
きょうご紹介するのは、厳密にいえば専業の画家ではない。中村彝に師事した鈴木良三と同じようなスタンスで、専門は医師(内科医)だった。何度かご紹介しているが、振り子坂の中腹で第二文化村の入口に開業していた、下落合1731番地(のち下落合3丁目1736番地)の熊倉医院の院長・熊倉進で、画号や俳号は熊倉杏雨と名のっている。
1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)では、「医学博士内科 熊倉進 下落合一,七三一」および同誌の「衛生」ページで氏名が紹介されているだけで、詳しい経歴などは記録されていない。熊倉進は、戦前の興信録などによれば1896年(明治29)に栃木県で生まれ、1926年(大正15)に愛知医学専門学校(現・名古屋大学医学部)を卒業すると、研究室に残り博士課程を修了している。そして、1931年(昭和6)に落合町下落合へ邸を建設して転居し、上記の目白文化村に近接した住所に熊倉医院を開業している。
当時の様子を、1969年(昭和44)に新宿区医師会から出版された『新宿区医師会二十年史』収録の、熊倉進「戦前の落合医師クラブ」から少しだけ引用してみよう。
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私が目白文化村の入口に開業した昭和六年ごろは、落合は北多摩郡落合町(ママ:豊多摩郡落合町)と称し、文化村を一歩西に出れば、哲学堂近くまで一面の田圃で、摘草ができ、下落合駅から現在の聖母病院に通ずる坂道の左側には「名代西坂だんご」の旗を軒端に翻えしたおだんご屋があり、徳川邸の坂道には湧き出づる清水がちょろちょろと流れ、春ともなれば徳川邸の牡丹園が公開されて門前に風船屋や電気飴屋が店を出し、見物の人々で賑わった誠に長閑な風景を呈していた時代であった。/その後半年ほどして聖母病院が開院したのであった。(カッコ内引用者註)
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西坂の徳川義恕邸にあった、ボタンで有名な静観園の賑わいを記録しているが、「電気飴屋」とはオシンコ屋(しん粉細工の飴屋)のことではなく綿菓子屋のことだ。
この時期は、いまだ本格的な画業の道へは進んでおらず、熊倉進はむしろ熱心な俳人として、専門誌などへ投稿していたとみられる。1935年(昭和10)に、下落合3丁目1321番地に建っていた第一文化村の旧・安食勇次邸へ、霞坂秋艸堂から会津八一が転居してくると、熊倉進はその主治医となって文化村秋艸堂へ往診するようになった。おそらく、このころから会津八一の墨画や書に惹かれていったのではないだろうか。下落合での開業から戦時中まで、熊倉進が俳句のほかにどのような趣味をもっていたのかは不明だが、戦後、本格的な画業をはじめるころには、すでにその腕前はかなりのレベルに達していた。
1960年代の半ば、熊倉進は水墨画家であり書家の内山雨海に弟子入りしている。そして、内山雨海が主宰する「濹人社」に所属して同人となり、東京各地で開かれる「墨の国展」(のち「墨の芸術展」)へコンスタントに出品している。画号は、俳号と同じく熊倉杏雨としたが俳句をやめてしまったわけではなく、戦後も俳句誌や医学誌へ作品を発表しつづけている。俳句では「南風会」を主宰し、俳句の専門誌「ホトトギス」の同人としても活躍している。
内山雨海へ師事する前後の様子を、1986年(昭和61)に濹人社から出版された内山須磨子・他『雨海を偲ぶ』収録の、熊倉杏雨「雨海先生を偲ぶ」より引用してみよう。
1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)では、「医学博士内科 熊倉進 下落合一,七三一」および同誌の「衛生」ページで氏名が紹介されているだけで、詳しい経歴などは記録されていない。熊倉進は、戦前の興信録などによれば1896年(明治29)に栃木県で生まれ、1926年(大正15)に愛知医学専門学校(現・名古屋大学医学部)を卒業すると、研究室に残り博士課程を修了している。そして、1931年(昭和6)に落合町下落合へ邸を建設して転居し、上記の目白文化村に近接した住所に熊倉医院を開業している。
当時の様子を、1969年(昭和44)に新宿区医師会から出版された『新宿区医師会二十年史』収録の、熊倉進「戦前の落合医師クラブ」から少しだけ引用してみよう。
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私が目白文化村の入口に開業した昭和六年ごろは、落合は北多摩郡落合町(ママ:豊多摩郡落合町)と称し、文化村を一歩西に出れば、哲学堂近くまで一面の田圃で、摘草ができ、下落合駅から現在の聖母病院に通ずる坂道の左側には「名代西坂だんご」の旗を軒端に翻えしたおだんご屋があり、徳川邸の坂道には湧き出づる清水がちょろちょろと流れ、春ともなれば徳川邸の牡丹園が公開されて門前に風船屋や電気飴屋が店を出し、見物の人々で賑わった誠に長閑な風景を呈していた時代であった。/その後半年ほどして聖母病院が開院したのであった。(カッコ内引用者註)
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西坂の徳川義恕邸にあった、ボタンで有名な静観園の賑わいを記録しているが、「電気飴屋」とはオシンコ屋(しん粉細工の飴屋)のことではなく綿菓子屋のことだ。
この時期は、いまだ本格的な画業の道へは進んでおらず、熊倉進はむしろ熱心な俳人として、専門誌などへ投稿していたとみられる。1935年(昭和10)に、下落合3丁目1321番地に建っていた第一文化村の旧・安食勇次邸へ、霞坂秋艸堂から会津八一が転居してくると、熊倉進はその主治医となって文化村秋艸堂へ往診するようになった。おそらく、このころから会津八一の墨画や書に惹かれていったのではないだろうか。下落合での開業から戦時中まで、熊倉進が俳句のほかにどのような趣味をもっていたのかは不明だが、戦後、本格的な画業をはじめるころには、すでにその腕前はかなりのレベルに達していた。
1960年代の半ば、熊倉進は水墨画家であり書家の内山雨海に弟子入りしている。そして、内山雨海が主宰する「濹人社」に所属して同人となり、東京各地で開かれる「墨の国展」(のち「墨の芸術展」)へコンスタントに出品している。画号は、俳号と同じく熊倉杏雨としたが俳句をやめてしまったわけではなく、戦後も俳句誌や医学誌へ作品を発表しつづけている。俳句では「南風会」を主宰し、俳句の専門誌「ホトトギス」の同人としても活躍している。
内山雨海へ師事する前後の様子を、1986年(昭和61)に濹人社から出版された内山須磨子・他『雨海を偲ぶ』収録の、熊倉杏雨「雨海先生を偲ぶ」より引用してみよう。



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私が先生の門下生として、入門を許されたのは、他の同人のそれとは全く異なる事情があった。/今から、二十余年前、先生達の墨の展覧会が、新宿の伊勢丹で催された時、それを拝見し、雨海先生のあのダイナミックな、動的な先生独特な線に心引かれ、是非先生のご指導をいただきたいとの一念から、備付けの入門申込書に入門志願を記帳したのであった。/其頃、久しく医師会役員や他の役員をしていた私は、年もとって来たのでと、逐次役員を辞退し、少しは暇のある身になった。しかし古稀に近い年齢となっていたのである。
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このあと、熊倉杏雨は一度入門を断わられているが、内山雨海を直に訪ねてようやく入門を許されている。そして、濹人社による墨の国展へ作品を出品するようになった。先述したが、初めて墨画を描くにしては、すでに腕はかなり上達していたようで、会津八一に刺激を受けたかどうかまでは不明だが、句作のかたわら趣味で水墨画や文人画を描いたいたのではないだろうか。内山雨海に師事し、「古稀」からスタートしたにしては、あまりに手慣れている印象が強い。
さて、冒頭の写真は1969年(昭和44)出版の『新宿区医師会二十年史』(新宿区医師会)に収録された、熊倉杏雨が描く墨画『落合風景』だ。この作品について、画家はなにも解説を加えていない。わたしは、画面をためつすがめつ2週間も眺めたのだが、落合地域のどこを描いたものか思いあたらなかった。陽光は、明らかに右手から射しており、画面の右手が南側かそれに近い方角なのだろう。左側の土地が上がり気味で、右手の地面がやや下がり気味な地形をみると、どこかの斜面の中腹に造成された住宅地を貫通する道路を描いたものだろう。
道路といっても、幅1間もあるかないかの右へゆるやかにカーブする細路地で、左手の擁壁上には日本家屋が、右手のやや下り気味の斜面には西洋館とみられる切妻が見えている。また、一帯にはケヤキかクヌギとみられる樹木が生い繁り、右手の道路わきにはあたかも公園の入口のような、低い塀が見てとれる。塀の内部には、すぐに建物が見えないので空き地か、あるいはエントランスの長い邸宅だろうか。それにしては片側だけの門柱で、それらしい門扉も見えない。
私が先生の門下生として、入門を許されたのは、他の同人のそれとは全く異なる事情があった。/今から、二十余年前、先生達の墨の展覧会が、新宿の伊勢丹で催された時、それを拝見し、雨海先生のあのダイナミックな、動的な先生独特な線に心引かれ、是非先生のご指導をいただきたいとの一念から、備付けの入門申込書に入門志願を記帳したのであった。/其頃、久しく医師会役員や他の役員をしていた私は、年もとって来たのでと、逐次役員を辞退し、少しは暇のある身になった。しかし古稀に近い年齢となっていたのである。
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このあと、熊倉杏雨は一度入門を断わられているが、内山雨海を直に訪ねてようやく入門を許されている。そして、濹人社による墨の国展へ作品を出品するようになった。先述したが、初めて墨画を描くにしては、すでに腕はかなり上達していたようで、会津八一に刺激を受けたかどうかまでは不明だが、句作のかたわら趣味で水墨画や文人画を描いたいたのではないだろうか。内山雨海に師事し、「古稀」からスタートしたにしては、あまりに手慣れている印象が強い。
さて、冒頭の写真は1969年(昭和44)出版の『新宿区医師会二十年史』(新宿区医師会)に収録された、熊倉杏雨が描く墨画『落合風景』だ。この作品について、画家はなにも解説を加えていない。わたしは、画面をためつすがめつ2週間も眺めたのだが、落合地域のどこを描いたものか思いあたらなかった。陽光は、明らかに右手から射しており、画面の右手が南側かそれに近い方角なのだろう。左側の土地が上がり気味で、右手の地面がやや下がり気味な地形をみると、どこかの斜面の中腹に造成された住宅地を貫通する道路を描いたものだろう。
道路といっても、幅1間もあるかないかの右へゆるやかにカーブする細路地で、左手の擁壁上には日本家屋が、右手のやや下り気味の斜面には西洋館とみられる切妻が見えている。また、一帯にはケヤキかクヌギとみられる樹木が生い繁り、右手の道路わきにはあたかも公園の入口のような、低い塀が見てとれる。塀の内部には、すぐに建物が見えないので空き地か、あるいはエントランスの長い邸宅だろうか。それにしては片側だけの門柱で、それらしい門扉も見えない。



前方の斜面にも濃い樹林が見てとれるので、下落合のどこかの丘斜面の風景のように感じられる。おそらく戦後、1960年代の下落合に見られた風景だと思われるが、わたしはこの風景に見憶えがない。もう少し範囲をせばめれば、熊倉医院のある下落合3丁目(現・中井2丁目)エリアの風景のようにも思われるが、医院の近くにも画面のような光景の既視感がない。
わたしは1970年代の半ばから下落合の各地をあちこち歩いているが、ひょっとすると1960年代末にスタートした十三間通り(新目白通り)工事で、消えてしまった住宅街の一部だろうか。下落合の斜面に通う、画面のように特徴的な狭い道筋なら、まちがいなく印象に残るはずだし忘れないはずだ。あるいは、のちに消防法の適用で道幅が消防車両が入れるよう拡幅され、いまでは当時の面影がまったくなくなってしまった現存するいずれかの道路だろうか。熊倉杏雨による戦前の“記憶画”かとも考えたけれど、それにしては左手の2階家が戦後住宅のような意匠や造りをしている。どなたか、この光景をご存じの方がいたらご教示いただきたい。
墨画とは、軸画や屏風などに描かれるいわゆる水墨画とは異なり、モチーフも描く手法も“お約束”がなく自由自在な絵画表現だ。描き方によっては、ほとんど洋画と変わらない作品も多い。写真で観ると、色彩のある水彩画をモノクロフィルムで写したように感じるが、基本的には墨一色で描かれているので、カラーフィルムで撮影しても作品ごと墨色のちがいがわかるだけで、印象にことさら大きなちがいはない。ただし、例外的に画面の一部のみに着色する作品もあるようだが、多くの場合はワンポイントのアクセント的な彩色のみにとどまっている。
熊倉杏雨は、風景画が得意だったようで山や海、ときには建物などをモチーフにすることが多かったようだ。海外にも写生旅行に出かけているようで、1983年(昭和58)に制作された『古き港街』は、どこかヨーロッパの海辺に面した街角を描いたものだろう。また、翌1984年(昭和59)に広島の原爆ドームを描いた『祈る』は、色彩がないからこそ描けた熊倉版「原爆の図」のような印象だ。1984年(昭和59)といえば、米国各地で反核運動が盛んになり、同年暮れには前・米国大統領カーターの広島訪問が決定していた時期にあたる。
わたしは1970年代の半ばから下落合の各地をあちこち歩いているが、ひょっとすると1960年代末にスタートした十三間通り(新目白通り)工事で、消えてしまった住宅街の一部だろうか。下落合の斜面に通う、画面のように特徴的な狭い道筋なら、まちがいなく印象に残るはずだし忘れないはずだ。あるいは、のちに消防法の適用で道幅が消防車両が入れるよう拡幅され、いまでは当時の面影がまったくなくなってしまった現存するいずれかの道路だろうか。熊倉杏雨による戦前の“記憶画”かとも考えたけれど、それにしては左手の2階家が戦後住宅のような意匠や造りをしている。どなたか、この光景をご存じの方がいたらご教示いただきたい。
墨画とは、軸画や屏風などに描かれるいわゆる水墨画とは異なり、モチーフも描く手法も“お約束”がなく自由自在な絵画表現だ。描き方によっては、ほとんど洋画と変わらない作品も多い。写真で観ると、色彩のある水彩画をモノクロフィルムで写したように感じるが、基本的には墨一色で描かれているので、カラーフィルムで撮影しても作品ごと墨色のちがいがわかるだけで、印象にことさら大きなちがいはない。ただし、例外的に画面の一部のみに着色する作品もあるようだが、多くの場合はワンポイントのアクセント的な彩色のみにとどまっている。
熊倉杏雨は、風景画が得意だったようで山や海、ときには建物などをモチーフにすることが多かったようだ。海外にも写生旅行に出かけているようで、1983年(昭和58)に制作された『古き港街』は、どこかヨーロッパの海辺に面した街角を描いたものだろう。また、翌1984年(昭和59)に広島の原爆ドームを描いた『祈る』は、色彩がないからこそ描けた熊倉版「原爆の図」のような印象だ。1984年(昭和59)といえば、米国各地で反核運動が盛んになり、同年暮れには前・米国大統領カーターの広島訪問が決定していた時期にあたる。



江戸東京の出身で気短かな性格だったらしく、弟子たちにはことさら厳しかった内山雨海から、特に褒められたのが『古き港街』の画面だったようだ。1983年(昭和58)の初夏、師のアトリエへ出向き作品を観てもらうと、「アー、今日の作品は例になく佳い作だ、杏雨さん、今日の線の運びはとてもよい」とめずらしく褒められ、同年の墨の芸術展では賞を受賞している。ようやく入門を許されたように感じた熊倉杏雨だが、同年の秋、内山雨海は急死して師を失うことになった。
◆写真上:第4回墨の国展へ出品された、熊倉杏雨の墨画『落合風景』。
◆写真中上:上は、1935年(昭和10)ごろ撮影の振り子坂の中腹にあった熊倉医院。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合3丁目1736番地の熊倉医院。下は、戦後1947年(昭和22)に撮影された改正道路(山手通り)工事が進む熊倉医院界隈。
◆写真中下:上は、1977年(昭和52)制作の雨の岬を描いた熊倉杏雨『無題』。中は、1981年(昭和56)制作の同『朝霧』。下は、1984年(昭和59)制作の同『三国峠』。
◆写真下:上は、師の内山雨海から褒められた1983年(昭和58)制作の熊倉杏雨『古き港街』。中は、1984年(昭和59)に制作された同『祈る』。下左は、1969年(昭和44)に出版された『落合風景』収録の『新宿区医師会二十年史』(新宿区医師会)。下右は、熊倉杏雨のポートレート。
◆写真中上:上は、1935年(昭和10)ごろ撮影の振り子坂の中腹にあった熊倉医院。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合3丁目1736番地の熊倉医院。下は、戦後1947年(昭和22)に撮影された改正道路(山手通り)工事が進む熊倉医院界隈。
◆写真中下:上は、1977年(昭和52)制作の雨の岬を描いた熊倉杏雨『無題』。中は、1981年(昭和56)制作の同『朝霧』。下は、1984年(昭和59)制作の同『三国峠』。
◆写真下:上は、師の内山雨海から褒められた1983年(昭和58)制作の熊倉杏雨『古き港街』。中は、1984年(昭和59)に制作された同『祈る』。下左は、1969年(昭和44)に出版された『落合風景』収録の『新宿区医師会二十年史』(新宿区医師会)。下右は、熊倉杏雨のポートレート。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
三毛の、耳伏せ警戒感がすごいですね。w
みほ
落合道人
医業のかたわら、ひっそりと自宅で続けられた趣味かこうじて、引退後には
本格的な画家をめざされたようですね。墨絵というのはあまり馴染みがなく、
画集の表現が新鮮でした。