「議会政治の父」あるいは「憲政の神様」といわれた尾崎行雄(尾崎咢堂)Click!は、愛娘を下落合へ嫁がせている。ひとりは、下落合1146番地の衆議院議員だった佐々木久二Click!と結婚した姉の尾崎清香Click!で、もうひとりは下落合から転居したばかりの相馬孟胤邸Click!の長男・相馬恵胤と結婚した妹の尾崎雪香Click!だ。
華族の相馬家には遠慮したのか、雪香にあてた手紙は少ないが、佐々木家で白百合幼稚園Click!を経営していた清香にあてた手紙は大量に残されており、ほとんど数日おきに投函されていた時期もある。また、尾崎行雄は下落合で清香と緊密だった九条武子Click!とも親しかったらしく、最後に「九条夫人に面会の節は……」というような一筆を添えた、彼女に「よろしくね」的な手紙もいくつか残されている。
教科書にも載る尾崎行雄(咢堂)について、もはや説明など不要だろう。明治の議会政治にはじまり、一時期は政権与党に所属したものの、あとはすべて野党または無所属で反藩閥政治・憲政擁護を唱え、ヨーロッパ視察を終えて帰国してからは反軍拡・反軍国主義を解き、日中戦争がはじまると軍部を批判し政党から干されて無所属議員となり、五一五事件Click!や二二六事件Click!では「国賊」呼ばわりされながら軍の政治介入を批判し、政党政治や議会政治そのものを破壊する近衛文麿Click!や東條英機Click!の大政翼賛政治を批判して、多くの学者たちClick!と同様に「不敬罪」をデッチ上げられて検挙され、戦時中は軽井沢の「莫哀山荘」に引きこもるが、1942年(昭和17)に政界から無視され孤立無援で推薦人なしの衆議院議員選挙(翼賛選挙)でも厭戦・反軍国主義の票を集めて当選、敗戦後は連続してトップ当選をはたし一貫して衆議院議員(無所属)だった人物だ。ついでに、いま東京各地で見られる米国のハナミズキ(アメリカヤマボウシ)は、尾崎が東京市長だった大正初期に、ワシントンD.C.へ贈ったソメイヨシノの返礼として東京市へ贈られたものだ。
関東大震災Click!で品川の自邸が崩壊した尾崎行雄は軽井沢に避難し、そこで「山荘」をかまえ、議会や所用のあるときは東京などへ出て、娘宅や各地のホテルに泊まる生活を送っていた。以下、1956年(昭和31)刊行の『尾崎咢堂全集/第12巻』(公論社)より。
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大正十四年六月十二日 軽井沢より下落合へ
清香殿/拝復 いつ来ますか、歌ハ出来たが来なければ見せません。次に来る時上等の鶏の新しき卵があるなら五つばかり持参して下さい。カヘサセテ(暖めさせる事)見やうと思ひます。/タラは益々美味になりました。/九條様にもタラの味を御話し下さい。/ツツヂが立派に咲きました。一つだけ、/火の如くもゆる杜鵑花に見入りつゝ人の心の色を憐れむ
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この時期、佐々木久二邸の南庭には畑がつくられ、農学校へ通う書生にニワトリClick!も飼わせて、新鮮な卵をとっていた。大正期の佐々木邸は、南庭が妙正寺川へとつづく緩傾斜で、のちに畑地のあとには白百合幼稚園が建設されることになる。また、邸内にあった屋内湧水プールClick!も、建設されるかされないかの時期だろう。手紙にある「タラ」とは、軽井沢でとれる山菜“タラの芽”のことで、九条武子が好きなら送るよ……と書いている。清香によれば、父親は「タラの芽のおしたし」が大好物だったようだ。
軽井沢にいると、なにやら別荘生活でも送っているように映るが、尾崎行雄は議会がなければ各地での演説会に追われる日々を送っており、軽井沢の自宅へ帰るとさっそく娘に手紙を書いていた。この年の秋は、信州各地をまわっては自宅にもどる生活だった。
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大正十四年十月八日 軽井沢より下落合へ
啓、栗は御身帰京の翌日よりバラバラ落始め候。(和歌略) 木の葉も沢山落ち候/山荘の道は落葉に埋れともせゝらぎのみは清く掃ひて/之を自分の仕事に致居候。ヲンドルの工合ハ益々宜しき故今日益田老へ(註、益田孝氏)重ねて謝状を送り候(和歌略)/与謝野氏夫婦ハ紅葉時節に来宿する由、御身ハ手伝ひに参れぬにや。/武子夫人ハ尚在京か
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清香が軽井沢を訪ねたあと投函された手紙のようだが、「与謝野氏夫婦」とは与謝野鉄幹Click!・与謝野晶子Click!夫妻のことであり、政治・社会思想もそうだが和歌を通じても親しかったのだろう。九条武子Click!も歌詠みなので、「ヲンドルで暖かくしてるから、もし時間があれば遊びにこないかどうか、ちょっと訊いてみて」と、暗に娘へ頼んでいる。華族にもかかわらず、さまざまな社会事業を起ち上げボランティア活動に邁進する彼女に対して、尾崎行雄は常に好意的だ。なお、酷寒の軽井沢でも快適にすごせたせいか、清香は下落合の佐々木邸にも「ヲンドル」を導入している。
10ヶ月後になるが、多忙な九条武子Click!は親しい清香あてに、グチめいた手紙を寄こしている。1926年(大正)7月2日の九条武子から佐々木清香あての、長文の手紙より。
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ほんとに私はつまらなく暮らしてをります。たゞあくせくと/歌も自分でいやだとおもひますのさえ強いて発表しなければならないつらさもつくづくしらされまして、これでは何の為に自分があるのかと、ときどきかへり見て自分で自分を気の毒がつております。まあ他人様に御同情を強ゆるのでなく世話が御座いませんから。/つまらぬこと、しかも本来の乱筆にてかきちらし御ゆるし遊ばしていたゞき度、のみならず、御らむの後はこまかに御きりすて下さいませ何卒。 御機げむよく/たけ子
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清香は「こまかに御きりすて」ることなく、彼女の手紙をたいせつに保存していた。上掲の引用は、長文の末尾にあたる部分だが、自身の思想性と特権階級の華族をつづける矛盾とに、ついグチをこぼした九条武子Click!にはめずらしい親友への本音手紙だろう。
尾崎行雄は、白百合幼稚園の命名者でもあった。同園創立のころ、1927年(昭和2)の演説会や講演会で多忙なあい間をぬって書かれた、娘への手紙から引用してみよう。
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昭和二年二月二十五日 神奈川県金沢町より下落合へ
復啓 福井名物の魚賞味致居候(中略) 〇幼稚園の命名は困難に候/白百合、すみれ、鈴蘭、昭和、落合/などは如何。雪香にも考へるやう話置候
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この当時は、南庭には畑のほかにダンスホールを建設して、家族や友人たちで楽しんでいた佐々木邸だが、幼稚園の開設を勧める知人があり、子ども好きな佐々木久二がさっそく役所から開園許可をもらい「白百合幼稚園」と命名している。なお、この時点で尾崎雪香は相馬恵胤との結婚前で、父親といっしょに暮していた時代だ。
ここで少し余談だが、下落合には白百合幼稚園の出身者が少なくない。空襲で全焼した同幼稚園だが、戦後も同じ敷地に再建され周辺の子どもたちを引きつづき集めていた。園長だった佐々木清香の話も、卒園した人たちからうかがっているが、そこでしばしば話が嚙みあわないことがあった。わたしは、白百合幼稚園が当初開園していた下落合1146番地=佐々木邸のつもりで話していると、卒園者は高良興生院Click!の西隣りにあった移転後の敷地(下落合1820番地)の風情を話される。同幼稚園がいつ移転したのかを調べてみると、どうやら1935年(昭和10)前後らしい。白百合幼稚園の元の場所と、おそらく園児が増えて移転した敷地とは150mほどの隔たりがある。新しい園舎は、「玄米正食」=macrobiotique(マークロビオティク)の創立者で有名な、桜沢如一・里真夫妻Click!がかつて住んでいたマンションの向かいにあたる敷地に建っていた。
1927年(昭和2)の暮れ、佐々木清香は洗礼をうけキリスト教に入信している。尾崎行雄のネーミング提案から「白百合」を選んだのも、すでに同年の初めからそのような心づもりがあったのかもしれない。だが、父親は政治家で思想家でもあったためか宗教を拒否し、清香は「信仰の話をするとこわい顔をし」たと書き残している。
このあと、尾崎行雄はヨーロッパの視察旅行に出発しているが、1933年(昭和8)に帰国すると、より頻繁に清香との交流がつづくことになる。手紙にも、仕事の合い間に「ユックリ共に遊びたく候」と書くほど、清香との時間をたいせつにしていたようだ。また、尾崎行雄はアンコウ鍋に目がなかったらしく、娘がアンコウ鍋をつくると聞くと下落合へやってきた。このころ、佐々木邸では父親からの要望で中国からの留学生を預かっており、女子は羽仁吉一・もと子夫妻Click!と相談して自由学園Click!に入学させたりしている。
その後、佐々木家へ「政界の近状朝野共に痛嘆に堪へざるもの多し」と書き送るほど、日本は軍国主義によるファシズム状況を招来し、近衛文麿Click!の日独伊三国軍事同盟に反対し、東條英機Click!の選挙妨害では「不敬罪」をデッチ上げられ検挙(1942年)されるが、一審では有罪だったものの1944年(昭和19)の最終審では無罪判決を勝ちとっている。だが、無罪判決が下りたころには、尾崎行雄が「万一米国と開戦にでもなれば」と懸念しつづけていた国家の破滅・滅亡という、未曽有の「亡国」状況がすぐ目前に迫っていた。
◆写真上:下落合の白百合幼稚園で開催されたクリスマスパーティーで、同園のOB/OGから三角帽をかぶせられ、「………」と憮然とした表情の「憲政の神様」こと尾崎行雄(咢堂)。左が愛娘で同園長の清香と、右が娘婿の佐々木久二。
◆写真中上:上は、1935年(昭和10)作成の「淀橋区詳細図」にみる下落合1146番地の白百合幼稚園。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合1820番地へ移転後の同幼稚園。下は、下落合1820番地の同幼稚園跡の現状(右手)。
◆写真中下:上は、雑司ヶ谷道(新井薬師道)Click!に面した下落合1146番地の佐々木久二邸正門。中は、同邸の母家。下は、同邸跡の現状(左手全体)。
◆写真下:上は、1937年(昭和12)に乗鞍岳の山頂付近で撮影された尾崎行雄。中上は、1939年(昭和14)に撮影された佐々木邸で天津市市長(左)と佐々木久二の学友である広田弘毅(中)と尾崎行雄(右)。中下は、1941年(昭和16)に議会では孤立無援となったころ撮影された尾崎。下は、1956年(昭和31)に公論社から出版された『尾崎咢堂全集/全12巻』。
★おまけ
1930年(昭和5)に開かれた白百合幼稚園クリスマス会の記念写真で、沖野岩三郎Click!の孫が写る。沖野は「園長がクリスチャンだったから」と入園させた理由を書いているが、尾崎行雄の長女・清香だったことは知らなかったようで触れていない。沖野の孫の両親=息子夫婦は、ふたりともヨーロッパへ留学中で、孫は沖野岩三郎・ハル夫妻が育てていた。
この記事へのコメント
サンフランシスコ人
忘れていました...
「近衛文麿の日独伊三国軍事同盟に反対し....」
日独伊三国軍事同盟は大失敗でしたね...
ChinchikoPapa
尾崎行雄が最初に贈ったソメイヨシノは、育成管理が悪かったか害虫のせいかは不明ですが、ほどなくワシントンで枯れてしまい、何度か東京から贈りなおしてますね。いまワシントンで根づいたソメイヨシノは、日本から植木職人が出かけて世話をしたものか、あるいは米国から職人が派遣されて育成法を学んだものでしょうか。
春になると、落合地域のあちこちでもサクラのあとを追うように、ハナミズキが開花しています。