高田馬場駅が起点のダット乗合自動車1931年。

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 目白駅を起点にダット乗合自動車を運行していた、ダット自動車(合)のバス停をご紹介していたので、今回は同様にダット乗合自動車を走らせていた、高田馬場駅が起点のダット乗合自動車(株)のバス停について書いてみたい。
 高田馬場駅を起点とするダット乗合自動車(株)は、1926年(昭和元)12月に設立された旅客運輸会社で、目白駅を起点にしていたダット自動車(合)よりも新しい会社だ。下落合の住民たちは、信濃町や四谷、市ヶ谷、神楽坂方面など、山手線と中央線に挟まれた現・新宿区の内側地域へ出かけるには、山手線の目白駅からではなく、高田馬場駅のダット乗合自動車を利用したほうが便利だったろう。現代の感覚でいえば、東京駅やその周辺の(城)下町へ出るには、目白駅から山手線に乗ってグルッとまわるよりも、高田馬場駅から地下鉄東西線で斜めに大手町まで一気に抜けるほうが、かなり効率的で時短になるのと同じような感覚だったろうか。
 ダット乗合自動車(株)は、高田馬場駅が起点であり同駅に接するすぐ西側の敷地には、同社により折り返し用のターンテーブルが設置されていた。なお、戦後は都電網の整備により、高田馬場駅を起点とする同路線は牛込柳町交差点をへて、中央線の水道橋駅前へと向かう路線に変更されている。ちなみに、今日の都バスで当時のダット乗合自動車に相当する路線は、途中までバス停が似かよっており終点の九段下停留所へと向かう「飯64」系統と、早稲田大学の正門へと向かう学バスの「学02」系統の2路線だろう。
 また、現在は小滝橋車庫まで通じる「飯64」系統のバスだが、当時は小滝橋車庫までの停留所はなく路線は通じていなかった。ただし、1926年(昭和元)末の当時から小滝橋車庫自体は存在しており、ダット乗合自動車と関東乗合自動車の共同利用だったようだ。高田馬場駅が起点のダット乗合自動車(株)は、現在でいえば新宿区の内部へと向かう営業距離がわずか4kmの短い路線で、所有していた車両台数もわずか9台(1933年現在)と少なく、目白駅を起点にしていたダット自動車(合)より規模がかなり小さめな路線だった。
 それは、いずれ江戸川橋から早稲田を経由して、高田馬場駅まで東京市電の延長される計画が見えていたからだろう。ただし、会社の愛称である「だっと」は、利用者の間で広く親しまれたらしく、当時は「だっと」といえば乗合自動車(バス)のことを指していたらしい。戸塚町の資料でも、「だっとが走っていた」という表現を何度か見た憶えがある。
 東京市電のネットワークが整備されていた東京に、初めて乗合自動車(バス)が登場したのは1913年(大正2)4月開業の調布-府中間と笹塚-新宿間の、いずれも郊外を走る京王電気軌道(株)が経営していた路線とされている。だが、実際に乗合自動車が街のあちこちを走るようになったのは、交通網が大きなダメージを受けた関東大震災以降のことだ。
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 東京市内における乗合自動車の路線普及について、1935年(昭和10)に帝国大観社から出版された『大東京大観』より引用してみよう。
  
 大東京に於ける乗合自動車が一般に其の本来の機能を認められ、漸く実用化されるに至つたのは実に大震災後のことに属する。彼の大震火災は大東京の交通施設の上にも一大破壊を齎(もたら)し、殊に市内に於ける運輸交通機関は致命的損傷を蒙り、一時全く其の運行を停止するの止むなきに至つた。其の結果は俄然各種の応急的運輸交通機関の出現となつたが、其の中に在つて自動車の活躍は特に目覚しく、他の応急的代用機関は多く秩序回復と共に其の姿を没したが、独り乗合自動車は依然として優勢の地位を保ち、爾来急激な勢を以て発達し、今日の盛況を見るに至つたのである。現在大東京内に於ける乗合自動車の数は五十三で、(後略/カッコ内引用者註)
  
 東京市が、関東大震災の直後に、交通機能回復のためフォードT型バス=「円太郎バス」800台を緊急輸入した経緯は、以前の記事でも触れたとおりだ。これらの「円太郎バス」は、軌道(レール)の復旧に時間がかかる鉄道や市電に代わり、大震災直後から東京各地を走るようになった。鉄道や市電が復旧したあとも、これらのバスは東京各地で活用され、新たな交通網として1925年(大正14)4月より、東京市営軌道から経営分離し東京市営乗合自動車へ移行している。
 さて、資本金10万円(1926年現在)で設立された、ダット乗合自動車(株)の路線を見てみよう。起点からの停留所は、高田馬場駅前-戸塚役場前-源兵衛-諏訪ノ森-戸塚署脇-横門前-学院前-穴八幡-交番前-感通寺-若松町の順だった。ただし、同路線には2系統あり、高田馬場駅前-穴八幡までは同じコースだが、そこから分岐し、穴八幡-グランド坂上-早稲田と、早稲田大学および市電の終点となる早稲田電停へ向かう路線とがあった。
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 地元の方はすでにお気づきだと思うが、ダット乗合自動車は高田馬場駅から少しだけ早稲田通りを進み、戸塚第二尋常小学校や戸塚町役場をすぎて、字源兵衛の街角を南へ右折すると諏訪社の東側あたりから諏訪通りへと抜け、戸山ヶ原の近衛騎兵連隊(横門前)から早稲田第一高等学院(学院前)、そして高田八幡(穴八幡)で再び早稲田通りへ合流しているのがおわかりだろう。そして、再び早稲田通りを走って馬場下町交番(交番前)から夏目坂を右折すると、感通寺前を通過して市電が通う終点の若松町へと向かっている。
 また、高田八幡(穴八幡)から分岐する別路線は、早大西門がもっとも近いグランド坂上から、戸塚球場(のち安部球場)のあるグランド坂を斜めに下り、やはり東京市電が通う旧・神田上水(1966年より神田川)沿いの終点・早稲田(電停)へと向かっていた。
 さて、早稲田通りおよび江戸川橋から街中へ向かう都電は廃止されたが、地下鉄網が整備された現在の都バスは、かなり走るコースが戦前とは異なっており、また昔の戸山ヶ原に接した諏訪通りを走ることはない。まず、「飯64」系統は起点が小滝橋車庫になっており、高田馬場駅前に停車したあとのバス停をたどると、高田馬場駅前-新宿区社会福祉協議会前(昔の戸塚役場前)-高田馬場二丁目-西早稲田-甘泉園公園前-グランド坂下-早稲田(都電の早稲田電停)-関口一丁目-鶴巻町-江戸川橋-東五軒町-大曲-飯田橋-飯田橋駅前-飯田橋一丁目-まないた橋-九段下(終点)となっている。そのルートのほとんどが、十三間通り(新目白通り)を走り江戸川橋から目白通りへと、新宿区の内部に向かうのではなく千代田区方面へと抜けていく。
 また、「学02」は早稲田通りをそのまま東南へとたどり、高田馬場駅前-高田馬場二丁目-西早稲田-馬場下町-早大正門(終点)となっていて、「飯64」系統が西早稲田から十三間通り(新目白通り)へと入るのに対し、「学02」系統は地下鉄東西線・早稲田駅のある馬場下町や夏目坂の入口を経由して、早大正門へと北上するコースだ。ちょうど、早稲田通りをそのまま東進しない「飯64」系統の“穴”を、「学02」系統の学バスが埋めるような停留所の配置になっている。ちなみに、早大正門のバス停からケヤキ並木がつづく早大通り(旧・正門通りまたは鶴巻通り)を東へ600mほど歩くと、「白61」系統の都立新宿山吹高校前のバス停があり、これに乗車すると江戸川橋を経由して目白駅が起点だったダット乗合自動車と同コースで、目白駅前へ10分程度でたどり着くことができる。
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 こうして、練馬方面から目白駅前を経由して、あるいは高田馬場駅前を起点にして運行をはじめていた、ダット乗合自動車の路線停留所を追いかけてみると、当時のバス路線は、東京の郊外から繁華な市街地の中心部まで通う東京市電の電停まで、いかに効率よく乗客を運ぶかを考えていたのかがわかる。だが、現在の路線は各鉄道(地下鉄)駅への連絡ももちろん考慮されてはいるけれど、ことさら鉄道駅から遠い住宅街、あるいは鉄道駅がないエリアを遠まわりしてでもめぐるように、路線の走行コースが細かく策定されているのに改めて気づくのだ。

◆写真上:JR高田馬場駅の駅前広場にあった「平和の女神」像の噴水あたりから、1983年(昭和58)に撮影されたBIGBOXと西武新宿線の西武高田馬場駅方面。
◆写真中上は、1927年(昭和2)に撮影された高田馬場駅ホーム。右手では、西武高田馬場駅のホームが建設中だろう。は、同じく1927年(昭和2)に撮影された高田馬場駅入口と山手線のガード下。西武線の高田馬場仮駅は、画面左手の山手線外側ないしは内側のどちらかにあった時期で「高田馬場駅の三段跳び」直前の風景。駅前広場は存在せず、諏訪町の街並みが拡がっていた。は、1985年(昭和60)に撮影された高田馬場駅の駅前広場。
◆写真中下は、1931年(昭和6)に高田馬場駅が起点のダット乗合自動車(株)が作成した運行路線図。は、1980年(昭和55)の大改装直前に撮影された高田馬場駅前の「平和の女神」の噴水広場。は、大正末に撮影された東京市営バスに勤務するバスガール
◆写真下は、1932年(昭和7)に撮影された東京市営乗合自動車(いわゆる「円太郎」バス)。は、同年に撮影された東京遊覧乗合自動車(東京ユーラン乗合自動車=現・はとバス)。は、1937年(昭和12)の時点で東京市内を走っていた最新型の乗合自動車。

この記事へのコメント

  • 落合道人

    ふるたによしひささん、コメントをありがとうございます。
    腰骨とその周囲の筋肉は、人のすべての活動を支える重要な部位ですね。
    2025年02月18日 12:07
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    Seesaaブログへ移転されたのですね。こちらこそ、よろしくお願
    いいたします。わざわざお知らせを、ありがとうございました。
    2025年02月18日 22:29