小刀で自宅の柱を削る二瓶徳松(二瓶等)。

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 今年も拙サイトをご訪問いただき、ありがとうございました。年末に鼻風邪をひいてしまいましたが、みなさまもお身体に気をつけて、よいお年をお迎えください。
  
 少し前に、夏目利政Click!が借地権をもつ敷地にアトリエを建設した、曾宮一念Click!による『風景』Click!(1920年)について書いた記事で引用したが、洲崎義郎Click!あてに中村彝Click!が1920年(大正9)7月21日付けで書いた手紙の中に、下落合584番地へアトリエClick!を建設して住んでいた二瓶徳松(のち二瓶等・二瓶等観)Click!について触れた箇所がある。
  
 曾宮君は夏目君が借地権を持つて居る地所を借り受けて、そこへ画室を立(ママ:建)てることになりました。二瓶君の画室の少し先の谷の上で大変眺望のいゝ処です。
  
 「二瓶君」こと二瓶徳松は、中村彝『芸術の無限感』Click!には何度か登場し、下落合804番地の鶴田吾郎Click!や下落合800番地の鈴木良三Click!とも親しかった様子が、洲崎義郎あての手紙(1920年4月20日付け)に記録されている。
 中村彝や満谷国四郎Click!を師と仰いだ、文展・帝展系の画家たちと交流した二瓶徳松だが、同時に佐伯祐三Click!とも親しく佐伯アトリエにも頻繁に出入りしており、彼は同アトリエで開かれたクリスマスパーティーClick!にも参加Click!している。佐伯祐三と二瓶徳松は、1918年(大正7)に東京美術学校西洋画科へ入学した級友同士であり、ほかに下落合1599番地の江藤純平Click!山田新一Click!とも同級生だった。
 下落合584番地(のち下落合2丁目584番地)に建っていた二瓶アトリエだが、下落合464番地の中村彝アトリエよりも、かなり大きな建築であることが以前から気になっていた。二瓶徳松は北海道札幌の出身で、北海中学校(現・北海高等学校)を卒業したあと、東京へやってきて美校へ入学しているが、かなり裕福な家庭環境だったのだろうと想像していた。そこで、二瓶徳松の子ども時代のことを、少し詳しく調べてみたくなった。
 1897年(明治30)に札幌で生まれた二瓶徳松は、父親から絵画(というかポンチ絵=漫画)の手ほどきを受けている。祖父も父親も絵画が好きで、正月に揚げる1畳サイズほどの凧(たこ)や、祭りの雪洞(ぼんぼり)などに絵を添えては評判になるほどだったという。そんな親たちの影響を受け、二瓶徳松も幼いころから絵や版画などに親しんで育った。そのころの絵の具は、薬局で売っている顔料(粉絵の具)のみしかなく、それを5~6色ほど手に入れて小皿に水で溶いては画用紙に塗っていた。
 二瓶少年は、家にいるときは絵を描いているか、木板に版画を刻んでいるか、壁にクギを使って“壁画”を描いているか、あるいは小刀で自宅の柱に彫刻するかしてすごしていた。もちろん、壁にキズをつける“壁画”や、柱を削る“彫刻”は親からこっぴどく叱られたが、いくら叱られてもまったく止めなかったため、しまいには親も呆れてなにもいわなくなったという。柱を小刀で削っているとき、もう少しで失明しそうになった事故も起きていた。1940年(昭和15)に新天地社から刊行された「新天地」10月号収録の、二瓶等観『絵画を初める迄で-或る回想』から引用してみよう。
  
 今も残つてゐる眉の傷もこの悪戯の名残だ。其日は丁度夕方から父も母も用事で外出して家には祖母と下男と三人だけだつた。退屈でもありそろそろ例の悪戯が初まつて、柱の節の所が面白いので其廻りを小刀で削り出した。節が堅いので小刀が滑つてなかなか思ふ様に行かない、(ママ:。以下同) 祖母は危いからと再三留めたが、一向きかずに、尚もやつて居る内、下から上に削り上げた途端手もとが狂つて、どう滑つたか、自分の眉毛の少し上の所へ、ぶすつとやつてしまつた。小刀を投げ出して両手でさつと傷を押へたが、血がたらたらと流れてくる、全く驚いた、それこそもうちよつと下つたら、目は遠永(ママ:永遠)に光を感ずる事が出来なかつたわけだ。(カッコ内引用者註)
  
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 祖母は驚き、あわてて台所に張っていたクモの巣を集めてきて、それを二瓶少年の傷口に貼り包帯をしてくれた。クモの巣が止血にきくとは、ギリシャ時代から世界各地で伝承された民間療法で、実際にクモ糸のタンパク質が血液の凝固作用を促すことが今日の医学でも確認されている。もっとも、清潔で無毒なクモの糸に限られるようだが。
 祖母が大急ぎで集めたクモの糸は、台所の竈(かまど)の上に張っていたものらしく糸には煤(すす)がついていて、傷口から侵入した真っ黒な煤で、眉毛の上には刺青(いれずみ)のような傷跡が残ってしまったという。この大ケガのときは、さすがに両親からひどく怒られ、柱を小刀で削るのを少しは控えるようになったようだ。
 二瓶徳松は、なにかに集中すると周囲の声が聞こえなくなる性格Click!のようで、絵を描いているとき半鐘の音がするので、「また町のどこかで火を出したな」と気にせずに制作をつづけていると、血相を変えた母親が飛びこんできて、二瓶少年を家から外へつまみだした。外へでてみると、自宅の2~3軒隣りが火事だったという逸話が残っている。
 二瓶少年が洋画と接したのは、北海中学校へ進学したあと、北海道帝国大学に「黒白会」という絵画団体があり、その展覧会を観てからだった。その展覧会には、北大予科で教授をしていた有島武郎Click!や弟の有島生馬Click!三宅克己Click!らの作品が展示されており、彼は油彩画に大きな衝撃と感動を受けたと書いている。
 それまで盛んに描いていた水彩画が色褪せて見え、油彩の画道具一式が欲しくなった。当時、札幌にあったいちばん大きな書店のショウウィンドウには、油絵の具(フランス製)が展示されていたが、中学生にはとんでもなく高価で買えなかった。そこで、カネ持ちだった友人に絵筆や油絵の具を買わせ、二瓶徳松は友人も買ったから自分も欲しいと親にせがみ、とうとう油絵の具と絵筆、三脚など画道具一式を手に入れている。このエピソードからしても、二瓶家は札幌でかなり裕福な生活をしていた家庭だと想定できる。
 画道具を手に入れた二瓶少年は、さっそく友人とともにそれらを風呂敷に包んで札幌郊外へ写生に出かけ、気に入った風景を前にして三脚をすえている。けれども、油絵の具を使ったことがない彼らは、水彩絵の具が油絵の具に変わっただけだと「たかをくゝつて」考えていた。だから、描くのは水彩と同じ画用紙であり、布製のキャンバスのことなど知らなかった。そのときの様子を、前記の『絵画を初める迄で』から引用してみよう。
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二瓶等観「加賀山由子像」1955.jpg
二瓶等「瓊容像」(不詳)新世紀展画集1980.jpg
  
 サツと色をつけては見たが、油が紙に吸ひ込んで絵具が少しも伸びない。これではいかんと思つてゴテツト絵具を筆に附けてやつて見たがやはり思ふ様に行かない、しようがないから水彩式に水筒の水を入れた、油に水を入れたからたまらない、絵具がブツブツになつて収拾出来なくなつた。実際閉口した、なんとか亦水分を取らなければ筆にも附かない、そこで亦水彩式に、ペロリと筆を舐めたからたまらない、口中油具く(ママ:臭く)なつていくら吐出しても、口を濯いでも駄目だ。今から考へると全く滑稽を通り越して馬鹿げた話だが、其時は大真面目だ、笑ふ所か泣き出しそうだ、二人共すつかりシヨゲて、ろくろく口もきかずに帰つてしまつた。(カッコ内引用者註)
  
 絵の具をペロリと舐めた二瓶少年だが、どうやら猛毒な重金属系の絵の具ではなかったらしく、その後、体調はなんともなかったようだ。
 当時、北海中学校には油絵を描く生徒はひとりもおらず、図画を教えていた教師は日本画が専門だった。また、洋画クラブ「黒白会」のある北大には知り合いもいないし、フランス製の油絵の具を売っていた書店に訊いても、使い方までは誰も知らなかった。せっかく手に入れた油絵の具を抱え、彼らはすっかり途方に暮れてしまった。
 ようやく、油絵の具の使い方が判明したのは、別のクラスにいた生徒の兄が東京で洋画の勉強をしていることを知り、その人物にあてて使い方を手紙で問い合わせ、ようやくとどいた返事を読んでからのことだ。こうして、油絵の具は溶剤となるオイルを用いて薄めることや、画用紙ではなく画布や板へ描くことなどを知ることができた。
 おそらく、それから溶剤やキャンバスを手に入れるために、二瓶少年たちは再び苦労をしたのではないかと思われるが、文章は油絵の具の使い方が判明したところで終わっている。もちろん、いちばん苦労したのは、親を説得して少なからぬおカネをださせることだったにちがいない。また、絵の具を飾っていた書店では売っていなかったらしい溶剤やキャンバスを、どこからか取り寄せることだったろう。
 下落合の二瓶等アトリエは、二度にわたる山手大空襲からも延焼をまぬがれ、戦後もそのままの姿で建っていた。一時期は、目白中学校Click!の美術教師だった清水七太郎Click!の紹介で、萬鉄五郎Click!が茅ヶ崎から転居してくる予定だったが病状の急激な悪化でかなわなかった。もし、萬鉄五郎が下落合に住んでいたら、二瓶等アトリエの柱のあちこちに、やたら小刀による彫刻がほどこされ、壁にはクギで描いた細かな線画が描かれていたのを発見しただろうか。それとも、二瓶徳松の妙な性癖は、中学時代のケガに懲りて消えていただろうか?
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新天地194010新天地社.jpg E.マロ―「少年ルミと母親」1931表紙楠山正雄訳.jpg
E.マロ―「少年ルミと母親」1931富山房.jpg
 さて、二瓶徳松(二瓶等)の子どものころの逸話を聞かされた佐伯祐三が、「小刀はあかんで、柱ぎょうさん削んならカンナやないとあカンナ~」と自身のアトリエへ連れていき、細身になった柱Click!を自慢げに見せたかどうか、記録が見あたらないのでさだかでない。

◆写真上:1938年(昭和13)に中国で制作された、二瓶等観『秋(大連風景)』。
◆写真中上は、東京美術学校(現・東京藝術大学美術部)の卒制で描かれた二瓶徳松『自画像』。は、同アトリエ跡の現状。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる下落合584番地の二瓶アトリエ。西隣りまで、延焼の迫っていた様子がわかる。
◆写真中下は、カンナで削られた佐伯アトリエの屋根を支える柱束と方杖。は、1955年(昭和30)制作の二瓶等観『加賀山由子像』。は、戦後に新世紀展へ出品された二瓶等『瓊容像』。戦後は、再び二瓶等観から二瓶等へともどっているようだ。
◆写真下は、1976年(昭和51)にエクアドルで発行された野口英世の記念切手。原画は二瓶等で、角度を変えたバリエーション作品の『野口英世像』Click!を制作していたとみられる。中左は、1940年(昭和15)に発行された二瓶等観のエッセイが載る「新天地」10月号(新天地社)。中右は、二瓶等が挿画を担当した代表的な童話でE.マルロー・著/楠山正雄・訳『少年ルミと母親』(富山房)。は、同童話で数多く描かれた挿画の1枚。

この記事へのコメント

  • いっぷく

    いつも感服しながら拝読しています。
    良いお年をお迎えください。
    2024年12月31日 22:02
  • ChinchikoPapa

    いっぷくさん、コメントをありがとうございます。
    インフルが流行っているようですが、お身体に気をつけて
    年末年始をおすごしください。
    2024年12月31日 23:36