大正中期から後期にかけ、下落合に住んだ中村彝Click!や曾宮一念Click!、松下春雄Click!、有岡一郎Click!、長野真一Click!そして第1次滞仏から帰国した佐伯祐三Click!たちが手がけてきた「下落合風景」の連作だが、大正末から昭和期に入ると落合地域やその周辺域の風景作品が激増している。もっとも、中村彝の場合は病身で遠出ができなかったため、アトリエ近くの風景を連作Click!するしかなかったのだが……。
しょっぱなから余談で恐縮だが、かなり気になるので書き添えておきたい。佐伯祐三の資料を読んでいると、1927年(昭和2)の4月16日~24日にかけて開かれた個展Click!を、「銀座紀伊国屋で開催」とする資料をこのところ繰り返し何度も目にしている。紀伊国屋書店の銀座店がオープンするのは、佐伯がとうに死去したあとの1930年(昭和5)のことであって、個展が開かれたのは新宿駅東口の紀伊国屋書店本店の2階ギャラリーだ。誰かが誤記したのが、そのまま気づかれずに踏襲されているのだろうか。
佐伯祐三が、「下落合風景」シリーズClick!を制作しているのと同時期に、近くに住む笠原吉太郎Click!や二瓶等Click!も近所の風景を盛んに描いている。佐伯祐三は、下落合の中部に展開する宅地造成中や工事中、あるいは開発工事が終わったばかりの殺風景な地点を選んで制作し、笠原吉太郎もやはり下落合中部の情景を中心に写している。
それに対し二瓶等Click!は、目白駅に近い下落合東部の情景を描いているとみられるのは、タイトルに「近衛町」Click!などが含まれるのを見てもおおよそ推測できる。おそらく、佐伯祐三は「絵にならない」過渡的な開発地ばかりを選んで写生し、二瓶等は「絵になる」ようなシャレた、そして街並みとして落ち着きはじめていた下落合の西洋館群や、豪華な華族屋敷を好んでモチーフに選び描いているのではないだろうか。
昭和期に入ると、ますます「落合風景」を描く画家たちが急増していく。それは、中村彝や満谷国四郎Click!、大久保作次郎Click!、吉田博Click!、金山平三Click!、牧野虎雄Click!、片多徳郎Click!など文展・帝展の画家たちや、佐伯や曾宮、安井曾太郎Click!、松本竣介Click!など二科の画家たち、そして1930年協会Click!のように官展・在野領域をまたがる画会の画家たちが集合しはじめたせいで、彼らの弟子たちはもちろん画家をめざす人々が落合地域とその周辺域に転居してきて、大勢アトリエをかまえはじめたせいもあるのだろう。
少し前、下落合2118番地にアトリエをかまえた椿貞雄Click!の近くにいたか、または訪ねたかした高瀬捷三Click!の『下落合風景』をご紹介したが、自身が師事・兄事する画家の近所に住み日々アトリエへ通うのは、交通事情が発達していない当時としては、めずらしいことではなかった。帝展や二科の大御所的な画家や、中堅画家たちが集合している落合地域は、かつて「目白バルビゾン」(鈴木良三Click!による)と呼ばれたり、「アビラ村(芸術村)」Click!(おそらく金山平三Click!+東京土地住宅Click!による)などと呼称されたりしたが、画家たちが集合するにはそれなりの必然性があったのだ。
もっとも、「落合風景」のテーマを離れるなら、同じようなことが日本画の画家たちの間でも起きているとみられ、拙サイトでは洋画ばかりでほとんど記事に取りあげていないが、狩野芳崖の四天王の画家たちClick!の画室Click!や帝展の女性画家・上原桃畝Click!など、洋画界と同様に日本画の世界でも高名な画家たちが集合している様子がうかがえる。ただし、日本画では近隣の「落合風景」を軸画や屏風絵にすることなどありえないので、少なくとも拙サイトにおいては単に目立たないだけだ。
いつか、1930年協会が1926年(大正15)から1930年(昭和5)にかけ、5回にわたり開催した1930年協会展の入選作に、「落合風景」が頻出している事例をご紹介Click!したが、別に同展に限らず昭和初期の各種展覧会には「落合風景」があちこちに登場している。少し重複するが、1930年協会展の第5回展までの様子をおさらいしてみよう。ちなみに、資料に記録されているのはあくまでも審査後の入選作であって、これら以外の応募作品にも「落合風景」作品は多数存在していたとみられる。また、「落合」の地名を冠していない、たとえば単に「風景」という画題や「近郊」、「郊外」、「山手」、そして近くの駅名Click!からとった「目白」などの表記が入ったタイトルにも、「落合風景」作品も多々あったとみられ、「落合」のネーム入りはごく一部の作品だと思われる。
まず、1927年(昭和2)の1930年協会第2回展には、伊倉晋の『下落合風景』が入選している。同展では、佐伯祐三の作品が近似したタイトルで展示されている。1928年(昭和3)の第3回展では、丸太喜八『落合風景』、藤田嘉一郎『下落合風景』、宮崎節『文化村風景』、佐久間周宇『落合風景』『落合の工場』、田中修『山の手風景』、戸田秀男『学習院寄宿舎の一部』などが入選している。厳密にいえば、丸太喜八と佐久間周宇の『落合風景』は、下落合とは限らず上落合風景も含まれるかもしれない。また、戸田秀男の『学習院寄宿舎の一部』は、同年の春に竣工したばかりの近衛町42・43号地Click!(下落合406番地→306番地)に建っている、学習院昭和寮Click!を描いていると思われる。
1929年(昭和4)の第4回展では、南風原朝光Click!の『哲学堂附近』が入選している。南風原は、中井駅が近い上落合(番地不明)に住んでおり、沖縄の画家仲間とともによく落合町葛ヶ谷(西落合)へ写生に出かけているので、『哲学堂附近』は葛ヶ谷風景の可能性がある。そして第5回展では、同協会会員の林武Click!による『文化村風景』Click!や『落合風景』Click!(想定)とともに、樋口加六『落合風景』と外山五郎『落合風景』が入選している。外山五郎Click!は、大岡昇平Click!と青山学院中学部を卒業した親友同士で下落合1146番地に住み、1930年協会との関連が深い外山卯三郎Click!の弟だ。
これら展示された入選作が、現在どこにあるのかは不明だが、画面を観れば当時の落合地域の風情が明らかになる、貴重な資料性(史的記録性)をも備えていることになる。そのほか、少しだけ各種画会の資料類を調べているだけでも、以下のような入選作あるいは受賞作の「落合風景」とみられる作品群を目立って見つけることができる。これらの画家たちは、落合地域またはそのごく近くにアトリエをかまえていたとみられるが、出品目録などには画像が添えられていないケースがほとんどなので、どのような画面かは不明だ。
また、データベースをちょっと調べただけで青柳暢夫『落合風景』や『郊外の道』、小山昇『落合風景』などなど膨大な量の落合地域を描いたとみられる風景作品がひっかかる。これらの入選作や受賞作はごく一部の作品とみられ、応募作品には数多くの「落合風景」があったとみられること、すでにポピュラーになっていた「落合」という地名をタイトルにはつけず、別のネームがふられている画面が多そうなことも、先述のケースと同様だろう。
佐伯祐三が、膨大な点数を描いたとみられる「下落合風景」もそうだし、二瓶等や笠原吉太郎の連作も同様だが、頒布会や画会、個展、画廊などを通じて売られてしまい、いまでは行方不明になっている作品が数多く存在している。笠原吉太郎Click!の場合は、東北のホテル経営者に作品が数多く買われたあと、そのホテルが閉館してしまう不運にあい、作品が散逸または廃棄されてしまったというような例もあるようだ。
さらに、都市部にあった作品であれば、戦災で焼失している可能性が高い。また、多くの洋画家たちのネームが、美術愛好家の間で膾炙されるようになるのは、戦争の傷跡が落ち着きはじめた戦後もしばらくたってからのことであり、それまでは居間や寝室などに架けられていた何気ない風景画は、時代遅れの古いインテリアとして、住宅の建て替えやリフォームなど世代が交代する際に廃棄されてしまった例も多いだろう。
そんな中で、かろうじて画面が写真に撮られた作品も残っている。上掲のリストでいえば、1935年(昭和10)の東光会に出品された佐藤長生『下落合風景』だが、同時出品の『黄葉のある風景』とともに、撮影された会場写真にとらえられている。だが、撮影位置が遠すぎて画面の様子がわからない。『黄葉のある風景』も、下落合風景のように思われるが、画面が暗くてぼやけ印刷も粗すぎて解明のしようがない。
このような例は、偶然に撮られた写真でも見つけることができる。代表的な例では、1929年(昭和4)に大阪・美津濃で開かれた「佐伯祐三・追悼遺作展」Click!の会場写真だ。その展示場には、現存作品には見あたらない『曾宮さんの前』Click!とみられる、開発中の諏訪谷Click!住宅地を別角度から描いたバリエーション画面を確認することができる。
同様に、たまたま図録や美術誌に紹介されて、画像が残っているケースもある。すでにご紹介済みの、宮下琢郎Click!が描いた下落合に通う振り子坂Click!の斜面を描く『落合風景』Click!もそのひとつだ。だが、この作品もカラーでは一度も観たことがないので、戦後は行方不明か、あるいは戦災で焼けてしまった可能性がありそうだ。
大正末から戦前にかけ、多くの画家たちによりあまたの「落合風景」作品が描かれたとみられるが、その大多数が現存しているかどうかは不明だ。以前にも書いたが、もしこの記事を読まれて「これは!」と思われる作品を目にされた方は、ぜひ画像とともにお知らせいただければと思う。ただし、情景をモジュール化して構成された画面Click!や、キュビズム以降のアブストラクトなどの作品だったりすると、途方に暮れるしかないのだけれど。w
◆写真上:1935年(昭和10)の東光会展に出品された展示会場に写る佐藤長生『下落合風景』だが、写真が暗くぼやけていて画面の詳細を確認できない。
◆写真中上:上は、1923年(大正12)制作の鬼頭鍋三郎Click!『落合風景』Click!。中は、1924年(大正13)制作の長野新一Click!『養魚場』Click!。下は、1927年(昭和2)制作の小松益喜Click!『炭糟道の風景』Click!。下2点は、画題に「落合」がない「落合風景」。
◆写真中下:上は、1928年(昭和3)制作の宮坂勝『郊外風景』Click!。中は、1930年(昭和5)制作の宮下琢郎『落合風景』。下は、同年制作の南風原朝光『風景』。
◆写真下:上は、1934年(昭和9)ごろ西落合で制作された柳瀬正夢Click!『電信柱の道』Click!。中は、1950年(昭和25)ごろに制作された片山公一Click!『上落合風景』Click!。下は、1992年(平成4)制作の貝原浩Click!『東京目白/小野田製油所』Click!。
★おまけ
1984年(昭和59)に出版された、新津澄子の歌集『疎林の風』(第二歌集)より。ただし、1925年(大正14)に佐伯祐三は滞仏中で、「下落合風景」は描いていない。
わが生れし大正十四年祐三の 描く下落合風景空暗く寂し
この記事へのコメント
pinkich
ChinchikoPapa
ちょうどいま、その二瓶徳松(二瓶等)が描いた「山井格太郎像」が話題になっていまして、山井格太郎という人は上落合に住んでいました。「満洲」でも交流があったようですが、ちょっと面白いつながりですね。同書に掲載された、二瓶等のロシア正教会のような『教会(仮)』ですが、「満洲」にあったのではないかという感触が強くします。
水谷嘉弘
ChinchikoPapa
二瓶等は、下落合のアトリエをそのままに満洲にわたりますから、あくまでも思いつきを述べただけですので、かいかぶられすぎませんよう。(汗)
pinkich