下落合を描いた画家たち・山口諭助。

山口諭助「下落合風景」1925.jpg
 関東大震災のすぐあと、目白文化村近辺を描いた画家がいる。画集では1925年(大正14)の制作となっているが、実際は前年の1924年(大正13)の後半か、ないしは翌年でも比較的早い時期の作品ではないかと推測される。武蔵野の風景を写してまわるのが好きだったらしく、東京郊外を描きつづけた山口諭助の『下落合風景』(冒頭写真)だ。
 山口諭助の“本業”は、哲学・芸術論ないしは芸術評論といった学術領域だった。大学時代に哲学史を専攻された方なら、彼の著作である『真理と其決定』や『白の音に聴く』、『無の芸術』、『個と全』、『哲学』、『倫理学』、『論理の哲学』、『美の日本的完成-「寂び」の究明』など数多くの教科書や参考書などのいずれかをご存じかもしれない。また、エッセイストとしても広く知られており、『スキー夜話』や『幻想の武蔵野』、『雪白き山』などの著作がある。さらに、洋画の制作も玄人はだしで、特に生涯をかけて「武蔵野風景」をモチーフに追いつづけており、1979年(昭和54)には『武蔵野回顧絵画集』を麓山房より出版している。
 1901年(明治34)に新潟で生まれた山口諭助は、1926年(大正15)に東京帝大文学部哲学科を卒業するので、1925年(大正14)制作とされる『下落合風景』は学生時代の作品ということになる。このころから、山口諭助は東京の郊外地域を歩きまわりながら、当時は色濃かった武蔵野の面影を写生してまわっている。ご紹介している『下落合風景』は大正末に近い作品だが、画集を参照すると戦前戦後を通じ武蔵野の各地をモチーフにして、制作しつづけていたのがわかる。下落合や長崎を写生しているところをみると、若いころ(学生時代か?)の一時期、この近くに住んでいたのかもしれない。ただし、1930年(昭和5)現在の住所は本郷区龍岡町27番地に、戦時中から戦後にかけては渋谷区代々木大山町1067番地に住んでいたことが判明している。
 地元の方なら、おそらく冒頭の『下落合風景』を見たとたん、すぐに目白文化村の第一文化村近くに展開した情景だと想定できるだろう。それは、明らかに箱根土地が1922年(大正11)から販売している第一文化村の、すぐ外周域に設置した背の高い水道タンクが描かれているからだ。この地下水を汲みあげて配水する水道タンクが、いつごろ撤去されたのかはハッキリしないが、昭和初期に引かれた荒玉水道(下落合は1928年より通水)よりも、地下から汲みあげた水のほうが清澄かつ美味だったはずで、落合地域では1960年代まで地下水を活用していたお宅も多い。第一文化村の水道タンクは、1936年(昭和11)の空中写真でもいまだに確認することができる。
 1925年(大正14)は、目白文化村では大きな動きが相次いで発生した年でもあった。前年にスタートしていた、第三文化村の販売が一段落すると、今度は落合尋常小学校(のち落合第一尋常小学校)の西側の前谷戸に、一連の分譲販売の最後となる第四文化村の開発が予定されていた。また、下落合の東部で普及しつつあったガス管の敷設も、大きな課題のひとつだったにちがいない。そして、もっとも大きなテーマは、学園都市として中央線沿線に開発中だった国立(くにたち)へ、箱根土地本社を移転する事業計画だった。したがって、目白文化村には本社機能に代わる、箱根土地の開発・営業拠点を新たに設置しなければならなかった。
 目白文化村は、第四文化村の販売でひととおりの開発を終えるが、先述したガス管の全戸配管作業をはじめ、不要になった箱根土地社員用の広大な社宅建設予定地を区画割りし宅地として販売する業務や、住宅未建設の敷地に対する社内建築部の営業アプローチ、さらに既存の住宅や施設・設備に関するメンテナンスなど、開発部隊や営業部隊を残留させる拠点が必須だった。なお、下落合1340番地の箱根土地本社ビルは、当時、実業界でも政界でも堤康次郎と近しかった、駿豆鉄道社長であり研心学園(のち目白学園)の理事長でもあった、中央生命保険の専務取締役・佐藤重遠へ売却し「中央生命保険倶楽部」となるので、箱根土地の開発・営業拠点としては使用できなかった。
五月野茨を摘む1925.jpg
風景1925.jpg
雪景色1926頃.jpg
 以上のような1925年(大正14)当時の状況を踏まえ、山口諭助の『下落合風景』を観るといろいろなことが透けて見えてきそうだ。まず、中央上部に描かれた住宅2軒は、第一文化村の住宅ではないと思われる。前谷戸の谷間へ落ちこむ傾斜地の、中部あるいは上部に建てられていた家々だろう。松下春雄『五月野茨を摘む』(1925年)にも描かれた、水道タンクの左手斜面に見えている、切妻を東西に向けた赤い屋根の家が、いずれかの1軒だと思われる。
 また、左手に描かれた急斜面は目白文化村の住民たちが通称「スキー場」と呼び、雪が降るとスキーやソリ遊びを楽しんでいた場所だ。だが、山口諭助の画面では水道タンクの手前に、横長の作業小屋や飯場、あるいは学校の校舎のような意匠の建物群は、いまだ未建設なのか描かれていない。すなわち、佐伯祐三が1926年(大正15)ないしは翌1927年(昭和2)つづきの冬に描いた、「下落合風景」シリーズの1作『雪景色』に見える多くの建物群が、1925年(大正14)の時点では建設されていないのがわかる。佐伯の『雪景色』では、画面右手の建物と建物との間に、冠雪してにぶく光る水道タンクが薄っすらと描かれている。
 ここまで読まれた方は、もうお気づきではないだろうか。箱根土地本社国立へと移転する前後、第一文化村水道タンクの東側、急斜面の上部に急遽建設された建物群は、目白文化村で仕掛りの開発や営業などの事業を継続する拠点、同社の作業小屋ないしは「下落合営業所」、作業要員たちの宿泊施設(飯場)などだった可能性が高い。もちろん、下落合における箱根土地の仕事は目白文化村だけでなく、同年に経営破綻に陥る東京土地住宅近衛町アビラ村の一部開発も引き受けており、事業を継続する開発・営業拠点の必要性が高かったと思われる。
 山口諭助の『下落合風景』が、1925年(大正14)の早い時期に描かれている可能性が高いと書いたのは、箱根土地本社が同年12月に国立へ移転するのをはさんで建設されているとみられる、これらの建物群が左手の丘上にまったく見られないからだ。おそらく、箱根土地の施設とみられる建物群は、国立へ本社が移転する前後に次々と建てられているのだろう。そしてもうひとつ、1925年(大正14)の早い時期、あるいは前年の写生ではないかと書いたのは、山口諭助が同作の解説文に1923年(大正12)の関東大震災直後から下落合で見られた情景について、あえて記しているからだ。以前から下落合周辺を写生してまわっており、『下落合風景』の画面を最終的にタブローへ仕上げたのが、1925年(大正14)ということなのではないか。
スキー場1.JPG
スキー場2.JPG
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 1979年(昭和54)に麓山房から出版された山口諭助『武蔵野回顧絵画集』から、『下落合風景』に添えられたキャプションより引用してみよう。
  
 大正十二年の関東大震災の前後に、目白の文化村に出現した、屋根に赤瓦をのせ、外側を白い漆喰壁と褐色の防腐剤を塗った鎧下見板とで包んで、ガラス戸にカーテンを引いた窓の切ってある、簡易洋風小住宅(当時のいわゆる文化住宅)は、間もなく丘つづきの下落合辺にもポツポツ姿をみせ始めた。/しかし当時の下落合は、まだ住宅もまばらで、畑道のところどころに高い欅や榎の木立が聳え、あちこちに杉林や雑木林が点在した丘や谷の起伏する、東京郊外であった。
  
 「褐色の防腐剤」とは、当時は一般的だった外壁用のクレオソートのことだが、大震災後の下落合での時間的な経過を観察しているようなニュアンスを文面から感じるので、山口諭吉もまた下落合あるいはその周辺域に住んでいた可能性が高いように思う。
 さて、もう一度『下落合風景』の画面を観察してみよう。1925年(大正14)の現在、画面の右手斜面のさらに画面枠外では第四文化村の開発がスタートしていたと思われるが、急斜面へ大谷石で大規模なひな壇状に造成・整地された新たな住宅地は、同作の画角には入っていない。また、それ以前に写生された風景だとすれば、箱根土地本社の南庭である不動園つづきの谷間は、いまだ開発の手があまり加えられておらず、画面に描かれているような「不動園」と同様の、郊外遊園地もどきの風情を漂わせていた可能性もありそうだ。
 湧水源から流れでる谷底の渓流をはさみ、画面右手枠外の丘上には下落合1309番地の落合尋常小学校(のち落合第一尋常小学校)が建っているはずだ。描かれた当時は明治期からの増築を重ねた校舎のままか、新校舎建設のために古い校舎の一部解体が、すでにスタートしていたかもしれない。新校舎および講堂を建設中の同校は、1927年(昭和2)ごろに制作された松下春雄『下落合文化村』で観ることができる。また、画面中央に描かれた2棟の住宅の、さらに右手の遠景に描かれている赤い屋根の住宅地エリアが、第一文化村の敷地東端だとみられる。興味深いのは、手前に描かれた茅葺き屋根を載せたとみられる農家の存在だ。この時期まで、第一文化村に隣接した敷地には、昔ながらの茅葺き農家が残っていたのかもしれない。
 山口諭助の『下落合風景』が面白いのは、同年に水道タンクをモチーフに入れてほぼ同じ場所を松下春雄(『五月野茨を摘む』)が描き、また1926年(大正15)の冬ないしは翌年にかけ佐伯祐三(『雪景色』)が、積雪した画面左手の斜面でソリやスキーに興じる文化村の住民たちを、渓流の対岸斜面から描いている点だろう。いずれの作品も、わずか2年ほどの間の情景だが、関東大震災の直後より東京市街地から郊外への人口流入が急増し、下落合の風景が激変する刹那をとらえた作品たちだ。
前谷戸192705024松下春雄.jpg
水道タンク1935頃.jpg
第四文化村1936.jpg
 ちなみに、落合第一尋常小学校のリニューアルは生徒数の激増に対応したものであり、また山口諭助の『下落合風景』が制作された年は、同小学校では収容しきれなくなった生徒たちに対応するため、上落合745番地に落合第二尋常小学校が竣工(1925年1月)したばかりのころだった。

◆写真上:1925年(大正14)に制作された山口諭助『下落合風景』(油彩/4号F)。
◆写真中上は、1925年(大正14)制作の第一文化村東端と前谷戸の谷間を描いた松下春雄『五月野茨を摘む』。は、第一文化村の水道タンクを市郎兵衛坂側から描いた同年の松下春雄『風景』。は、1926年(大正15)ごろに「スキー場」を描いた佐伯祐三『雪景色』。
◆写真中下は、前谷戸の谷底から「スキー場」斜面を見あげた現状。山手通りの敷設で斜面上部がかなり削られている。は、丘上から同じ急斜面を見下ろした現状。は、第二文化村の水道タンクを描いた佐伯祐三『タンク』。高さは第二文化村のタンクのほうがかなり低いが、上部のタンク形状は第一文化村のものと同一だと思われる。また、画面奥に拡がる敷地一帯は箱根土地の社宅建設敷地の一部で、昭和期に入ると区画割りのうえ販売されている。
◆写真下は、1927年(昭和2)5月24日に松下春雄が不動園から第四文化村のある谷をはさんで撮影した落合第一尋常小学校の校舎および講堂(左)と第一文化村外れの丘上で、「スキー場」は右手の谷間へ下る急斜面。は、1935年(昭和10)ごろに撮影された空中写真(斜めフカン)にみる第一文化村の水道タンク。は、山口諭助と松下春雄、佐伯祐三による各作品の描画・撮影ポイント。
おまけ
 佐伯祐三の『雪景色』(1926~27年の冬)に描きこまれた、谷戸から見あげた降雪でにぶく光を反射する第一文化村の水道タンクとみられるフォルム。これまで、佐伯は東京郊外の開発地や造成地を象徴するような、第一文化村の水道タンクをなぜ描かなかったのかと不思議に思っていたが、『雪景色』を含め未発見の作品にもモチーフに取り入れて描いているのではないか? 下は、戦後まもなく撮影された目白文化村の住宅で、地下水を汲みあげる貯水タンクが見える(AI着色)。
第一文化村水道タンク1926頃.jpg
目白文化村住宅(戦後).jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

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    2025年01月29日 22:54
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    こちらも、今週の日曜は雨か雪と予報されていますので、
    週末は鍋料理が似合いそうです。
    2025年01月30日 10:03
  • ものたがひ

    落合道人さま、こんにちは。この頃、目白文化村のあたりは、絵描きたちの人気スポットだったようですね。「タンク」も、目新しかったのでしょうか。ちょっと、おや?と思ったのは、ご紹介されている他の作品では、タンクは銀色の金属製のように見えるのに、この山口諭助さんの画面にあるのは、錆止め塗料風の暗赤色に描かれていることです。どういうことなのか、当時のタンク事情を知りたくなりました。
    2025年01月30日 11:51
  • 落合道人

    ものたがひさん、コメントをありがとうございます。
    「錆びどめ」のテーマは面白いですね。山口諭助の画面に描かれたタンクは、
    やはり1925年のかなり前か、あるいは同年の早い時期(桜が咲く3月末)のスケッチで、
    その後、上から銀色に近い塗料で塗り直されたものか、あるいはケチな箱根土地は
    もともと錆びどめなど塗っておらず、またはペンキの薄塗りのみだったため、
    数年で赤く錆びついてしまったので、1925年のどこかで雨に強い防錆塗料で
    新しく塗り直しているのかもしれません。
    松下春雄の『五月野茨を摘む』は、1925年10月の第6回帝展出品作ですが、
    いちおうタイトルが『五月野茨を摘む』と5月になっていますので、よりピン
    ポイントで推測すると、サクラが咲く3月末からモッコウバラとみられる「野茨」
    が咲く5月の間のどこかで、「タンクが赤錆だらけでみっとみない!」という
    文化村の住民からの苦情を受け、急いで塗り直したものでしょうか。w
    2025年01月30日 12:43
  • アヨアン・イゴカー

    下から二枚目の写真、興味深いですね。
    給水塔は周囲から突出して高い建造物で、どうしても目に入り、目印にもなります。近くにある、平尾団地の給水塔が解体されているのをみてがっかりしましたが、給水塔は分かりませんが、団地の方は建て替え計画があるようです。
    2025年01月30日 14:10
  • 落合道人

    アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
    この近辺でも、戸山アパートや戸山ハイツのリニューアル時に、独特なかたちを
    した水道タンクがいくつかなくなってしまい、ちょっとつまらないです。
    1931年に竣工した荒玉水道の野方配水塔は健在で、防災用の巨大な水道タンク
    として保存されていますが、やはり近辺を歩くときいい目印になりますので、
    目にするとうれしいですね。
    2025年01月30日 14:46