本靖、岡田信一郎、大熊喜邦などの専門家が名前を連ね、賛助員には総理大臣大隈重信をはじめ貴族院議員、衆議院議員、教育関係者、産業界の代表など錚々たるメンバーを集めている。
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このような趣旨から、大正期には数多くの住宅設計コンペティションや全国各地での講演会、博覧会などへのモデルハウス出品などが実施されている。
では、あめりか屋が米国から直輸入した住宅建材とはどのようなものだったのだろうか。具体的には、米国のシカゴで19世紀に確立された「バルーンフレーム」とも、「2×4(ツーバイフォー)」とも呼ばれていた住宅建築だった。今日では「2×4」(枠組壁構法)というと、安価なプレハブ住宅のようなイメージが強いが、同構法は米国の伝統的な農家建築をベースに改良を重ね、体系だった構法として一般化されたものだ。「バルーン」構法という名称は、19世紀の古い時代の大工たちが柱や梁に太い木材を用いない構造を、軽っぽい(安っぽい)「風船」と蔑称したのがはじまりだが、バルーン構法はムダを省いた効率的で合理的な20世紀型の住宅だった。
また、1階の床上に壁を建て2階の床を造ってから2階の壁を建てるという、2段階にわたる建築法を「プラットフォーム」構法と呼び、2階までの通し柱を建てて壁を造る「バルーン」構法とは、あえて区別されるようになる。前者の「プラットフォーム」構法が、1970年代に日本の住宅建築に導入された、いわゆる「2×4」と一般的に呼ばれるようになった構法だ。
1970年代に流行った「2×4」の組立て住宅は、日本への導入が実は4回目だったと本多昭一は指摘している。1回目は、明治初期の北海道に残る札幌の時計台や、旧・札幌農学校の家畜房および穀物倉庫などの建築で、いずれも「バルーン」構法により建てられている。また、屯田兵用の兵舎が同構法により建設されたが、従来の兵舎建設に比べてコスト高だったことから定着せず、住宅建設まで普及することはなかった。そして2回目の導入が、あめりか屋を中心とする明治末から昭和初期にかけての、モダンな洋風住宅(文化住宅)の流れだった。
その様子を、1991年(平成3)に建築とまちづくり編集委員会から刊行された「建築とまちづくり」6月号に収録の、本多昭一『2×4構法の歴史とわが国への導入の経緯』から引用してみよう。
では、あめりか屋が米国から直輸入した住宅建材とはどのようなものだったのだろうか。具体的には、米国のシカゴで19世紀に確立された「バルーンフレーム」とも、「2×4(ツーバイフォー)」とも呼ばれていた住宅建築だった。今日では「2×4」(枠組壁構法)というと、安価なプレハブ住宅のようなイメージが強いが、同構法は米国の伝統的な農家建築をベースに改良を重ね、体系だった構法として一般化されたものだ。「バルーン」構法という名称は、19世紀の古い時代の大工たちが柱や梁に太い木材を用いない構造を、軽っぽい(安っぽい)「風船」と蔑称したのがはじまりだが、バルーン構法はムダを省いた効率的で合理的な20世紀型の住宅だった。
また、1階の床上に壁を建て2階の床を造ってから2階の壁を建てるという、2段階にわたる建築法を「プラットフォーム」構法と呼び、2階までの通し柱を建てて壁を造る「バルーン」構法とは、あえて区別されるようになる。前者の「プラットフォーム」構法が、1970年代に日本の住宅建築に導入された、いわゆる「2×4」と一般的に呼ばれるようになった構法だ。
1970年代に流行った「2×4」の組立て住宅は、日本への導入が実は4回目だったと本多昭一は指摘している。1回目は、明治初期の北海道に残る札幌の時計台や、旧・札幌農学校の家畜房および穀物倉庫などの建築で、いずれも「バルーン」構法により建てられている。また、屯田兵用の兵舎が同構法により建設されたが、従来の兵舎建設に比べてコスト高だったことから定着せず、住宅建設まで普及することはなかった。そして2回目の導入が、あめりか屋を中心とする明治末から昭和初期にかけての、モダンな洋風住宅(文化住宅)の流れだった。
その様子を、1991年(平成3)に建築とまちづくり編集委員会から刊行された「建築とまちづくり」6月号に収録の、本多昭一『2×4構法の歴史とわが国への導入の経緯』から引用してみよう。




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明治末に米国から帰国して洋風住宅の設計施工会社「あめりか屋」を開設した橋口信助が、帰国の際に2×4構法の住宅の部品を持ち帰っている。「あめりか屋」は、大正期に入ると大いに発展し、軽井沢・大阪・九州・名古屋などに出張所を設け、洋風住宅の建設を行った。「この橋口のように数棟の組立住宅を輸入した例はいくつか見られ、東京日本橋の菅生彦四郎商店もその一つであった。/この商店では、大正九年に『米国製組立家屋』と称し、輸入した組立住宅を売り出している。」(註略) 神戸市東灘区の「深江文化村」に現存する冨永邸はこの時期のもので一九二四年(大13)着工、翌年入居とのことである。/東京の田園調布に残っていた旧大館邸も、この時期のバルーン構法住宅で、一九二四年に建てられ六〇年以上も健在であったが、一九八六年取り壊された。
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いまや全国的にも、あめりか屋が建設した当時の住宅は稀少のようだが、下落合415番地(現・下落合2丁目)の近衛町にあった杉卯七邸は1923年(大正12)に竣工し、東日本大震災の翌年2012年(平成24)まで健在だったので、実に89年間も建っていたことになる。
19世紀の古い米国の大工から、「バルーン」などと揶揄を含んだ蔑称をもらった構法だったが、実に頑丈な住宅建築だったことがわかる。杉邸(当時は鈴木邸)へは、新宿区の職員(おそらく教育委員会のスタッフ)が何度か訪問していたようだが、建築に詳しいどなたかが稀少なあめりか屋による建築作品だと気づいていたのかもしれない。ただし、目白福音教会の明治末にヴォーリズが設計・建設したメーヤー館(宣教師館)を、やすやすと千葉県へ移築させてしまうような状況では、また1925年(大正14)にアビラ村(芸術村)へ建設された金山平三アトリエの解体を止められなかった状況では、とても下落合町内の移築保存など望むべくもなかっただろう。
明治末に米国から帰国して洋風住宅の設計施工会社「あめりか屋」を開設した橋口信助が、帰国の際に2×4構法の住宅の部品を持ち帰っている。「あめりか屋」は、大正期に入ると大いに発展し、軽井沢・大阪・九州・名古屋などに出張所を設け、洋風住宅の建設を行った。「この橋口のように数棟の組立住宅を輸入した例はいくつか見られ、東京日本橋の菅生彦四郎商店もその一つであった。/この商店では、大正九年に『米国製組立家屋』と称し、輸入した組立住宅を売り出している。」(註略) 神戸市東灘区の「深江文化村」に現存する冨永邸はこの時期のもので一九二四年(大13)着工、翌年入居とのことである。/東京の田園調布に残っていた旧大館邸も、この時期のバルーン構法住宅で、一九二四年に建てられ六〇年以上も健在であったが、一九八六年取り壊された。
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いまや全国的にも、あめりか屋が建設した当時の住宅は稀少のようだが、下落合415番地(現・下落合2丁目)の近衛町にあった杉卯七邸は1923年(大正12)に竣工し、東日本大震災の翌年2012年(平成24)まで健在だったので、実に89年間も建っていたことになる。
19世紀の古い米国の大工から、「バルーン」などと揶揄を含んだ蔑称をもらった構法だったが、実に頑丈な住宅建築だったことがわかる。杉邸(当時は鈴木邸)へは、新宿区の職員(おそらく教育委員会のスタッフ)が何度か訪問していたようだが、建築に詳しいどなたかが稀少なあめりか屋による建築作品だと気づいていたのかもしれない。ただし、目白福音教会の明治末にヴォーリズが設計・建設したメーヤー館(宣教師館)を、やすやすと千葉県へ移築させてしまうような状況では、また1925年(大正14)にアビラ村(芸術村)へ建設された金山平三アトリエの解体を止められなかった状況では、とても下落合町内の移築保存など望むべくもなかっただろう。



3回目の「2×4」構法ブームは、敗戦直後に起きた占領軍の住宅ニーズだった。本国から、いちいち大工を呼んで仕事をさせるわけにもいかず、日本の大工に図面をわたし見よう見まねで建てさせたらしい。だから、柱や梁など随所に同構法ではありえない仕様が見られるという。一見「2×4」のようだが、よく観察すると日本の住宅のようでもあり、当時の年季の入った日本の大工たちもまた、同構法を簡易で軽っぽい(安っぽい)「風船」構法だと揶揄していたのかもしれない。
◆写真上:聖母坂下の下落合1110番地にあった、川村景敏・景明別邸(のち改築本邸)。
◆写真中上:上は、七曲坂の中腹にあたる下落合771番地に建っていた大島久直邸。中上は、近衛町の下落合404番地に建っていたコンクリートの帆足理一郎・みゆき邸。中下は、下落合も近い高田町千登世1番地(現・高田2丁目)に建っていたあめりか屋で技師長をしていた山本拙郎邸。下は、あめりか屋が1916年(大正5)に目黒地域へ建設した洋風住宅。
◆写真中下:上は、1921年(大正10)のあめりか屋が出稿した媒体広告。中上は、あめりか屋社長の橋口信助(左)と、1916年(大正5)8月に住宅改良会から創刊された「住宅」(右)。中下は、あめりか屋が1916年(大正5)に当時は別荘地だった大森地域へ建設した西洋館。下は、島津家が開発した下落合の三ノ坂沿いに見られたような別荘風の和洋折衷住宅。
◆写真下:上は、1923年(大正12)に下落合415番地の近衛町へ建設された竣工直後の杉卯七邸。中上は、2006年(平成18)に撮影した杉邸(当時は鈴木邸)。中下は、2012年(平成24)5月に解体中の同邸。建設された大正期は、近衛町の道路が舗装されていなかったため、玄関に靴の泥を落とす水道と流しが設置されているのがめずらしい。下は、「住宅」(住宅改良会)のコンテンツ。橋口信助や山本拙郎、武田五一のほか市川猿之助(2代目)や中條百合子、今和次郎、川路柳虹、安部磯雄、内田魯庵など、建築分野とは関係のない執筆者たちのエッセイが数多く掲載されていた。
★おまけ
国土庁に保存されていたとみられる、1925年(大正14)に箱根土地株式会社が作成した「目白文化村分譲地地割図」(第一文化村・第二文化村の分譲地割図)の青焼きを見つけた。実際に役所の業務などで使われていたものか、かなり擦り切れてボロボロになっているのがわかる。
◆写真中上:上は、七曲坂の中腹にあたる下落合771番地に建っていた大島久直邸。中上は、近衛町の下落合404番地に建っていたコンクリートの帆足理一郎・みゆき邸。中下は、下落合も近い高田町千登世1番地(現・高田2丁目)に建っていたあめりか屋で技師長をしていた山本拙郎邸。下は、あめりか屋が1916年(大正5)に目黒地域へ建設した洋風住宅。
◆写真中下:上は、1921年(大正10)のあめりか屋が出稿した媒体広告。中上は、あめりか屋社長の橋口信助(左)と、1916年(大正5)8月に住宅改良会から創刊された「住宅」(右)。中下は、あめりか屋が1916年(大正5)に当時は別荘地だった大森地域へ建設した西洋館。下は、島津家が開発した下落合の三ノ坂沿いに見られたような別荘風の和洋折衷住宅。
◆写真下:上は、1923年(大正12)に下落合415番地の近衛町へ建設された竣工直後の杉卯七邸。中上は、2006年(平成18)に撮影した杉邸(当時は鈴木邸)。中下は、2012年(平成24)5月に解体中の同邸。建設された大正期は、近衛町の道路が舗装されていなかったため、玄関に靴の泥を落とす水道と流しが設置されているのがめずらしい。下は、「住宅」(住宅改良会)のコンテンツ。橋口信助や山本拙郎、武田五一のほか市川猿之助(2代目)や中條百合子、今和次郎、川路柳虹、安部磯雄、内田魯庵など、建築分野とは関係のない執筆者たちのエッセイが数多く掲載されていた。
★おまけ
国土庁に保存されていたとみられる、1925年(大正14)に箱根土地株式会社が作成した「目白文化村分譲地地割図」(第一文化村・第二文化村の分譲地割図)の青焼きを見つけた。実際に役所の業務などで使われていたものか、かなり擦り切れてボロボロになっているのがわかる。

この記事へのコメント
てんてん
落合道人
懸賞の当選、おめでとうございます。わたしは子どものころから、
この手の懸賞には当たったことがありません。