1944年(昭和19)5月に、下落合へ転居してきた作家がいる。いや、当時はいまだ中学校の生徒で13歳だった。父親は、目白通りの北側の長崎で生まれ、母親は東京市街地=(城)下町Click!生まれの町っ子で、結婚して子どもが生まれると下落合にアトリエをかまえている。父親は、二科の洋画家・田口省吾Click!だった。
祖父の小説家で美術評論家だった田口掬汀(田口鏡次郎)は、長崎村新井1832番地(現・目白5丁目)の広い敷地に、自邸および美術誌「中央美術」Click!を編集する中央美術社Click!、さらに乳母も同居できる息子のための大きなアトリエを建設している。田口省吾については、宮崎モデル紹介所Click!から派遣されモデルをしていた淡谷のり子Click!(モデル名「霧島のぶ子」Click!)とのエピソードを、これまでいくつかご紹介Click!していた。淡谷のり子Click!も一時期、上落合および下落合で暮らしている。
田口省吾は吉村信子と結婚すると、夫人とともにフランスへ留学し男の子が生まれているが、その子はパリで病死している。1932年(昭和7)に帰国すると、再び男の子が生まれ哲男と名づけられた。つづいて、女の子も生まれている。夫妻の帰国後、田口一家は1933年(昭和8)現在、下落合3丁目1447番地へと転居してくる。八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)を少し西へ入った、第三文化村Click!のすぐ南側に隣接する少し下がった敷地だ。前年まで、ここには宮田重雄Click!がアトリエをかまえていた敷地なので、アトリエ建築もそのまま田口省吾が受け継いだのかもしれない。
1936年(昭和11)に「中央美術」が12月号で廃刊し中央美術社をたたむと、一家は再び目白通りをはさんだ北側の長崎地域へともどっている。1937年(昭和12)の『日本美術年鑑』(美術研究所)によれば、転居先は「長崎南町一ノ一九四〇」となっているが、1940番地は1丁目ではなく2丁目なので、長崎南町2丁目1940番地が正しいのだろう。現在の、豊島区立富士見台小学校のすぐ西側あたりの敷地だ。このあと、2年ほどして田口一家は杉並区の井荻へと転居している。
1939年(昭和14)の『美術綜覧』(国民芸術研究所)によれば、田口省吾は杉並区井荻3丁目40番地へ転居している。現在の、東京女子大学のすぐ東側にあたる敷地だ。だが、1943年(昭和18)8月9日に田口掬汀が死去すると、わずか5日後の8月14日には田口省吾が結核で死去している。義父と夫を一度に喪った信子夫人は、息子の哲男と娘を連れて翌年5月に、再び下落合へと転居してくる。
田口省吾が死去しているので、下落合での住所は不明なのだが、目白通りをはさみ夫と結婚当初から暮らしていた長崎の住所の近く、あるいは以前の第三文化村に隣接していた旧居に近い、目白通り沿いの土地勘のある西洋館だったのではないだろうか。母親の信子夫人と兄妹は、この下落合の家で1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!に遭遇することになる。その様子を、2008年(平成20)9月2日の朝日新聞(夕刊)に掲載された、「追憶の風景・下落合/母が愛した家、一夜に焼失」より引用してみよう。
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画家だった父が2年前に結核で亡くなったので、前年(1944年)の5月ごろ、アトリエを構えた杉並の自宅を売り、下落合に家を買って移り住んでいました。れんが造りの暖炉や洋風の鎧戸がある、しゃれた家でした。日当たりもよく、居心地がよかった。東京の下町に育った母の趣味でした。/昭和19年といえば、空襲を避けるために地方に行くのが常識だったんですけれど、母はどんなことがあっても東京を離れたくなかったんですね。夫が死に、子供もまだ小さいので、頼れる親類が下町にいる東京に固執したんです。もし、あの時、田舎に引っ込んでいたら、僕の人生は大きく変わっていただろうと思います。/植木屋に5畳ほどの防空壕を掘ってもらい、警防団に指導されて避難訓練をよく行いました。2月ごろから空襲は激しくなっていました。(カッコ内引用者註)
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信子夫人は、田口家の故郷である秋田県角館町に疎開しようと思えばできたろうが、東京が故郷である彼女には、生まれ育ったなじみ深い土地を離れがたかったのだろう。戦時中は、夫婦どちらかが地方出身者であるケースは疎開先が確保できて、むしろ幸運だったにちがいない。夫婦も、その親たちや祖父たちも東京出身のケースは、どこにも疎開先など存在しなかった。したがって、うちの親父のように1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で日本橋を逃げまどいClick!、学校の下宿先だった諏訪町(現・高田馬場1丁目)で、4月13日夜半と5月25日夜半の二度にわたる山手大空襲Click!にも遭遇するという、さんざんヒドイめに遭った人々や家庭は少なくない。
信子夫人は、そのまま井荻にいれば戦災に遭う確率は低かったろうが、夫との思い出がつまった下落合や長崎近辺にもどりたかったのだろうし、また少しでも親戚のいる(城)下町の近くですごしたかったのではないか。しかし、その判断がすべて裏目に出てしまった。4月13日(金)の夜、空襲警報が一度発令されて防空壕に避難した田口一家だったが、東京の別の地域に小規模な空襲があっただけで警報は解除され、すぐに庭の防空壕から母家にもどっている。でも、この小規模な空襲は同夜の前哨戦にすぎなかった。
同日23時ごろに、再び東部軍管区から空襲警報が発令され、空襲のサイレンが鳴り響くなか、今度はB29の大編隊が下落合上空へ姿を見せた。急いで防空壕へ退避したが、警防団の役員から「逃げろ!」と声をかけられ、外へ出てみるとすでに隣家が焼夷弾で燃えていた。急いで防空頭巾をかぶり、全身に防火水槽の水を浴びると、1kmばかり離れた林へ母親とともに退避している。
この逃げこんだ1kmほどの林とは、落合地域のどこのことだろう。もし、田口一家が下落合東部に住んでいたとすれば、第一徴兵保険Click!(のち東邦生命Click!)による宅地開発Click!が進んだ御留山Click!の、南側崖地にかろうじて残っていた森林か、薬王院の森は戦時の木材供出で丸裸にされていたが、同院南側の境内斜面に残っていた濃い林、あるいは霞坂Click!の周辺にあったやはり斜面に残った森林だろうか。もし、田口一家の家が下落合の西部にあれば、中井御霊社の杜か西落合に拡がる畑地の、いずれかの林だったのだろう。
つづけて、朝日新聞の同記事から引用してみよう。
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夜明けになって家に戻ったら、まったく何もなかった。父の物だった鉄のトランクさえ跡形もない。窓ガラスは溶けて氷柱(つらら)みたいになっていました。防空壕は直撃を受けていて、もし、あと少しとどまっていたら焼け死んでいたところでした。母と妹とは、何ひとつ言葉を交わしませんでした。/母の妹の家が西荻にあって戦禍を逃れたので、ひと月ほど身を寄せた後、秋田県角館町(現・仙北市)の親類の家に疎開しました。皆が地方に逃げていた時期でしたが、母は行くのが嫌そうでした。
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このとき、信子夫人が大切に保存していた田口省吾の遺作や遺品類、パリから持ち帰った思い出の記念品なども、すべて灰になってしまったのだろう。父親の故郷である秋田県仙北郡角館町で、田口兄妹には最大の悲劇が待っていた。
田口哲男は戦後、共同通信社の記者になり、同時に「高井有一」のペンネームで小説を書きはじめている。1965年(昭和40)に、秋田の角館で厳しい冬に向かう母親(信子夫人)との疎開生活を描いた短編『北の河』で、高井有一は第54回芥川賞を受賞し、同年の「文學界」12月号に同作が掲載されている。そして、10年後の1975年(昭和50)に共同通信社を退社すると、小説の執筆へ専念するようになった。
以下、『北の河』を参照しつつ、母親の田口信子が「人格崩壊」(高井有一)していく様子を追ってみよう。端緒は、なにものをも創らず展望もない疎開生活など、「生活ではない」というところからはじまった。そして、冬が寒い秋田では暮らせないとこぼし、「もういやになってしまったの。本当にいや。疲れてしまったのよ」と息子(高井有一)に吐露している。息子が、いまはそんなことをいっても仕方がないよ……となだめようとするが、「死ぬのよ。そうすればいいじゃないの」と答えている。
そのうち近くの川で、まるで子どものように石を投げる母親の姿が、息子にも親戚たちにも目撃されるようになった。疎開先の主婦が怪訝に思い、息子に相談するようになる。1966年(昭和41)に文藝春秋から出版された、高井有一『北の河』から引用してみよう。
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「貴方の母さんな(中略) この頃、何時もと様子違うように思わないか。家は貴方の父さんの縁続きだから、母さんの事はそうよくは知らぬよ。ああいう人だと言ってしまえばそれまでの事だけども、何かよく呑み込めない所あるものな」
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その直後、冬の気配がしはじめると、母親は入水自殺をして果てた。「母は自宅を焼失した時に人格崩壊を起こしたんじゃないかと思う」と、高井有一はのちに語っている。
東京大空襲で、生まれ育った(城)下町の姿が消滅し、下落合で夫の遺品や保存していた作品のすべてを失った時点で、生きる気力をなくしてしまったのだろう。そして、自裁の引き金になったのは、愛着のある生まれ故郷を離れ自分の居場所ではない、帰属意識の皆無な土地で無為に疎開生活を送らねばならなかった、孤独と絶望感からではなかったろうか。
◆写真上:第三文化村から眺めた、道路突きあたり左手の下落合3丁目1447番地(現・中落合2丁目)にあった田口省吾・信子夫妻のアトリエ跡(2007年撮影)。前年まで同住所には、医者で洋画家の宮田重雄がアトリエをかまえていた。
◆写真中上:上は、大正期から長崎村新井1832番地にあった田口邸(中央美術社+田口省吾アトリエ)跡。中は、長崎南町のアトリエで1937年(昭和12)に撮影された田口省吾。下は、同年に制作された二科展出品の田口省吾『娘と子供達』。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合3丁目1447番地の田口邸跡。中は、46歳で死去する1943年(昭和18)の最晩年に制作された田口省吾『絵を描く女』で、モデルはともにパリへともに留学した信子夫人かもしれない。下は、1975年(昭和50)に文藝春秋から出版された高井有一『北の河』(左)と著者(右)。
◆写真下:上は、制作年が不詳の田口省吾『角館の古城山』。中は、信子夫人がことさらナーバスになり気鬱になって怖れた角館の冬。下は、晩年に書斎で撮影された高井有一。
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