地域で忘れられた推理作家・本間田麻誉。

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 敗戦から間もない時期に、わずか5編の作品を書いただけで消息不明になった推理小説家がいる。江戸川乱歩が、1950年(昭和25)に雑誌「宝石」1月号(岩谷書店のち宝石社)誌上で作品を賞賛しているので、推理小説ファンの間ではよく知られた名前なのだろう。わずか、4年間しか執筆しなかったのは本間田麻誉(ほんまたまよ)だ。
 敗戦後、日本では空前の推理小説ブームが起きている。戦前も、推理小説の人気は高かったが、戦後のブームはそれに輪をかけたような一大ブームであり、次から次へと推理小説を載せた専門雑誌が発刊されている。それらは、本格的な推理作品を掲載するものから、エログロをベースとした推理小説もどきのお粗末なカストリ雑誌にいたるまで、玉石混交さまざまだった。1960~1970年代に活躍する推理作家の多くが、この時期にデビューしている。もはや伝説となっている本間田麻誉も、そんな推理作家のひとりだった。
 本間田麻誉は出身地も年齢も不明で、また住所もハッキリとはせず、職業は洋服の行商をしていたというのが伝わっているが、営業で外出している間に自宅から出火して全焼し、その後はまったく消息不明になったということらしい。ちなみに、1951年(昭和26)に刊行された『探偵小説年鑑1951』および翌年の1952年版では、本間田麻誉の住所は「埼玉県大里郡花園村小前田2601番地 大久保辰四郎方」となっているが、これは通信の連絡先である可能性が高そうだ。4年間に、わずか5編のみしか作品を残していない本間だが、小説の舞台には戸塚4丁目(現・高田馬場4丁目)や下落合、戸山ヶ原、諏訪町、高田馬場駅など近辺のネームが登場するので、おそらく戦前から戦後にかけ、このあたりのどこかに自宅があったのではないだろうか。
 中でも、1949年(昭和24)5月刊行の「宝石」に掲載された中編『猿神の贄』は、江戸川乱歩が激賞したことで今日まで推理小説の全集や選集に入れられる機会が多いようだ。『猿神の贄』は、戦前から戸塚4丁目のアトリエに住んでいた女流画家「毛利篠女(しのめ)」の告白記録を中心に、下落合に住み上野の博物館に勤務し戦後はデパートに勤めている男「西脇」、諏訪町(現・高田馬場1丁目)の下宿に住み国文学の学生で戦後は新聞記者をしている男「津田」、そして最終的に謎を解き明かす警察医の男「久我」の4者が、それぞれ主体を入れ替えながら展開する「スリラー小説」だ。ちょっと余談だが、戸塚3~4丁目あたりの女流画家といえば、拙ブログではすぐにも戸塚3丁目866番地にアトリエをかまえていた藤川栄子を想起してしまう。本間田麻誉も、どこかで彼女のことを意識して書いたものだろうか?
 1945年(昭和20)5月25日の夜半、第2次山手空襲の中を勤務先から家へもどろうとする毛利篠女と、新宿にあった国文学の師宅から小滝橋通りを歩いて下落合の家へもどろうとする西脇、そして百人町にいた友人の久我宅から諏訪町の下宿へもどろうとする津田、この3者が戸山ヶ原にあった空襲下の陸軍技術本部(陸軍科学研究所)あたりの防空壕で、期せずして交叉することから発生した、おぼろげな「謎」を推理していくという展開で物語は進む。その際の描写や、空襲後の焼け跡風景を表現する著者の本間田麻誉は、少なくとも戦前までは確実にこのあたりに住んでいたと思われる。また、実際に同日の空襲を、これらの地域で経験しているのかもしれない。
 空襲のさなかに一瞬だけ交叉した、相手の容貌もおほろげで名前もわからない男女の物語というと、なにやら菊田一夫『君の名は』の数寄屋橋的でロマンチックな雰囲気が漂うようだが、『猿神の贄』は空襲下の戸山ヶ原で毛利篠女が失神している間に犯され、子どもを身ごもってしまうというパニックから事件がスタートする。
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 この界隈の地名が頻出する箇所を、1949年(昭和24)に刊行された「宝石」5月号収録の、本間田麻誉『猿神の贄』より少し引用してみよう。篠女が戦後に勤務する、銀座のとあるデパートの美術部で、同じデパートに勤務する西脇が彼女に初めて声をかけるくだりだ。
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 「毛利君――君は戦争前、毎日、高田馬場から田端まで省線で通ってやしなかった?」/「まア、よく御存じですのね。画の勉強に通っていたのですけれど……」(中略) 「実は、僕ね、丁度大学を卒て、上野の博物館へ勤めたばかりの頃でね。家は下落合に在ったものだから、高田馬場で西武線を乗換え省線を利用していたのだが、終始君を見かけ、だんだん君が好きになっていたんですよ」(中略) 「空襲で、お家、焼かれましたの?」/「うむ! 下落合の兄貴の家に同居してたんだけど、綺麗薩張りまる焼けさ。誰も死んだ者が無かっただけ、めっけものだったがね。然し、本だけは惜しかったなア」/「ほんとねえ、でも、下落合で罹災なすったのでしたら、五月二十五日ね、わたくしもその日に罹災したんですの。戸塚の四丁目にいたのですから……」/「戸塚四丁目? なんだ、じァ僕んとこの直き傍じゃないか。時計会社の周囲が四丁目だろう。(略)」
  
 毛利篠女は、「下落合で罹災なすったのでしたら、五月二十五日ね」と断定的にいっているが、その前に1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲でも、駅の周囲や幹線道路沿い、河川沿いの工業地域を中心に、下落合は激しい爆撃にさらされている。また、会話に登場する「時計会社」は、早稲田通り沿いにあったシチズン時計株式会社のことで、つい先ごろ解体されたシチズンプラザの敷地に戦前から建っていた。
 下落合に住んでいた「西脇」だが、西武線を利用しているところをみると下落合駅か中井駅の周辺、すなわち1960年代以前の住所でいえば、下落合2丁目(現・下落合4丁目/下落合1丁目の一部/中落合1~2丁目の一部)の下落合駅寄りから下落合3~4丁目(現・中落合/中井)に「兄の家」があったことになる。下落合1丁目(現・下落合1~3丁目)および下落合2丁目(現・下落合4丁目)の東側は、西武線・下落合駅まで歩き電車を待って乗るよりも、山手線の目白駅か高田馬場駅へ歩いたほうがよほど早いからだ。
 あまりネタバレすると、これから『猿神の贄』を読もうと思われる方が、ガッカリするのでほどほどにしておくが、事件の推理には当時の最先端だった法医学分野の血液学、判定方法のABO式・MN式・Q式・S式が引用され、さらに因子型分類および遺伝学的血球分類なども持ちだされて推理が進められていく。また、色覚異常(赤緑色盲)やホクロに関する遺伝の法則(1940年代の医学水準)や、戦前からブームだったフロイトによる精神分析学や記憶喪失などが織りこまれている。
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 特にフロイトの手法や、色弱などによる盲点を応用したトリックや「犯人」さがしは、ときに戦前の推理小説作品にも見られるので別にめずらしくないが、これらの医学的な判定技術や心理学をベースとして、徐々に「犯人」があぶり出されていく過程は、いまでも面白く感じるので、当時の読者は新鮮で新しい表現だと感じたのではないか。
 余談だが、同作に登場する戦時中は国文学の大学生で、諏訪町に下宿していた新聞記者の「津田」は赤緑色覚異常なのだが、うちの親父もまったく同様の色覚異常だった。当時、日本人男性の4.5%が赤緑色覚異常だったというから、それほど驚きはしないが、わたしには遺伝していないので親父の代で色覚異常は終わったことになる。1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲を日本橋の実家で体験した親父は、諏訪町の下宿先から学校(途中から勤労動員先)に通っていたが、同年4月13日と5月25日の二度にわたる山手大空襲にも遭遇し、不運なことに東京における大空襲の“フルコース”を体験している。「津田」の下宿は焼けてしまうが、親父の下宿はかろうじて焼け残り、戦後もそこから大学へ通いつづけた。『猿神の贄』で描かれた山手大空襲の情景は、おそらく逃げまどう親父の目にも焼きついていた、この一帯のありさまだろう。
 『猿神の贄』が「宝石」5月号に掲載されてから7ヶ月後、江戸川乱歩は1950年(昭和25)刊行の「宝石」1月号で、ようやく読んだ同作に関して『「猿神の贄」について』と題し感想を記している。その賞賛ぶりを、同誌より少しだけ引用してみよう。
  
 この作をつい読まないでいたところが、幽鬼太郎の評を見るとなかなか面白そうだし、又別にこの作の優れていることを直接私に教えてくれた人もあって、数日前にやっと一読することが出来た。そして、「猿神」は私の想像したような意味ではなく、精神分析学上の言葉として使われていることも分り、私の毛嫌いは解消し、非常に惹入られて読了した。今年(1949年)に入ってから、これほど感銘を受けた作品はほかになかったと云っていい。(中略) 女主人公の告白と自己分析が中心になっているが、この自己分析は心理的スリラアの上乗なるもの、この部分だけについて云えば、英米の優れた心理スリラア作品に比べても、決して見劣りがしない。精神分析のほかに法医学が取入れられているが、これも作品の構成上必然のものであって、必ずしも目触り(ママ:障り)ではなく、むしろプラスの作用をしていると云ってよいであろう。(カッコ内引用者註)
  
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 西脇は、新宿の恩師の自宅から下落合の兄の家へ帰る途中、小滝橋で空襲に遭い記憶喪失症になるのだけれど、戦前に山手線の車内で見かけていた「絵具箱を肩に掛けた美しい君の姿」の記憶だけが、いちばん最初にもどった……などと調子のいいことをいう男を、毛利篠女さん、安易に信用しちゃダメでしょ。西脇は、調子がいいだけでもともと善良な性格なのだが、都合よく記憶喪失にひっかけるあたりが韓ドラにも似て、現代ではリアリティがやや稀薄なのが難点だろうか。

◆写真上:戸山ヶ原の西側に位置し、陸軍技術本部の建屋群があった跡地の現状。
◆写真中上上左は、1949年(昭和24)に本間田麻誉『猿神の贄』が掲載された「宝石」5月号(宝石社)。上右は、1950年(昭和20)に江戸川乱歩『「猿神の贄」について』が掲載された「宝石」1月号。下左は、阿知波五郎が主宰していた同人誌「メドウサ」Ⅱ号で創刊号には本間田麻誉が寄稿している。下右は、いまでも手にしやすい1974年(昭和49)に出版された『宝石推理小説傑作選/第2巻』(いんなあとりっぷ社)で『猿神の贄』を収録している。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲の直前4月2日に撮影された戸山ヶ原とその周辺域。は、同年5月25日夜半の第2次山手空襲の直前5月17日に撮影された下落合の東部地域。4月13日の空襲で、鉄道や幹線道路沿いにかなりの被害が見える。
◆写真下は、1945年(昭和20) 5月25日夜半の第2次山手空襲直前の5月17日に撮影された戸山ヶ原と戸塚4丁目界隈。は、戦後の1947年(昭和22)に爆撃効果測定用として撮影された戸塚3~4丁目から戸山ヶ原、百人町にまたがる焼け野原。

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