犬のお巡りさんと迷子の仔猫ちゃんの下落合。

佐藤義美邸1928.jpg
 下落合1727番地(のち下落合3丁目1728番地)に住んだ佐藤義美の名前は、子どものころに相模湾とのつながりで、どこかで目にした憶えがある。当時、家でとっていた神奈川新聞の紙面でか、あるいは別の新聞か雑誌での紹介記事を目にしたものだろうか。それは、佐藤義美とディンギー(小型ヨット)Click!に関するおぼろげな記憶だ。
 さっそく、佐藤義美について調べると、彼は1966年(昭和41)に逗子市桜山に作品を創作する仕事場を借り、ディンギーを所有していたことがわかった。その紹介記事を、小中学生のわたしはどこかで目にしたのかもしれない。あるいは、相模湾Click!で開催されたディンギーレース記事に、ひょっとすると佐藤義美が出場して紹介されていたものだろうか。その佐藤義美が下落合の住民だと知ったのは、つい最近のことだ。
 それは、彼が早稲田大学に在学中、自身で設計して建てた西洋館の写真を見つけて、下落合の番地とともに強い既視感をおぼえたからだ。(冒頭写真) 彼は、1928年(昭和3)に下落合1727番地へ両親や兄弟姉妹たちと住む自邸を設計している。もちろん、建設資金は親が出し設計のみを担当したとみられる。わたしは佐藤邸を実際に見たわけではなく、既視感があるのは以前、振り子坂沿いに建っていた家々をご紹介Click!した記事や、下落合1986番地の赤尾好夫邸Click!で設立された欧文社(旺文社)について書いたが、その記事の中で山手坂の尾根上に建つ大きな西洋館の印象が強かったからだ。
 わたしは、振り子坂沿いの記事で同邸を「上田」邸と特定したが、それが誤りであることも判明した。1938年(昭和13)に作成された「火保図」によれば、上田邸は佐藤邸の2軒北側であり、1935年(昭和10)ごろに撮影されたとみられる振り子坂沿いの写真では、佐藤邸の右側に見える2階建ての日本家屋が高津邸で、高津邸のさらに右手の屋敷林に囲まれた大きな2階家が上田邸ということになる。当時、下落合の住宅敷地は150~200坪はあたりまえの時代なので見誤り、敷地を特定するわたしの目が狂っていたのだろう。
 また、1932年(昭和7)の淀橋区の成立とともに、下落合でも番地変更が実施され、佐藤邸は下落合1727番地から下落合3丁目1728番地へと変わっている。したがって、たとえば1974年(昭和49)に佐藤義美全集刊行会から出版された『佐藤義美全集』の年譜などに書かれている、「淀橋区下落合三丁目一七二七番地」は佐藤邸の北隣りにあたる高津邸を指すことになり誤りだ。1928~1932年(昭和3~7)が「下落合1727番地」で、1932年(昭和7)10月以降は「下落合3丁目1728番地」という表記が正しい。また、同全集には住所に添えて「通称、目白文化村」とも紹介されているけれど、下落合1727番地は目白文化村Click!のエリアではなく、正確には第二文化村の南側に近接し、いまでは消滅してしまった矢田坂Click!の丘上住宅街に建つ邸……ということになる。
 佐藤義美は、1905年(明治38)に大分県直入郡岡本村(現・同県竹田市)で生まれ、15歳の時に視学(教育現場の監督をする教育委員のような役職)だった父親が転勤し、横浜市本牧町に転居している。横浜では、横浜二中(現・県立翠嵐高校)へ編入し、当時は画家をめざして父親と野外写生によく出かけていた。なお、横浜二中の同級生には作曲家となる高木東六Click!がいて、童謡に親しむきっかけのひとつになったようだ。1923年(大正12)に起きた関東大震災Click!で横浜の家が全焼し、それまで買い集めていた画道具や描いた作品をすべて失っている。そのかわり、詩や童話などに興味をおぼえ、「童話」「金の星」「赤い鳥」「少女」「コドモノクニ」などへ作品を次々と投稿しはじめるようになった。
 1925年(大正14)、早大第二高等学院文科に合格すると、1927年(昭和2)には早大文学部国文科へ進んでいる。このころから、童話や童謡詩を次々に児童雑誌へ発表し、また伊藤真蒼や渡辺増三、金子みすゞらとともに同人誌「曼珠沙華」に参画、また学友だった石川達三Click!や新庄嘉章らと同人誌「薔薇盗人」を創刊している。さらに、巽聖歌Click!や北島昌訓らと童謡雑誌「紅雀」を創刊、つづいて雑誌「棕櫚」を刊行と、児童文学の分野でめざましい活動をはじめた。ちょうどそのころ、佐藤義美は上述のように自身が設計した下落合1727番地の洋館に、家族全員で転居してきている。
佐藤義美邸1935頃.jpg
佐藤義美邸1938.jpg
佐藤義美邸1947.jpg
 1932年(昭和7)に早稲田大学大学院を卒業すると、府立第三商業学校(現・都立第三商業高校)に国語・作文の教師として就職している。このころから、下落合の自邸を発行所とした雑誌「ETUDE」を刊行し、また高原書店から詩集『存在』を出版している。その後、さまざまな雑誌へ物語・童話・詩・童謡などを発表していくことになる。1935年(昭和10)ごろから、神奈川県の海辺などで兄弟そろってディンギーに親しむようになり、1939年(昭和14)に葉山海岸で6年前から知りあっていた青木民と結婚。同時に、下落合の家を出て目黒区上目黒6丁目の静宏荘8号室にふたりで住みはじめるが、母親の健康がすぐれないため2年後の1941年(昭和16)に夫妻は下落合へともどっている。
 同年、佐藤義美は日本出版文化協会の児童課課長補佐に任命され、戦時にそぐわない児童向け出版物の検閲を命じられているが、親しい作家仲間を同課へ招聘して「反戦」を唱える詩歌や童謡、児童文学、物語などへ出版許可を出しては軍部に目をつけられている。当時、秋田雨雀Click!が書いた反戦童話集『太陽と花園』などに出版許可をスルーで出していたのは、彼の「検閲」仕事だ。当然、軍部が介入し圧力を加えるようになり、翌1942年(昭和17)に日本出版文化協会を辞職している。敗戦後、1967年(昭和42)に発表されたエッセイ『人間らしい』で、佐藤義美はこんなことを書いている。
  
 アメリカが、広島長崎に原子爆弾を投下して一瞬に百万の人間を死傷させた。アメリカの当時の人々を「人間らしくない」とたやすく言うのは、日本の当時の人々を「人間らしい」というためだ。原爆投下の事実には、投下したのと投下されたのとのオモテウラがあるから、そう言えるのだ。これは生者にとっての場合で、死者にとっては、死だけだからオモテウラはない。アメリカ人を「人間らしくない」とすれば日本人も「人間らしくない」。日本人を「人間らしい」とすれば、アメリカ人も「人間らしい」ことになる。(へんな人間だ)。/現在、どこかで、人間が人間を殺している。優秀?な科学兵器を用いて。それを世界の人々は「許している」「とがめていない」(のと同一結果)。このようなバカなことを他の動物はできないし、しないから、それを「人間らしくない」と誰が言えるか。
  
 戦時中、彼の著作はほとんどすべてが「英米的(な思想)」と規定されて発禁処分となり、1943年(昭和18)には最愛の民夫人(27歳)を喪って、はかり知れないダメージを受けている。そして、戦後は「日米戦争の核爆弾で詩人の私は死んだ」という感慨を強く抱くようになった。そして、おもに子どもたちが読む童謡や絵本童話の領域への作品に注力するようになる。戦後1946年(昭和21)に日本児童文学者協会が創立され、佐藤義美は最初の発起人のひとりとして参画している。以降、戦後の活躍と彼の膨大な作品群は、児童向けの詩や児童文学が好きな方なら誰でも周知のことだろう。
佐藤義美邸2_1932.jpg
佐藤義美邸跡.jpg
佐藤義美(三商教師時代).jpg
佐藤義美(散策).jpg
 佐藤義美の詩に曲をつけた童謡は、熊倉一雄や小鳩くるみ、ボニージャックス、真理ヨシコ、宍倉正信、コールmegなど多くの歌手たちが歌いつづけた。中には、知らない人はいないだろうと思われる歌もある。たとえば、1960年(昭和35)に発表されたのが次の詩だ。
  
 いぬのおまわりさんClick!
 まいごの まいごの こねこちゃん あなたの おうちは どこですか
 おうちを きいても わからない なまえを きいても わからない
 にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん
 ないてばかりいる こねこちゃん いぬのおまわりさん こまってしまって
 わん わん わん わん わん わん わん わん (以下略)
  
 同詩には大中恩が曲をつけて、実に65年後の今日まで唄い継がれてきた。佐藤義美は、同作が掲載された『佐藤義美童謡集』(音楽之友社)の「あとがき」で、自身の詩作を「子どもと私との限界を認めないところで成立させてきた」から、あえて子どもたちが自分の詩を唄っているのを聴くと素直にうれしいと書いている。
 すなわち、作品を発表するのがたまたま児童本や童謡雑誌であったとしても、大人と子どもとの区別をあえてせずに創作をつづけてきたと、改めて宣言しているのだ。換言すれば、採用され掲載されるのが子ども向けメディアであっても、自身の詩はことさら子どもを意識した、対象を子どもに特定する作品とは限らないということだ。
 そのような彼の“想い”や記憶を知ってみると、上掲の「いぬのおまわりさん」もなにやら意味深の詩に思えてくるから不思議だ。「迷子の仔猫ちゃん」は、彼自身の姿を投影したものではないか。「犬のお巡りさん」は、落合地域へ頻繁に出没し戦時中に自身がひどいめに遭った特高警察Click!の「おまわりさん」あるいは憲兵隊Click!で、「ニャンニャンニャン(知らぬ存ぜぬ)」を繰り返して困らせ煙に巻いていたのではないか……などなど、戦争をはさんでいるがゆえに、彼の詩はいろいろな想像をかき立ててくれるのだ。ちなみに、「いぬのおまわりさん」が書かれたのは残念ながら下落合ではなく、当時住んでいた目黒区平町(たいらまち)61番地(現・同区平町1丁目)か、あるいは頻繁に訪れていた相模湾の海辺だろう。
いぬのおまわりさん楽譜.jpg
いぬのおまわりさん挿画.jpg
佐藤義美(ヨット).jpg
 面白いエピソードが残っている。1958年(昭和33)に、佐藤義美はミツワ石鹸Click!からの依頼を受け、同社製品のCMソング「しゃぼんのくにの おひめさま」を作詩している。もちろん、仕事を依頼したのは同社の宣伝部長で副社長でもあった、下落合1丁目360番地(現・下落合3丁目)に住む衣笠静夫Click!だろう。同社のCMといえば、「♪わっわっわ~輪が三つ」の衣笠曲が有名だが、同曲は1960年代に入ってからTVで流されたCMソングだ。1950年代末の「しゃぼんのくにの おひめさま」は、はたしてどのような歌だったのか、♪だぁれ~にきいてもわからない、なまえ~をきいてもわからない~、にゃんにゃんにゃにゃ~ん。

◆写真上:1928年(昭和3)竣工の、自身が設計した下落合1727番地の佐藤義美邸。南面する庭では、竣工祝いのパーティーが開かれているようだ。
◆写真中上は、1935年(昭和10)ごろに撮影された佐藤義美邸とその周辺。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同邸。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同邸で周辺は戦災を受けておらず戦前からの住宅がそのまま残る。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に下落合の自邸前で撮影された佐藤義美(左から2人目)と家族。中上は、山手坂の尾根上筋にあたる佐藤義美邸跡の現状(右手)。中下は、東京府立第三商業学校の教師時代に撮影された佐藤義美と戦後の散策する同人。
◆写真下は、作曲・大中恩の「いぬのおまわりさん」の楽譜とイラスト。は、ディンギーを気持ちよさそうに操る佐藤義美だが背後は相模湾西部の伊豆半島か? 三浦半島から伊豆半島へ相模湾の横断レースがあるが、その際の記念写真かもしれない。
おまけ
 山手坂沿いの家々を描いた、1930年(昭和5)制作の宮下琢郎『下落合風景』Click!。手前のモダンハウスが佐久間邸で、鎗型フィニアルClick!を載せた佐藤義美邸もとらえられている。下は、ほぼ同時期に改正道路(山手通り)工事予定の赤土山Click!から撮影された写真。宮下の画面と比較すると、和館の3軒が洋館として描かれるなど構成意図がわかって面白い。
宮下琢郎「落合風景」1930.jpg
山手坂周辺.jpg

この記事へのコメント