下落合を描いた画家たち・日野耕之祐。

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 今回は、従来の「下落合風景」画面に比べ、ついこの間まで見られたかなり新しい風景作品だ。落合地域にお住まいの方なら、あるいは美術ファンの方なら、画面をご覧になった瞬間にどこを描いたかがおわかりだろう。1989年(平成元)に制作された、佐伯祐三のアトリエを描く日野耕之祐のスケッチ『佐伯公園』だ。(冒頭写真)
 わたしが初めて佐伯アトリエを見たのは、1974年(昭和49)の高校生のときだった。1972年(昭和47)に米子夫人が死去した2年後のことで、当時はいまだ公園化はおろか、アトリエにつづく母家や米子夫人の居間がそのまま残っているような状態で、当然、内部は公開されていなかったように思う。1980年(昭和55)に、NHKで放映された『襤褸と宝石』に登場するアトリエ内部の展示施設もなく、濃い屋敷林に囲まれた薄暗い、ちょっと不気味な印象しか残っていない。
 その後、新宿区がアトリエ内部を展示室にして公開していたようだが、わたしはこの時期に佐伯アトリエを訪れていない。そして、1985年(昭和60)ごろに老朽化した母家と、南側に増築されていた米子夫人の居間が解体され、アトリエのみがポツンと残る「佐伯公園」になった。わたしは、1982年(昭和57)に南長崎の学生アパートから、下落合の聖母坂沿いのマンションへ転居してきているが、母家の解体工事の光景はまったく記憶にない。
 もっとも、当時はバブル景気とICTシステム(C=ネットワークは原始的なものだった)が浸透しはじめたまっただ中で、土・日・祝(休日)がなく会社への泊まりこみや徹夜はあたりまえ、とても周囲を散策して風景を楽しんだり何かを調べたりする余裕などなかった。この喧騒は、1990年代末のいわゆる「ITバブル」がはじけ、ようやく沈静化するまでつづいていた。そんな毎日がつづく状況で、いつだったか子どもを連れて地域センター(新旧どちらの出張所だったかが曖昧だ)を訪れた際、佐伯祐三の『テニス』が展示されていたのを憶えている。
 現在のきれいに修復された画面ではなく、随所にクラックや絵の具の剥脱が目立つ50号の傷んだ画面だったが、下落合のどこを描いた風景なのかが気になった。佐伯の「下落合風景」シリーズに対する興味を植えつけられたのは、おそらくこのときの『テニス』との初対面が最初だったろう。高校時代から、下落合(現・中落合/中井含む)のあちこちを歩きまわっていたわたしは、佐伯がどこを描いた風景なのかを、いつか突きとめてみたくなったのだと思う。
 1980年代の後半に佐伯アトリエを訪れると、母家が解体されたあとアトリエだけがポツンと残る、緑が濃い「佐伯公園」として生まれかわっていた。佐伯公園の風情は、その後ずいぶん長くつづくことになるが、2008年(平成20)4月5日(土)の朝早めに佐伯公園を訪れると、近所のおばあさん(お名前をうかがいそこねていて残念だ)とみられる方が、換気のために佐伯アトリエのドアや窓をすべて開け放して、公園内を清掃をされているまっ最中だった。内部を見せてもらってもいいかどうか訊ねると、カメラをもったわたしを見て「写真もどうぞ」といってくれた。このとき、初めて佐伯アトリエの内部を見学することができた。
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 「どちらから、おいでになったの?」と訊かれたので「下落合の地元です」と答えると、おばあさんは気を許したものか、佐伯アトリエに関することや近所の話題をいろいろと話してくれた。アトリエで、20分ほど取材や世間話をさせていただいたろうか、このとき佐伯アトリエの南隣りに建っていた青柳邸、つまり佐伯祐三から『テニス』をプレゼントされた落合第一尋常小学校の教師・青柳辰代が住んでいた邸の前に拡がる、国際聖母病院が建設される以前の丘陵および原っぱを、昔から「青柳ヶ原」と周辺の住民たちが呼んでいたことを知った。また、現在では「西ノ谷」と呼ぶことが多くなったが、昔は佐伯アトリエの前に口を開けた谷戸は、大正以前の古くから「不動谷」と呼ばれていたことも確認できた。
 これは、このご親切なおばあさんに限らず、下落合東部に昔から住む多くの住民たちと同じ認識、当時の興信所各社が調べた土地評価の「不動谷」周辺のレポートと同様の認識、つまり「不動谷は、どうして西へいっちゃったんでしょうね?」と不可解な表情を浮かべた、下落合東部の古老たちと同様の共通認識であることも確かめられた。すなわち、郊外遊園地「不動園」につづき目白文化村を開発した、箱根土地(および協力地主)によるSP戦略上の、意図的な「地名操作」を強く疑いだす瞬間でもあったのだ。佐伯祐三は、クリスマスツリー用の木を伐りだした“洗い場”のある谷戸を、周辺の住民たちと同様に「不動谷」と認識していただろう。
 日野耕之祐の『佐伯公園』にもどろう。画面には、アトリエを訪れた美術ファンだろうか、ベンチに座る赤いバッグをもつ女性が描かれており、その近くをネコがゆっくりと歩いているようだ。佐伯アトリエが公園化されて以来、ここは周辺に住む野良ネコたちの集会場、あるいは日向ぼっこをするテラスとなっており、わたしもしばしばネコたちを撮影しに同公園を訪れている。多いときには、5~6匹のネコたちが陽射しのなかで寝そべっており、特に、アトリエのドアの下に置かれた庭石や、コンクリートブロックのたたきが温かい特等席で、ネコたちはそこに集まってはニャゴニャゴとなにやら話していることが多かった。
 さて、日野耕之祐は、異色の画家といえるだろうか。もともとは新聞の美術記者だったのだが、光風会展へ作品を展示する光風会の会員であり、美術文化協会展へも作品を出品している。1925年(大正14)に福岡県で生まれた日野耕之祐は、1948年(昭和23)に日本美術学校を卒業すると、福沢諭吉が創立した時事新報社の美術部へ就職している。新聞の名称が、産経新聞に変わってからも美術記者をつづけ、15年間も新聞社で働いていた。その後、40歳を目前に記者を辞めて画業に専念し、1967年(昭和42)には作品が日展の特選になり、1976年(昭和51)には日展審査員に就いている。
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 また、記者時代の文章力を活かし、『美を探る』や『具象ノート』など多くの美術エッセイ類を残しており、中でも1967年(昭和42)に三彩社から出版された絵画随筆『東京百景』と、1971年(昭和46)に日本美術社から出版された写真随筆『美を訪ねて』が、もっとも知られている書籍だろうか。日野耕之祐の『佐伯公園』は、1989年(平成元)に刊行された財務省の広報誌「ファイナンス」5月号に掲載された、絵画とエッセイによる「美の季節」シリーズのために描かれた水彩画だ。この時期、日野耕之介はすでに杉並区高円寺4丁目528番地の新しいアトリエに住んでいただろうが、それまでは西落合1丁目5番地にアトリエをかまえており、落合地域には豊富な土地勘があったと思われる。「ファイナンス」より、日野耕之祐の文章を少し引用してみよう。
  
 ぼくは佐伯に会ったことはないが、米子夫人が二紀会の画家であったことと、ぼくの家と近かったことで、このアトリエで米子夫人とよく会った。いまはアトリエだけになってしまっているが、アトリエにくっついて小さな2階屋と平屋があった。アトリエの壁にはペンで描いた佐伯の自画像がかかっていた。/久し振りにここをおとずれた。通りから細い路地を入ったつきあたりで、足の悪かった米子夫人は、外出のときは車が入らないのでいつも困っていた。ぼくがこの絵を描く1時間ばかりのあいだ、この公園に入ってきたのは、学生と、病院の若い看護婦さんらしい人が本を読みにきただけだった。あとは近所のネコたちのちょうどよいたまり場になっていた。
  
 そもそも、佐伯アトリエは多くの画集や図録の年譜にあるように、1921年(大正10)の「年頭」あるいは「早い時期」に建設されているのではないと考えている。長男が生まれるのを待って、同年3月末に下落合623番地の新築アトリエへ転居してきた曾宮一念の証言にもあるように、建設途上のアトリエに塗るペンキのカラーリングの参考にと、そのときが初対面だった曾宮一念アトリエを佐伯が訪問したのは、同年4月以降のことだ。曾宮一念が、1921年(大正10)の早い時期に淀橋町柏木128番地から動いていないのは、同年正月にパトロンだった福島県白河町に住む伊藤隆三郎あての年賀状でも、また同年1月16日付け野田半三あての手紙でも確認できる。
 曾宮一念は、綾子夫人が1921年(大正10)3月21日に長男・俊一を出産すると、母体の恢復と新生児が落ち着くのを柏木の仮住まいで待ち、3月末か4月の頭にようやく下落合へ転居してくるのであって、佐伯祐三が曾宮アトリエを訪ねアトリエのカラー塗りを見学したのはそれ以降のことだ。また、佐伯アトリエを建設していた大工の棟梁が、竣工後に大工道具一式(カンナはその中のひとつだったろう)をもって挨拶にくるのが、“中元”ではなく“歳暮”だった点にも留意したい。1921年(大正10)の「初め」あるいは「早い時期」にアトリエが竣工していたら、大工道具は中元としてとどけられていたはずだ。佐伯アトリエは、少なくとも同年の6月以降に竣工しているものと思われる。
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 「佐伯公園」化から約25年、老朽化した佐伯アトリエは2009年(平成21)に解体工事がはじまり、翌年には佐伯祐三アトリエ記念館としてリスタートしている。ネコばかりが集まって無人だった佐伯公園だが、現在では記念館のスタッフが常駐して、さまざまなガイダンスをしてくれる。

◆写真上:1989年(平成元)に制作された、日野耕之祐の水彩画『佐伯公園』。
◆写真中上:2007年(平成19)の春に撮影した、リニューアル前の佐伯祐三アトリエの外観。
◆写真中下:2008年(平成20)4月5日にたまたま撮影できた、佐伯公園の佐伯アトリエの内観。
◆写真下は、母家からつづく廊下の正面が便所で左手が洋間への入口。中上は、佐伯自身が設計・建築したアトリエ西側の洋間。中下は、いつもアトリエ前で見かけたネコ集会。は、日野耕之祐()と1971年(昭和46)出版の日野耕之祐『美を訪ねて』(日本美術社/)。
おまけ
 上記の日野耕之祐による写真随筆『美を訪ねて』に掲載された、下落合氷川社の鳥居前に保存されている庚申塔。1816年(文化13)に建立されたもので、青面金剛の下に三猿が刻まれている。道標を兼ねた庚申塔で右手に「ぞうしが屋」(雑司ヶ谷)、左手に「くずが屋」(葛ヶ谷)と刻まれており、地元の通称「雑司ヶ谷道」の由来となったとみられる道しるべだ。撮影は1960年代末と思われるが、以前から露天に置かれているため現在では表面の浸食風化がかなり進んでいる。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2025年05月11日 19:24
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    きょうは母の日のせいか、午後には花屋さんの前に行列ができてました。
    2025年05月11日 20:43

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