落合町の長者番付に載る裕福な小林和作。

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 上落合で暮らした小林和作は戦後、「尾道の画家」というようなイメージで呼ばれることが多いが、彼は好きこのんで東京を離れたのではなかった。彼は最初、京都で日本画家として出発しているが、途中で洋画家に転向している。
 日本画家の当時は、京都の竹屋町西洞院西入ルの川北霞峰に師事し同家に寄宿していたが、どうしても日本画の世界が肌にあわず30歳になると、1918年(大正7)に洋画を勉強するため東京へとやってきている。郷里である山口県秋穂町(現・山口市)の女性と結婚したことも、東京へやってくる契機になったのかもしれない。
 最初に住みついたのは、落合村(1924年より町制施行で落合町)の上落合ではなく下落合のほうだった。五ノ坂の中ほど、古屋芳雄邸の隣りに建っていた下落合2113番地あたりの借家だったが、周囲には古屋邸以外に家もなにもなく、また買い物はもちろん、どこへ出かけるにも不便だったので、当時は東中野駅寄りでやや賑やかな街並みだった、同駅から直線距離で600mほどの上落合537番地へほどなく転居している。当時の様子を、1975年(昭和50)に求龍堂から出版された『小林和作全文集/秋の旅』より引用してみよう。
  
 下落合の家は新築ではあったが、近所には家が一軒しかなく、野原の中に孤立していて、風の吹く夜などはひどく淋しく、いたたまらぬようであったので、気の早い私のことであったから、そこに十日ぐらいいてその間に上落合の方に別の家を捜し、そこへ移った。その頃は下落合の辺は家が少なく、夜道などことに淋しかったのである。/一軒しかなかった隣家は医者で官吏でもあった古屋芳雄氏だったが、この人は絵に興味があり、岸田劉生がその肖像を描いたこともあり、また中川一政の初期の美しい風景画を持っていた。(中略) この上落合の家には一年半ぐらいいた。大震災にもこの家であったのだから思い出は深い。家主は佐藤という若夫婦で、私の家の隣家に住んでいた。(中略) 林重義君は、私の家から一町ばかり離れた家に一家三人で住みつき、つづいて林武君が重義君の筋向いの家に移って来た。これは、武君がまだ若くて、そう豊かでもなかったので、私の絵の方の指導者のような役をして貰うために迎えたのである。
  
 このあと、小林和作は自宅を訪問する林武から家庭教師のように洋画の手ほどきを受けているが、彼は同時にあこがれだった中川一政梅原龍三郎にも作品を見てもらっていた。拙ブログでは、これまでさまざまな画家たちを紹介してきているが、林武・中川一政・梅原龍三郎と3人もの師匠を同時にもっていた洋画家は初めてのケースにちがいない。上落合には、おそらく春陽会の会員に推挙される直前、大正末ぐらいまで暮らしていたと思われる。それまでにも、小林和作は春陽会展へ作品を出品しては入選を重ねていた。
 大正末ごろになると、小林和作は本人の言葉によれば「金持作家」として、画家仲間の間ではつとに有名になっていたようだ。父親は山口の裕福な大地主であり、彼は京都に下宿させてもらいながら、京都市立美術工芸学校と市立絵画専門学校(現・市立藝術大学)の、ふたつの美術学校を卒業させてもらっている。1922年(大正11)に父親が死去するとともに、彼は莫大な遺産を受け継ぎ自由に消費できる身となっていた。
 「(上落合の)借家などにいてはおかしい」という知人もおり、自身のアトリエを上落合の南側、中野町上ノ原921番地(現・東中野2丁目)の高台に購入している。中央線・東中野駅から100mほどの「一等住宅地」で、敷地が800坪で建坪が200坪弱の大邸宅だったらしく、当時の外相だった伊集院彦吉が建てた住宅だった。おそらく、このような大邸宅をアトリエにしていた画家は、あとにも先にも小林和作ぐらいのものだろう。だが、せっかく手に入れた“大アトリエ”だが、伊集院家の人々がなかなか立ち退いてはくれず、小林和作が住めるようになるのは少し先のこととなった。
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 小林和作が昭和初期に中野の大邸宅を手に入れ、またヨーロッパへ外遊に出かけようとしていた1927年(昭和2)の現在、彼の財産は落合町でも10指に入るほどの莫大なものだった。貞文舎から刊行された『大日本長者年鑑 昭和二年版』では、落合町で10人の「長者」が紹介されているが、以下、相馬孟胤(子爵)、長瀬富郎(花王石鹸社長)、野々村金五郎(開発社社長)、松永安左衛門(東邦電力社長)、島津源吉(島津製作所常務)、佐々木久二(京浜電力常務/衆議院議員)、井手元太郎(大地主)、内山熊八郎(柏崎運輸社長)、竹岡陽一(東邦電力常務)、そして小林和作(画家)という顔ぶれだった。当時の画家は貧乏と相場が決まっていたので、職業欄に「画家」と書いてあるのを見た当時の人々は「ハァ?」と、なにかのまちがいか誤植ではないかと感じただろう。彼がいかに画家仲間では“浮いた”存在であり、またケタちがいの人物だったかがわかる。
 小林和作の裕福さを、1967年(昭和42)出版の林武『美に生きる』(講談社)より。
  
 (林武アトリエへ)京都から小林和作が林重義をつれて訪ねてきた。日本画をやつてゐた小林和作は、亡父の莫大な遺産がころがりこんだのを機に、油絵に転向する決心をしたのであつた。彼は、京都の二科展に出品してあつた僕の二科賞の静物画を買つて上京し、最初に僕の家を訪ねてきたのである。/小林和作は、さつそく落合村に家を借り、また、林重義と僕にも家を借りてくれた。家賃をもち、そのうへ、傑作ができたら買つてくれるといふわけであつた。三人は小林の家をアトリエにして、盛んに勉強した。(カッコ内引用者註)
  
 この証言によれば、小林和作は林武林重義の借家2軒分の家賃を払い、また自身は東中野駅寄りに大きめな家を借りて、アトリエにふたりを招きながら洋画を勉強しつつ制作していた様子がうかがえる。さらに、このウワサを聞きつけた画家たちが上落合に集合しはじめ、小林和作は彼らの面倒もみていたようだ。当時は、いまだ西武線の中井駅は存在しておらず、鶏鳴坂の入口にあたる上落合537番地(現・上落合2丁目13番地)の中村和作アトリエを頼って画家たちが集合していた“アトリエ村”は、妙正寺川も近い寺斉橋の周辺だったと思われる。
 さて、東中野の大邸宅に移った小林和作は、40歳になった1928年(昭和3)に本場の洋画を学ぶためヨーロッパへと遊学している。彼のエスコート役として、すでに渡欧経験のある林倭衛や林重義とともにモスクワやベルリン、パリ、ロンドンなどを見てまわり(もちろん費用は小林和作もち)、パリ市内では宮田重雄の世話でアトリエを借りている。さらに、山脇信徳のガイドでイタリア旅行にも出かけており、ヨーロッパ各地をスケッチしてまわっている。
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 小林和作がパリにいたとき、ちょうど滞仏中の佐伯祐三に出会っている。そのときの佐伯は、すでに衰弱が激しく錯乱状態に近かったようで、彼は看病中の米子夫人をサポートしたものか、のちに彼女のエッセイでは小林和作の支援に感謝する一文が残されている。おそらく、経済的に余裕のある小林和作は、金銭的な面で佐伯一家をバックアップしたのだろう。1929年(昭和4)に帰国すると、小林和作は春陽会を脱退して、翌1930年(昭和5)には独立美術協会へ参画することになった。だが、日本画家をやめ洋画家としてスタートをきり、順風満帆の10年間を送ってきたように見える彼だったが、破滅は目の前に迫っていた。
 金融恐慌から大恐慌へと向かうなかで、大阪にいた実弟が突然東中野の家にやってきて、小林一族を召集した。以下、『小林和作全文集/秋の旅』からつづけて引用してみよう。
  
 それは「実は小林家の財産は全滅した。この東中野の家も銀行の抵当には入って(ママ)いるから、そのうちに引き渡さねばなるまい。これは皆私の過失だが、皆も今まで人なみ以上に賑やかな生活をしたのだから、もはや夢をさましたらどうか。」と洒々という。この弟は私の弟のうちでは、もっとも冷血な方で、こんな大失敗をしても、たいして自責の念はなかったようである。(中略) この倒産事件で、私はすぐに東京を引き払って、今までの生活を改めるべきであったが、まだ東京に未練があったのと、何かの奇蹟で、私方の財産が復活しはせぬかとの空頼みで、その後もしばらく東中野の家にいたが、ついに家を銀行に引き渡さざるを得なくなり、借家を捜して上落合へ移った。/ここは以前にいた上落合の家の近所であったが、こんどは前の家より建物が粗末で、かつ近所もやや騒がしかった。
  
 大阪の弟は、財産をほとんどすべて株に投資していたが、株価の大暴落でぜんぶが紙きれ同然となってしまったのだ。小林和作は、上落合で再び家を借りているが、この家の住所は短期間なのでいろいろな資料をあたってみたが不明のままだ。上落合537番地の近所と書いているので、昭和通り(現・早稲田通り)に面した映画館・公楽キネマの近くだろうか。
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 小林和作を独立美術協会の入会へ誘ったのは、昔なじみの林武や林重義、伊藤廉らだったが、最後には川口軌外里見勝蔵が念押しの勧誘に上落合へやってきている。彼は独立美術協会の会員になると同時に、いつのまにか上落合から姿を消していた。故郷の山口へ帰るのは、なにかと具合が悪く恥ずかしいので、山陽本線を途中下車し広島県の尾道で借家を探すことになった。それまでにも何度か、小林和作は風景画を描くために尾道を訪れている。そして尾道市長江町6番地(現・尾道市長江2丁目18番地)、これが小林和作の新たなアトリエであり、終の棲家となる住所だった。

◆写真上:尾道にアトリエをかまえて、瀬戸内海の風景を写生する小林和作。
◆写真中上は、1927年(昭和2)に制作された小林和作『上高地の秋』。中上は、1928年(昭和3)に制作された同『婦人像』。中下は、上落合537番地に住んでいた1921年(大正10)ごろに撮影された小林和作。下左は、1975年(昭和50)に出版された小林和作『秋の旅』(求龍堂)。下右は、1967年(昭和42)に出版された林武『美に生きる』(講談社)。
◆写真中下は、渡欧した1928年(昭和3)に制作された小林和作『アマルフイ風景』。中上は、同じ年に制作された同『カプリ島風景』。中下は、戦後の1948年(昭和23)に制作された同『妻の像』。は、1952年(昭和27)に制作された同『阿波の海』。
◆写真下は、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」にみる小林和作アトリエがあった上落合537番地。中上は、1956年(昭和31)に制作された小林和作『伯耆大山の秋』。中下は、同年に制作された同『桃』。は、山岳風景をスケッチする晩年の小林和作。

この記事へのコメント

  • pinkich

    papaさん いつも楽しみに拝見しております。小林和作は裕福な家柄であったものの、金融恐慌で生活が一変したようですね。ところで、日本橋の三井記念美術館で開催されている円空展を観て参りました。実物を拝見したのは初めてでした。papaさんの昔の記事に中井の円空仏についてのものがありましたね。確かに、目の部分の着色は何とかならないでしょうかね。せっかくの円空仏が台無しになっているようです。日本橋界隈もかなり変貌していて驚きました。コレド?の前にまたしても巨大な高層ビルが建設中なのが目を引きました。papaさんからすれば、今の日本橋周辺は昔の面影などなくなっていると感じられるのでしょうね。
    2025年02月13日 20:21
  • 落合道人

    pinkichさん、コメントをありがとうございます。
    日本橋の円空展は知りませんでした。情報をありがとうございます。
    ご指摘の目の部分の着色、なんとかならないですかねえ。円空の作品は、
    その多くが目を閉じるか、不動尊など憤怒の形相で目をわずかに開けて
    いても、瞳を彫らない作品がほとんどですので、あまりに円空仏に対し
    て無知な行為だと思います。特に、矜羯羅と制多迦は目を閉じていた
    はずで、まぶたを白く塗って目を書き入れるなど論外です。スペインの
    キリストを「猿」にしてしまった、「Ecce Homo」壁画事件を思い出して
    しまいました。
    円空仏ではないですが、最近、練馬高野台にある長命寺の四天王像(木彫)
    が、同様に目が白い絵の具で塗られていて、異様な感じがしたのを憶え
    ています。仏師は、木肌の模様まで意識しつつ彫り進めていると思うの
    ですが、中井の円空仏ケースは作者を無視した台無し行為ですね。絵の具
    (ペンキ?)が、木肌まで深く染みこんでしまっているとすれば、文化財に
    対し犯罪的ですらあります。
    わたしがモノ心つくころ、高速道路のない日本橋の情景はかすかに憶えて
    いますが、おぼろげで幻のような記憶となっています。
    2025年02月13日 21:52