「江戸城」と「千代田城」の相違について。

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 過去に拙ブログの記事でも繰り返し書いているが、室町期の「江戸城」と江戸期の「千代田城」を混同して呼称している方が、このごろ“膝元”である東京にも多いので、もう一度ハッキリと規定して書いておきたい。両城の呼称は、時代ちがいの別の城郭だ。
 江戸東京地方にある城郭について、徳川幕府以外の各藩から江戸地方にある城のことを、おしなべて明治初期まで「江戸城」と呼称していたのはそれほど不自然ではないが、当の江戸東京の地元=(城)下町では、300年以上も前の江戸中期から、徳川幕府の城は「千代田城」と呼ばれている。ちょうど会津の街にある城郭は、外部からは一般的に「若松城」と呼ばれているが、地元ではそうは呼ばずに「鶴ヶ城」と呼称しているのと類似するケースだろうか。あるいは「姫路城」と「白鷺城」の関係も、似たような経緯があるのかもしれない。けれども、時代ちがいの感覚とは、また少し異なる“愛称”的な地元の想いのほうが強いだろうか。
 いつの間にか、室町期の城も徳川時代の城もゴッチャにされ「江戸城」と呼ばれるようになり、「千代田城」の名称が霞んでいくように感じられたのは、江戸東京地方以外からの移住者が急増した1960~70年ぐらいからだろうか? 少なくとも、わたしの子ども時代には親の世代や親戚・知人たちの間では、「千代田城」という名前が地元では一般的に使われていた。もともと柴崎村の近くに、小名で「チオタ(千代田)」と呼ばれた地域に建つ城であったことから、室町期の(地元にとっては大昔の)「江戸城」やその城下町と差別化するために、城郭が最終形となった江戸中期ごろから「千代田城」と呼ばれだしたのではないかと推測している。
 そもそも同城のおおもとは、鎌倉幕府へ参画し幕府御家人だった江戸重長が、1180年(治承4)に建設した武家館(やかた=江戸館)からスタートしている。このころから、初期鎌倉に見られたような町に近い集落(のち室町時代の城下町)が、すでに小規模ながらも形成されていたといわれている。江戸氏が統治したエリアは、南が六郷(多摩川)、北は浅草(今戸)から赤塚にかけ、東は隅田川、西は田無にまで及んでいたといわれる広大なものだった。江戸氏が建設した館は、室町期より市街地化が急速に進み位置が不明のままだが、同時代の他の武家館を参照すると、大きめの屋敷に築地と空濠をめぐらしたほどの規模だったとみられる。
 次に、鎌倉の扇ヶ谷(やつ)上杉家の家臣・太田資長(道灌)が、三方を海や湿地帯で囲まれた原日本語でエト゜(江戸=鼻・岬)のつけ根に、「江戸城」を築造したのが1457年(長禄元)のことだ。上杉氏は、江戸城と同時に関東へ複数の城郭を築いている。この史実や経緯から、江戸東京は日本でも最古クラスの城下町ということになるので、これも再度確認しておきたい。
 当時の様子を、1952年(昭和27)に岩波書店から出版された、監修・高柳光壽および岩波書店編集部による『千代田城』(岩波写真文庫58)より引用してみよう。
  
 康正二(一四五六)年扇谷上杉修理大夫定正はその臣太田左衛門大夫資長(入道して道灌といった)に命じて江戸に城を築かせ江戸城といった。(千代田城はもっと後のもので一七〇〇年頃から見えて来る) これは古河公方足利成氏に対抗するために川越・岩槻両城とともに築いたものといわれる。築城は一年余りを費して翌長禄元(一四五七)年に出来上り、資長はその四月に品川の館からこれに移った。時に資長は二十六歳であった。
  
 太田道灌の江戸城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸を備えた本格的な造りで、城郭を載せた塁の盛り土は高さ10丈(約30m/おそらくひな壇状の土塁構造)を超えていたといわれ、周囲には芝土塁をめぐらし、巨木を伐りだしては城郭をはじめ土塁をまたぐ大橋、鉄製の大手門などを次々と建設している。だが、今日の千代田城とは比較にならないほど規模の小さなもので、江戸城は現在の西ノ丸あたりにあったとする説(新井白石説)や、現在の本丸に近い位置にあったとする説がある。その城郭の場所については、早くも江戸時代から議論されており、すでに曖昧になっていたのがわかる。
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 このときから、江戸城下には平川(現・神田川の原形で日本橋あたりから海へ注いでいた古くからの流れ)沿いには、にぎやかな城下町が形成されており、海沿いには陸海の山海産物を取引する市場をはじめ、それらを運搬する物流拠点の伝馬町や、漁師町、廻船用の湊(港)などが整備されていった。江戸城の当時、城下町には房州産の米穀類、常陸産の茶類、信州産の銅、東北各地産の鉄(鋼)などが集積されていたと記録にみえる。もちろん、城下町には武器を生産する小鍛冶(刀鍛冶・鎧鍛冶)や、生産用の農工具を製造する野鍛冶(道具鍛冶)も数多く参集していただろう。これが、太田道灌が建設した「江戸城」とその城下町の姿だ。
 ちょっと余談だが、この太田道灌の城下町からつづく各地漁師町の漁師たちと、徳川家康が大坂(阪)から新たに招いた漁師たちとの間で、漁場や漁業権をめぐり訴訟沙汰が絶えなくなるのは、以前の記事でも取りあげている。新参の漁民たちは佃島を与えられ、既得権のある室町期からの城下町漁民と対立しないよう、江戸の「外」に住まわせられている。「江戸へいってくら」という佃島に残る慣用句は、こんなところにも遠因があったのかもしれない。
 さて、豊島氏を滅ぼし勢力が強大となった太田道灌が、主君の上杉定正に謀反を疑われ、1486年(文明18)に暗殺されると、江戸城にはすぐさま曾我氏が派遣されたが、その後は上杉氏の直轄支城となって室町末期を迎えている。そして、1524年(大永4)に小田原の北條氏綱(後北條氏)に攻略され、同家の遠山氏が城代として赴任している。この間も、江戸の城下町はそのまま継続しており、物流や生産の拠点だったせいか、「江戸筋」あるいは「江戸廻り」という言葉が同時代に生まれている。さらに、1590年(天正18)に豊臣秀吉により小田原の北條氏が滅ぶと、徳川家康が関八州とともに室町期の江戸城を引き継ぐことになった。
 上州世良田(現・群馬県太田市世良田)が出自の、近接する前・幕府の足利氏とともに鎌倉幕府の有力御家人だった世良田親氏→徳阿弥(信州・江戸居住のち松平家へ婿養子に入り松平親氏)→松平・徳川氏(三河・駿河時代)は、鎌倉幕府が滅亡して以来250年のブランクをへて、ようやく上州世良田のある故地の関東地方にもどれたわけだ。ちなみに、宝永年間より徳川家では「徳川」姓とともに、「世良田」姓を復活させて名のるようになる。
 小田原の北條氏が滅亡した同年に、徳川家康は太田道灌由来の江戸城へ入城している。このとき、家康は戦で荒廃していた外濠を拡張・整備し、西ノ丸の増築をしただけで旧来の本丸・二ノ丸・三ノ丸を活用して居住していた。ここで徳川家康が江戸に入ると、今日の千代田城を建設して入居したようなイメージや錯覚が生じるのだが、家康がいたのは太田道灌由来の江戸城であって、現在の千代田城などいまだ影もかたちも存在していない。
 慶長年間の姿を描いたとされる「江戸始図」(一部不正確)が残されているが、家康が居住したのは道灌が築城した本丸あるいは増築した西ノ丸であり、周囲に展開する室町期以来の丸ノ内(城郭内)や城下町へ、家臣団の屋敷が次々と建設されているものの、基本的には室町期の城郭の姿そのままだった。この経緯から、のちに広大かつ巨大な「千代田城」が築かれたあと、名称を旧来の「江戸城」と差別化する必要が生じたのは自明のことだろう。現在、江戸東京の中心に建っている城は道灌由来の「江戸城」ではなく、徳川幕府が長年月をかけて築造した「千代田城」だ。
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 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦に勝利した家康は、城郭の普請ばかりでなく、翌年からおもに城下町の整備をスタートしている。先祖の徳阿弥(=松平親氏)時代からの氏子だった、のち江戸総鎮守と規定される神田明神社を、神田山(現・駿河台)から御茶ノ水の北側へと遷座させ、神田山を崩して海岸線を埋め立て新市街地を形成している。いわゆる現在につながる計画的で本格的な(城)下町の建設だが、大川(隅田川)の河口にあった中洲を埋め立て、日本橋の町を造成したのをはじめ、京橋、尾張町(銀座)、浜町などが続々と誕生している。
 家康が隠居し2代・徳川秀忠の時代になると、このときから太田道灌由来の古い“江戸城大改造プロジェクト”が始動する。本丸・二ノ丸・三ノ丸・西ノ丸の大規模化をはじめ、日本最大の天守閣建設、外濠の再整備(石垣築造)と内濠の掘削だが、広大な北ノ丸はいまだ存在していない。また、1615年(元和元)ごろから、御茶ノ水の駿河台を深く掘削し、平川(現・神田川)の流れを外濠として活用するとともに隅田川まで貫通させ、牛込見附(現・飯田橋駅)に一大物流拠点を設置し、江戸川(現・神田川)を上流まで舟でさかのぼれるようにしている。
 つづいて、徳川家光が3代将軍に就任すると、秀忠に引きつづき城郭全体の大増築を行い、今日の千代田城とあまり変わらない姿へと普請を進めている。以下、同書より再び引用してみよう。
  
 家光は華美好きな人で、家康の残した莫大な金銀を使い果たし、幕府財政窮乏の端を開いたほどの放漫政策を行ったが工事に大名を使役することも秀忠の比ではなく、弟の徳川忠長を初めとして三家までもその役に服させて寛永六(一六二九)年から十三年にかけて大増築を行い、ほとんど日本全国の力を合せて、日本史上空前の巨城を完成させたのであった。/大手門を始点として、螺旋状に遠く浅草橋まで江戸市街の大半を囲んでのびた濠の要所要所には城門(今日に残る桜田門と同型式のもの)が設けられ、その総数三十八門に及んだ。これを概数して三十六見附と称した。四谷見附や市谷見附には、今にその石塁の一部が残っている。
  
 これにより、徳川三家や松平諸家ばかりでなく、諸国の大名たちもあらかた金蔵が空になり財政難に陥ったが、見方を変えるなら「江戸御用達」による全国の商工人や農林業の従事者、人足たちの多くが潤い、「史上空前の巨城」(世界最大の城郭建築)の周囲には、すでに都市と呼べるほどの、ありとあらゆる業種や職種の人々が参集し、(城)下町が形成されることになった。北関東で食いっぱぐれたわたしの遠い祖先も、日本橋が埋め立てられてしばらくすると、おそらく刀を棄てて仕事を探しに、江戸へとやってきては糊口をしのいでいたのだろう。
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千代田城1952岩波書店.jpg 田村栄太郎「千代田城とその周辺」1965雄山閣.jpg
藤口透吾「江戸火消年代記」1962創思社.jpg 大江戸八百八町2003江戸東京博物館.jpg
 大江戸(おえど)の巨大都市は「大江戸八百八町」と表現されるが、町の数は808町どころではなかった。「八百八」は無数という概念で、鎌倉の「百八やぐら」や戸塚から落合、大久保にかけての「百八塚」昌蓮伝承と同様のレトリックだ。江戸中期の享保年間には、すでに1,678町に達しており、幕末の町数はゆうに2,000町を超えていたといわれている。(ただし朱引墨引内にあった「村」単位の集落は含まれず、村々まで含めれば名主のいる自治体は膨大な数になるだろう) 人口も増えつづけ幕末には150万人近くと、いつの間にか世界最大の都市へと成長していた。

◆写真上:自然地形を利用したといわれる、西ノ丸に残る江戸城の道灌濠。
◆写真中上は、戦後撮影の汐見坂で、坂上に太田道灌の江戸城の櫓があったといわれる。中上は、汐見坂下にある古い白鳥濠。中下は、慶長年間に作成された「江戸始図」を岩波編集部が作図したもので、道灌由来の江戸城を中心に初期普請の様子がわかる。は、幕末の本丸(跡)。豪壮な本丸建築は焼失しており、見えている三重櫓は富士見櫓。
◆写真中下は、伏見櫓と書院門つづきに架かる手前が前橋でうしろが後橋。当時から二重橋と呼ばれていた。中上は、幕末の鍛冶橋門で現在の八重洲口あたり。中下は、浅草門(浅草見附)で門をくぐると北へ向かう道筋がつづき柳橋から蔵前、駒形をへて浅草へと抜けることができた。は、1942年(昭和17)に制作された竹内栖鳳『千代田城』。
◆写真下は、現在の宮内庁側から写した幕末の富士見櫓と坂下一ノ門(高麗門)。中上は、神田上水の水道橋が架かっているのが見える御茶ノ水あたり。現在は、左手の土手中腹が崩され中央線が走っている。中下は、1952年(昭和27)に出版された高柳光壽・監修『千代田城』(岩波書店/)と、1965年(昭和40)に出版された田村栄太郎『千代田城とその周辺』(雄山閣/)。は、江戸の火災と千代田城について解説した1962年(昭和37)出版の藤口透吾『江戸火消年代記』(創思社/)と、2003年(平成15)に出版された『大江戸八百八町』(江戸東京博物館/)。
おまけ
 北桔橋門から入った天守台の西北角の一部で、大人の身長と比べるとその大きさがわかる。イラストは、寛永年間を想定した日本最大の千代田城天守(3代目)の復元図。高さが約61mあり、遠い先祖が見た天守閣はこのデザインだったろう。下は、朝霞にかすむ富士見三重櫓を本丸側から。
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