このところ、東京にアンコウ(鮟鱇)鍋屋が増えてるのだという。子どものころ、アンコウの専門店といったら、万世橋の近く神田須田町の「いせ源」ぐらいしかなかったと思うのだが、戦前の東京では冬になるとあちこちでアンコウ屋が店開きをしていたらしい。
尾崎行雄(咢堂)は、娘の清香がアンコウ鍋をつくる日にちを伝えると、わざわざ軽井沢の自宅から下落合の佐々木久二邸までやってきては賞味している。それほど、厳寒にフーフーしながらアンコウ鍋をつっつくのは、江戸東京における冬の風物詩だった。わたしは真冬の出勤途中、道筋にあたる魚屋でアンコウが店先に吊るされていたのを見たことがある。いまでも、真冬に一度はアンコウ鍋というお宅も多いのだろう。魚屋ではなく、スーパーの鮮魚売り場にアンコウの切り身がズラリと並ぶのも、季節を感じさせてくれてうれしい眺めだ。
アンコウは鍋にするのもいいが、から揚げにしても美味しい。その外見からは想像もできない、風味がよくふんわりとした上品な白身の味わいがやみつきになる。また、新鮮な“あん肝”はフォアグラを凌駕する美味しさだとよくいわれるが、アヒルやガチョウへ無理やり大量のエサを与え、脂肪肝で肥大化して病変した肝臓と、天然の“あん肝”を比べてはアンコウに失礼だろう。また、鍋のあとに白いご飯を追加して、アンコウおじや(雑炊)にして食べるのも昔からの楽しみだ。子どものころから、わが家では冬に3~4回はアンコウ鍋を食べていたけれど、いまも身をちぢめるような寒さになるとアンコウ鍋が恋しくなる。
皮に近いプリプリした身の部位には、フカヒレやスッポンなどと同様にコラーゲンや豊富なビタミン類、DHA・EPAがたくさん含まれているので、グロテスクな外見とは裏腹に、昔からこの街では好まれる食材だった。いまでも、女性たちにかなりの人気があるのは、美容の維持や老化防止に高い効果が得られるからだろう。この地方では、茨城から北の東北地方の太平洋沿岸で獲れるアンコウが、風味がよくサイズも大きくて最上とされている。もちろん、大江戸の街中でもアンコウ鍋は食べられており、当時は五大珍味のひとつとされていた。
戦後しばらくは、アンコウ鍋を食べさせる店が神田の「いせ源」だけになってしまったらしいが、そのころに同店を取材したエッセイが残っている。1953年(昭和28)1月から半年間、読売新聞に連載がつづいたエッセイ「味なもの」だが、いせ源を取材しているのは小説家の山岡荘八だ。同シリーズの、『神田に懐しアンコウ鍋』から引用してみよう。
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寒中の鍋はわれわれの少年時代、家庭でもよく用いられた。ところが最近になるとその専門店は東京中に須田町の「いせ源」ただ一軒になったという。/神田で育った私にはいせ源はなつかしい。万世橋の駅前、以前の連雀町にあって、広瀬中佐の銅像と、いせ源の店にかかったあんこうはよく私の足をとめさせた。/しかも当主はわが親友の木村荘十氏と幼友達だという。訪問する日は珍しく朝から雪が降って、まさにおあつらえ向きの「あんこう日和」、店先についてみるとウィンドーになつかしい大人(たいじん)が、陰嚢然として下っていた。(カッコ内引用者註)
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わたしは残念ながら、いせ源でアンコウ鍋を食べたことがない。アンコウ鍋は、近所の魚屋さんから新鮮な切り身を買い、家庭で好きな鍋やから揚げに調理して味わうものとして育ったので、わざわざアンコウ鍋を食べに出るという発想がなかった。子どものころの記憶にも、親に連れられ専門店でアンコウ鍋を食べたという場面も味も思いあたらない。親の世代からして、アンコウ鍋は家庭で好きな料理で食うものという習慣になっていたのだろう。
裏返せば、だからそこ戦後すぐのころ(城)下町のアンコウ鍋屋が、いせ源のみの1軒まで減少してしまったのかもしれない。冷蔵技術や流通経路の発達で、新鮮なアンコウの切り身が近所のスーパーや魚屋で、容易に手に入るようになった影響も大きいのだろうか。でも、一度はプロが味つけした割下で、この街ならではのアンコウ鍋を賞味してみたい。家庭料理とばかり思っていたアンコウ鍋だが、また家の味とはちがった発見があるのだろう。



いせ源も、江戸後期(天保年間)から営業している老舗の料理屋だが、店舗の建築も関東大震災から7年後の1930年(昭和5)に建て直されたもので、東京都の歴史的建造物に指定されている。当時の店主の趣味だったのか、正面の見世がまえはガラス戸を障子戸に変えれば、まるで江戸期の料亭のような風情で、上階の座敷も昔の料理屋そのままなのがとてもいい。
店の上がり口(帳場)の様子は、木村荘八が思いだしながら描いた明治の『牛肉店帳場』によく似ているのも面白い。ただ、通される座敷によっては手すり越しに見える風景が、ビルの側壁になりそうなのは残念だが、いまでは昔からあるどこの料理屋でも、たいていそうなのだからしょうがない。山岡荘八のエッセイを、つづけて引用してみよう。
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話しているうちに鍋は煮えた。先ず心臓の一片から口に入れる。トロリとした味はバタを連想させ、皮はさしずめ雷秘臓(脾臓)の臍(ほぞ)とでも言おうか。何しろ食べられないところは大骨だけという大人(たいじん)である。雪白の柳肉は河豚に似ている。/むべなるかな、中川一政、木村荘八等々画壇のお歴々から金馬、三木助、小さんの辱知(じょくち)諸氏、それに亡くなった斎藤茂吉大人なども、よく食べに来られたという。家中にはそれらの人々の書画が多く、当主の子息は大学を出て勤めてみたが最後にいったところが税務署だったよしで、「いや、もうこりごりです。のれんを継ぎます」と真顔でいう。律義で鳴りひびいた当主に後あり、調理の秘訣はと問うと、それは割下にあるらしい。(カッコ内引用者註)
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中川一政らの画家や柳家小さんなど噺家たちが贔屓の店だったようで、奇跡的に戦災で焼けてないところをみると、現在でもそれらの書画を目にすることができるのだろう。



冒頭で書いたように、東京ではアンコウ鍋屋が増えているそうだ。女性人気もあるのだろうが、家庭の代表的な鍋料理のひとつだったアンコウ鍋も、“おひとり様”では作りにくいせいだろうか。それとも、以前からの江戸東京ブームに乗り、どこかでアンコウ鍋特集でもされたのだろうか。上記のいせ源も、お客が以前より増えて繁昌しているのかもしれない。余談だが、いせ源ではアンコウを素材にした「鮟まん」も売っているというが、一度味わってみたいものだ。
同じ神田の老舗だった、いつかの水菓子屋(フルーツ店)の「万惣」のように、いせ源も「耐震建築未満」などと規定され、地元のアイデンティティを持たない(持てない)、わけのわからない役人に通達の紙きれ1枚でつぶされないことを祈るばかりだ。こういう江戸東京ならではの老舗料理屋が、1軒でも多く後世まで残っていってほしいと切に願う。以前の繰り返しになるが、古い店が古い建物なのはあたりまえではないか。
『味なもの』に付随し『「味なものの読者」として』を書いた、“味音痴”を自称するノンフィクション作家で評論家の大宅壮一も、まったく同様のことを心配している。少しだけ引用してみよう。
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この世界も、戦時中から戦後にかけて、統制や原料の入手難や戦災などで、一時は完全に荒廃に帰してしまった。江戸時代から知られていた名家や名物もほとんど姿を消してしまった。古い建造物は国宝として、珍しい老樹古木の類は天然記念物として特別に保護されているが、食べもの界の名所旧跡は激しい競争のままに委ねられている。中には戦災の打撃が大きすぎたり、よい後継者がいなかったりして、すでに跡形もなくなっているものも少くない。建物や天然記念物は実物が滅びても模型などで残すという手もあるが“味”のような感覚の世界はそれもむずかしい。
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何百年も前からつづく“味”を、ひとつでも多く地元の味として代々受け継いでほしいものだ。


子どものころ、練炭の失火で焼ける前の方広寺を訪ねた際、親父が白くマーキングされた梵鐘の一画を指さして、大坂(阪)の豊臣家が滅亡するきっかけとなった「くんしんほうらく・こっかあんこう(君臣豊楽・国家安康)」の文字について解説してくれた。わたしは「あんこう」という語音を聞いたとたんに、もちろん冬場の美味しい「鮟鱇」をすぐに思い浮かべたのだが、ことほどさように昔から食い意地が張っていたわけだ。方広寺を訪ねた日が、春先にしてはたまたま真冬のような寒さだったせいもあるのかもしれない。いまでもアンコウと聞くと、方広寺の焼けてしまった半眼の巨大な大仏の顔を思い出すのは、子ども心に植えつけられた意地きたないオーバーラップのイメージなのだろう。揚げもの好きな徳川家康も、アンコウの天ぷらを食べたのだろうか?
◆写真上:新鮮なアン肝は、フランス料理のフォアグラなどよりもはるかに美味だ。
◆写真中上:上は、昔から江戸東京の冬の風物詩だったアンコウ鍋。中は、冬になると魚屋の店先で吊るし切りされるアンコウ。下は、山岡荘八による「いせ源」の挿画。
◆写真中下:上は、神田いせ源の店前。中は、同店の上がり口(帳場)。下は、明治期に両国橋西詰めの第八いろは牛肉店の記憶をもとに描いた木村荘八『牛肉店帳場』(1932年)。
◆写真下:上は、方広寺の梵鐘に刻まれた「君臣豊楽」「国家安康」の文字。下は、「アンコウ」と聞くと条件反射で思いだす、1973年(昭和48)に練炭による失火で本堂とともに焼失した方広寺の大仏。東大寺の大仏頭部より巨大だったが、京の大仏は鎌倉の大仏とは異なり“美男におわさない”顔をしていた。小学生のとき、この大仏をカラーで撮影し夏休みかなにかの宿題にした憶えがある。
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話しているうちに鍋は煮えた。先ず心臓の一片から口に入れる。トロリとした味はバタを連想させ、皮はさしずめ雷秘臓(脾臓)の臍(ほぞ)とでも言おうか。何しろ食べられないところは大骨だけという大人(たいじん)である。雪白の柳肉は河豚に似ている。/むべなるかな、中川一政、木村荘八等々画壇のお歴々から金馬、三木助、小さんの辱知(じょくち)諸氏、それに亡くなった斎藤茂吉大人なども、よく食べに来られたという。家中にはそれらの人々の書画が多く、当主の子息は大学を出て勤めてみたが最後にいったところが税務署だったよしで、「いや、もうこりごりです。のれんを継ぎます」と真顔でいう。律義で鳴りひびいた当主に後あり、調理の秘訣はと問うと、それは割下にあるらしい。(カッコ内引用者註)
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中川一政らの画家や柳家小さんなど噺家たちが贔屓の店だったようで、奇跡的に戦災で焼けてないところをみると、現在でもそれらの書画を目にすることができるのだろう。



冒頭で書いたように、東京ではアンコウ鍋屋が増えているそうだ。女性人気もあるのだろうが、家庭の代表的な鍋料理のひとつだったアンコウ鍋も、“おひとり様”では作りにくいせいだろうか。それとも、以前からの江戸東京ブームに乗り、どこかでアンコウ鍋特集でもされたのだろうか。上記のいせ源も、お客が以前より増えて繁昌しているのかもしれない。余談だが、いせ源ではアンコウを素材にした「鮟まん」も売っているというが、一度味わってみたいものだ。
同じ神田の老舗だった、いつかの水菓子屋(フルーツ店)の「万惣」のように、いせ源も「耐震建築未満」などと規定され、地元のアイデンティティを持たない(持てない)、わけのわからない役人に通達の紙きれ1枚でつぶされないことを祈るばかりだ。こういう江戸東京ならではの老舗料理屋が、1軒でも多く後世まで残っていってほしいと切に願う。以前の繰り返しになるが、古い店が古い建物なのはあたりまえではないか。
『味なもの』に付随し『「味なものの読者」として』を書いた、“味音痴”を自称するノンフィクション作家で評論家の大宅壮一も、まったく同様のことを心配している。少しだけ引用してみよう。
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この世界も、戦時中から戦後にかけて、統制や原料の入手難や戦災などで、一時は完全に荒廃に帰してしまった。江戸時代から知られていた名家や名物もほとんど姿を消してしまった。古い建造物は国宝として、珍しい老樹古木の類は天然記念物として特別に保護されているが、食べもの界の名所旧跡は激しい競争のままに委ねられている。中には戦災の打撃が大きすぎたり、よい後継者がいなかったりして、すでに跡形もなくなっているものも少くない。建物や天然記念物は実物が滅びても模型などで残すという手もあるが“味”のような感覚の世界はそれもむずかしい。
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何百年も前からつづく“味”を、ひとつでも多く地元の味として代々受け継いでほしいものだ。


子どものころ、練炭の失火で焼ける前の方広寺を訪ねた際、親父が白くマーキングされた梵鐘の一画を指さして、大坂(阪)の豊臣家が滅亡するきっかけとなった「くんしんほうらく・こっかあんこう(君臣豊楽・国家安康)」の文字について解説してくれた。わたしは「あんこう」という語音を聞いたとたんに、もちろん冬場の美味しい「鮟鱇」をすぐに思い浮かべたのだが、ことほどさように昔から食い意地が張っていたわけだ。方広寺を訪ねた日が、春先にしてはたまたま真冬のような寒さだったせいもあるのかもしれない。いまでもアンコウと聞くと、方広寺の焼けてしまった半眼の巨大な大仏の顔を思い出すのは、子ども心に植えつけられた意地きたないオーバーラップのイメージなのだろう。揚げもの好きな徳川家康も、アンコウの天ぷらを食べたのだろうか?
◆写真上:新鮮なアン肝は、フランス料理のフォアグラなどよりもはるかに美味だ。
◆写真中上:上は、昔から江戸東京の冬の風物詩だったアンコウ鍋。中は、冬になると魚屋の店先で吊るし切りされるアンコウ。下は、山岡荘八による「いせ源」の挿画。
◆写真中下:上は、神田いせ源の店前。中は、同店の上がり口(帳場)。下は、明治期に両国橋西詰めの第八いろは牛肉店の記憶をもとに描いた木村荘八『牛肉店帳場』(1932年)。
◆写真下:上は、方広寺の梵鐘に刻まれた「君臣豊楽」「国家安康」の文字。下は、「アンコウ」と聞くと条件反射で思いだす、1973年(昭和48)に練炭による失火で本堂とともに焼失した方広寺の大仏。東大寺の大仏頭部より巨大だったが、京の大仏は鎌倉の大仏とは異なり“美男におわさない”顔をしていた。小学生のとき、この大仏をカラーで撮影し夏休みかなにかの宿題にした憶えがある。
この記事へのコメント
ふるたによしひさ
落合道人
人が死んだ場所を「事故物件」と呼ぶなら、近代でも関東大震災や
大空襲を考えれば、東京は都市丸ごと「事故物件」になってしまい
ますね。