1929年(昭和4)3月、武蔵野町吉祥寺320番地に開校した帝国美術学校には、当時の美術界とは直接関係のない斎藤金造という教授がいた。早くから下落合442番地に住み、日本橋で長く尋常小学校の校長をつとめていた人物だ。
帝国美術学校(現・武蔵野美術大学/のち分裂して多摩美術学校→現・多摩美術大学と同美術大学)の教授陣というと、拙サイトに多く登場している森田亀之助や清水多嘉示、熊岡美彦、高畠達四郎、中山巍、宮坂勝、伊原宇三郎など美術家たちの名前がすぐに挙げられるが、その中で斎藤金造のネームはかなり異色だ。彼は、美術が専門の芸術家ではなく、小学校で「図画手工(工作)」の教科を教える経験を積んだ教育者だった。
1874年(明治7)に新潟県で生まれ、東京高等師範学校(のち東京教育大学→現・筑波大学)を卒業すると、柏崎中学校つづいて長野師範学校などの教師を歴任している。その後、東京へ転居し米国への視察旅行をへて、大正初期には日本橋区の日本橋高等小学校長、つづいて関東大震災をはさんで震災復興校舎が完成した、日本橋区の常盤尋常小学校および常盤商業補習学校の校長に就任している。さらに、1934年(昭和9)には東京市役所の勤務となり、視学講師(今日の教育委員のような役職で教育行政の管理監督)に就いている。
下落合(1丁目)442番地は、山手線・目白駅の地上駅(日本鉄道の初代・鉄道院の2代目)時代には、ちょうど駅前の丘上にあたり、明治末ごろから宅地化が徐々に進んでいた。斎藤金造は、明治末あるいは大正初期から下落合442番地に住んでいたとみられ、近くにはやはり早くからアトリエをかまえていた熊岡美彦とは近所同士だったろう。ハルイ夫人との間には、4男3女の子どもたちがいて、かなり賑やかな家庭環境だったと思われる。
1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を参照すると、東側が高田町金久保沢との境界に接しており、しばらくすると東隣りは川村女学院の寮舎およびキャンパス(「近衛町農園」)になる位置関係だ。北側に大きめな門のある屋敷で、現在の「NPC24H下落合パーキング」全体が斎藤邸だった。ちなみに、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、「教育家 斎藤金造 下落合四四二」と肩書と住所のみしか紹介されていない。
その人物像について、1932年(昭和7)に帝国秘密探偵社から出版された『大衆人物録 第5版』(昭和7年版/ア~ソ之部)から、少しだけ引用してみよう。
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斎藤金造/常盤小学校長兼常盤商業補習学校長
東京市外落合町下落合四四二/新潟県士族斎藤金吾の長男明治七年三月一日同県北蒲原郡新発田町に生れ後家督を嗣ぐ新潟県師範を経て同卅四年東京高師を卒業し爾来柏崎中学長野師範各教諭東京市視学日本橋高等小学校長に歴任し常盤小学校長となり傍ら前掲の職を兼任し以て今日に至る 宗教真言宗 趣味文学美術
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趣味の項目に「文学美術」が挙げられているけれど、専門は教育でありその分野ではプロとして知られた存在だったろうが、「図画手工」以上の当時の美術分野に特別造詣が深かったということでもなさそうだ。むしろ、斎藤金造は歴史的な古代美術や仏教美術に多大な興味をもっていたと思われ、下落合442番地の住所とともに、日本考古学会や武蔵野文化協会の会員名簿に、その名を発見することができる。では、なぜ帝国美術学校の教授に就任しているのだろうか?
帝国美術学校では、1931年(昭和6)になると彫刻科と師範科が設置されている。中でも師範科は、小中学校における専門の図画手工教諭(今日の図画工作の美術担当教師)をめざす学生のために設置された学科とみられ、斎藤金造は同科でその豊富な経験や実績を活かしながら、教師としての技術やノウハウを教えていたのではないだろうか。そして、手工=工芸教育については、斎藤金造は日本橋区の尋常小学校や高等小学校で豊富な実績を重ねてきていた。



当時の教育制度では、6年間の尋常小学校を卒業したあと中学校(5年間)へ進む進学組と、高等小学校(2年間)へ進学する組、そして尋常小学校の卒業と同時に就職する組とに分かれていた。この中で、高等小学校(今日の中学校1~2年)へ進学する生徒たちと、尋常小学校を卒業する生徒たちのために、「手工」科目=工芸教育の常設を強く唱えていたのが斎藤金造だった。
この場合の手工とは、「手に職をつける」「技術を修得する」という意味合いのほうが強かったろうが、当時の東京には小学校を卒業すると工場で職工となって働く生徒もいれば、いわゆる専門職人として店舗や工房に見習いとして入り、専門職としての工芸の道へ進む生徒も多かっただろう。斎藤金造が勤務していた日本橋区の場合は、江戸期からつづく工芸の後者のほうが、また自宅の職を受けつぐ予定の跡取りが、生徒たちの中には多く含まれていたにちがいない。
したがって、木工・金工・陶芸・漆芸・染色・機織などの領域を問わず、その地域ならではの特色(就業環境)にもとづくなんらかの「手工」を教える教科を、尋常小学校や高等小学校の教育課程へ常設すべきだというのが斎藤金造の主張だった。たとえば、拙サイトでは池田米子(佐伯米子)のいた尾張町(銀座)の池田象牙店へ、象牙細工の彫り師見習いとして就職し、その卓越した才能や技術を活かして彫刻家になった、月島出身の陽咸二をご紹介しているが、当時は美術と工房の工芸(手工)の世界は遠いようでいて、実は非常に近接した領域でもあった。
では、斎藤金造が長期にわたり校長をつとめていた、日本橋本石町の常盤尋常小学校の事例を参照してみよう。同小学校の生徒たちは進学組が大半で、1928年(昭和3)の3月現在で卒業後に中学校、あるいは各種専門学校(その多くは女子)へ進学する子どもが全校生徒の70%以上も占めていた。また、10%が家庭に残る、あるいは家業を継ぐ生徒で、残りの20%弱が高等小学校へ進むか卒業と同時に就職を希望する生徒たちだった。斎藤金造は、おもに2年間の学習ののち就職を希望している高等小学校へ進学を希望する生徒たち、および卒業と同時に就業する尋常小学校の生徒たちを対象に、地域特有の「手工科」を常設すべきだというのが持論だった。



1928年(昭和3)刊行の「工政」10月号(工政会)から、斎藤金造の発言を引用しよう。
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私が唯今の(常盤)尋常小学校に参ります前に、(日本橋)高等小学校に暫くおりましたが、其高等小学校では数年前に手工を廃しておりました。其時に私が参りまして手工を新に置くことに致しました。其時に区の学務委員なり区長なりは商業中心地であるから、手工はいらないと専ら主張されましたので交渉を数回重ねまして、暫く置かれる事になり、果して其結果がどうあらうかと思つて心配いたしておりました。置いて見ますと到底本所の高等小学校のやうな風には参りませぬが、相当にそれに向く所の児童があるのであります。今日でもやはり工芸学校に行くなり、工業学校に行くなり、工業方面に向つてゐる者が出ております。かういふ点から申しますと、決して現在の私の学校の大多数の児童が商業なり或は知的方面に向くといふことは、其児童の生涯を通じて幸福であるとはいはれないと思ふのであります。(カッコ内引用者註)
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斎藤金造は、無自覚で流されるように中学以上へ進学して官吏やサラリーマンになるより、手先の器用な生徒や創造力のある生徒は、それを活かして専門職に就くほうが、よほど高収入で幸福な人生が送れるのではないかとみている。事実、専門領域の職人として成功すれば、官吏やサラリーマン月収の何倍、何十倍もの収入を得られる時代だった。それほど、日本橋の街中には専門の技術や手工を必要とする工房や職場が、いまだ健在だったのだろう。
そして、高等小学校だけでなく尋常小学校でも「手工科」を常設し、自分にはどのような進路が向いているのかを早期から考えさせるべきだとしている。また、尋常小学校から中学校へと進学するのではなく、手工科が常設された高等小学校へ全生徒を一度進学させ、そこでも2年間にわたり自身に向いた進路を考えさせてはどうかと提案している。このような考え方は、戦後における小学校の「図画工作」「音楽」「家庭」など、中学校の「美術」「音楽」「技術・家庭」など芸術や“モノづくり”の科目に、そのまま活かされているのだろう。
さて、斎藤金造は1935年(昭和10)に東京市の視学講師を退職(60歳)すると、いったい誰とのつながりで帝国美術学校の教授に招かれているのだろうか。日本橋地域でのつながりは考えにくく、下落合の地元での人脈を考えると、近所にアトリエをかまえていた熊岡美彦か、同様に早くから下落合に住んでいた東京美術学校教授の森田亀之助などとの関係が想定できる。だが、大正期には長野県で教師をつとめ、諏訪高等女学校の教師(斎藤金造は長野師範学校)だった清水多嘉示とも教員時代に交流があり、どこかで知りあっていたものだろうか。


また、かつて斎藤金造が教えていたのが「図画手工」教科で、私的な趣味が「文学美術」となると、大正期の教員時代(夏休み)に下落合464番地の中村彝アトリエを訪問し、そこで清水多嘉示と親しくなった可能性も考えられるだろうか。帝国美術学校に彫刻科と師範科が設置されたのは1931年(昭和6)のことだが、すでに帝国美術学校の教授に就任していた清水多嘉示が、長野時代からの知己である定年後の斎藤金造に声をかけ、師範科の教授に勧誘しているのかもしれない。
◆写真上:高田町金久保沢(現・目白3丁目)との境界にある、下落合442番地の斎藤金造邸跡。駐車場の全体敷地が、斎藤邸が建っていたエリアだ。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる斎藤金造邸。中は、斎藤金造の校長時代の1928年(昭和3)に撮影された日本橋本石町の常盤尋常小学校。下は、震災復興建築のまま残る常盤小学校の現状。
◆写真中下:上は、斎藤金造の校長時代だった常盤商業補習学校(常盤小学校内)の生徒募集要項。中は、1930年(昭和5)ごろに撮影された帝国美術学校の校舎。下は、1937年(昭和12)の「美術年鑑」に掲載された帝国美術学校募集要項。
◆写真下:上は、1939年(昭和14)に美術分野の雑誌へ掲載された帝国美術学校の生徒募集広告。下は、帝国美術学校の西洋美術科における制作実習の様子。
この記事へのコメント
ふるたによしひさ
落合道人
徹夜つづきの夜、帰宅するときは電車を利用すると危うく寝過ごす
ので、あえて徒歩で帰った憶えがあります。
てんてん
落合道人
長崎のランタンフェスティバルは、一度行ってみたいですね。