
1939年(昭和14)に発行された児童作品集『おとめ岡』第4号は、前年度の第3号の卒業式での配布とは異なり第2号と同様に、「新年拝賀式」の登校日である1月1日元旦に落合第四尋常小学校の生徒たちへ配られている。このころから、さまざまな産業物資で流通統制がいわれはじめたのか、第3号より10ページも少ない32ページに縮小している。
この年、加藤義之助校長が寄せている序文は「聖戦の新春」と題され、日中間の侵略戦争を「聖戦」と位置づける、いわば訓示のような内容となっている。短い文章の中で、日本は「一度だに外敵に侵されず」と書いているが、裏返せば中国が日本を含む「外敵に侵されている」ことを、自ら暗に認めてしまっている単純なロジックに気づいていない。盛んに「無敵皇軍」と勇ましく書いているが、同年の夏にはノモンハンの中ソ国境で日ソ両軍が全面衝突し、日本側はほぼ1個師団に相当する兵員を失う深刻なダメージを受けている。
生徒たちの成長にあわせ、「伸び行く日本の姿」を強調しているが、軍国少年少女の「少国民」たちがその後、実際に目にしたのは街々を破壊され焦土と化し連合軍に無条件降伏する、「滅びゆく大日本帝国の姿」だった。当時の小学校(国民学校)へ通った方たちによる数多くの証言が残されているが、1945年(昭和20)の敗戦を境に多くの教師たちは、いつの間にか「民主主義者」へと豹変してしまい、生徒たちへ教科書の墨塗りを指示し、軍国主義など「なかったこと」にする彼らの姿を見て、子どもたちは教師たちに根本的な不信感や幻滅を抱いている。
これは、大人の世界でも同様で、東久邇稔彦の「一億総懺悔(ざんげ)」は戦争遂行者たちにとってはまことに都合のよい免罪符的なコトバだ。あたかも、日本の全国民が軍国主義に賛同していたかのような言質だが、多くの新聞や雑誌のマスコミもまた、敗戦を境にまるで以前から「民主主義」を標榜していたかのように、一夜にして臆面もなく“衣替え”し、戦争を扇動していたのがウソのような紙(誌)面づくりをしはじめた。「一億総懺悔」は、これら戦争遂行を叫び担っていた人間(主体)には、まことに便利で都合のよい免罪符として使われつづけた。
反戦や厭戦を唱え、特高警察による過酷な取り調べから検察に拘束・起訴された国民は、「特高月報」の掲載人数だけで7万人をゆうに超えているが、「代用監獄」的に警察で長期留置された員数は含まれていない。ましてや、うちの親父のように密告され交番に拘引されて恫喝・暴力だけで帰された国民は、いったい起訴人数の何倍・何十倍になるのかは不明だ。そのうち、特高の拷問による虐殺や獄中死は1,500名をゆうに超えている。これは、特高警察のみのアバウトな数字であり、憲兵隊による虐殺や拘留・起訴事案を加えれば、戦争に反対あるいは政府に異議を唱えた国民は、数十万人ではきかない単位になるだろう。さらに、下落合にいた中村忠二の連れ合いの伴敏子のように、周囲へ「負ける」「戦争反対」と公言しながら運よく密告されずに捕まらなかった人々、また戦前の言動から特高資料に登場するが逮捕はされず執拗にマークや嫌がらせの自宅訪問をされていた人たち、警察の『思想旬報』などに掲載された街中の落書きや「流言」などを加えれば、全国であと何万人増えるのか不明だ。これらの人々は「非国民」であり、日本国民には「いなかったこと」にされた「一億総懺悔」という欺瞞に満ちたコトバは、まさに全体主義思想のそのまま裏返しによる、ご都合主義者の卑怯な責任のがれの言質にほかならない。
さて、『おとめ岡』第4号に掲載された図画には、いわゆる“戦争”をモチーフにした画面は少なく、なぜか風景画が多い。また、作文も68編が掲載されているが、「防空演習」や「兵隊さん」「漢口攻略」といった戦争がテーマの作品はわずか8編(約12%)にすぎず、第3号の83作品が掲載された中で25編(約30%)が戦争に関する作文だったのに比べると、かなり少なめになっている。これが偶然の選択なのか、あるいは意図的な作品選びなのかは不明だ。



まず、6年1組の蒔田英介という生徒が描いた『坂道』①から観ていこう。かなり急な坂道を写生した画面とみられ、坂下の樹木の頂(いただき)が眼下に見えている。下落合東部の崖線に通う、描かれた風景のような道幅で比較的まっすぐに坂下へとつづく坂道は、落合第四尋常小学校と相馬孟胤邸の御留山とにはさまれた、相馬坂以外には考えにくい。生徒は、落四小学校の校門近くから南を向いて写生しており、当時は十三間通り(新山手通り)が存在しないため、相馬坂つづきの道は西武線の線路ぎわまでつづいていた。
『おとめ岡』第4号でも、乗合自動車(バス)のモチーフは生徒に人気だった。3年3組の下浦慶子という生徒が描いた『バス』②は、手前にバス停を入れ目白通りを走る東環乗合自動車を描いたのだろう。バスにはたくさんの乗客がおり、背後には目白通り沿いのビルや商店が軒を連ねている。看板が描かれ、店名の文字も入れられているが、画面が小さくぼやけて読めない。特に中央左側の店舗は、ショウケースに蝋細工の料理見本が並んだ食べもの屋(洋食屋?)だろう。左端の店舗は「花」という文字が判読できるので、切り花や鉢植えを並べた花屋だ。
つづいて、1年3組の武田好子という生徒が描いた『バス』③だ。手前の歩道ぎわにあるバス停には、おかっぱ頭の女生徒がふたり立ち、バスにはおそらく友だちなのだろう、ふたりの子どもが車窓から顔をのぞかせている。バスがずいぶんタテ長の寸詰まりに描かれているが、前のドア付近には東環乗合自動車を運転するドライバーと、ドアにはバスガールが立っているのがわかる。友だちが乗るバスを、目白通りで見送っている情景なのだろう。背景には、向こう側の歩道や商店街が描かれているが、さすがになんの店かまではわからない。
4年3組の村井昭子という生徒が描いたのも乗合自動車だが、こちらは地元の下落合でも目白駅付近の情景でもなく、どこかの市街地を走る東京市営乗合自動車を描いた『市バス』④だ。おめかしした母親や女子たちが何人か描かれているので、休日にどこかへ遊びに出かけた様子を描いたものだろうか。ひょっとすると、子ども向けの舞台かクラシックコンサートにでも出かけた、帰り道の様子を写したものだろうか。描かれている子どもたち全員が、おしゃれをしている女の子なので、どこかのホールでピアノ教室の発表会でもあったのかもしれない。
『おとめ岡』第4号でも、乗合自動車(バス)のモチーフは生徒に人気だった。3年3組の下浦慶子という生徒が描いた『バス』②は、手前にバス停を入れ目白通りを走る東環乗合自動車を描いたのだろう。バスにはたくさんの乗客がおり、背後には目白通り沿いのビルや商店が軒を連ねている。看板が描かれ、店名の文字も入れられているが、画面が小さくぼやけて読めない。特に中央左側の店舗は、ショウケースに蝋細工の料理見本が並んだ食べもの屋(洋食屋?)だろう。左端の店舗は「花」という文字が判読できるので、切り花や鉢植えを並べた花屋だ。
つづいて、1年3組の武田好子という生徒が描いた『バス』③だ。手前の歩道ぎわにあるバス停には、おかっぱ頭の女生徒がふたり立ち、バスにはおそらく友だちなのだろう、ふたりの子どもが車窓から顔をのぞかせている。バスがずいぶんタテ長の寸詰まりに描かれているが、前のドア付近には東環乗合自動車を運転するドライバーと、ドアにはバスガールが立っているのがわかる。友だちが乗るバスを、目白通りで見送っている情景なのだろう。背景には、向こう側の歩道や商店街が描かれているが、さすがになんの店かまではわからない。
4年3組の村井昭子という生徒が描いたのも乗合自動車だが、こちらは地元の下落合でも目白駅付近の情景でもなく、どこかの市街地を走る東京市営乗合自動車を描いた『市バス』④だ。おめかしした母親や女子たちが何人か描かれているので、休日にどこかへ遊びに出かけた様子を描いたものだろうか。ひょっとすると、子ども向けの舞台かクラシックコンサートにでも出かけた、帰り道の様子を写したものだろうか。描かれている子どもたち全員が、おしゃれをしている女の子なので、どこかのホールでピアノ教室の発表会でもあったのかもしれない。



相変わらず、自宅周辺とみられる風景作品も多い。4年2組の吉野治子という生徒は、門前から大きな西洋館のある『風景』⑤を描いている。表札が描かれていないようだが、自邸なのか、それとも近所の気に入ったデザインの西洋館を写生したのかは不明だ。鉄製とみられる格子状の大きな門が描かれ、それがピタリと閉じているようなので、自宅ではなく近所の気に入った屋敷をモチーフに選んだのかもしれない。
つづいて、2年2組の藤田穣治という生徒が描いた『風景』⑥だ。2階建ての住宅が描かれ、開け放たれた窓には人物と電灯が見えている。空には、ハトかカラスが飛んでおり、板塀の前にはランドセルを背負った少年が描かれている。あえて、室内の電灯が描かれているところをみると、点灯する時刻の夕方だろうか。すると、空を飛んでいる鳥はカラスであり、手前の少年は友だちのいるこの家へ遊びに寄った帰り道ということになりそうだ。窓からのぞいているのは、いま別れたばかりの友だちなのかもしれない。
次の、4年1組の杉崎知明という生徒が描いた『風景』⑦には、そのような物語性は付与されていない。下見板張りの外壁に赤い屋根の、大正期に数多く建てられた典型的な文化住宅(洋館)とみられる家を描いている。外壁には、腐食防止のため焦げ茶色のクレオソートが塗られており、屋根は瓦葺きではなく軽量のトタンかスレートだったろう。おそらく関東大震災後の建築であり、木立が繁る庭はかなり広そうだ。佐伯祐三の「下落合風景」シリーズに登場しそうな住宅だが、つい先ごろの21世紀まで下落合にはこのような住宅が残っていた。
さて、最後に1年1組の山本一江という生徒が描いた、『提灯行列』⑧について触れておこう。下落合では、地元の町会などが主催する提灯行列が頻繁に行なわれているが、日中戦争に関連したものだけでなく、下落合1丁目436番地に近衛文麿邸があったことから、首相に就任する際などにも町内で提灯行列が行なわれていた。この生徒が描いた提灯行列は、前年の秋に報道された中国武漢市の「漢口陥落」時に催されたものだろう。こういう“お祭り騒ぎ”や記念行事を利用して、少年少女たちへ軍国主義思想を植えつけていったのは、その昔のナチスによる少年・少女同盟や旧・ソ連のピオネール、今日の北朝鮮における朝鮮少年団と近似している。
つづいて、2年2組の藤田穣治という生徒が描いた『風景』⑥だ。2階建ての住宅が描かれ、開け放たれた窓には人物と電灯が見えている。空には、ハトかカラスが飛んでおり、板塀の前にはランドセルを背負った少年が描かれている。あえて、室内の電灯が描かれているところをみると、点灯する時刻の夕方だろうか。すると、空を飛んでいる鳥はカラスであり、手前の少年は友だちのいるこの家へ遊びに寄った帰り道ということになりそうだ。窓からのぞいているのは、いま別れたばかりの友だちなのかもしれない。
次の、4年1組の杉崎知明という生徒が描いた『風景』⑦には、そのような物語性は付与されていない。下見板張りの外壁に赤い屋根の、大正期に数多く建てられた典型的な文化住宅(洋館)とみられる家を描いている。外壁には、腐食防止のため焦げ茶色のクレオソートが塗られており、屋根は瓦葺きではなく軽量のトタンかスレートだったろう。おそらく関東大震災後の建築であり、木立が繁る庭はかなり広そうだ。佐伯祐三の「下落合風景」シリーズに登場しそうな住宅だが、つい先ごろの21世紀まで下落合にはこのような住宅が残っていた。
さて、最後に1年1組の山本一江という生徒が描いた、『提灯行列』⑧について触れておこう。下落合では、地元の町会などが主催する提灯行列が頻繁に行なわれているが、日中戦争に関連したものだけでなく、下落合1丁目436番地に近衛文麿邸があったことから、首相に就任する際などにも町内で提灯行列が行なわれていた。この生徒が描いた提灯行列は、前年の秋に報道された中国武漢市の「漢口陥落」時に催されたものだろう。こういう“お祭り騒ぎ”や記念行事を利用して、少年少女たちへ軍国主義思想を植えつけていったのは、その昔のナチスによる少年・少女同盟や旧・ソ連のピオネール、今日の北朝鮮における朝鮮少年団と近似している。



『おとめ岡』第4号が発行された年度には、大きな地震があった。1938年(昭和13)5月1日に男鹿半島を震源とするマグニチュード6.7(震度5)の「男鹿地震」が、同日の午後3時ごろ二度にわたり起きている。この“双子地震”で東日本全体が揺れたが、その余震とみられる地震もその後しばらくつづいている。作文には、5年2組の松平貞子という生徒が書いた『地震』という作文が掲載されており、「家が始め上にゆれそれから横にゆれ動き出しました」と、地震の恐怖をつづっている。
◆写真上:落四小の前を下る相馬坂を描いたとみられる、6年1組の蒔田英介『風景』①。
◆写真中上:上は、生徒たちが大好きなモチーフの東環乗合自動車を描いた3年3組の下浦慶子『バス』②。中は、同じく目白通りを走る乗合自動車を描いた1年3組の武田好子『バス』③。下は、市街地の東京市営バスを描いた4年3組の村井昭子『バス』④。
◆写真中下:上は、下落合の住宅街に建つ西洋館を描いた4年2組の吉野治子『風景』⑤。中は、画面から子どもたちの物語を感じる2年2組の藤田穣治『風景』⑥。下は、大正末に建てられた洋館(文化住宅)をモチーフにしているとみられる4年1組の杉崎知明『風景』⑦。
◆写真下:上は、下落合で催された戦勝祝賀会の行列を描いた1年1組の山本一江『提灯行列』⑧。中は、1939年(昭和14)1月1日に発行された落合第四尋常小学校の児童作品集『おとめ岡』第4号の表紙(左)と奥付(右)。下は、落合第四小学校前を下る相馬坂の現状。
◆写真中上:上は、生徒たちが大好きなモチーフの東環乗合自動車を描いた3年3組の下浦慶子『バス』②。中は、同じく目白通りを走る乗合自動車を描いた1年3組の武田好子『バス』③。下は、市街地の東京市営バスを描いた4年3組の村井昭子『バス』④。
◆写真中下:上は、下落合の住宅街に建つ西洋館を描いた4年2組の吉野治子『風景』⑤。中は、画面から子どもたちの物語を感じる2年2組の藤田穣治『風景』⑥。下は、大正末に建てられた洋館(文化住宅)をモチーフにしているとみられる4年1組の杉崎知明『風景』⑦。
◆写真下:上は、下落合で催された戦勝祝賀会の行列を描いた1年1組の山本一江『提灯行列』⑧。中は、1939年(昭和14)1月1日に発行された落合第四尋常小学校の児童作品集『おとめ岡』第4号の表紙(左)と奥付(右)。下は、落合第四小学校前を下る相馬坂の現状。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
わたしも、(レーズン)クリームサンドには目がありません。
pinkich
落合道人
練馬は、地元ではどうまちがっても「下町」とはいわないですね。w これは、
中出三也がつけたタイトルではないのかもしれませんが。
この画面で面白いのは、高圧線をわたす柱塔が、いまだ鉄塔化されておらず、
明治から大正初期、関東大震災の前に見られた木製の「円」のようなかたちを
している点でしょうか。大正末ごろから、急速に鉄塔に切り替わりますが、
練馬では震災の影響があまりなかったせいで、かなりあとまで木製の高圧線塔
が残っていたのかもしれませんね。下落合では、鈴木良三が木製の高圧線塔を
入れた風景画を、1922年(大正11)に描いています。
https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-26.html?1745024572