
1945年(昭和20)3月の東京大空襲および4月・5月の山手大空襲については、これまで何度も繰り返し記事に書いてきた。落合地域では、下落合の近衛町や目白文化村などで住民たちが体験された空襲について、残された記録をこちらでご紹介している。また、空襲で街のほとんどすべてのエリアが壊滅した上落合のケースについても記事にしていた。
B29による空襲の被害では、住宅街のほとんどを焼きつくした西武線の南側一帯に拡がる上落合がもっともひどく、次いで森林や屋敷林の濃い緑が“防火帯”となり、住宅街が島状に焼け残った山手線近くの下落合東部から中部にかけてが大きなダメージを受けた。下落合の西部(アビラ村)や西落合地域は、それらの地域に比べれば相対的に少ない被害で済んでいる。
同年の4月13日夜半と5月25日夜半の二度にわたる落合地域の山手大空襲だが、犠牲者は5月25日夜半の空襲のほうが圧倒的に多い。東京都の調べでは、4月13日~14日の夜間空襲で1,661人(行方不明者は含まず)が被爆死したが、5月25日~26日の夜間空襲では、倍以上の3,352人(同)が犠牲になっている。4月13日夜半の空襲で、相対的に死者が少なくて済んだのは、その1か月前の3月10日の東京大空襲の経験からその教訓を活かし、焼夷弾による大規模な空襲がはじまったら「即時退避」という、防護団の申し合わせがあらかじめできていたからだろう。
ところが、5月25日夜間の第2次山手空襲では、犠牲者が増えた原因として住宅街への無差別絨毯爆撃だったことにもよるが、もうひとつの重大な主因として、各町内で組織された防護団の団員たちに対し、自治体から「即時退避」をせず、各自の持ち場を守れという命令が出されていたことによる。これにより、M69集束焼夷弾が雨あられのように降り注ぐなか、無力なバケツリレーと防火ホウキや防火バタキで大火災を消そうとした、大勢の人々が逃げ遅れて犠牲になった。
その様子を、1973年(昭和48)に東京空襲を記録する会から出版された『東京大空襲・戦災誌/第2巻 (都民の空襲体験記録集 初空襲から8.15まで)』収録の、二度の空襲時には下落合に住んでいた増淵ますという女性の証言「実家・宮口家の罹災」から引用してみよう。
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三月一〇日の恐ろしい犠牲にこりて、四月の私たちの受けた空襲の際は「逃げろ、逃げろ」で避難優先でした。その反動か、五月のおりは「最後の一人まで踏みとどまり持場を死守せよ」でしたからたまりません。死者が比較的多く出たというのも、その辺に相当問題があると言えましょう。
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東京大空襲の惨禍を目の当たりにして、せっかく教訓化していた防護団の住民たちに対し、当局がその教訓をまったく無視した命令を下したことにより、すぐに避難していれば助かった生命の多くが失われた。このことは、他の空襲被害者による証言にも多く登場している。
1945年(昭和20)4月13日の昼間、よく晴れた東京の山手地域の青空をB29(おそらくB29を改造した偵察機F13)が1機、高々度で飛行していた。同日の夜半に予定されている、大規模な空襲に向けた事前の偵察飛行と写真撮影だったのだろう。また、同日の午後8時ごろには、北部の板橋方面を空襲したとみられるB29の編隊が、大きな爆音とともに低空で落合地域の真上を通過している。だが、これは同夜の前哨戦にすぎなかった。再び空襲警報が鳴り響くなか、夜の10時すぎにはB29の大編隊により新宿方面が爆撃され、つづいて戸塚(現・高田馬場)から上落合、そして中井駅あたりにかけて焼夷弾の雨が降り注ぎはじめた。




当夜の様子を、下落合4丁目1665番地(現・中井2丁目)の目白文化村(第二文化村)に住み、農商務省の社会局につとめていた清水玄という方の証言「一夜の焦熱地獄」を、前出の資料より引用してみよう。彼は、新宿上空に飛来したB29の侵入路を正確かつ詳細に観察しているので、防護団または警防団の役員をしていたのかもしれない。
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次の瞬間に、わが家の三階建ては一面の火となり、玄関道のヒバの木には、焼夷弾の火花が燃えついて、暗夜に仕掛花火のようであった。とっさにわれわれも、防空頭巾のうえから備えつけ水槽の水をかぶり、並木の火花の間をかけぬけて、表通りへでた。そして椎名町通りのむかいがわにある、東京海上保険グラウンドに避難すべく走ったが、途中ですでに両側の家々は火を吹き、黒煙うずまいて、わずか数間の黒煙の帯を走りぬけるときは、前後が昼のようであるにもかかわらず、あやめもわかたぬ暗黒で、息苦しいなかをおたがい手をつないで避難したしだいであった。(中略) 海上グラウンドの一夜は、焦熱地獄もかくやと思われた。広い空地であるグラウンド付近一帯は、無数の人で埋まっていた。火焔と黒煙は、四方からだんだんと迫ってきた。爆撃の音が世界を支配したが、地上は無人のごとく恐怖と緊張で静まりかえっていた。
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上記の文章から、清水一家が避難した経路が透けて見える。一家は、炎上している第二文化村の自邸を出ると、現在の旭通りを北へ横断して椎名町通り(椎名町大通り=目白通り)へと抜け、目白通りをさらに北側へわたるとそのまま北進し、広い「海上グラウンド」(現・豊島区立南長崎スポーツ公園)まで避難していることになる。
だが、結果からいえば、これは非常にリスクの高い避難だったろう。周囲に遮蔽物のない広大な空間では、もし大火事による火事嵐(大火流)が発生した場合、広場に集まっていた人々は一瞬のうちに大火流に巻きこまれ、空気中から酸素が奪われて窒息死あるいは焼死する危険性がかなり高かったと思われるからだ。関東大震災の際、大川(隅田川)沿いの被服廠跡の広場で大きな悲劇が起きたが、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲では、池袋駅東口の広い根津山の原っぱで、周囲の住宅街から迫る延焼により空気が急激に膨張して火事嵐が発生し、避難していた人々が上空へ吹き飛ばされて墜落死あるいは焼死、酸欠死しているのを見ても明らかだ。
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次の瞬間に、わが家の三階建ては一面の火となり、玄関道のヒバの木には、焼夷弾の火花が燃えついて、暗夜に仕掛花火のようであった。とっさにわれわれも、防空頭巾のうえから備えつけ水槽の水をかぶり、並木の火花の間をかけぬけて、表通りへでた。そして椎名町通りのむかいがわにある、東京海上保険グラウンドに避難すべく走ったが、途中ですでに両側の家々は火を吹き、黒煙うずまいて、わずか数間の黒煙の帯を走りぬけるときは、前後が昼のようであるにもかかわらず、あやめもわかたぬ暗黒で、息苦しいなかをおたがい手をつないで避難したしだいであった。(中略) 海上グラウンドの一夜は、焦熱地獄もかくやと思われた。広い空地であるグラウンド付近一帯は、無数の人で埋まっていた。火焔と黒煙は、四方からだんだんと迫ってきた。爆撃の音が世界を支配したが、地上は無人のごとく恐怖と緊張で静まりかえっていた。
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上記の文章から、清水一家が避難した経路が透けて見える。一家は、炎上している第二文化村の自邸を出ると、現在の旭通りを北へ横断して椎名町通り(椎名町大通り=目白通り)へと抜け、目白通りをさらに北側へわたるとそのまま北進し、広い「海上グラウンド」(現・豊島区立南長崎スポーツ公園)まで避難していることになる。
だが、結果からいえば、これは非常にリスクの高い避難だったろう。周囲に遮蔽物のない広大な空間では、もし大火事による火事嵐(大火流)が発生した場合、広場に集まっていた人々は一瞬のうちに大火流に巻きこまれ、空気中から酸素が奪われて窒息死あるいは焼死する危険性がかなり高かったと思われるからだ。関東大震災の際、大川(隅田川)沿いの被服廠跡の広場で大きな悲劇が起きたが、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲では、池袋駅東口の広い根津山の原っぱで、周囲の住宅街から迫る延焼により空気が急激に膨張して火事嵐が発生し、避難していた人々が上空へ吹き飛ばされて墜落死あるいは焼死、酸欠死しているのを見ても明らかだ。



目白文化村に住む多くの人々がそうしたように、緑が濃い下落合西部のアビラ村や中井御霊社の森、あるいは周囲に住宅街がまったくなかった上高田のバッケが原へ避難すれば、翌朝まで「焦熱地獄」にはならず、より安全な時間をすごせたとみられる。大火事の際、住宅街の中にある広場(グラウンド)のような空間、あるいは住宅街の中を流れる幅が広めな河川の近くへ逃げるのは、同年3月10日の東京大空襲で川幅が200mほどある大川(隅田川)を、大火流が水平に対岸へ押しよせた事例でも明らかなように、そして祖父母の世代から口を酸っぱくして執拗にいわれつづけてきたように、東京では絶対にやってはならない避難法だろう。
さて、同夜の空襲では関東大震災の教訓を強く意識し、「広場」=東京海上保険グラウンドへ誘導する防護団員を無視して、さらに西へ向かい野方配水塔近くの西落合まで逃げた方の記録が残っている。同書に収録の、椎名町2丁目(現・目白5丁目)に住んでいた福冨芳乃という女性の証言「雑草のごとく生きて」から引用してみよう。
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その時だれ言うともなく「風上の空の暗い方向を見て避難しろ!」 私も姉の子たちの手を引き、今までの反対方向へと歩きだした。近くの秋元石屋の入母家造りの豪壮な建物が恐ろしい火勢を上げていた。目白通りの落合側も、椎名町側も、次々と火の手の上がるのを見ながら、椎名町駅よりさらに裏通りへと走りに走った。/敵機は暗い所目がけて焼夷弾を落とすようになった。どの地域を走っているか見当がつかなかった。街角には防空団員が、「これより先〇〇メートルが広場」と案内してくれたが、行ってみるとそこは人と荷物で埋まっていた。かつて関東大震災の時、実姉の家族が浅草で罹災した時の話をふと思い出し、そこには入らないで武蔵野線に出た。(中略) 明るさが増すにつれて周囲の状況が見えてきた時は驚いた。とてつもなく大規模の水道タンク(?)のような施設がすぐ近かったので。敵さんよくぞ見逃したものとゾッとした。
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当時の野方配水塔(水道タンク)の周辺は、耕地整理が済んでいたが人家はそれほど密集してはおらず、あちこちに畑地や雑木林が残るような風情で、避難するには適切なエリアだったろう。なお、野方配水塔は敗戦が間近になると、米軍の戦闘機(空母艦載機あるいは硫黄島からの飛来機)からの格好の標的となり、繰り返し執拗な機銃掃射を受けることになる。
さて、同夜の空襲では関東大震災の教訓を強く意識し、「広場」=東京海上保険グラウンドへ誘導する防護団員を無視して、さらに西へ向かい野方配水塔近くの西落合まで逃げた方の記録が残っている。同書に収録の、椎名町2丁目(現・目白5丁目)に住んでいた福冨芳乃という女性の証言「雑草のごとく生きて」から引用してみよう。
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その時だれ言うともなく「風上の空の暗い方向を見て避難しろ!」 私も姉の子たちの手を引き、今までの反対方向へと歩きだした。近くの秋元石屋の入母家造りの豪壮な建物が恐ろしい火勢を上げていた。目白通りの落合側も、椎名町側も、次々と火の手の上がるのを見ながら、椎名町駅よりさらに裏通りへと走りに走った。/敵機は暗い所目がけて焼夷弾を落とすようになった。どの地域を走っているか見当がつかなかった。街角には防空団員が、「これより先〇〇メートルが広場」と案内してくれたが、行ってみるとそこは人と荷物で埋まっていた。かつて関東大震災の時、実姉の家族が浅草で罹災した時の話をふと思い出し、そこには入らないで武蔵野線に出た。(中略) 明るさが増すにつれて周囲の状況が見えてきた時は驚いた。とてつもなく大規模の水道タンク(?)のような施設がすぐ近かったので。敵さんよくぞ見逃したものとゾッとした。
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当時の野方配水塔(水道タンク)の周辺は、耕地整理が済んでいたが人家はそれほど密集してはおらず、あちこちに畑地や雑木林が残るような風情で、避難するには適切なエリアだったろう。なお、野方配水塔は敗戦が間近になると、米軍の戦闘機(空母艦載機あるいは硫黄島からの飛来機)からの格好の標的となり、繰り返し執拗な機銃掃射を受けることになる。



余談だが、1990年代に相次いで情報公開法にもとづき、米国防総省や米軍の戦時情報が公開されたにもかかわらず、いまだに米軍は「文化財が多い奈良や京都の空襲を避けた」「病院への空襲は避けた」というような、戦後に米軍のCICやG2、対日言論工作員(日本人のマスコミ工作員)などが流したとみられるデマゴギーを口にする人たちがいる。公開された米軍文書によれば、奈良市街地への絨毯爆撃の順位は80番めに計画されており、63番めの長野県松本市と64番めの同上田市への空襲を最後に、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏をしたのが事実だし、京都にいたっては原爆攻撃の目標都市のひとつとして市街地が“温存”されていたのが事実だ。米軍のエージェントやスパイ(もちろん日本人の協力者含む)たちによる、結果論的な情報操作が非常にうまく国内に浸透した“成功例”だろう。それとも、いまだに米国の工作員がデマを流しつづけているのだろうか?
◆写真上:1945年(昭和20)8月2日の明け方、僚機のB29機内よりカラー映像で撮影された八王子空襲。B29からM69集束焼夷弾が投下されているが、コロネット作戦における米軍の上陸進攻ルートにあたる相模湾の平塚市と、八王子市への空襲はひときわ激しかった。
◆写真中上:上は、1945年(昭和20)5月17日に撮影された第2次山手空襲直前の落合府営住宅から第一文化村界隈。4月13日夜半の空襲では、鉄道や街道沿いの被害が大きかった。中は、同じく八王子空襲のカラー映像。下は、東京空襲を記録する会から1973年(昭和48)出版の『東京大空襲・戦災誌 第2巻/都民の空襲体験記録集 初空襲から8.15まで』(左)と、同じく1974年(昭和49)出版の『東京大空襲・戦災誌 第5巻/空襲下の都民生活に関する記録』(右)。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる第二文化村の清水玄邸。中は、1945年(昭和20)4月2日に偵察機F13から撮影された空襲11日前の清水邸。下は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された清水邸(焼け跡)と第二文化村の焼け残った住宅群。
◆写真下:上は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された東京海上保険グラウンド。グラウンド上には木造とみられる9軒の建物が見えており、それらの延焼を考慮すれば避難場所としてはきわめて危険だったことがわかる。中は、清水家の想定避難コース。下は、八王子空襲で米軍の戦闘機P51に撃墜されパラシュートで脱出した迎撃戦闘機のパイロット。
◆写真中上:上は、1945年(昭和20)5月17日に撮影された第2次山手空襲直前の落合府営住宅から第一文化村界隈。4月13日夜半の空襲では、鉄道や街道沿いの被害が大きかった。中は、同じく八王子空襲のカラー映像。下は、東京空襲を記録する会から1973年(昭和48)出版の『東京大空襲・戦災誌 第2巻/都民の空襲体験記録集 初空襲から8.15まで』(左)と、同じく1974年(昭和49)出版の『東京大空襲・戦災誌 第5巻/空襲下の都民生活に関する記録』(右)。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる第二文化村の清水玄邸。中は、1945年(昭和20)4月2日に偵察機F13から撮影された空襲11日前の清水邸。下は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された清水邸(焼け跡)と第二文化村の焼け残った住宅群。
◆写真下:上は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された東京海上保険グラウンド。グラウンド上には木造とみられる9軒の建物が見えており、それらの延焼を考慮すれば避難場所としてはきわめて危険だったことがわかる。中は、清水家の想定避難コース。下は、八王子空襲で米軍の戦闘機P51に撃墜されパラシュートで脱出した迎撃戦闘機のパイロット。
この記事へのコメント
ふるたによしひさ
落合道人
痰が怖いというのは、親が入院中に聞かされたことがあります。