きょうは、大久保作次郎アトリエと同じ住所の下落合540番地にアトリエをかまえていた、日本画家の湯田玉水について書いてみたい。ただし、湯田邸の敷地は1932年(昭和7)以降に、アトリエの番地が下落合1丁目541番地へと変更されている。
「日本美術年鑑」(東京朝日新聞社)や興信録などの資料を見ていて改めて気づいたことだが、目白通りの北側へ相模湾の海岸から眺めた伊豆大島のようなかたちに張りだした、下落合500番地台(現・下落合3丁目)のエリアには、日本画家たちが数多く住んでいた。湯田玉水邸は、大久保作次郎アトリエから3軒めの南側に建っていた。
湯田玉水は、1919年(大正8)にアトリエを建設して下落合の同所にやってきた大久保作次郎より、目白駅も近いことから、もう少し早い時期に下落合へきていた可能性がある。下落合793番地につづき、近衛旧邸の北側エリアの下落合436番地に、大正初期から住んでいた日本画と洋画の双方をこなす夏目利政よりはあとの転居だとみられる。湯田玉水は「美術年鑑」によれば、1916年(大正5)まで牛込区馬場下町45番地(現・新宿区馬場下町9番地)に住んでおり、同年に下落合464番地にアトリエが完成した中村彝の転居と、ほぼ同時期ではないだろうか。
大正期の早くから下落合にいたとみられる湯田玉水は、1926年(大正15)の時点で荏原郡松沢村(現・世田谷区北西部)にアトリエを建てているようだ。だが、美術誌には建設中の告知がなされているものの、その後、アトリエが竣工して転居した情報がつづかない。なんらかの不都合が生じアトリエの建設を中止したものか、1928年(昭和3)には下落合から荏原郡碑衾町(ひぶすままち)(現・目黒区)に転居しているのが判明している。健康上の理由かなにかで、転居先を松沢村から急遽、碑衾町に変更したものだろうか? 湯田玉水は、翌1929年(昭和4)に52歳で死去しているので、その可能性が高いようにも感じる。
湯田玉水は、日本画のなかでも南画(中国の南宗画に由来する日本画の流派)をベースに制作をつづけた画家で、下落合時代が制作のピークだったと思われる。玉水は、日本画の美術団体「日本南画院」に所属していたが、江戸期から明治期にかけての決まりきった、平凡で惰性的な“お約束”にもとづく表現に明け暮れるのとは異なり、大正期は定型的なモチーフや画題、構図などを離れて、比較的自由な表現が可能になっており、湯田玉水が属する日本南画院もまた、そのような方向性をめざす日本画家グループだった。
南画の出発点である、表現を「高尚にする烈しい心持をもつて居た高眼達識の士が、その凛々たる風韻を伝へんが為」に制作していたものが、今日の画家たちは惰性的で、平俗的な表現に満足してしまっていると、玉水は批判している。1928年(昭和3)に刊行された「藝術」9月号(大日本藝術協会)収録の、湯田玉水『南画と自己鑑別』から少し引用しよう。
▼
まことに物の表裏は一枚であると云ふが、南画的に於て志す「高尚」なる其裏はおのづから「平俗」への通り抜けの危険を含んでゐたのであつた、(ママ:。以下同) 一筆草々の早仕事が、たとへどうでもまだ南画本来の意志と連絡のある迄はよいが、遂には筆のたくみから筆の芸へと落ちてしまつた、これはわづかに其一例に過ぎない、数へれば此南画道が近世に於て、芸術的に盲目な境地へ沈んで行つた因果の関係は、或は日に日を足しても足りないかもしれない、/私はその事で一番恐ろしいと感ずるのは、南画道にいはゆる「ナニ、南画だから此位の……」と称される所の、「ぞんざい」と「不用意」とが、公々然と許された形で横行した事の姿である、/今日、南画道に於ては、最早その「ぞんざい」と「不用意」とは決して許されはしない、然し「南画だから、ナニ構つた事はない、此位の……」といふ概念的の或示唆が、事実に於てまだ多分に働きかけをする、/真に南画の芸術を取戻す為には、この示唆こそ、実に悪魔の囁きにもまさつて恐るべき、南画興隆の妨害的大邪魔物である、
▲


この「大邪魔物」を退治するには、画家自身の主体性において、制作に「此位の……」というような安易な妥協をせず、どこまでも自身にきびしく芸術的な表現精神を鍛え、「自己鑑別」力を身につけなければならないとしている。かなり激しい表現だが、それほど当時の日本画家、とりわけ南画を基盤とする画家には、通俗的で惰性的、ありきたりで「平俗」的な画面があふれていたのだろう。そもそも出発点の精神性を忘却し、小手先の筆技術・技法のみによりかかった表現に、湯田玉水は若いころからガマンがならなかったのではないか。
湯田玉水は、福島県南会津郡の田島町(現・南会津町)の出身で、いまだ会津戦争の記憶も生々しい1879年(明治12)に生まれている。大森南岳と川端玉章のふたりに師事し、日本南画院が主宰する展覧会を中心に出品しつづけている。また、個展も頻繁に開いており、晩年に近い時期には日本橋白和堂での定期開催が確認できる。「玉水」のほか別号を「会津山人」と名のり、山水などを中心とする風景の軸画を得意としていた。
また、日本南画院は1921年(大正10)10月に創立された画会で、本部は京都市御幸町三条下ル海老屋町(現・中京区御幸町通三条下る海老屋町)に置かれていた。日本南画院の同人には、湯田玉水をはじめ池田桂仙、矢野橋村、小室翠雲、水田竹圃、石川寒厳、服部五老、安田半圃、矢野鐵山、山口八九子、河野秋邨、赤松雲嶺、幸松春浦、水田硯山、水越松南、白倉二峯、人見少華などが集っていた。毎年、東京をはじめ京都、大阪、福岡、熊本で展覧会を開催している。
では、日本南画院とその同人たちがめざしていた新しい南画表現とは、どのようなものであったのだろうか? 当時の作品を見た評論家たちは、彼らの作品に「表現派」あるいは「自由画」というようなレッテルを貼ったらしい。1925年(大正14)に大日本藝術協会から発行された「藝術」10月号には、玉水本人が語る「新しい南画」論が収録されている。同誌より、湯田玉水『南画展所感』より少し引用してみよう。


▼
生み出すといふからとて、何も無理して変つたものを作るといふのではなく、南画の極めて自由な精神に基いてで、換言すれば、故を温ねて新しきを知る意味で、新しい南画を生んで行きたいと思ふのである、(ママ:。以下同) 南画とさへ云へば、従来あまり形式的に走り過ぎて居つたので、斯の如きもののみが南画であるやうに誤解されて居つたのであるから、我々はその誤解を解いて、南画の本然の精神に復らねばならぬ次第である、/南画院の作品を見て、これは南画と云ふよりも表現派と云ふが善いの、いや自由画といふが適当だとか云ふ人もあるが、我々は矢張南画といふ方が東洋的でよいと思ふ、歴史的の名称といふものゝ中に、また得も云はれぬ懐しさもあるので、これは捨てたくないものである。
▲
伝統や過去の表現手法に寄りかかる芸術にはありがちな悩みだと思われるが、昔日の技術や手法を用いて従来にはない現代的で新たな表現をめざすのは、非常な困難と努力とをともなうものの、ある意味では表現者が挑戦してみたくなる高い障壁の魅力があり、またそれが近代絵画としての日本画(新南画)を模索するダイナミズムでもあったのかもしれない。湯田玉水が、それに成功しているかいないかは別にしても、美術に限らず音楽や演劇、文学、工芸などさまざまな分野でも、同様の試みは過去に何度も繰り返し行われている。
拙サイトでも、前世紀の初めに伝統的なフランス心理小説を踏襲した作品(R.ラディゲ)と、その手法を戦後文学に取り入れた大岡昇平の作品例をご紹介していた。小説の冒頭で「時代遅れであろうか?」と問いかける大岡昇平は、別に言葉どおりフランスの伝統的な心理小説を模して、時代遅れな作品を書こうとしていたわけではなく、心理小説という表現手法のリーチが時代を超えて、どこまで伸ばせるのかを実験するためにつぶやいた言葉だったろう。
それは、いまだ同手法で表現しきれていない領域(世界)があることを、手つかずの表現(少なくとも日本では)があることを常々感じていたからこそではないか。また、奈良期の乾漆彫刻の技法を現代彫刻によみがえらせた、山本豊市のルネサンス事例なども同様だろうか。
-e639a.jpg)
岡倉天心は、東京美術学校を開設する際に、あえて南画の科目を設置しなかったらしい。あまりに型どおりの“お約束”から離れない形式主義や伝統表現に陥り、そこに新たな美を追求する芸術の積極性や前進性、自由闊達さなどがなかったためだと思われるが、同時に狩野芳崖や橋本雅邦など北画(中国の北宗画に由来する日本画)の分野に、新しい表現を厳しく追求する気鋭の画家たちがそろっていたという事情もあったのかもしれない。現代の東京藝術大学美術学部の日本画科では、北画でも南画でも学生たちが自由かつ好きに選択し、学べるようになっているにちがいない。
◆写真上:下落合540番地にあった、湯田玉水アトリエ跡の現状(路地右手)。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)に作成された「出前地図」にみる湯田玉水邸。同地図は、大ざっぱかつ不正確で番地や道筋の採取をまちがえており、当時は路地の突きあたりに建っていた大久保作次郎アトリエの敷地にふさがれ、北側の目白通りへは通り抜けができなかったはずだ。下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる湯田玉水アトリエ跡。1932年(昭和7)を境に、番地が下落合540番地から下落合1丁目541番地に変更されている。
◆写真中下:上は、1925年(大正14)に撮影された日本南画院同人の記念写真。下は、1928年(昭和3)に制作された湯田玉水『対牛弾琴』。
◆写真下:制作年は不詳だが、湯田玉水による軸画『山腹の宿場図』。どこか江戸期の浮世絵にみられる、安藤広重あたりの風景画を想起させる表現は、画家の意図したところだろうか。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
わたしも祖父から、江戸期からの古札や古銭をもらっていますが、
使えないけど古い貨幣にはどことなく惹かれますね。