戦前の落合地域に住んでいた華族は36家。

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 以前、明治期には別荘地だった落合地域に住む、華族たちについてご紹介した記事を書いていた。『落合町誌』(落合町誌刊行会/1932年)をはじめ、戦前の資料類には頻繁に華族が登場するので、改めて地元の資料を参照しながらまとめてみた記事だった。その記事では、落合地域に住んだ15家ほど(雑司ヶ谷旭出=目白町の戸田邸/徳川邸は除く)をご紹介しているが、実はその倍以上の数の華族家が下落合や上落合、葛ヶ谷(西落合)に住んでいたことが判明した。
 明治後期から戦前の華族に、ことさら関心があるわけではないが、下落合775番地の七曲坂に建ち独特なデザインをしていた大島久直邸の、大正期ではなく昭和期の写真がないかどうか探していた際、やたら住所が落合地域の華族たちが目についたからだ。ついでに、それらの華族家をメモしておいたのだが、みるみるその数が増えつづけ、以前の記事でご紹介した15家どころではないことに気がついた。改めて意識的に調べてみると、なんと以前の15家にプラスして21家も住んでいたことが判明している。
 落合地域の地域別に見ると、新たに下落合だけで+15家、上落合で+4家、西落合(葛ヶ谷)で+2家の都合21家だ。また、大正期から昭和初期にかけて落合町葛ヶ谷(西落合)に住んでいたが、途中で下落合に転居してきている家庭もあり、落合地域内での転居も確認できる。やはり、子育て環境としては学習院も近いし、関東大震災を経験して東京郊外のほうがなにかと安全だし、また市街地の喧騒や不健康な環境もないし、明治期から華族たちが住みついた土地で「仲間」が多いから安心だ……というような感覚でもあったのだろうか? わたしの調べるかぎり、落合地域だけで15家+21家で36家の華族邸を確認することができた。これらの家々は、数年でよそへ転居している華族もいれば、戦後まで住みつづけていた家庭も含まれている。
 さすがに、追加の21家について個別に紹介するのは負荷が高いので、それぞれ興味のある方は別途、各家系について調べていただきたいが、まずは一覧表のリストで概観してみよう。やはり、徳川家と藤原家の関連華族が多いだろうか。ちなみに、このリストには以前にご紹介している落合地域×15家+目白地域×2家は含まれていない。また、前回は含めていなかった九条武子邸を、いちおう加えてカウントしている。『華族大観』(華族大観刊行会)や『華族名簿』(華族会館)、『華族銘鑑』(各社)などでは、下落合753番地の九条邸を建前上「九条良致邸」としているが、転居当初から別居中の九条武子のみが住んでいる。なお、華族邸の調査期間は大正末から1940年(昭和15)前後までとしており、明治前期から大正前期ごろまで住んだ華族については、改めて調べていない。また、権兵衛山(大倉山)に伝わる伊藤博文邸は、明らかに後世の誤伝だと思われるので含めていない。
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 リストの中で、飛鳥井雅信邸と藤枝雅脩邸とが同一住所だが、藤枝家が飛鳥田邸に同居していたことによる。下落合1540番地は、目白通り沿いに建つ落合第三府営住宅の中であり、目白文化村の北西側に位置している。下落合505番地の松平親義邸は、目白福音教会平和幼稚園の東側に近接し、村田綱太郎邸と東三条公博邸の下落合1281番地は、前谷戸に造成された第四文化村の南側に位置する敷地だ。下落合330番地の伊藤一郎邸は、同じ華族(男)の箕作俊夫邸と同一住所(現・落合中学校校庭)であり、敷地の一部に自邸を建設したのだろうか。
 下落合473番地の堀田正路邸は、明治末か大正初期に建設された浅田知定邸の広大な敷地内で、敷地が再開発された昭和初期に邸を建設しているのだろう。同敷地内に建っていた、上原桃畝アトリエと同一番地だ。下落合604番地の土井利孝邸は、のちに牧野虎雄アトリエが建設される区画と同じ住所だが、土井邸は佐伯祐三が描いた「浅川ヘイ」の浅川秀次邸が転居したあとに建設された広大な屋敷で、曾宮一念アトリエの道をはさんだ東隣りにあたる。下落合339番地の有馬純尚邸は、現在は落合中学校の北側敷地に含まれているとみられるが、下落合370番地にあった竹久夢二アトリエのすぐ南側に位置している。
 次に、下落合451番地の水谷川忠麿邸は、近衛家の所有地だった広い目白中学校跡地の一部に建っていた。下落合421番地の芳川三光邸は、近衛町通りに面した区画で、同通りにある古くからの交番のすぐ北側にあたる番地だ。下落合1701番地の太秦康光邸は、金山平三アトリエから北側の上ノ道へと出て、勝巳商店地所部が昭和期に開発する「目白文化村」の西隣りに接する敷地だ。下落合830番地の岡春雄邸は、薬王院西側の丘上区画で、下落合800番台に展開した「アトリエ村」のやや南側に位置している。
 つづいて、下落合1218番地の東三条公博邸は、鎌倉支道の雑司ヶ谷道(新井薬師道)沿いの北側に建っていた大きな屋敷だ。同番地の南斜面には、谷千城邸(子)も隣接して建っていた。斜向かいには、外山卯三郎の実家だった外山秋作邸佐々木久二邸があり、東へ140mほど歩けば西坂と徳川義恕邸(男)の丘下へ出ることができた。下落合1207番地の三宅直胖邸は、先の東三条公博邸の西並びであり、三宅邸の道路をはさんだ真ん前が佐々木久二邸という位置関係になる。最後に、下落合753番地の九条良致名義になっていた、オバケ坂(バッケ坂)上の九条武子邸は、これまで何度もご紹介してきているので省略したい。
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 さて、上落合468 番地の千田嘉平邸は、吉武東里邸の東並びの道筋に位置する敷地で、向かいは古代ハスを育成した大賀一郎邸で、2軒北隣りが神近市子邸という位置関係だ。上落合671番地の勸修寺末雄邸は、吉武東里邸の西へと入る細い路地の北側に位置する敷地で、東隣りが古川ロッパ邸(現・上落合公園)だ。同一住所の石河光遵邸は、勸修寺邸に同居していたか、あるいは広めな区画なので同じ敷地内に邸を建てて住んでいたのだろう。先の千田邸とともに、上落合を流れる妙正寺川の北向き段丘上に位置する地形だ。上落合514番地の石山基弘邸は、昭和通り(現・早稲田通り)から公楽キネマの西側にある道を北へ入ると、すぐ左手に建っていた大きな屋敷だ。この住所は、二二六事件の蹶起将校のひとりである竹嶌継夫中尉の実家と同一番地だ。
 次に、大正期までは葛ヶ谷と呼ばれ、昭和初期の耕地整理が終わると地名が西落合に変更されたエリアを見てみよう。まず、華族関連の資料によって、片岡和雄邸は「下落合5丁目15番地」などと書かれているけれど、1932年(昭和7)以降に誕生する下落合5丁目に15番地は存在しない。多くの資料では、落合町葛ヶ谷15番地となっているので「下落合5丁目」は誤記だと思われる。葛ヶ谷(西落合)15番地には、ほかに片岡鉄兵宮地嘉六が住んでおり、時期がズレれていれば、いずれかの住宅に片岡和雄がいた可能性が高い。また、葛ヶ谷15番地は、佐伯祐三が描く『看板のある道』の右手に見えている敷地で、富永哲夫が開業した富永医院へと通じている道筋だ。
 さらに、西落合1丁目281番地の松平賴庸邸は、以前に鬼頭鍋三郎の関連記事でも登場している敷地で、松下春雄アトリエ(のち柳瀬正夢アトリエ)や鬼頭鍋三郎アトリエの、道路を隔てた斜向かいにあたる大屋敷だ。松平家は戦前まで住んでいたようだが、戦後しばらくすると跡地は本田技研工業の本田宗一郎邸が建設されている。
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 こうして見てくると、ポツンと離れている華族邸は別にしても、なんとなく親しい友人同士で連絡を取りあい、近隣に寄り集まって住んでいたような印象を受ける。東京郊外の近所で売りに出ている土地、あるいは貸地があるから近くに越してこないか?……というような“ご近所情報”が、特に関東大震災後の華族会館などで交わされていたのではないだろうか。

◆写真上:下落合への転居前、赤坂離宮の近く麹町区紀尾井町にあった大島久直邸。現在は上智大学のキャンパスになっているが、大島邸の手前の瓦屋根は乃木希典邸で、1940年(昭和15)に藤沢市片瀬の目白山にある湘南白百合学園へ移築されている。ちなみに、片瀬にある目白山も庚申塚(元は荒神塚?)の展開から、タタラ遺跡が眠る可能性が高そうだ。
◆写真中上:下落合の東部および中・西部に展開した華族邸。
◆写真中下:上落合および西落合(葛ヶ谷)に展開した華族屋敷。
◆写真下:これまであまりご紹介してこなかったが、第1次山手空襲で全焼する直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された下落合604番地の土井利孝邸()。空襲から焼け残り、戦後の1947年(昭和22)に撮影された西落合1丁目281番地の松平賴庸邸()。

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