女ひとりでブラリと料理屋へ入れる時代に。

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 1953年(昭和28)1月から半年間にわたり、読売新聞に連載されたコラム「味なもの」について、少し前に佐伯米子『言問団子』を紹介していた。このコラムシリーズが面白いのは、文章ばかりでなく挿画も執筆者が自ら描いている点だろう。執筆している画家たちはお手のもんだったろうが、作家や役者・俳優、音楽家、スポーツ選手、大学教授、評論家、舞踊家、政治家たちが、慣れない絵筆やペンを手に描いているのが面白い。
 どうしてもイヤだと挿画を断ったのは、播磨屋の初代・中村吉右衛門で、かわりに8代目・松本幸四郎(のち白鸚)が絵を引きうけている。また、音羽屋の7代目・尾上梅幸も絵がダメで尾上琴糸に頼んでいる。もうひとり、9代目・市川海老蔵(のち11代目・市川団十郎)も絵が苦手で佐伯米子に挿画を依頼している。コラム「味なもの」の連載で、挿画を断っているのはこの3人だけだ。あとの執筆者たちは、みなそれなりに絵筆やペンをなんとか使いこなしては描いている。そして、面白いのは、意外な人たちの絵に味わいがあってうまいことだ。
 たとえば、コラム「味なもの」の初回を引きうけた女優の三宅邦子は、おそらく趣味で洋画を描いていたのではないだろうか。1980年代の食べ歩き雑誌にでも登場しそうな、シャレたイラストを描いて、神田神保町の洋菓子喫茶「柏水堂」を紹介している。おそらく原画は、水彩で描いたカラーだったのではないか。また、同じく女優の丹下キヨ子は、三宅邦子とは正反対の面白いマンガで、銀座の喫茶店「きゅうべる」と向島の精進料理「雲水」について書いている。すでにどの店も閉店してしまったが、文章を読んでいるとつい出かけたくなってしまう。
 連載エッセイの「味なもの」は、戦前の同種の連載とは異なり女性の執筆者が多い。それだけ、薩長政府による「女は家に」という儒教思想の女修身(外国思想)を押しつけられることなく、戦後は自由に外を出歩けるようになったからだろう。多くが東京生まれの女性たちだが、出身町によってかなり気風(きっぷ)や気質(かたぎ)の異なるのがよくわかって面白い。「江戸っ子」(東京地方以外からの呼称)などという茫洋としたわけのわからない呼称ではなく、当時は「神田っ子」「銀座っ子」「日本橋っ子」「深川っ子」……というように、街中では町名+「っ子」が活きていた時代だ。江戸東京は、他の街に比べて相対的に広いので、(城)下町の生活言語はもちろん氏神や文化、習慣、風俗、料理、食べ物までが地域ごとにそれぞれ少しずつ異なっている。
 余談だけれど、(城)下町で生まれ育った女性の独特なイメージというのが、わたしの中にもなんとなく残っている。たとえば時代はバラバラだが、実際にその街の出身者である女性を例に挙げると、日本橋といえばビジネスでも家政でもヘゲモニーをとり、うまくまわせそうな「お上」の雰囲気が漂う十朱幸代が、銀座の女性というと装いはクールだが実はツンデレな岩下志麻が、神田というと“いなせ”でキリッとした雰囲気を漂わせた梶芽衣子が、本所というと懐が深く包容力のありそうな井川遥が、深川というときかん気が強く勇み肌だがおおらかな岩崎宏美が、浅草というと威勢がよく鉢巻きが似合いそうな天海祐希が、享保年間から拓けた飛鳥山を背負い(城)下町の雰囲気が漂う滝野川は倍賞千恵子が、もう少し北へ隅田川をたどると楽天家の小川眞由美がと、なんとなくその街ならではの気風(きっぷ)や気立てが漂う女性をイメージしてしまう。
 これは、昔から親父がいろいろな役者や俳優などで街の“分類”をしていたのを見て育っているので、自然、わたしの中でも形成された、出身町ごとの性格や風土を備える人物像(女性イメージ)なのだろう。以前ご紹介した尾張町(銀座)出身の佐伯米子だが、ふだんはツンと済ましてつれなく、気どった素振りを見せるけれど、一度気を許した相手には身をしなだれかけながら、ついデレデレと寄りかかって甘えるような性格をしていたのではないだろうか。でも、一度怒らせるとなかなか許してもらえそうもない、そんな自我の強いやや怖めな銀座女性のイメージがある。
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 さて、連作エッセイ「味なもの」にもどろう。浅草っ子で女優の丹下キヨ子は、文章も面白く、いまはなき「きゅうぺる」を紹介する、『銀座に童話調のコーヒー店』から少し引用してみよう。
  
 おいしいコーヒーを舌の上にころがしながらタバコに火をつけてふとカウンターの上を見てむせました。「お願い」が額に入っているのが目に止まりましたから。「①御婦人方の喫煙 ②ほかのお客様に話かけること ③無作法な振舞 ④放歌喧騒 ⑤長居、右自粛自戒成被様お願い申上げます 店主。(ママ:」)/喫煙、おしゃべり、長居の三つともおかしちゃってとチラッと先生のお顔をみたら、高くお笑いになって「これは私が書いたんじゃありません。井上正夫さんが書いたんですが、今ではこれも記念ではずせないんですよ」。
  
 「先生」と書いているのは、喫茶店「きゅうぺる」を経営していた児童作家の道明真治郎のことだ。同店には、どうやらコケシが飾られていたようなのだが、丹下キヨ子が描く挿画というかマンガは、そのコケシが困ったような顔をしているのが面白い。
 新派女優で、のちに歌舞伎の市川流舞踊家の3代目・市川翠扇となる市川紅梅(築地っ子)は、名の知られた洋食レストランや高級な料亭ではなく、ざっかけない茶漬けの店を紹介しているのがいい。新橋演舞場(銀座6丁目)に出演することが多かった彼女は、演舞場のごく近くにあった店が贔屓だったようだ。だから、舞台の楽屋で小腹が空いたときなど、舞台の合い間に駆けこむように茶漬けを食べていたようだ。魚介の茶漬けも出していたのだろう、「つきじくらぶ」という名前の店だったらしいが、市川紅梅『口のぜいたく直しお茶漬』から引用してみよう。
  
 新橋華街の真ん中。演舞場の楽屋口と隣り合せに、ちんまりと、ひっそりとこのお店の入口があります。名前は、恐ろしく散文的に“つきじくらぶ”。だけど、お店の中の方々のとりなしや、そのお味は、堅過ぎてもおらず、くだけすぎてもおらず、私どもが楽屋からかけこんで、軽いやすらいを感じさせてくれるほのぼのとした気分。/西洋風の食べ物にはサンドウィッチと言う気軽なものがあります。日本風のものには……ここのお店で食べさせてくれるお茶漬。
  
 なんだか、新派のセリフのようなリズムの文章だけれど、「つきじくらぶ」は銀座の再開発、あるいは区画整理のときに店をたたんでいるのだろう。東京には、昔から蕎麦屋や鮨屋と同じように、さっさと食べては仕事や遊びにもどれる茶漬けの専門店が各地域にあったが、いまではめずらしいファーストフードだろうか。このあたりだと、新宿や池袋には多いようだが、落合地域の近くでは東京メトロ東西線・高田馬場駅の駅中にある1店舗しか知らない。もうひとり、「味なもの」シリーズでは俳優の池部良が、新橋烏森にあった茶漬け屋を紹介している。
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 蕎麦屋生まれの高峰秀子は、なぜか蕎麦やうどんなどの麺類が大キライだったらしい。ニョロニョロしたのが、お腹へ入るのがどうにもガマンできず、大人になるまで満足に食べたことがなかったという。初めて蕎麦屋の暖簾をくぐったのは、羽田からパリに旅立つ直前で、なにか日本の味を記憶しておこうとしたらしい。以来、食わずギライだった蕎麦が大好物になり、東京じゅうの店を食べ歩くようになったようだ。以下、高峰秀子『パリで恋う日本の味』から引用してみよう。
  
 何しろまだ食べ始めてからの年季が浅いので、ヤプだかスナだか、何だかよくは判らないが、何といっても、割箸に上手い工合にひっかかってちょいと汁につけてツルツルッと口の中へタグリ込むあの味は、如何にも庶民の味方、下駄ばきの味、風呂帰りの味、そして淡々とした日本の味。更科は創業三百年とかいう事でありますが、私は根性曲りなので、殊に食べものに関しては説明不要の主義で、そういう曰くインネンはきかない事にしています。美味しい。
  
 登場している「更科」は、いまも麻布永坂町で健在だ。その麻布永坂町の「更科」で、先祖の墓参りの帰りに寄って食べていたのが、子ども時代の佐伯米子(池田米子)だ。彼女は銀座のお嬢さま育ちなので、蕎麦屋は出かけるものではなく家で出前をとって食べるものと、ずいぶんあとまで思いこんでいたらしい。また、年越し蕎麦は家内では欠かせない“行事”で、大晦日には家族や職人全員ぶんの蕎麦と天ぷら(専門店から)をとるならわしだった。
 そんな彼女がお薦めの蕎麦屋は、上野の広小路沿いに開店していた池之端の「蓮玉(庵)」だ。ここも江戸期からの店だが、革命家で親日家の郭沫若が、戦後に政治家になってから国賓として来日し、長年の蓮玉ファンだったことを告白しているが、この店のファンは都内だけでなく国内外にも多い。では、佐伯米子の『信州そばの石臼びき』から引用してみよう。
  
 「老舗といわれる家にはその古いのれんを支えている忠実な奉公人がいるものです。私の家にも五十年勤めた職人が居りましたが、なくなって今は十八年もいる女の子が一手でやってくれていますので大変助かります」/と自分を語らないところにも人柄が忍ばれる。(中略) 場所柄絵の関係の人が多いというが、なかなかにモリもいい、というと丈賀のセリフを思い出しますが、「モリもいいが味もいい」。
  
 「蓮玉」は当初、不忍池の端にあり店内から池が一望に見わたせたようだが、関東大震災で焼けてからは下谷(上野)広小路を1本入った仲町通りで営業している。芝居好きらしく、入谷鬼子母神が舞台の「天衣紛上野初花(くもにまごう うえののはつはな)」に登場する按摩の「丈賀」のセリフをまねているが、ここの蕎麦は腰があって確かに美味しい。
 1927年(昭和2)6月に、日本美術協会展示場(現・上野の森美術館)で開かれた1930年協会第2回展の6月18日(土)、出前に蕎麦を頼んだ前田寛治木下義謙木下孝則野口弥太郎小島善太郎らの5人はてっきり蓮玉庵かと思いきや、同店ではかつて一度も出前をやったことがないそうで、別の店だったことが判明している。5人が蕎麦を頼んだのは18日のみで、ほかには誰も頼んでいないところをみると、展示場に出入りしていたのは美味(うま)くない蕎麦屋だったのではないか。
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 ほかにオリエ津阪や戸川エマ、阿部艶子、美川きよ、初代・西崎緑など女性が多く、佐伯米子と同様に複数回の執筆もめずらしくない。機会があれば、彼女たちの文章を紹介したいが、戦後は、ようやく女性ひとりがブラリと料理屋に入っても、なんら咎められることも「不道徳」「非常識」(どこの国の思想規範だ?)などといわれることもなく、不自然に感じられない時代を迎えていた。

◆写真上:落合地域の周辺には、高田馬場に1店舗しか存在しない茶漬け屋。
◆写真中上:1953年(昭和28)に描かれた挿画で、三宅邦子の洋菓子喫茶『柏水堂』()、丹下キヨ子の喫茶店『きゅうぺる』()、市川紅梅の茶漬け屋『つきじくらぶ』()。
◆写真中下:同じく、高峰秀子の蕎麦屋『永坂更科』()、9代目・市川海老蔵の代行で描いた佐伯米子の鮨屋『二葉鮨』()、芝居好きらしい佐伯米子の蕎麦屋『蓮玉庵』()。
◆写真下は、蓮玉庵の店前と天せいろ蕎麦。は、1953年(昭和28)に読売新聞社会部・編で現代思潮社から出版された『味なもの』の表紙()と奥付()。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年03月30日 19:59
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    花々が美しいですね。こちらでも、ソメイヨシノやコブシの花が
    満開に近いです。
    2025年03月30日 20:09
  • Kiyo

    ご無沙汰しております。
    こちらでも、よろしくお願いします。
    2025年03月31日 21:11
  • 落合道人

    Kiyoさん、コメントをありがとうございます。
    おお、引っ越されたのですね。nice!が付けられなくなりましたが、
    こちらからブログは拝見していました。よろしくお願いいたします。
    2025年03月31日 22:08

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