戦後、焼土化した市街地を逃れ、杉並区の和田堀にアトリエをかまえた木村荘八Click!は、1952年(昭和27)の5月現在で身のまわりに10匹のネコを飼っている。日本橋吉川町時代Click!の、もの心つくころから当時まで50年以上も変わらないネコ好きだったようだが、10匹ものネコのエサを賄うのは少なからずたいへんだったろう。
もっとも、昔のネコは人間の残飯でもなんでも食べて暮らしており、今日のように贅沢なキャットフードなどどこにも存在しなかった。子どものころ外飼いしていたネコは、ご飯におみおつけの汁をかけ、煮干しか鰹節を混ぜたエサでも喜んで食べていた。ましてや、木村荘八Click!がネコと生活していた戦後まもなくのころは、そもそも人間の食べるものさえ好き勝手には選べない、深刻な食糧難の時代がいまだ尾を引いていただろう。木村荘八はネコたちに、いったいなにを食べさせていたのか、エッセイに書き残されていないので不明だが、おそらく人間が食べるものとさほど変わらない食事、当時ならイワシの丸干しとかメザシ、干物の残り、鰹節をかいて混ぜた汁かけご飯などではなかったろうか。
ちなみに、いま家で飼っている御留山Click!の野良出身だった仔ネコで7歳になる牝ネコClick!は、生臭い魚介類が大キライで見向きもしないが、チキンやターキーのドライフード、チキンの味に近いシーチキン(カツオ)のドライフード、バタートーストの破片やパイの皮などはよく食べ、ときに砂糖を入れない生クリームやブラックコーヒーなども舐めているので、おそらく遺伝子レベルからして海に囲まれた日本ネコではなく、どこかの洋食文化の中で育ったネコの血を引いているのではないかと考えている。
木村荘八のネコ好きについて、1953年(昭和28)に東峰書房から出版された木村荘八『続現代風俗帖』から、少し長めだが引用してみよう。
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僕はかねがね猫を愛好すること、イヤ、愛好というと、それに特別に意識があつてアイするようであるが、コドモの有る人が、よもや自分はわが子を「愛好する」とは特別に云わないだろうし思わないだろう。それと同じく、僕も殊更猫を愛好するとは思わずに、「愛好」そのものの中にいる。それが既に五十年来のことで、猫は僕の分身のようなものである。現在十匹いる。ポクン、マック、ブキ、ゲムシ、コン、オコン、メクン、ガッツ、狐、狸。狐はチョンとも云う。真白な牝猫で、どこからどこまで余り白いから珍らしいというので猫医者の冷泉さんが持つて来てくれたものであるが、――この「冷泉さん」が又珍らしい出身なのは、冷泉為恭の三十世の直系だ――メクンもわりに最近冷泉さんが連れて来てくれたもので、相当の純ペルシャである。(中略) 戦争中も艱難を共にしたし、(空腹のために子猫達へ何処からか鮭の缶詰の空カンを咥えて持つて来たことがあつた)、僕の家では近年につれ合い(人間)が二人も死んでいるが、その二人共に愛されて、眼ェちやん、めえちやんと呼ばれて来た。返辞(ママ)をする猫で、決してモノを悪くねだらない猫だつた。猫王である。
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文中に登場している冷泉為恭(ためちか)は、幕末に実在した日本画の絵師だが、今日では冷泉家とはなんら血縁関係のない、無断で「冷泉」姓を名のっていたことが判明している。冷泉為恭の中で、本名にあるのは「恭」の1字のみのようだ。
木村荘八Click!によれば、わたしはネコの「愛好」者ということだろうか。ネコを自分の子どものように思うことはないし、ましてや「分身」のように感じることもない。むしろ、人間の身近で生活しエサをもらっていても、それは双方がメリットを享受する共生の“必要悪”だと考えているフシさえ見え、しかたないから人間の側にいてやるというような、人の暮らしから完全に分離・独立している肉食獣だからカワイイのかもしれない。この姿勢は、おそらく縄文遺跡から見つかるイエネコ(骨格)の時代から少しも変わっていないのだろう。
ときどき姿を見せる巨大なアオダイショウClick!を除けば、ネコはいまのところ人間の身近にいるもっとも獰猛でときに凶暴な、食物連鎖の頂点に立つ肉食獣ということになる。このあたりのアオダイショウClick!やカラスさえ、口蓋が耳まで裂けるネコの牙の一撃で、頭蓋をみじんに砕かれたらひとたまりもないだろう。
わたしも、ときどき彼女(牝ネコ)の不興をかい、ラプトルのような攻撃を受けて(爪と牙はヤマネコのように大きい)、手足に出血を見ることがあるが、「あたしは人間と対等だし」という矜持をもち、イヌとはちがい決して野性を失わないところが、ことさらカワイイのかもしれない。シッポをふって人間に媚びたりせず、むしろシッポを横ふりしたときはイライラしている攻撃の前兆で、飼い主であろうが気に喰わなければ威嚇し、よほど腹の虫のいどころが悪ければ攻撃も辞さない。窓外にオナガやヒヨドリ、メジロ、カラスなどを見かけては「打(ぶ)っ殺してやるニャ!」と、シッポをふりふり唸り声をあげている。
だが、戦時中の食糧難時代に子ネコを慰めるため鮭の空き缶をくわえてきた親ネコのように、ときに繊細な感情や優しさを見せることがあり、それが見たいがために普段の人間に対する傍若無人な態度や、痛い傷に耐えているのかもしれない。
杉並時代Click!に書かれた『続現代風俗帖』から、つづけて引用してみよう。
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ブキはいつもブキウキしているからの名で、ゲムンは幼名の「毛蟲」がいつか呼びよく訛つたもので、小さい時に毛蟲に似ていた。コンは又の名定九郎という、白と黒の大猫である。牝猫を皆強姦するし、ものは食い荒すし、かけ小便はする。いがみの権太か定九郎そのままの役どころの不良であるが、又愛すべきものである。僕がコン!と叱責すると、首をちゞめ、眼をつぶつて、舌を出すのである。叱責して一つコツンとやられればそのあとで何か貰えるので叱られるとはそういうものと心得ている――人間の負けだ。
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余談だが、うちの親父もスウィングJAZZの一部リズムを「ブキウキ」と発音して、「ブギウギ」(Boogie Woogie)とは発音しなかった。これも、この街の方言あるいは転訛のひとつかもしれない。現代なら、ネコの名は「ブギ」になっただろう。
ネコの性格を、芝居の『仮名手本忠臣蔵』Click!の斧定九郎(追いはぎ)や、『義経千本桜』Click!のいがみの権太(ならず者)で説明するあたりが芝居好きの木村荘八らしいが、そのたとえでいえば、都合が悪くなると開き直ってふてくされ、しまいには怒りだし、ときに女子とも思えない攻撃をしかけてくる家の牝ネコは、『三人吉三廓初買』Click!のお嬢吉三ということにでもなりそうだ。ほんとに、牝ネコなのだろうか?
家にいるネコは、御留山Click!で拾われたときはまだ比較的小さく、獣医がいうには1歳に満たないといっていたので、いまは満7歳ぐらいになったのだろう。以前に飼っていた、これも1ヶ月ぐらいの仔ネコで拾われた三毛ネコ(♀)Click!は14歳まで生きたが、親戚の家で飼っていた牝ネコはなんと21歳まで生きていた。しかもこのネコ、肉食獣にもかかわらず野菜が好きで、生野菜をバクバク食っていたというから驚きだ。どのような消化器官をしていたものか、野菜が好きで長生きしたネコは、このネコ以外には知らない。
木村荘八が、ネコエッセイを書いていた戦後まもないころ、いまだ食糧事情が悪かったせいか、人間もそうだがネコも長生きができなかった。前年の1952年(昭和27)に東峰書房から出版された、木村荘八『現代風俗帖』収録の「猫の死」から引用してみよう。
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猫というものはいくつぐらい迄生きるものか、とは、私のよく聞かれる質問ですが、「私の」というと私が大変よく猫について知つているようですけれど、ただ、私方には猫が沢山いますのと、多年私が猫を飼い馴れています、それでそういう質問もつい私に対してされるので、さあ? 大体寿命は十年ぐらいの見当ではないでしようか、しかしその「十年」もなかなか満足には行きにくいようです、私はそんな風に答えるのです。――その程度に答える他には「寿命」についても「猫」そのものについてよくは知らないのが本音です。「猫」については私の知らないことでまだ新奇なことは沢山にあるようです。
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このころは、10歳も生きれば“御の字”だったようだが、現在では15歳ぐらいまで生きるネコはめずらしくなくなった。それだけ生活環境がよくなったのと、エサの質的な向上がめざましいのだろうが、21歳で大往生というのはやはりまれな例だろう。
わたしも、ネコについてはよくわからない、知らないことがたくさんある。よくネコの専門誌などには、わけのわかったようなことが書いてあるが、それはネコの一般論であって、ネコにも人間と同様にそれぞれ個性もあれば、魚がキライな家のネコのように“民族性”もあれば、地方地域性だってあるだろう。十把ひとからげに「ネコとは」といちがいに規定できず、それぞれ接したネコごとに少しずつ性格や嗜好を探り見きわめていくより手はないと思っている。人間の性格や嗜好に、マニュアルによる規定が無意味で無効なのと同様、ネコにもマニュアル的な一般論での接し方は無効なのだと、最近つくづく感じている。
木村家のネコは、家の出入りが自由だったらしく、死期が近づいたネコは死骸を見られたくないのか、または死に場所を決めたいせいか、家に帰ってこなくなったらしい。だが、家ネコは弱った姿を人間に見られ、死に場所も屋内なので不本意に感じているものだろうか。先代のネコは、就寝中のわたしにすり寄るような格好で死んでいたが、そのときばかりは家族か同居人を亡くしたような気がして、いたたまれないほど悲しい思いがした。
◆写真上:風通しがいいのか、夏になると大きな洗濯物バスケットの底で寝るネコ。
◆写真中上:上は、和田堀アトリエの書斎で撮影された木村荘八のネコたちと拡大写真。全部で6匹のネコが写っているようだが、あとの4匹は不在らしい。下は、東峰書房の木村荘八『現代風俗帖』(1952年)および『続現代風俗帖』(1953年)のネコ挿画。
◆写真中下:上から下へ、渋谷のネコ、目白のネコ、市ヶ谷のネコ、護国寺のネコ、池袋のネコ、高田馬場のネコ、中野のネコ、そして牛込弁天町のネコ。
◆写真下:上から下へ、阿佐ヶ谷のネコ、本所のネコ、深川のネコ、千駄木のネコ、谷中のネコ、本郷のネコ、国分寺のネコ、そして最後の4葉は下落合のネコたち。
この記事へのコメント
ぼんぼちぼちぼち
書かれているように、猫も百猫百色なので、十把一絡げには語れないでやすよね。
うちにいた猫は、2代とも死期が近づくと、あっしのベッドの上にあがってきて、ベッドの上で息を引き取りやした。
ChinchikoPapa
ネコ飼いの「マニュアル本」を見ると、「うちのは、ちょっとちがうんだけどなぁ」と違和感をよくおぼえますね。人間と同じで一般論ではくくれない強い個性が、それぞれのネコには備わっています。
飼っていたネコに死なれると、しばらくはその欠落感から抜け出せないですね。目の隅に、チラリとその姿が映る幻まで見るようです。